時雨太夫 東海道編 箱根の宿

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第十話

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 「時雨殿、私がここに派遣されてきたのはもうひとつ目的がある。それはこの宿場に阿芙蓉あふようの蔓延の噂があるのだ……」

 事が終わり寝言のように語るむろの言葉に時雨は夢見心地を一気に引き戻された。
  時雨は室の一言に全身が紅潮するのが分かった。その一言は今までの快楽をすべて否定するのに十分に足り得るものだった。
室もその時雨の変化に気がついたのか時雨に軽く唇をつけ、君は気にする必要は無いよと言う。
 しかしこの段階ですでに時雨の心と身体は完全に冷め切っていた。
時雨は頭に廻されている室の腕を強引に引きはがし、立ち上がった。すぐに着流しを身体に羽織る。

「室殿、この宿場に阿芙蓉があるというのは本当ですか?」

 つい口が滑ってしまった。室は余計なことを言ったと後悔していた。
 今までの心地よさが全て冷めるような雰囲気が部屋の中に漂い始めたからだ。それは二人が快楽を貪り合う前に感じた感覚よりも遙かに強烈なものだった。

「時雨殿が気にする必要は無い。それにこれは私、いや稲葉家の問題なのだ」

 立ち上がった時雨を見ながら、室は時雨の身体に手を伸ばす。しかしそれは時雨によって完全に拒否された。時雨の視線はすでに別のところを見ている。
 室に今日はこれで帰るように促す。それは何者にも反論ができないような表情だ。時雨はそのまま布団に潜り込み、布団から室を押し出す。それっきり話しかけても一切言葉を返さなくなった。
 室は仕方なしに持って来ていた徳利を抱えて時雨の部屋を後にした。そして、時雨を監視する必要があると思いながら自らがあてがわれた部屋へと引き上げていった。  

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 時雨は目を覚ますとすぐに旅支度を調え藤木屋を出た。その際、貪り合った女を見つけ、稲葉家の室殿へ文を渡すように言って小銭を握らせる。小銭と言っても銭緡ぜにさしなのだが。
女は時雨の表情が硬いのを見抜いたのか大丈夫ですかと声を掛けてきた。

「お前は心配しなくても良いよ。しっかり仕事しなさい。ただ、今後は関わり合いにならない方が良いかも知れない」

 時雨はもう呼んで遊ぶ気はないというような態度を取る。女は自分が何か気に触ることをしたのかと時雨に尋ねた。
時雨は黙って首を振り、女の頭を撫でる。

「そういうわけではないのだよ。
ただ私と関わりがあると分かれば、君に危険が及ぶ可能性があるから離れた方が良いと思っているんだ」

 昨日、室との逢瀬の中で阿芙蓉のことを聞いた。
 時雨はそこで感情を殺すことが出来なかった。室には警戒されただろう。今後のことを考えると最悪稲葉家から派遣された武士達には死んでもらう必要があるかもしれない。そうなると藤木屋にも迷惑がかかるし、仲良くした女にも詮議が及ぶかもしれない。

「少し面倒なことになってしまったのだよ。
岩重郎の一家の件と善四郎の件は私が始末をつける。だから問題ないからね。これまで通り一生懸命働くんだ。もしかしたらまた会うかもしれないから」

 時雨は少しかがむと女の口を吸う。女も黙って目を閉じた。薄らと目に涙が浮かんでいる。別れを惜しんでいると藤木屋の主人善三郎が飛び出してきた。

「時雨さんでしたか?。 
春、お春を見かけませんでしたか!」

 善三郎は相当慌てている。しかし、春ならば何処へでも出かけていきそうなものだが……。

「春殿に何かあったのですか?」

 時雨の問いに善三郎は息を切らしながら紙を差し出した。

【私は暫く旅に出ます。今度は長旅になると思いますので探さないでくださいませ。申し訳ありませんが少々路銀をいただいてまいります】

  簡単に訳すとそのような内容だった。時雨は単純に伊勢参りにでも出かけたのでは無いかと言ってみた。しかし善三郎は首を振る。

「いくら何でも旅支度もせず出かけることは無いのでは」

「ふむ、拐かしか」

 時雨はぽそりと呟いた。善三郎がその場に崩れ落ちる。目には涙が浮かんでいた。外の騒ぎに気づいたのか奉公人達が外へ顔を出し始めた。
 善三郎の様子に奉公人達が何事かという視線を向ける。女が奉公人達に事情を話し始めた。奉公人の一人が小田原から来ているお役人を呼んでくると言って見世に走り込む。

「善三郎さん、私はこれから町へ出ます。春さんの手がかりを探してみますので、お気を確かにお持ちください」

時雨はそれだけ言うと藤木屋を旅立つのであった。

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