時雨太夫

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第四十三話 最終話

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 時雨しぐれ松風まつかぜ中屋敷なかやしきから飛び出した。
 大急ぎで宿へ戻る。短刀は宿へ帰る途中にあった沼へ投げ込んだ。宿に戻ると時雨しぐれは取りあえず着替えた。
すぐに先程聞き出した事を頭の中で整理する。

 首謀者は長崎奉行、松風まつかぜ家自体は全く関わり合いがない

(はぁ、松風まつかぜ家にはいい迷惑だったかな。まあ、あんな家臣を持ったのが運のつきだな)

 時雨しぐれ松風まつかぜ家の中屋敷なかやしきで殺した者達に、少しだけ心の中で詫びた。
でもそれだけだった。
次の狙いは決まった。
後は行動あるのみだった。

 一息つくと太刀を持ち、笠をかぶって宿の外へ出た。そのまま、郊外にある寺へと向かう。そこには喜瀬屋きせやで死んだ者達が埋葬されている。
 しばらく歩くと騎馬に乗った与騎よりき達が数騎、松風まつかぜ家の中屋敷なかやしき方面へ駆けていった。
どうやら、ばれたようだ。
 時雨しぐれは急ぎ足で寺へと向かった。
寺は静寂に包まれていた。無言で喜瀬屋きせや卒塔婆そとばへ向かう。前から僧侶が歩いてくる。二人がすれ違うとき、僧侶はそっと呟いた。

「あなたの心が鬼から放たれますように」

 時雨しぐれは黙って頷き、そのまま卒塔婆そとばへと歩いて行った。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 喜瀬屋きせや勘左衛門かんざえもんは忙しかった。
大見世おおみせから小見世こみせへ格下げになり、太夫たゆう格子こうしなども他の見世みせへと移籍させた。
 若い者や遣手婆やりてばばなども吉原よしわらの他の楼主ろうしゅに頼み、あちらこちらで雇って貰うことにした。東雲とううん先生は東伯とうはく先生の所で看病されている。
 あれから置手紙をして出ていった時雨しぐれは戻ってきていない。勘左衛門かんざえもんは寂しかった。
 最愛のお京を失い、娘のようにかわいがっていた時雨しぐれも帰らない。
勘左衛門かんざえもん煙管きせるに火を入れ煙を吹かした。
紫色の煙は天井まで達した。

てて様、ご挨拶に参りました)

どこからともなく小さな声が聞こえてくる。勘左衛門かんざえもんは立ち上がろうとした。

(お座りになってお聞きください)

 勘左衛門かんざえもんは一瞬躊躇ちゅうちょし、そのまま座った。
時雨しぐれの性格を知っているのでこれ以上動くとへそを曲げ帰ってしまいかねないからだ。

(私は今回の首謀者を突き止めました。その者を殺すために旅に出ます。
なにぶん行ったことのない土地ですのでどのくらい時間がかかるかは分かりませぬ。父様、小見世こみせになって大変だと思いますが、どうかお身体にだけはお気を付けください)

 そこまでで時雨しぐれの声は途絶えた。勘左衛門かんざえもん時雨しぐれの気配を探したがすでにどこにもなかった。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 時雨しぐれ旅籠はたごに戻り、旅支度を始めていた。
明日には江戸を抜ける。
手形はないので強行突破だ。
二振りの太刀を入念に手入れをする。
 手入れを終えると時雨しぐれは風呂へ出かけた。風呂は旅籠はたごの隣にある。ゆっくりと風呂へつかり、今までの疲れを癒やす。明日からはそうそう入ることは出来なくなる。
風呂を上がり、旅籠はたごへ戻り夕食を頼んだ。
 白米とあさりの味噌汁にお新香、それとうなぎを頼んだ。ゆっくりと楽しんで食事をする。食事を済ませると明日の朝、握り飯を頼むと伝えてそのまま床に入り眠りについた。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 朝早く、昨晩頼んでおいた握り飯を受け取り、東海道へ出る道を歩いている。
最初はあまり厳しくない中山道を通るつもりだったが、海を見たくなったので東海道を行くことにした。
 途中、昨日の松風まつかぜ中屋敷なかやしき襲撃の話と下屋敷しもやしきの火災の噂がかなり多く聞こえてきた。
 関所はかなり厳しい体勢で出入りを警戒しており、身分改めも時間をかけて入念にやっているということらしい。
 品川の関に近づくと時雨は太刀をいて山の中へ入った。森を抜け、無理矢理に関所を越えるつもりだった。
森に入ってすぐの所の木にその男は寄りかかっていた。
与騎よりきの岡崎だ。

「よぅ、関所破りは見逃せんなぁ」

 にやりと笑いながら岡崎は身体を時雨しぐれの方へ向ける。
そのまま鯉口こいくちを切った。
時雨しぐれは黙って柄に手を掛ける。
岡崎が八双に構え先に仕掛けた。
二人はゆらりと地を這い接近する。
 時雨しぐれさやから太刀が引き抜かれ、あごを狙った抜き打ちが下から襲いかかる。
岡崎は一瞬、動きを緩めた。
その瞬間、時雨の太刀が岡崎の肩口を狙い振り下ろされる。
八双はっそうに構えた刀の切っ先を無理矢理斜めにして時雨しぐれの太刀の軌道を逸らす。

蒼い火花が一瞬飛び散った。

岡崎の刀が半ばから折れていた。時雨しぐれはとどめを刺すために脇構えをとる。
数歩下がった岡崎は折れた所をじっと見つめていた。

「やれやれ、またかよ」

岡崎が刀を収めながら呟いた。
時雨しぐれは構えを解かない。

「負けだ、負け。二回やられると清々したわ」

そう言って岡崎はふところから何かを取り出した。それを持って時雨しぐれに近づく。
途中で折れた刀の先を拾う。

「警戒するな、ただの通行手形だ」

構えを解かない時雨しぐれに、途中まで近づき白い紙を地面に置き、刀の切っ先で地面に縫い付けた。
そのまま時雨しぐれに背を向ける。

「じゃあな、死ぬなよ」

岡崎はそれだけ言うとゆっくりと歩いて立ち去っていった。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 岡崎が視界から消えるまで時雨しぐれは動かなかった。
正直、関所を越えるより難しい相手といきなり対峙したからだ。自分がどれだけ油断していたかを反省していた。
岡崎が姿を消して暫くして、時雨しぐれ納刀のうとうした。
地面に縫い付けられたままの紙を取りに近づき拾い上げて中を見ると、確かに通行手形だった。
時雨しぐれは岡崎に感謝していた。
手形も有り難かったが、それ以上に自分の気を引き締めてくれたことに。
手形を懐にしまうと、時雨しぐれはゆっくりと品川の関へ近づいて行った。

 ふわりとした風が時雨しぐれの頬を撫でてゆく。

 それは吉原よしわらで共に働き、死んでいった者達が別れの挨拶をしに来たようであった。
また、いつでも一緒にいるということを言いたそうでもある。
時雨しぐれは、その風を纏いながら、仇の待つ長崎へと歩みを進めていくのであった。
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