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府中の宿
拾諮
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「はあ? 駿府城代? 立脇って奴の配下じゃあないの?」
時雨は驚いた声を上げていた。まさか天領の城代が出てくるとは思っていなかったからだ。
「立脇様は在番という身分でこの府中、天領である駿府の軍事を司っている方です。当然城代の配下という形なのですが……身分は旗本同士。色々とありまして……」
駿府は大名がいるわけではない。その代わりに大身旗本が城代を勤めている。今までの任期はせいぜい数年。しかし今の城代はそうではない。すでに八年という時期を勤めている。それほど大久保忠成という人物の治政が幕府に評価されているのだろう。
「で、その大久保様がなんの用だい? あたし達は唯の旅人でたまたま今日は巷を騒がせている狐を斬っただけ。それくらいで城代にお呼びがかかるとは思えないんだけどねぇ」
時雨の言葉に雪はゆっくりと返事を返す。
「その狐の事を詳しくお聞きしたいと言われていまして……。出来ればその……、立脇様とは別口でお会いしてお聞きしたいということでございます」
雪は真剣な眼差しで時雨を見つめる。それは最初に震えていた頃とは違い命をかけた決断の眼をしていた。
「はぁ、何があるのかは知らないけどねぇ。その代わり貰う物は貰うけど?」
雪は情報代は出るはずだと返事を返す。時雨は少しだけ考えて立ち上がった。
「小吉、宿出るよ。荷物をすぐに纏めな。最悪今晩中に府中を起つからね」
小吉は少し嫌そうな顔をする。
既に夜も更けていて、町の入り口の門も閉められているはずだ。今夜中に府中を起つということは揉めるのを想定に入れていて、そのまま強行突破するつもりなのが判る。
それでも小吉は溜息をつくとすぐに荷物を纏め始める。時雨も荷物を纏め、雪は自分の小袖に着替え始めた。慌てて小吉が目を逸らす。
「おや、小吉。お雪の身体に目線が走ったねぇ」
時雨は荷物を纏めながらにやにやと笑う。真っ赤になった小吉の顔を見た雪は微笑ましいものを見たという笑顔を浮かべるだけだった。
暫くして三人が荷物を纏め終わった時、時雨が雪に声をかけた。
「ところでさ、外にいた気配が消えているけど引き上げさせたのかい?」
雪は一瞬で表情を引き締め集中する。どうやら旅籠の外の気配を探っているようだ。それを真似して小吉も集中した表情をした。時雨はその小吉の頬を両手で掴みむにむにと引っ張って邪魔をする。
小吉の鋭い目が時雨に[邪魔をするなよ]と訴えかけていた。
「ん、おかしいですね。撤収の命令は出ていないはずですし。私が眠っている間に何かあったのでしょうか?」
そう言いながら時雨との事を思い出したのか雪の顔が僅かに赤くなる。
「いやぁ、そうじゃあないねぇ。静かすぎる……ねっ!」
時雨は言葉を終わらせないうちに太刀を掴み、一気に抜き上げた。
鉄のぶつかり弾ける音が部屋に響く。廊下に繋がる襖に次々と穴が空き、無数の影が時雨達三人を襲う。時雨は小吉の前に移動し飛んでくる鉄棒を弾く。雪も蒲団を盾にして防ぎ、懐から短刀を取り出す。
「なんか襲撃受けているけど? 雪、どこの手の者か判る?」
時雨の視線に雪は少し首をかしげ、畳の上に落ちた鉄棒、棒手裏剣を眺めた。
「ここらの素破の物では無いですね。もっと西の素破が使う物かと」
そこまで口を開いた雪が鼻をひくひくとさせる。同時に時雨も同じ動作をした。
「外へ飛び出せ!!」
「外へ!」
時雨の言葉と雪の言葉が被る。と同時に時雨は小吉を脇に抱え、雪は蒲団を襖に投げつけ時雨の後に続く。
時雨は軽い目眩を感じていた。小吉は完全に身体が痺れているようでぐったりとしている。雪も通りに着地した瞬間に体勢を崩した様子から微妙にやられたようだ。
「時雨様。大丈夫ですか?」
雪がすぐに駆け寄ってくる。しかし足下はおぼつかない。
「ちっ、阿芙蓉を弄った奴か……」
時雨の言葉に雪が顔を曇らせる。雪の知識の中にある阿芙蓉の効能に先程のような使い方は無い。しかも脱力などではなく痺れと目眩だ。
「阿芙蓉、ですか?」
雪の問いに答えようとした時雨が右手に掴んだ太刀を振る。鉄のぶつかる音が弾け、焼けた鉄の臭いが辺りに漂った。
「拾程度だ。すぐに片付けるから小吉を頼む」
時雨は雪に小吉を渡すと旅籠の中へと走り込む。その後を追うように雪も小吉を抱え旅籠へと飛び込んだ。
旅籠の中では数人の女中や手代が倒れており、所々から血を流している。旅籠の者は皆殺しにあったようだ。
雪は小吉を抱えたまま湯殿の方へと走った。湿気で毒を防ぐためだ。同時に湯煙での目眩ましを考える。それでも先程時雨に言われるまで気がつけなかった自分が、預かった小吉を守り切れるかどうかは判断出来てはいなかった。
湯殿に飛び込んだ雪はすぐに小吉を湯の近くへ寝かせる。一瞬だけ天井に目を走らせ、すぐに姿勢を低くして辺り一帯を見渡す。周囲には湯煙が立ち周りは見えにくい。雪は湯を次々と床に撒きじっと目を瞑る。
雪は範囲の広い音がした方へ、短刀の柄を左の肩へ固定して低い姿勢で突っ込んだ。鈍い感触が雪の短刀を伝い肩へと伝わる。そのまま短刀を半回転させ、抜かずにその場から飛び退いた。雪のいた場所を煙を切り裂いたものが通る。それが床に着く前に雪は全力で前へ飛んだ。先程刺した短刀を手の平を使い再度ねじ込む。
雪の知識と経験から短刀は肝を完全に貫いていた。そのまま身体を真下に落とし確認していない相手の手首へ全重を落とす。
鈍い音が湯殿の中へ響き、雪は相手の得物、刀を拾い真下から斜めに突き上げた。しかし今度はなんの感触も無く勢いのみが抜けていった。
(前にいない!?)
ぞわっとした感覚に雪は思わず刀を放り出し前転する。すぐに湯煙が霧散し雪の頭の位置を拳が通り過ぎた。
(…………)
向き合い対峙する二人。雪はその相手に違和感を覚えていた。
(短刀は肝へ、肝すら抜けている。現に足下の血溜まりはその証拠だろう。人はあそこを突かれたら大概は失血して死ぬ。しかし先程の一撃は……)
湯煙が霧散するほどの速度を出す拳。肝を刃物で突かれた者が出来る芸当では無い。ということは。
(狐面?)
頭を覆っていた湯煙がゆらりと揺れる。そこにあったのは口端から血を滴らせている極々普通の男の顔だった。
しかしそれは異常だった。目が雪を見ていない。唯立っているだけのようにも見える。ただ口元が小刻みに動いている。雪は聞き耳を最大にして声を聞き取ろうとした。
(旅籠に……る時雨……女子と連れ、大久保……手下を始……末。邪魔……全……殺……)
男は同じ言葉を何度も繰り返している。そしてゆっくりと顔をあげると一気に間合いを詰めてきた。雪の手に得物は無い。男の振り下ろす拳を躱し、蹴りを避ける。だぶりとした暮色の装束。雪にしてみればそれほどの手練れとは思えなかったが装束に触れることは避けていた。素破の装束には何が隠されているか判らないからだ。
雪はとにかく相手の攻撃を避け続けていた。徐々に消耗する体力。まだ目を覚まさない小吉の方へ移動するのを避けながらの回避で徐々に追い詰められてゆく。
(このままでは……)
突然足下を掬われる雪。そこには床に転がった糠袋があった。完全に体勢を崩した雪は転けることは無かったが、目の前には暮色の装束に身を包んだ男が迫っている。そして振り下ろされる拳。
雪はゆっくりと眉間に近づいてくる拳を見つめていた。一瞬の出来事のはずなのに緩やかな時間が雪の思考を支配していた。
(死ぬ前とか、死が迫る時はゆっくりとした時間になると聞いていたけど
)
三寸程に迫った拳。それを見つめながら雪は何故かゆったりとした心になっていた。
(ん、これが最後の景色……か……)
雪は最後の瞬間が近づく時まで目線を逸らさなかった。それは雪の最後まで生きた所を見ていたいという気持ちだったのかも知れない。
風圧が先に雪の鼻先に届き……。
「あちきの女に何してくれるんでござんすかねぇ!」
雪の眼前から拳が消える。割って入ったのはすらりと長く、しなやかな肉の付いた白い足だった。
すぐに存在が壁に激突する音が響き、目の前から足が消える。風が雪の髪と頬を撫で、すぐに突風のごとき風が通り過ぎた。
「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
唸り声とも悲鳴ともつかない声が湯殿に響く。雪がゆっくりと首を向けると、湯煙に混ざった血飛沫が湯殿の中に飛び散り広がった。両腕を切り落とされた暮色の装束の男。それでも男は時雨に対し蹴りを放つ。その瞬間にその足は膝から切断され、時雨に蹴り倒される。
雪は膝立ちの姿勢から濡れた床にへたれ込んだ。小袖の裾がじんわりと濡れる。そのことで生きていることを実感できていた。
「雪、大丈夫? 怪我は無い? 小吉は何処?」
時雨が捲し立てる。雪はふるふると唇を震わせながら自分は大丈夫だと言い、小吉はあちらで寝ていると言って寝かせた位置を指さした。時雨はぽんぽんと雪の頭を撫で、小吉の方へと歩いて行く。時雨はゆっくりと腰を下ろすと小吉の首筋に手を当て無事を確かめていた。一瞬やんわりとした笑顔を浮かべた時雨を見て、雪は時雨が本当に小吉を大切にしていることを知り、守り通せて良かったと心から思った。
二人の様子を見ていた雪は首筋に熱く、喰い込むものを感じる。ゆっくりと視線を向けると暮色の存在が目に入った。首筋に喰い込んだものは更に圧力が増し、奥へ奥へと入り込んでゆく。
「ぁぁぁぁあああああああああああ―――――っっ!」
雪の首筋に痛みが走り、それは鈍痛となって背中を襲った。驚き、戸惑い、痛みの混ざった声が雪の口から漏れる。異常に気がついた時雨がすぐに雪に近づき首筋に喰らいついたそれを引き剥がした。
時雨は無表情でそれの首を刎ね、同時に最後に残った足も斬り落とす。それでもそれは蠢いていた。時雨はすぐに雪の首筋を確認する。
「すまない、雪。処理をしくじった……」
後悔の声が混ざった時雨の声が雪の耳に入る。その言葉に雪は苦しそうな表情……は浮かべていないが浮かない表情をして時雨に話しかけてきた。
「時雨さま、大久保様のお屋敷までご案内します。申し訳ございませぬが背負っていただけませんか? 身体の自由が利きませぬ。 ……それとこれは私が未熟故の事。お気になさらずに。 さあ、早く」
雪の首筋に喰い込んだそれはかなり奥まで入り込んでいたようで中から白い物が見えていた。雪は湯殿の床に仰向けに倒れ込んでいる。
時雨は大急ぎで雪を背負うと小吉を小脇に抱えて旅籠を後にした。
■□■□■□■□
時雨は全速力で駿府城へと歩いていた。それは雪の指示に従って歩いているからだ。雪の指示は上手い具合に夜回りを避け、遠周りに見えるように歩いていても距離と刻は短く済んでいた。暫くこの府中にいた時雨もこれには驚いている。
小吉は痺れて眠っているだけのようだし、背中から感じられる雪の温もりはそのままだ。ただ、時雨の耳元にかかる雪の呼吸は荒い。そして問題なのは足などを抓ってみたが反応が全く無い事だった。
(これは急所が斬られたか……な?)
急所は突く場所と斬る場所がある。前者は強烈な痛みと昏倒、時には死を与え、後者は生涯斬られた位置から先が不自由になる場所だ。ただ時雨も医者では無いので首筋にそのような場所があることは知らなかった。
(東雲先生か東伯先生がいたら判るのだが)
時雨はそう心の中で思いながら、雪の指示に従って駿府城へと入っていった。
■□■□■□■□
「そこに横たえてください」
雪が駿府城の中にある建物の一角で声をかけた。時雨は小吉を地面に下ろし、雪を縁側へ横たえる。
雪が小さく口笛を吹くと天井から物音をさせず人が降ってきた。時雨は黙って動かない。降ってきた者が雪の口元に耳のある場所を近づけ何事かを話す。降ってきた者は黙って頷くと時雨に付いてくるように促した。
「やだね。雪が心配だ。話がしたけりゃそっちから来いと伝えな」
時雨の殺気が膨らむ。降ってきた者は数歩後ずさりして雪に視線を送る。雪は首だけを時雨の方へ向けた。
「この者について行ってください。ここまでが私の役目でございます。どうか……」
少しだけ二人は見つめ合う。そして時雨は大きく息を吐き、小吉をつまみ上げた。
「判った、付いて行く。その代わりこいつと雪の治療を頼む。戻ってきたときに二人に会えなければここで暴れる。これがわたしの妥協点だ」
雪はその言葉に困ったような表情を浮かべ、降ってきた者は天井へ向かって手で合図を送る。天井の気配が奥へ移動するのを感じた時雨は雪の側にそっと腰を下ろし、気配が戻ってくるまでの間ゆっくりと雪の髪を撫で続けていた。
時雨は驚いた声を上げていた。まさか天領の城代が出てくるとは思っていなかったからだ。
「立脇様は在番という身分でこの府中、天領である駿府の軍事を司っている方です。当然城代の配下という形なのですが……身分は旗本同士。色々とありまして……」
駿府は大名がいるわけではない。その代わりに大身旗本が城代を勤めている。今までの任期はせいぜい数年。しかし今の城代はそうではない。すでに八年という時期を勤めている。それほど大久保忠成という人物の治政が幕府に評価されているのだろう。
「で、その大久保様がなんの用だい? あたし達は唯の旅人でたまたま今日は巷を騒がせている狐を斬っただけ。それくらいで城代にお呼びがかかるとは思えないんだけどねぇ」
時雨の言葉に雪はゆっくりと返事を返す。
「その狐の事を詳しくお聞きしたいと言われていまして……。出来ればその……、立脇様とは別口でお会いしてお聞きしたいということでございます」
雪は真剣な眼差しで時雨を見つめる。それは最初に震えていた頃とは違い命をかけた決断の眼をしていた。
「はぁ、何があるのかは知らないけどねぇ。その代わり貰う物は貰うけど?」
雪は情報代は出るはずだと返事を返す。時雨は少しだけ考えて立ち上がった。
「小吉、宿出るよ。荷物をすぐに纏めな。最悪今晩中に府中を起つからね」
小吉は少し嫌そうな顔をする。
既に夜も更けていて、町の入り口の門も閉められているはずだ。今夜中に府中を起つということは揉めるのを想定に入れていて、そのまま強行突破するつもりなのが判る。
それでも小吉は溜息をつくとすぐに荷物を纏め始める。時雨も荷物を纏め、雪は自分の小袖に着替え始めた。慌てて小吉が目を逸らす。
「おや、小吉。お雪の身体に目線が走ったねぇ」
時雨は荷物を纏めながらにやにやと笑う。真っ赤になった小吉の顔を見た雪は微笑ましいものを見たという笑顔を浮かべるだけだった。
暫くして三人が荷物を纏め終わった時、時雨が雪に声をかけた。
「ところでさ、外にいた気配が消えているけど引き上げさせたのかい?」
雪は一瞬で表情を引き締め集中する。どうやら旅籠の外の気配を探っているようだ。それを真似して小吉も集中した表情をした。時雨はその小吉の頬を両手で掴みむにむにと引っ張って邪魔をする。
小吉の鋭い目が時雨に[邪魔をするなよ]と訴えかけていた。
「ん、おかしいですね。撤収の命令は出ていないはずですし。私が眠っている間に何かあったのでしょうか?」
そう言いながら時雨との事を思い出したのか雪の顔が僅かに赤くなる。
「いやぁ、そうじゃあないねぇ。静かすぎる……ねっ!」
時雨は言葉を終わらせないうちに太刀を掴み、一気に抜き上げた。
鉄のぶつかり弾ける音が部屋に響く。廊下に繋がる襖に次々と穴が空き、無数の影が時雨達三人を襲う。時雨は小吉の前に移動し飛んでくる鉄棒を弾く。雪も蒲団を盾にして防ぎ、懐から短刀を取り出す。
「なんか襲撃受けているけど? 雪、どこの手の者か判る?」
時雨の視線に雪は少し首をかしげ、畳の上に落ちた鉄棒、棒手裏剣を眺めた。
「ここらの素破の物では無いですね。もっと西の素破が使う物かと」
そこまで口を開いた雪が鼻をひくひくとさせる。同時に時雨も同じ動作をした。
「外へ飛び出せ!!」
「外へ!」
時雨の言葉と雪の言葉が被る。と同時に時雨は小吉を脇に抱え、雪は蒲団を襖に投げつけ時雨の後に続く。
時雨は軽い目眩を感じていた。小吉は完全に身体が痺れているようでぐったりとしている。雪も通りに着地した瞬間に体勢を崩した様子から微妙にやられたようだ。
「時雨様。大丈夫ですか?」
雪がすぐに駆け寄ってくる。しかし足下はおぼつかない。
「ちっ、阿芙蓉を弄った奴か……」
時雨の言葉に雪が顔を曇らせる。雪の知識の中にある阿芙蓉の効能に先程のような使い方は無い。しかも脱力などではなく痺れと目眩だ。
「阿芙蓉、ですか?」
雪の問いに答えようとした時雨が右手に掴んだ太刀を振る。鉄のぶつかる音が弾け、焼けた鉄の臭いが辺りに漂った。
「拾程度だ。すぐに片付けるから小吉を頼む」
時雨は雪に小吉を渡すと旅籠の中へと走り込む。その後を追うように雪も小吉を抱え旅籠へと飛び込んだ。
旅籠の中では数人の女中や手代が倒れており、所々から血を流している。旅籠の者は皆殺しにあったようだ。
雪は小吉を抱えたまま湯殿の方へと走った。湿気で毒を防ぐためだ。同時に湯煙での目眩ましを考える。それでも先程時雨に言われるまで気がつけなかった自分が、預かった小吉を守り切れるかどうかは判断出来てはいなかった。
湯殿に飛び込んだ雪はすぐに小吉を湯の近くへ寝かせる。一瞬だけ天井に目を走らせ、すぐに姿勢を低くして辺り一帯を見渡す。周囲には湯煙が立ち周りは見えにくい。雪は湯を次々と床に撒きじっと目を瞑る。
雪は範囲の広い音がした方へ、短刀の柄を左の肩へ固定して低い姿勢で突っ込んだ。鈍い感触が雪の短刀を伝い肩へと伝わる。そのまま短刀を半回転させ、抜かずにその場から飛び退いた。雪のいた場所を煙を切り裂いたものが通る。それが床に着く前に雪は全力で前へ飛んだ。先程刺した短刀を手の平を使い再度ねじ込む。
雪の知識と経験から短刀は肝を完全に貫いていた。そのまま身体を真下に落とし確認していない相手の手首へ全重を落とす。
鈍い音が湯殿の中へ響き、雪は相手の得物、刀を拾い真下から斜めに突き上げた。しかし今度はなんの感触も無く勢いのみが抜けていった。
(前にいない!?)
ぞわっとした感覚に雪は思わず刀を放り出し前転する。すぐに湯煙が霧散し雪の頭の位置を拳が通り過ぎた。
(…………)
向き合い対峙する二人。雪はその相手に違和感を覚えていた。
(短刀は肝へ、肝すら抜けている。現に足下の血溜まりはその証拠だろう。人はあそこを突かれたら大概は失血して死ぬ。しかし先程の一撃は……)
湯煙が霧散するほどの速度を出す拳。肝を刃物で突かれた者が出来る芸当では無い。ということは。
(狐面?)
頭を覆っていた湯煙がゆらりと揺れる。そこにあったのは口端から血を滴らせている極々普通の男の顔だった。
しかしそれは異常だった。目が雪を見ていない。唯立っているだけのようにも見える。ただ口元が小刻みに動いている。雪は聞き耳を最大にして声を聞き取ろうとした。
(旅籠に……る時雨……女子と連れ、大久保……手下を始……末。邪魔……全……殺……)
男は同じ言葉を何度も繰り返している。そしてゆっくりと顔をあげると一気に間合いを詰めてきた。雪の手に得物は無い。男の振り下ろす拳を躱し、蹴りを避ける。だぶりとした暮色の装束。雪にしてみればそれほどの手練れとは思えなかったが装束に触れることは避けていた。素破の装束には何が隠されているか判らないからだ。
雪はとにかく相手の攻撃を避け続けていた。徐々に消耗する体力。まだ目を覚まさない小吉の方へ移動するのを避けながらの回避で徐々に追い詰められてゆく。
(このままでは……)
突然足下を掬われる雪。そこには床に転がった糠袋があった。完全に体勢を崩した雪は転けることは無かったが、目の前には暮色の装束に身を包んだ男が迫っている。そして振り下ろされる拳。
雪はゆっくりと眉間に近づいてくる拳を見つめていた。一瞬の出来事のはずなのに緩やかな時間が雪の思考を支配していた。
(死ぬ前とか、死が迫る時はゆっくりとした時間になると聞いていたけど
)
三寸程に迫った拳。それを見つめながら雪は何故かゆったりとした心になっていた。
(ん、これが最後の景色……か……)
雪は最後の瞬間が近づく時まで目線を逸らさなかった。それは雪の最後まで生きた所を見ていたいという気持ちだったのかも知れない。
風圧が先に雪の鼻先に届き……。
「あちきの女に何してくれるんでござんすかねぇ!」
雪の眼前から拳が消える。割って入ったのはすらりと長く、しなやかな肉の付いた白い足だった。
すぐに存在が壁に激突する音が響き、目の前から足が消える。風が雪の髪と頬を撫で、すぐに突風のごとき風が通り過ぎた。
「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
唸り声とも悲鳴ともつかない声が湯殿に響く。雪がゆっくりと首を向けると、湯煙に混ざった血飛沫が湯殿の中に飛び散り広がった。両腕を切り落とされた暮色の装束の男。それでも男は時雨に対し蹴りを放つ。その瞬間にその足は膝から切断され、時雨に蹴り倒される。
雪は膝立ちの姿勢から濡れた床にへたれ込んだ。小袖の裾がじんわりと濡れる。そのことで生きていることを実感できていた。
「雪、大丈夫? 怪我は無い? 小吉は何処?」
時雨が捲し立てる。雪はふるふると唇を震わせながら自分は大丈夫だと言い、小吉はあちらで寝ていると言って寝かせた位置を指さした。時雨はぽんぽんと雪の頭を撫で、小吉の方へと歩いて行く。時雨はゆっくりと腰を下ろすと小吉の首筋に手を当て無事を確かめていた。一瞬やんわりとした笑顔を浮かべた時雨を見て、雪は時雨が本当に小吉を大切にしていることを知り、守り通せて良かったと心から思った。
二人の様子を見ていた雪は首筋に熱く、喰い込むものを感じる。ゆっくりと視線を向けると暮色の存在が目に入った。首筋に喰い込んだものは更に圧力が増し、奥へ奥へと入り込んでゆく。
「ぁぁぁぁあああああああああああ―――――っっ!」
雪の首筋に痛みが走り、それは鈍痛となって背中を襲った。驚き、戸惑い、痛みの混ざった声が雪の口から漏れる。異常に気がついた時雨がすぐに雪に近づき首筋に喰らいついたそれを引き剥がした。
時雨は無表情でそれの首を刎ね、同時に最後に残った足も斬り落とす。それでもそれは蠢いていた。時雨はすぐに雪の首筋を確認する。
「すまない、雪。処理をしくじった……」
後悔の声が混ざった時雨の声が雪の耳に入る。その言葉に雪は苦しそうな表情……は浮かべていないが浮かない表情をして時雨に話しかけてきた。
「時雨さま、大久保様のお屋敷までご案内します。申し訳ございませぬが背負っていただけませんか? 身体の自由が利きませぬ。 ……それとこれは私が未熟故の事。お気になさらずに。 さあ、早く」
雪の首筋に喰い込んだそれはかなり奥まで入り込んでいたようで中から白い物が見えていた。雪は湯殿の床に仰向けに倒れ込んでいる。
時雨は大急ぎで雪を背負うと小吉を小脇に抱えて旅籠を後にした。
■□■□■□■□
時雨は全速力で駿府城へと歩いていた。それは雪の指示に従って歩いているからだ。雪の指示は上手い具合に夜回りを避け、遠周りに見えるように歩いていても距離と刻は短く済んでいた。暫くこの府中にいた時雨もこれには驚いている。
小吉は痺れて眠っているだけのようだし、背中から感じられる雪の温もりはそのままだ。ただ、時雨の耳元にかかる雪の呼吸は荒い。そして問題なのは足などを抓ってみたが反応が全く無い事だった。
(これは急所が斬られたか……な?)
急所は突く場所と斬る場所がある。前者は強烈な痛みと昏倒、時には死を与え、後者は生涯斬られた位置から先が不自由になる場所だ。ただ時雨も医者では無いので首筋にそのような場所があることは知らなかった。
(東雲先生か東伯先生がいたら判るのだが)
時雨はそう心の中で思いながら、雪の指示に従って駿府城へと入っていった。
■□■□■□■□
「そこに横たえてください」
雪が駿府城の中にある建物の一角で声をかけた。時雨は小吉を地面に下ろし、雪を縁側へ横たえる。
雪が小さく口笛を吹くと天井から物音をさせず人が降ってきた。時雨は黙って動かない。降ってきた者が雪の口元に耳のある場所を近づけ何事かを話す。降ってきた者は黙って頷くと時雨に付いてくるように促した。
「やだね。雪が心配だ。話がしたけりゃそっちから来いと伝えな」
時雨の殺気が膨らむ。降ってきた者は数歩後ずさりして雪に視線を送る。雪は首だけを時雨の方へ向けた。
「この者について行ってください。ここまでが私の役目でございます。どうか……」
少しだけ二人は見つめ合う。そして時雨は大きく息を吐き、小吉をつまみ上げた。
「判った、付いて行く。その代わりこいつと雪の治療を頼む。戻ってきたときに二人に会えなければここで暴れる。これがわたしの妥協点だ」
雪はその言葉に困ったような表情を浮かべ、降ってきた者は天井へ向かって手で合図を送る。天井の気配が奥へ移動するのを感じた時雨は雪の側にそっと腰を下ろし、気配が戻ってくるまでの間ゆっくりと雪の髪を撫で続けていた。
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何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
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