時雨太夫

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第二十四話

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「おぃ、喜瀬屋きせや時雨太夫しぐれだゆう張見世はりみせで歌ってるんだと!」
「すげぇ歌らしい」

 その話はすぐに吉原中を駆け巡った。
 一刻いっこくと経たず、喜瀬屋きせやの前には人集りが出来ていた。歌を聴いていた客が数人、見世|《みせ》の中へと入っていく。張見世はりみせにいた遊女ゆうじょ達も歌を邪魔しないように見世みせ先で客を引いている。
徐々に客が入り始めている。
 しかし、時雨しぐれの喉は限界に近かった。
もう二刻近く休みなしで歌っている。聞いてくれている者には分からない程度に声がかすれ始めていた。曲の種類もほとんど残っていない。
 その時、声を被せるように歌が始まった。
張見世はりみせに入ってきたのは氷雨太夫ひさめだゆうだ。
氷雨ひさめも一番良い着物と装飾品を身に纏っている。氷雨ひさめ時雨しぐれに後ろへ下がるように目配せをした。
歌を重ねながら時雨しぐれは立ち上がり、張見世はりみせを後にした。
周りから拍手が起こる。

「よっ! 時雨太夫しぐれだゆう!」
「よっ! 氷雨太夫ひさめだゆう!」

 特に町人達では一生に一度しか聞けない、いや一生かかっても聞けない太夫たゆうの競演に、あちらこちらから声が上がり拍手が起こった。
それは太夫たゆう二人が独断で始めた競演であった。
 この競演が功を奏したのか、喜瀬屋きせやには休業前までとはいかないが、かなりの客が入っていた。
氷雨太夫ひさめだゆうも一刻程歌い、自慢の琴と歌を存分に披露した。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

「ばっかやろう!
お前達は太夫たゆう職だ。お大尽だいじん方が大枚をはたいてその声を聞きにおいでになるんだ。その事が分かっているのか!
安売りするもんじゃあねぇんだ!」

 裏の部屋で時雨しぐれ氷雨ひさめ勘左衛門かんざえもんにこってりと絞られていた。
あの、いつもにこにこしていて、言葉遣いも丁寧な勘左衛門かんざえもんとは思えない豹変ぶりだ。
氷雨太夫ひさめだゆうは完全に萎縮いしゅくしてしまっている。
時雨しぐれは明後日の方向を向いていた。暫く説教が続いて、もう行けという素振りを勘左衛門かんざえもんが見せる。
二人は立ち上がり頭を下げて部屋から出ようとした。

「ありがとうよ。助かった」

 聞き取れるか聞き取れないかという小さな声が、二人の背中にかかる。部屋を出た二人は顔を見合わせ、にやりと笑いそれぞれの部屋へと戻っていった。
 それから七日、喜瀬屋きせや見世みせ先には太夫たゆうが二人交代で歌や踊りを披露した。
 その噂は吉原だけではなく江戸中に広がり、男衆だけではなく女達も見物に来ていた。瓦版かわらばんもこぞって取り上げ、大店のお大尽だいじんだけではなく、商家の女の中にも座敷に登楼とうろうする者まで出てきた。
 喜瀬屋きせやは一気にもとの客層を取り戻し、さらに新しい客を増やしていた。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

「何故客が増える!」

 膳屋籐兵衛ぜんやとうべえは怒鳴り散らしていた。ここは膳屋ぜんやの奥にある籐兵衛とうべえの部屋である。そこには籐兵衛とうべえ以外に二人の男が座っていた。
 一人は旅の商人風の男、もう一人は暮色くれいろの服を着た男だった。
籐兵衛とうべえは部屋の中をうろうろと歩き回っていた。

「いや、あのような奇策に出るとは思いませんでしたので……」

 商人風の男が口を開いた。
暮色くれいろの服の男は面白くなさそうにそっぽを向いている。
 喜瀬屋きせやに雇われた飛脚ひきゃくを買収したのは商人風の男で、戻って来られないようにしたのは暮色くれいろの男だ。中には永遠に戻ってこられなくなった者もいたが。

「ふぅ~。 籐八郎とうはちろう、もう一人堕とせるか?」

 籐兵衛とうべえ籐八郎とうはちろうと呼んだ男に向き直った。籐八郎とうはちろうは腕組みをして考え込んでいる。

「いやぁ、私は面が割れていますから」
「では、あっしが」

 暮色くれいろの男が声を上げた。下卑げびた笑いを浮かべている。楽しみを想像しているようだ。籐八郎とうはちろうが口を開いた。

雷白らいはく、お前に女が堕とせるのか?」

 籐八郎とうはちろうは真剣な眼差しで雷白らいはくと呼ばれた男を見た。先程までとは目付きが違っている。

「そう言われましても、まぁ、やり用はあります。少し無茶をしますがね」

 籐八郎とうはちろうは考え込んだ。喜瀬屋きせやを完全におとしめる。これを成功させれば、膳屋ぜんや阿芙蓉あふようを改良したものを販売する拠点となってくれる。
 膳屋ぜんやに通う武士や商人が目当てだ。上方かみがたではある程度成功した。
江戸での販路を開くのが籐八郎とうはちろうの役目だった。

喜瀬屋きせや遊女ゆうじょを壊すのなら紅笑芙蓉こうしょうふようを使ってもよい」

 籐八郎とうはちろうの口から聞き慣れない言葉が出た。
雷白らいはくは目を丸くして籐八郎を見る。

「あ、あれを使ってもよろしいんで? どうなるか分かりませんが……」

 籐八郎とうはちろうの目は笑っていた。昔のことを思い出したのだろう。喜瀬屋きせやで狂いに狂い、最後に操り人形と化したあの女の様子が今でも目に浮かぶ。

「うちが扱うすべての品を使って、操り人形をこさえてみよ。
失敗してもかまわんぞ」

 雷白らいはくも舌なめずりをする。
雷白らいはくの目には狂喜が浮かんでいた。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

「申し訳ないですな、今、格子格こうしかくがすべて出ておりまして」

 喜瀬屋きせやの番頭が申し訳なさそうに頭を下げている。客が格子格こうしかく遊女ゆうじょを望んだからだ。勘左衛門かんざえもんも出てきて頭を下げている。

「なんでしゃ。わて、上方かみがたから出てきて天下の吉原よしわらでも評判の見世みせにお世話になろとおもてたのに」

 どうやら上方かみがたの旅人のようだ。男は金切り声を上げ早口でまくし立てている。ほかの客も何事かと足を止めて様子を見ていた。
 そこへ氷雨太夫ひさめだゆうが通りかかった。
 氷雨ひさめ見世みせ先のやりとりを暫く見ていて、遣手婆やりてばばのお京に何事かを耳打ちし勘左衛門かんざえもんを呼ぶように声を掛けた。お京はすぐに勘左衛門かんざえもんの横へ行き、氷雨ひさめの提案を伝えた。

「少々お待ちくださいませ」

 勘左衛門かんざえもんは上方からの客に中座ちゅうざすることを伝えると氷雨ひさめのところへやってきた。

氷雨ひさめ、ほんとにいいのかい」

 氷雨ひさめの提案は格子こうしのおあしに3割の金額を上乗せすることで、一刻いっこくだけ太夫たゆうである氷雨ひさめが相手をするということだった。

てて様、あれじゃ他の方々にご迷惑でありんすよ。
ここはあちきが引き受けますんで……。ただし一回こっきりということを伝えておくんなまし」

 そう言って氷雨ひさめ勘左衛門かんざえもんの肩を ぽん と叩いた。
勘左衛門かんざえもんも折れて、氷雨ひさめに済まないといい、男の元へ戻った。

「お客さま、実は……」

勘左衛門かんざえもんは先程の条件を上方の旅人に伝えた。
客は暫く唸っていたが、それで手を打つということで話は付いた。男は喜瀬屋きせやに上がり氷雨太夫ひさめだゆうの部屋へと案内される。
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