時雨太夫 東海道編 箱根の宿

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第二話

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 助けた娘は春と名乗った。
箱根の中でも大きな旅籠はたごの娘だという。しかも天然の温泉を引き込んでおり、風呂はすべて温泉という贅沢な所らしい。

「あの、時雨しぐれ様はどこかに旅をされてるのでしょうか」

 春は話すのが好きなようだ。何かにつけて時雨に話しかけ、様々なことを聞き出そうとする。
先程まで気を失っていた娘とは思えないような元気の良さだ。もっとも先ほどの恐怖を紛らわせるための空元気かもしれないが。
時雨は先ほどから助けたことを後悔し始めていた。
時雨自身、それほど話をするのが好きな性格ではない。元吉原の太夫たゆうとは思えないほどの話嫌いなのだ。吉原では話術はからっきしでもっぱら芸事で客を繋いでいたほどだ。
その話嫌いの時雨に延々と話しかける春を少しだけ鬱陶うっとおしく思い始めていた。

「春殿、あなたはあのような山中で何をしていたのだ?」

 時雨はとりあえず自分のことを聞かれるのが嫌になってきていたので話題を変えることにした。出会ったときは着物を半分脱がされ上半身裸で走っていた。特に旅装束ではなかったので遠方に出かけていた訳でもなさそうだったからだ。

「私はちょっとした使いで近くの村へと参っておりました。先程はその帰りでございました」

 にこりと笑う顔は可愛らしい健康的な笑顔だ。しかし大きな旅籠の娘が一人で使いなどにでるものだろうか。
しかし時雨はその考えをすぐに否定した。それは時雨自身が十五の時に一人旅で岩見いわみ安芸あき周防すおうの境にある時任ときとう家の領地から江戸まで旅をしたのだ。自分に出来て他人に出来ないはずはないと時雨は思い直した。
もっとも時雨には武具を扱える技術があり、人を殺した経験もあったからなのだが。

「あの、時雨様。 何かお気に障ることでも申しましたでしょうか」

 時雨の笠の中を覗き込んだ春が心配そうな視線を投げかけていた。先程まで山賊に追いかけられていた娘だ。ここで時雨の機嫌を損ねてまた一人旅というのも嫌なのだろう。
時雨はにっこりとこわばった笑顔を向ける。

「大丈夫。少し疲れが出ただけだ。春殿の家はまだ遠いのかい」

「あと一里ほどで箱根の宿に入りますので……、そこからはあまり離れておりません」

(一里かぁ、遠いなぁ)

 時雨は春に合わせ自分の速度をはるかに超えて歩いていたので、体力的にも相当つらくなっていた。
時雨の様子に春は時雨の歩調に速度を落としていた。
それから半刻程歩いて二人はようやく箱根の関所へとたどり着く。
時雨は関所自体は簡単に抜けることが出来る。江戸を旅立つときに岡崎に貰った通行手形はかなり有効だった。手のひらを返したように待遇が良くなるのだ。
 時雨はすぐに通行が許可されたが春は呼び止められている。半刻程が経つとやっと解放されてきた。若干疲れているようにも見える。

「お役人様は好き放題なされるので困ります……」

少しだけ春の髪は乱れていた。何があったかはある程度想像できる。

(幕府が天下を収めていて太平な世の中になったことが仇になったのか、木っ端はこのようなものか。岡崎殿や桂真之介は立派な者なのだな)

 時雨が思い出したのは江戸で刃を交えた寄騎よりきの岡崎と、時任ときとう家の時期剣術指南役の桂真之介だ。二人とも武術においては一流の者だ。もっとも岡崎は得体の知れない武士であったが。

「春殿……」

 春は時雨の顔を見てにっこりと微笑むと何事も無かったかのように歩き出す。

「さあ、時雨様、あと少しです。急ぎましょう」

そう言った春の瞳には僅かな光の粒が見て取れた。時雨は何も言わずに疲れた身体に鞭を打ち春の後ろに付いて行くのであった。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 箱根の宿に着いたのは夕刻であった。
旅籠が何軒も立ち並び、客引きが「今宵の宿は~」と旅人に声をかけている。春は時雨の手を引きその間を縫って一軒の旅籠の前で止まった。
そこは宿場町の一通り中へ入った所にあった。建物は大きい。

「ただいま帰りました」

 春はそのまま建物の中に入って行く。中から番頭や丁稚たちが迎えに出て声をかけている。

「おお、春。お使いご苦労様」

最後に奥から身形の良い壮年の男が顔を出した。

「お父様、ただいま戻りました」

春から父と呼ばれた男は春と手を繋いでいる時雨の方へと視線を向けた。時雨をいぶかしむような視線を向ける。

「お父様、そのような目をしないでください。こちらは時雨様。箱根の山中で山賊に襲われていたところを助けていただきました」

 時雨は黙って頭を下げた。
春の父は[ああそうですか]と言ってひとしきりの礼を言う。しかしあまり歓迎はしていないようだ。どちらかというと警戒されている。
その態度を感じ取った時雨は春の手を引き少し離れたところへ移動する。

「なあ、春殿。あまり歓迎されていないようなので私は別の旅籠はたごへ泊ろうかと思うのだが……」

 春はそのような事は無いと言って時雨を引き留め、父親の方へ行き何事かを話している。時雨はその間黙ってたたづんでいた。
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