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第十三話/銀世界の姫
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ただ、ひたすらに真っ白な雪原が私の原風景だ。
頭がどうにかなりそうな寒さ、まるで手と足は無いみたい。
裏起毛のダッフルコートやジーンズ、スニーカーは雪で濡れて重い。 水を吸った服と吹き荒ぶ風が確実に体温を奪っていく。
大人はいない。 いつも、頼れる大人の男女が自分の周りに二人──両親と思われる人物がいたが、今はいない。
一時間か、五時間か、それ以上か、気が狂うほどの白さと寒さに思考を支配される。
泣いても無駄なので、泣くのはもうやめた。
子どもの脚では、どこまで歩いても凍りつくような寒さからは逃れられない。 歩くのも無駄だと悟った。
ただ、時間が経過するのだけを待っていた。
いつか、両親が戻ってくることを信じて。
不意に、ざっざっと、音がする。
音のした方向────背後に、目を向けた。
ざっざっと、後ろに停車された黒塗りの高級車から初老らしき女と厳つい顔をした老年の男の姿。
二人とも表情や細部こそ違えど、顔付きが酷似している。 兄妹だろうか。
どうですか? と女は男に問いかける。
男の方は私を見て、顎に指を当ててふむと言うと、しばらく私のことを監察し続ける。
まるで、檻に入れられ、消費者に観察されるペットショップの動物になったような気分だった。
男は腰を下ろすと、無遠慮に私の小さな右手を握る。
私は嫌な気持ちだったが、抵抗するだけ無駄だと悟っていたのか、抵抗するだけの体力、余裕すらなかったのか黙ったままでいる。
「いいだろう」と言って、腰を上げると女に首肯した。
女は私の耳に口を近付けると「あなたの両親はあなたを置いて消えた」と言う。
悪意を含んだ言い方ではなかった、率直なだけだったが、私はそれで酷く傷付く。 もう泣き尽くしたかと思ったが、ぽろぽろと涙が出てきた。
暖かい場所に行きましょう。 と女は私の手を握ってくる。
悔しいけど、その手はとても温かかった。
その日から、私は「蒔片家」の分家「七曜家」の養子ということになった。
私の手を握っていた老年の男は蒔片の大黒柱「蒔片 昭貴」。
女の方は昭貴の妻で「蒔片 衣子」と言うらしい。
蒔片家の大広間で、この空間で一番若い少女「蒔片 香苗」の横に座っていた「蒔片 晴昭」という少年の猿のような下手な作り物の笑顔が理由もないのにオイル汚れのように頭に残った。 これは今になって思えば、虫の知らせだったのかもしれない。
◇
私は七曜家の養子であったが、七曜家にいることはほとんどなく、大半の時間は蒔片の屋敷で過ごした。
蒔片の大きな屋敷には家の人間が五人と家政婦が三人の計八人が暮らしていた。 私はこの家で衣子から「第三魔術」という現代に残る天界の法則である「第三法」や、蒔片家のみに伝承されてきた自然に根差した魔術、別名「陰陽術」である「第一法」を叩き込まれることとなる。
背中に深い切り傷をつけられ、そこから天界の記号なるものを遺伝子に刻まれたり、よくわからない言葉を復唱させられたりして、私はフィクションの存在だとばかり思っていた魔術(マジック)を使えるようになった。
それは何もないところから発火現象を起こしたり(マナを濾過した魔力を変換させた摩擦の力を流して、それを増幅し発火しているというタネがあるのだが)、水の性質を三つのものに変えるといった一般に知られているようなものから、使い魔の秘奥とされているらしい神降ろし(神霊が擬似的に人間と同じ位相に落ちた存在)を擬似的に行ったりといったところ。
家に来て二年が経過━━当時は五歳だったが、いきなり自分を取り巻く環境が大きく変わり、魔術なんていう意味の分からないものを叩き込むために苦痛に耐え忍ぶことを強要されても、大泣きするというようなことはなかった。
子どもには意外と適応能力があるらしく、一週間もすれば慣れた。
拾ってきた本人である昭貴は私に興味関心はなく干渉してこない、衣子も魔術の基本を教えるだけで私情を挟んでくることはない。 食事も部屋に運ばれてくるので、他の家族と顔を合わせることもない。
与えられた一人には広すぎる六畳間の部屋で、何もすることがないので、ただ絵を描いていた。 誰に見られるでもない絵を描いていた。
縁側から見た庭の絵。
自分が暮らしたかった世界の絵。
動物の絵。
覚えていない、本当の両親の絵。
そして、いつか自分の人生に意義を与えてくれる、まだ見ぬ白馬の王子様の絵。
その頃はいつか白馬の王子様が迎えに来てくれると、理想を信じる素直さがあった。
だが、その理想と心は十二歳を境に、ある一人の男によって穢されることとなる。
◇
八歳の誕生日(本来の誕生日は不明なため、正式に養子入りした六月十二日が誕生日となっている)を迎えた翌日の夜。 私は屋敷の別棟に住む蒔片夫婦の元で暮らすということになった。
どうやら、子どもが生まれたため、その面倒を見るのを手伝えとのことらしい。 抵抗することを知らなかったし、なにより今の環境に満足も不満もなかった私は二つ返事でそれを承諾した。
別棟での生活は特に変わらなかった。
本棟で食事を取って、相変わらず馴染めない学校に通い、別棟に帰って━━という具合に。
変わったことといえば、夫婦が家を空けている時に赤ちゃん(男の子で名を燈晴というらしい)のお守りをさせられることくらいだ。
なぜ、子守りに秀でているであろう家政婦に任せないのか不思議だったが、私は別に嫌ではなかった。
別棟に移ってから三ヶ月も経過すると、赤ちゃんにも愛着が湧いてくる。 言葉こそ交わせないが、感情を滅多に発露しない蒔片の人間の中で、彼だけには心を開けた。
こっちに来てから、あっという間に五年が経過しようとしている。
そんなことを考えていた日のこと。
香苗は家庭の事情で夫の晴昭と子どもの燈晴を家に置いて、福岡に行くとのことらしい。 私は家庭で彼女の代わりを務めるために二週間の間、学校を休むことを強いられたが、別に嫌な気持ちにはならない。
だって、学校にも家庭にも居場所がないのだから、どちらにいても心が空くだけなのだ。
──否、燈晴がいるという点では家庭の方がいいかもしれない。 彼だけは純粋で無垢だから、私のことを人として認識し、扱ってくれる。
別棟で家政婦から習っていた料理を作っていると、不意に後ろから人の気配がしたので、反射的に振り向く、と──そこには晴昭がいた。 まるで雑木林のように薄暗い、不気味な笑顔を浮かべて。
ぎぃぎぃと床の軋む音を立てて晴昭は近寄ってくる。
私はなんとなく嫌な予感がして、反射的に体に力を入れた。
だが、十二歳の女子の膂力ではどうやっても成人男性には抵抗できない。
抵抗むなしく容易に体を持ち上げられると台所から夫婦の寝室に運ばれて、敷かれていた布団の上であっという間に裸に剥かれる────と穢された。
魔術の習得に強いられた苦痛なんか比ではないほどの身体的、精神的な苦痛。
自分が女であることを最も憎んだ数時間だった。
その後、例の適応力によって私は表面上は立ち直り、三人分の料理を作る。 風呂に入って、どうしようもなく穢れた体を洗い流そうと努力したが、それらは身体の奥の奥まで染み込んでいるようで、なかなか落ちてくれなかった。
夜、自分の寝室に布団を敷いて、なんとなく寝る気になれず縁側で月を眺めていると、ぎぃぎぃと音がして晴昭がやってくる。 その顔を見ていると、怖気が走る。
その晩、私は抵抗する意味も見い出せず背中を押されるまま自分から夫婦の寝室に向かうと、再び穢されることとなった。
私はその日から、人に自分の姿を見せることに抵抗感を覚えることとなる。 穢らわしい自分を、誰かに見られたくないのだ。
二週間を過ぎても、学校に逃げるという選択肢は存在しなかった。 私は軟禁状態にあると分かっていたが、抵抗するだけの活力はない。
そんな生活が始まってから早一ヶ月、香苗と衣子が福岡から帰宅した。 燈晴の七五三ということで写真を撮るらしく、この家にしては珍しく活気づいている。
私は別棟の静まり返った私室で、絵を描いていた。
人生の分岐点だった、あの日のひたすらに白いだけの風景を描いていた。
しばらくして、静寂が打ち切られる。
がらがらと音がして襖が開けられると、昭貴と衣子の二人が部屋にずかずかと入ってきて「晴昭は見なかったか」と問いかけてくる。
私は心当たりがなかったので「知りません」と言うと、二人は忙しげに首を動かして部屋中を睨め回すと、何も言わずにぴしゃっと襖を閉めて部屋を出ていった。
「何事だろうか」と思いこそすれど、積極的に関わろうとは思わない。
私は再び静寂に包まれた私室でしばらく、絵を描いていた。
事実を知ったのは、翌日の夕方だった。
晴昭が蒔片の外法に身を染めて先祖返り、魔の存在となったので、昭貴が仕方なく首を斬ったとのこと。
それに対して、私はどんな感情も心に現れなかった。
普通ならば持つであろう、自分を害する存在が消えたことに対する喜びもなかった。
晴昭が死んで間もなく、私は七曜家に帰ることを命じられる。 きっと、私は蒔片家公認の晴昭の慰みものだったのだろうと考えたが、特になにも思わなかった。
しかし、七曜家の大黒柱であった「七曜 和博」は死去し七曜家は既に没落。 私以外の家族は分家の「前川家」に吸収され、七曜姓の人間は私だけということになった。
その一年後に昭貴が死亡すると、蒔片家の実権は衣子が握るという形になった。
私は衣子による蒔片家からの金銭的な援助を受けながら、陰脈の張るこの地「冬霞」で人外達を相手に姫修行するを兼ねて移り住むことを命じられる。
そんな生活を二年も続けていると、変化が訪れた。
夜の街に頻繁に人の形をした魔が現れるようになったのだ。
通常、人の形を取って現れる魔族は少なく、かなり限られてくる。 しかも、それらは大抵が西洋の化け物だ。
この土地に、何かよくない変化が起きている。
そう思うが先か、蒔片の家から電話がかかってくる。
式神を夜の冬霞に這わせていたところ、晴昭のような影を見た。 近いうちに巴(晴昭の「晴」の字を受け継いで「燈晴」だったが、晴昭の記憶を消すために記憶を改変、名前も「巴」に改名されたらしい)を送るから、一緒に殺害せよ。 という内容。
私はその話を聞いて、自分でもおかしいと思うくらいに怯えた。 電話を切ると、力なく地面に崩れ落ちた。
あの男がまだ生きているというのが、それだけ恐ろしいのだろう。
そして、あの男の子どもである巴にも恐怖を覚える。 なんていったって、晴昭と巴は双子かというくらいに顔の造りが似ているのだ。
最初は彼の顔を見る度に、あの男を、あの行為を思い出しては手足に鳥肌を立たせ、顔を青くしていたものだ。
だけど、巴の自然な笑顔や言動、穢れのない実直な人柄を見ていると、赤子の時の彼と一緒にいた時のように心が和む。
そして、名前も人生も何もかも奪われて、何よりも私よりも酷い境遇だというのに、それに気付くことすら許されず、健気に生きている姿にどこまでも惹かれてしまった。
いつしか、彼は私の生きる希望、私が私を好きでいるのに必要不可欠な存在となっていた。 それは有り体に言えば依存という形なのだろうけど、私はそれでもよかった。
彼を見ていると純潔を奪われたあの日から、完全に諦めていた白馬の王子様が舞い降りてくれた、と人生に意義を見い出せる。
できることならば、彼には己の運命と対峙することなく、平穏に生きていてほしい。 私は衣子からの命令を破り、一人で晴昭を倒す決意をした。
だが、そんな願いも打ち破られることとなる。
神はどこまでも残酷だった。
巴が家の前で倒れている。 胸に耳を近付けると、ちゃんと鼓動はあるし、息をしている。
最悪の事態は免れたみたいだ。 それで一安心するが、すぐに悲しくなってしまう。
明らかに私の後を追っていたみたいだ。
退魔の戦士として生まれた彼は、戦いの運命からは逃れられないのだろうか。
そして、ついに晴昭が彼の前に姿を現したことで運命は確定してしまった。 彼は必ず自分の父親を殺す。
己の命にかえてもだ。
そんな結末は許せない。
それならば━━━━私がその代わりになる。
私が晴昭と刺し違えることで、巴を蒔片の呪いから切り離す。
決意は揺るがない。
やりたかったことはやった。 未練は消化した。 義理なんて元からない。
私が彼の運命を変えてみせる。
それが妻として、巴を愛する女としての責務だろう。
頭がどうにかなりそうな寒さ、まるで手と足は無いみたい。
裏起毛のダッフルコートやジーンズ、スニーカーは雪で濡れて重い。 水を吸った服と吹き荒ぶ風が確実に体温を奪っていく。
大人はいない。 いつも、頼れる大人の男女が自分の周りに二人──両親と思われる人物がいたが、今はいない。
一時間か、五時間か、それ以上か、気が狂うほどの白さと寒さに思考を支配される。
泣いても無駄なので、泣くのはもうやめた。
子どもの脚では、どこまで歩いても凍りつくような寒さからは逃れられない。 歩くのも無駄だと悟った。
ただ、時間が経過するのだけを待っていた。
いつか、両親が戻ってくることを信じて。
不意に、ざっざっと、音がする。
音のした方向────背後に、目を向けた。
ざっざっと、後ろに停車された黒塗りの高級車から初老らしき女と厳つい顔をした老年の男の姿。
二人とも表情や細部こそ違えど、顔付きが酷似している。 兄妹だろうか。
どうですか? と女は男に問いかける。
男の方は私を見て、顎に指を当ててふむと言うと、しばらく私のことを監察し続ける。
まるで、檻に入れられ、消費者に観察されるペットショップの動物になったような気分だった。
男は腰を下ろすと、無遠慮に私の小さな右手を握る。
私は嫌な気持ちだったが、抵抗するだけ無駄だと悟っていたのか、抵抗するだけの体力、余裕すらなかったのか黙ったままでいる。
「いいだろう」と言って、腰を上げると女に首肯した。
女は私の耳に口を近付けると「あなたの両親はあなたを置いて消えた」と言う。
悪意を含んだ言い方ではなかった、率直なだけだったが、私はそれで酷く傷付く。 もう泣き尽くしたかと思ったが、ぽろぽろと涙が出てきた。
暖かい場所に行きましょう。 と女は私の手を握ってくる。
悔しいけど、その手はとても温かかった。
その日から、私は「蒔片家」の分家「七曜家」の養子ということになった。
私の手を握っていた老年の男は蒔片の大黒柱「蒔片 昭貴」。
女の方は昭貴の妻で「蒔片 衣子」と言うらしい。
蒔片家の大広間で、この空間で一番若い少女「蒔片 香苗」の横に座っていた「蒔片 晴昭」という少年の猿のような下手な作り物の笑顔が理由もないのにオイル汚れのように頭に残った。 これは今になって思えば、虫の知らせだったのかもしれない。
◇
私は七曜家の養子であったが、七曜家にいることはほとんどなく、大半の時間は蒔片の屋敷で過ごした。
蒔片の大きな屋敷には家の人間が五人と家政婦が三人の計八人が暮らしていた。 私はこの家で衣子から「第三魔術」という現代に残る天界の法則である「第三法」や、蒔片家のみに伝承されてきた自然に根差した魔術、別名「陰陽術」である「第一法」を叩き込まれることとなる。
背中に深い切り傷をつけられ、そこから天界の記号なるものを遺伝子に刻まれたり、よくわからない言葉を復唱させられたりして、私はフィクションの存在だとばかり思っていた魔術(マジック)を使えるようになった。
それは何もないところから発火現象を起こしたり(マナを濾過した魔力を変換させた摩擦の力を流して、それを増幅し発火しているというタネがあるのだが)、水の性質を三つのものに変えるといった一般に知られているようなものから、使い魔の秘奥とされているらしい神降ろし(神霊が擬似的に人間と同じ位相に落ちた存在)を擬似的に行ったりといったところ。
家に来て二年が経過━━当時は五歳だったが、いきなり自分を取り巻く環境が大きく変わり、魔術なんていう意味の分からないものを叩き込むために苦痛に耐え忍ぶことを強要されても、大泣きするというようなことはなかった。
子どもには意外と適応能力があるらしく、一週間もすれば慣れた。
拾ってきた本人である昭貴は私に興味関心はなく干渉してこない、衣子も魔術の基本を教えるだけで私情を挟んでくることはない。 食事も部屋に運ばれてくるので、他の家族と顔を合わせることもない。
与えられた一人には広すぎる六畳間の部屋で、何もすることがないので、ただ絵を描いていた。 誰に見られるでもない絵を描いていた。
縁側から見た庭の絵。
自分が暮らしたかった世界の絵。
動物の絵。
覚えていない、本当の両親の絵。
そして、いつか自分の人生に意義を与えてくれる、まだ見ぬ白馬の王子様の絵。
その頃はいつか白馬の王子様が迎えに来てくれると、理想を信じる素直さがあった。
だが、その理想と心は十二歳を境に、ある一人の男によって穢されることとなる。
◇
八歳の誕生日(本来の誕生日は不明なため、正式に養子入りした六月十二日が誕生日となっている)を迎えた翌日の夜。 私は屋敷の別棟に住む蒔片夫婦の元で暮らすということになった。
どうやら、子どもが生まれたため、その面倒を見るのを手伝えとのことらしい。 抵抗することを知らなかったし、なにより今の環境に満足も不満もなかった私は二つ返事でそれを承諾した。
別棟での生活は特に変わらなかった。
本棟で食事を取って、相変わらず馴染めない学校に通い、別棟に帰って━━という具合に。
変わったことといえば、夫婦が家を空けている時に赤ちゃん(男の子で名を燈晴というらしい)のお守りをさせられることくらいだ。
なぜ、子守りに秀でているであろう家政婦に任せないのか不思議だったが、私は別に嫌ではなかった。
別棟に移ってから三ヶ月も経過すると、赤ちゃんにも愛着が湧いてくる。 言葉こそ交わせないが、感情を滅多に発露しない蒔片の人間の中で、彼だけには心を開けた。
こっちに来てから、あっという間に五年が経過しようとしている。
そんなことを考えていた日のこと。
香苗は家庭の事情で夫の晴昭と子どもの燈晴を家に置いて、福岡に行くとのことらしい。 私は家庭で彼女の代わりを務めるために二週間の間、学校を休むことを強いられたが、別に嫌な気持ちにはならない。
だって、学校にも家庭にも居場所がないのだから、どちらにいても心が空くだけなのだ。
──否、燈晴がいるという点では家庭の方がいいかもしれない。 彼だけは純粋で無垢だから、私のことを人として認識し、扱ってくれる。
別棟で家政婦から習っていた料理を作っていると、不意に後ろから人の気配がしたので、反射的に振り向く、と──そこには晴昭がいた。 まるで雑木林のように薄暗い、不気味な笑顔を浮かべて。
ぎぃぎぃと床の軋む音を立てて晴昭は近寄ってくる。
私はなんとなく嫌な予感がして、反射的に体に力を入れた。
だが、十二歳の女子の膂力ではどうやっても成人男性には抵抗できない。
抵抗むなしく容易に体を持ち上げられると台所から夫婦の寝室に運ばれて、敷かれていた布団の上であっという間に裸に剥かれる────と穢された。
魔術の習得に強いられた苦痛なんか比ではないほどの身体的、精神的な苦痛。
自分が女であることを最も憎んだ数時間だった。
その後、例の適応力によって私は表面上は立ち直り、三人分の料理を作る。 風呂に入って、どうしようもなく穢れた体を洗い流そうと努力したが、それらは身体の奥の奥まで染み込んでいるようで、なかなか落ちてくれなかった。
夜、自分の寝室に布団を敷いて、なんとなく寝る気になれず縁側で月を眺めていると、ぎぃぎぃと音がして晴昭がやってくる。 その顔を見ていると、怖気が走る。
その晩、私は抵抗する意味も見い出せず背中を押されるまま自分から夫婦の寝室に向かうと、再び穢されることとなった。
私はその日から、人に自分の姿を見せることに抵抗感を覚えることとなる。 穢らわしい自分を、誰かに見られたくないのだ。
二週間を過ぎても、学校に逃げるという選択肢は存在しなかった。 私は軟禁状態にあると分かっていたが、抵抗するだけの活力はない。
そんな生活が始まってから早一ヶ月、香苗と衣子が福岡から帰宅した。 燈晴の七五三ということで写真を撮るらしく、この家にしては珍しく活気づいている。
私は別棟の静まり返った私室で、絵を描いていた。
人生の分岐点だった、あの日のひたすらに白いだけの風景を描いていた。
しばらくして、静寂が打ち切られる。
がらがらと音がして襖が開けられると、昭貴と衣子の二人が部屋にずかずかと入ってきて「晴昭は見なかったか」と問いかけてくる。
私は心当たりがなかったので「知りません」と言うと、二人は忙しげに首を動かして部屋中を睨め回すと、何も言わずにぴしゃっと襖を閉めて部屋を出ていった。
「何事だろうか」と思いこそすれど、積極的に関わろうとは思わない。
私は再び静寂に包まれた私室でしばらく、絵を描いていた。
事実を知ったのは、翌日の夕方だった。
晴昭が蒔片の外法に身を染めて先祖返り、魔の存在となったので、昭貴が仕方なく首を斬ったとのこと。
それに対して、私はどんな感情も心に現れなかった。
普通ならば持つであろう、自分を害する存在が消えたことに対する喜びもなかった。
晴昭が死んで間もなく、私は七曜家に帰ることを命じられる。 きっと、私は蒔片家公認の晴昭の慰みものだったのだろうと考えたが、特になにも思わなかった。
しかし、七曜家の大黒柱であった「七曜 和博」は死去し七曜家は既に没落。 私以外の家族は分家の「前川家」に吸収され、七曜姓の人間は私だけということになった。
その一年後に昭貴が死亡すると、蒔片家の実権は衣子が握るという形になった。
私は衣子による蒔片家からの金銭的な援助を受けながら、陰脈の張るこの地「冬霞」で人外達を相手に姫修行するを兼ねて移り住むことを命じられる。
そんな生活を二年も続けていると、変化が訪れた。
夜の街に頻繁に人の形をした魔が現れるようになったのだ。
通常、人の形を取って現れる魔族は少なく、かなり限られてくる。 しかも、それらは大抵が西洋の化け物だ。
この土地に、何かよくない変化が起きている。
そう思うが先か、蒔片の家から電話がかかってくる。
式神を夜の冬霞に這わせていたところ、晴昭のような影を見た。 近いうちに巴(晴昭の「晴」の字を受け継いで「燈晴」だったが、晴昭の記憶を消すために記憶を改変、名前も「巴」に改名されたらしい)を送るから、一緒に殺害せよ。 という内容。
私はその話を聞いて、自分でもおかしいと思うくらいに怯えた。 電話を切ると、力なく地面に崩れ落ちた。
あの男がまだ生きているというのが、それだけ恐ろしいのだろう。
そして、あの男の子どもである巴にも恐怖を覚える。 なんていったって、晴昭と巴は双子かというくらいに顔の造りが似ているのだ。
最初は彼の顔を見る度に、あの男を、あの行為を思い出しては手足に鳥肌を立たせ、顔を青くしていたものだ。
だけど、巴の自然な笑顔や言動、穢れのない実直な人柄を見ていると、赤子の時の彼と一緒にいた時のように心が和む。
そして、名前も人生も何もかも奪われて、何よりも私よりも酷い境遇だというのに、それに気付くことすら許されず、健気に生きている姿にどこまでも惹かれてしまった。
いつしか、彼は私の生きる希望、私が私を好きでいるのに必要不可欠な存在となっていた。 それは有り体に言えば依存という形なのだろうけど、私はそれでもよかった。
彼を見ていると純潔を奪われたあの日から、完全に諦めていた白馬の王子様が舞い降りてくれた、と人生に意義を見い出せる。
できることならば、彼には己の運命と対峙することなく、平穏に生きていてほしい。 私は衣子からの命令を破り、一人で晴昭を倒す決意をした。
だが、そんな願いも打ち破られることとなる。
神はどこまでも残酷だった。
巴が家の前で倒れている。 胸に耳を近付けると、ちゃんと鼓動はあるし、息をしている。
最悪の事態は免れたみたいだ。 それで一安心するが、すぐに悲しくなってしまう。
明らかに私の後を追っていたみたいだ。
退魔の戦士として生まれた彼は、戦いの運命からは逃れられないのだろうか。
そして、ついに晴昭が彼の前に姿を現したことで運命は確定してしまった。 彼は必ず自分の父親を殺す。
己の命にかえてもだ。
そんな結末は許せない。
それならば━━━━私がその代わりになる。
私が晴昭と刺し違えることで、巴を蒔片の呪いから切り離す。
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