時雨太夫(通常版)

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第二十九話

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 膳屋藤兵衛ぜんやとうべえは考え込んでいた。
藤八郎とうはちろうとその配下の者達のことだ。
 最初は喜瀬屋きせやに対抗するために、喜瀬屋きせやを貶めるために場を提供した。
しかし、最近はあまりにも過激になってきている。
今回は皆殺しにするとまで言っている。
また、今後ずっとこの見世を拠点に活動すると言っているのだ。
 正直藤兵衛とうべえは怖くなっていた。
この集団は平気で人を殺す。
いつ自分の身が危うくなるかもしれない。
今回喜瀬屋きせやを潰すと言っているのだ。対抗できる見世は無くなる。
そろそろこの者達は切り時だろう。
 そう考えた藤兵衛とうべえは若い者を呼び、何事かを申し付ける。
若い者は慌てて吉原よしわらを出ていくのであった。

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 喜瀬屋きせやの地下の座敷牢ざしきろうから勘左衛門かんざえもんと時雨《しぐれ》は外に出た。下はお京ら数名に任せてある。東伯とうはくを呼びに行った若い者はまだ戻らない。
 二人が地下から出たとき、たまたま入ってきた客が遊女《ゆうじょ》と話しているのを耳にした。

「すごかったぜ、江戸のど真ん中で爆発があったからなぁ。死人も出てた」
「あれ、それはそれは、怪我はしておられんせんか?」
「あぁ、死んだのはほんの数人だ。ただ全員焼死したという話だ。
なんかすごい臭いが漂ってたけどな。
そうだ、ありゃぁ、東雲とううん先生の診療所が焼けた時に嗅いだ臭いに似ていたがなぁ」

 二人はそのような会話をしながら二階に上がっていった。勘左衛門かんざえもん時雨しぐれは顔を見合わせる。そのまま勘左衛門かんざえもんの部屋に移動した。

東雲とううん先生の時に時雨しぐれが見た、感じたことと似ていないかい?」

 勘左衛門かんざえもんが先に口を開いた。時雨しぐれうつむいたままだ。冷気をまとったような雰囲気が時雨しぐれから漂い出す。

時雨しぐれ、落ち着きなさい。まだ、あのときの手合いと決まったわけではない」

 たしなめるように勘左衛門かんざえもんの手が時雨しぐれの肩に置かれた。時雨しぐれは深呼吸をして頷いた。何かを思い出すような目をして、空間を見つめる。

「確かに、臭いというのと、殺した者が焼かれていたところは同じでありんす。
ただ、爆発というのはどうでありんすかねぇ。私が向かったとき診療所はすでに燃えていましたから」

 時雨しぐれはこの一月で起こったことを思い出していた。

「ぁ、そういえば時任ときとう家の桂真之介かつらしんのすけに聞いたのですが、時任ときとう家の中屋敷なかやしきが襲撃されたときに大砲みたいなのが使われたとは聞いていんす」

 勘左衛門かんざえもんもその報告は受けていた。話をすべてつなぎ合わせてゆく。

「つまり、時任ときとう家の襲撃の犯人と今回の犯人は同一ということか?」

 更に細部の情報を組み合わせてゆく。
 時任ときとう家は、西国で出回っていた阿芙蓉あふようを調べていた。その阿芙蓉あふようと同じ物かは分からないが、上方の遊郭ゆうかくではその被害が拡大していた。
 時任ときとう家が調べているときに今度は喜瀬屋きせや東風こちがおかしくなった。
 東風こちを診察した東雲とううん先生は行方不明になり、東風こちと共に連れ去られ診療所は焼き討ちに遭った。
 その時捕まえた素破すっぱから膳屋ぜんやが絡んでいることを聞き出したが、証拠は挙がらなかったし挙がってもいない。
 突然東風こちが現れ、膳屋ぜんや太夫たゆう二人が殺された。
その影響で喜瀬屋きせやは一月の休業となった。
 時任ときとう家は中屋敷なかやしきを襲撃された。その時、大砲おおづつらしきものが使われた。
 営業を再開した喜瀬屋きせやは、今度は氷雨太夫ひさめだゆうがおかしくなった。氷雨ひさめの身体には細工されたあとがあった。
 そして氷雨ひさめを診察した東伯とうはく先生が帰った後、江戸の市中で大砲おおづつらしき物が使われ、死んだ者はすべて焼かれていた。
 その時に東雲とううん先生の診療所が焼けたときに漂っていたのと似たような異臭が漂っていた。

「ほぼ、間違いないでありんしょう」

時雨しぐれは憂鬱そうな顔を少しだけ見せた。

「きゃー」

 喜瀬屋きせやの中に悲鳴が響いた。
突然の悲鳴に勘左衛門かんざえもんは慌てて部屋を出ていく。
部屋には時雨しぐれだけが残された。

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 男の遺骸に組み敷かれた女はただ叫ぶしか出来なかった。
 女の首筋に短刀が突き刺さった。声を上げることが出来ない。首から冷たい物が引き抜かれる感触が襲う。
 女の美しい乳房に冷たい物が侵入した。何度も何度も場所を変えて。女は薄れ行く視界に、見知った、ずっと優しかった氷雨太夫ひさめだゆうの姿を微かに映していた。
 喜瀬屋きせやは大混乱に陥っていた。
 氷雨ひさめは地下で数名を刺した後、廊下に出た。悲鳴を聞きつけた客や遊女ゆうじょが廊下に出ている。長襦袢ながじゅばんを着ただけの氷雨ひさめは血の滴る短刀をぶら下げていた。そのまま、目の合った者を斬りつけてゆく。
それも執拗しつよう執拗しつように……。

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 二階から駆け下りてくる客や遊女ゆうじょ勘左衛門かんざえもんや番頭などが声を掛けている。
しかし誰も聴く者はいない。
 遊女ゆうじょ達は泣き叫び、聴いても言葉にならず、お客は転げるように喜瀬屋きせやから出ていった。
 二階からは時折悲鳴が聞こえてくる。
二階には上がれない。まだ、降りてくる者で階段が塞がれているからだ。

時雨しぐれ時雨しぐれ!」

勘左衛門かんざえもん時雨しぐれを探す。
しかし、時雨しぐれはどこにもいなかった。

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 時雨しぐれは悲鳴が聞こえた後、勘左衛門かんざえもんの後に続いて部屋から出た。時雨の鼻に鉄の臭いが巻き付く。

(血か!)

すぐに血の臭いの出所を探る。
血の匂いが流れる場所は二カ所に分散していた。
二階と地下。二階へ上がる階段はすでに客や遊女ゆうじょで溢れていたため、時雨《しぐれ》はすぐに地下へ向かった。
 二階の血の臭いより遙かに強烈で、かなりの血が流れていることが想像できる。地下には氷雨ひさめと若い者が三人、遣手婆やりてばばが三人はいたはずだ。そしてお京もいるはずだった。
 時雨《しぐれ》は階段を駆け下り、地下一階へ出た。すぐに二階へは行かず、倉庫の中から数打の刀を一振り持ち出す。それをそのまま帯に差し込み二階へと降りた。
そこは暗闇が支配していた。
 蝋燭ろうそくはすべて消されており、辺りからは微かな呻き声がしている。
暗闇に蒼い火花が飛び散った。暗闇の一部が微妙に人影を作っている。

「何者だ!」

 時雨《しぐれ》は闇の人影に向かって呼びかけた。返事はない。しかし、荒い息づかいが次第に大きくなってゆく。闇の塊が飛んできた。
 暗闇を黒い物が切り裂いてくる。もう一度蒼い火花が飛び散った。
今度はお互いが近くにある。時雨の刀と闇の人影の持つ得物が交差している。その得物には何か、液体のような物が流れていた。

(毒!)

 時雨《しぐれ》は刀を前に押し出した瞬間、後ろへ飛び退った。相手のいる場所は相手の呼吸で分かる。二回打ち合ったので、得物の長さも大体分かった。
別の物を持っていなければ。
 時雨しぐれは、一気にけりをつけることにした。長引けば不利になる。時雨しぐれさやを帯から抜き、左手で握った。地をうように移動しながら、さやをゆらゆらと揺れ動かす。
暗闇には荒い呼吸が響いている。


 さやが何かに当たった瞬間、空気を切り裂く音が聞こえた。さやを捨て、闇が動いた場所を時雨は一歩半踏み込んで斬り抜く。
悲鳴とも、唸り声ともとれる声が暗闇に響き渡る。しかし、それだけだった。 
 時雨は戸惑っていた。
手応えはあった。
斬り抜いた感触は、身体の中の骨まで断ち切ったはずだ。しかし倒れた音はしなかった。
まだ生きている。
 時雨しぐれは再度低く構える。先程、さやを捨てたので今度は純粋に刀での勝負になる。
 相手の拍子ひょうしを探る。部屋の中にはいくつかの拍子があった。どれも弱々しく、それでいて荒々しい。なるべく聞き覚えのない拍子ひょうしを探す。

(いた! 階段の近く!)

 時雨《しぐれ》は場所を確認するとゆっくりとゆっくりと近づいてゆく。間合いに入った瞬間、一気に時雨は動……き掛け止まった。

「あ、ぅ」

 闇がいるはずの場所から聞き覚えのある呻き声が聞こえた。

(お京さん?!)

 時雨《しぐれ》はその場からゆっくりと移動する。もう一度拍子《ひょうし》を探る。
お京の拍子・呼吸がする方にもう一つ拍子《ひょうし》がある。
状況がつかめない。
 このような場合、想像することは危険すぎる。暗闇の中で膠着状態が続いた。
しかし、その状況は突然破られた。

「いるか!」

 地下一階に通じる扉が開け放たれた。差し込んだ光の先にはお京を盾にし、後ろに陣取っている暮色の服を着た者がいた。
その者は内蔵が半分程身体の外に出て、右腕も消えていた。それでもまだ、お京を片手で吊り上げて盾にしている。

「化け物……か」

 それは上階からの声だった。聞き覚えのある声だ。
暮色くれいろの服を着た者は、いきなりお京を時雨の方に投げつけてきた。
時雨しぐれは反射的にお京の身体を空中で一回転させ、地に横たえた。その間に暮色くれいろの服を着た者は階段を駆け上がっていた。

「毒!」

 時雨は大声で叫んでいた。
一階の入り口に立っていた岡崎が真後ろに消えた。
そのまま暮色くれいろの服を着た者は一階へと走り去っていった。
 時雨しぐれもすぐに後を追って階段を上る。お京や他の者も心配だがあれは放置できない。混乱した見世の出口までにけりをつけなければならない。階段を上りきったとき岡崎と鉢合わせした。

「殺すな!」
「無理!」

二人はそれ以上言葉は交わさなかった。

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 店の入り口は混乱は収っていた。客はほぼ逃げだし、遊女ゆうじょ達が隅の方に固まっている。そこには勘左衛門かんざえもんと番頭の姿があった。暮色くれいろの服を着た者はその集団に向かって走り出していた。
 しかし、足下が定まっていない。身体の半分が斬れているのだ。バランスの取りようはない。それでも左手には黒色の液体が塗られた刀のような物が握られていた。
暮色くれいろの服を着た者の前に二人の与騎よりきが立ちはだかる。

「気をつけろ、刃に毒が塗ってある。多分即効性だ!」

 時雨しぐれは大声を出していた。時任ときとう家の桂真之介かつらしんのすけに聴いた毒に類似している。
二人は分かったというように頷いた。
 しかし、もはや暮色くれいろの服を着た者の命が尽きるのは時間の問題だった。すでに内蔵のほとんどをぶちまけ、右腕をなくし、ただただ妄信的に歩いているだけだった。

 与騎よりきの岡崎もさすがに諦めたらしく、斬れという合図を出した。
二人が同時に動き、左腕と首が同時に身体から離る。
 それでも暮色くれいろの服を着た者は二歩、三歩と歩き続け、そこで崩れ落ちた。
 二人の与騎よりきのうち一人が、左腕から刀をゆっくりと取り上げる。そこに上から大声で喚く氷雨ひさめの声が響いた。

「死ね、死ね、悪霊ども! 殺してやる ひゃぁはははははは」

 氷雨ひさめは二人の与騎よりきに後ろ手に縛られ、担ぎ下ろされていた。
じたばたと暴れている。
 時雨しぐれは黙って氷雨ひさめに近づくと首の後ろへ手を回した。
氷雨ひさめはすぐにくてっと動かなくなる。
岡崎と二人の与騎よりきが「殺したのか」と目線で訴えてくる。

「気絶させた。
東伯とうはく先生は?」

岡崎が黙って二階を指さす。時雨が二階にあがると、そこは悲惨な状況になっていた。
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