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私と贔屓の猫の話
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大学の試験は、高校までとは様相が大きく異なる。日々の出席さえしていればテストは簡単なものもあれば、過去問まできっちりと網羅して出題傾向を抑えないと凌げないような難易度のものもある。
私一人だけではどうにもならなかっただろうけど、春野さんや椎名さん、それに語学クラスの仲間達にも質問して、何とか対策を立てる事は出来た。
初めて迎える大学の試験という事もあって、アルバイトと両立する事は難しく、休みを取れるか相談した。宗谷さんは私の臨時の休みを了承してくれた。
試験の対策も含めて何週間かアルバイトを休んだが、何とか試験は終わった。
私は保護猫カフェのアルバイトに復帰する事に決め、店に連絡をする。
気がつけばもうすっかり夏だ。猫カフェの店内は常に冷房を聞かせているものの、初夏の時点から猫達は暑さに気づきつつあったようで、身を寄せ合って眠る事は無くなったらしい。
寒い季節になればまた猫団子を見る事が出来るのかもしれない。
でも……、アーニャは他の猫達と団子を作る事は無いのかもしれないな。
以前よりマシになったとはいえ、まだまだアーニャは他の猫が苦手だ。くつろいでいる時に他の猫が近づいてきたらパッと逃げてしまうし、私が作ったアーニャ用ベッドを誰かが使っていたら唸る。
今カフェの中にいる猫達は、アーニャに威嚇されても流してくれる猫が多い。何回かアーニャに威嚇される中で、慣れてしまったのかもしれない。
宗谷さんによると、アーニャはメスだしまだ子猫だから相手にしていない猫が多いのだろうとの事だ。これが大人猫のオスだったりすると、以前のシャークとジロウのようにもっと激しい喧嘩に発展する事も多いらしい。
その言葉を聞いて、私は安心したけど……。
アーニャにとっては、集団で暮らすのは合っていない、という事は変わりなさそうだ。
それに、アーニャは近頃大きなイベントが起きた。
アーニャは避妊手術を終えたのだ。
暫く店に行くことが出来なくなったが、店の近況は宗谷さんから聞いていた。アーニャは私がいない間に手術可能な状態まで体重を増やしたらしい。そして避妊手術を終えたようだ。
手術後のアーニャは人間全てを強く恨むように鳴いてはぐったりするのを繰り返していたが、やがて手術前とそう変わらない様子にまで戻ったらしい。
その話を聞いて、私の心は痛んだ。
……試験が忙しい時期だったからどうしても行けなかったけど、手術を終えたアーニャの傍にいてやりたかった。
私以外のスタッフがアーニャの世話を焼いてくれたみたいだけど、どうもアーニャは周りを拒絶していたらしい。
アーニャの事を気にかけてくれるのは私だけではないのだから、私以外にも懐いてくれたらいい、と思う。でも、アーニャ本人としては他の人に心を開くのは難しいようだ。
――試験を終えて、大学で自分がやるべき事は大体わかった。
次からは、ここまで試験に時間をかけずとも何とかなるかもしれない。
試験期間中もアルバイトを続けて、アーニャの世話を継続的に出来るようにしよう。そのために、試験期間だけでなくもっと前から過去問を調べるようにしたり、試験に重きが置かれていない授業を選ぶようにしないと……。
私はやるべき事を指折り数えながら、猫カフェへの道を急いだ。
「こんにちは!」
「ああ。舞空さん、よく来てくれた」
「宗谷さん、お久しぶりです。あ……」
「にゃうー」
私を迎えてくれた宗谷さんの背後に、猫がいた。アーニャだ。
でも、私の記憶の中の姿とは異なる。
今のアーニャはその白銀の毛皮に、ピンク色のタンクトップのような服を纏っていた。
私の姿を見つめたアーニャは、走り出して私の足元にずぼっと収まった。
怒っているような興奮しているような声で、ずっと私に向かって鳴いている。
私がしゃがみこむと、アーニャはぐっと頭を擦り付けてきた。
「……アーニャは、舞空さんに暫く会えなくて寂しがっていたみたいだな。一応、術後の一番しんどい時期は過ぎたようだが……」
「宗谷さん。あの、この服は……」
「避妊手術が終わった後は、猫が患部を触ったりしないように処置をするんだ。アーニャの場合は術後服を付けてもらった。手術が終わってから時間が経ったから、明日には服を脱がせる事が出来ると思う」
「そうですか。宗谷さん、私がいない間アーニャを見ていただいてありがとうございました」
「うん。アーニャはフロアに出すようにしているけれど、もしアーニャがしんどそうだったら言って欲しい。スタッフルームの中で静かに過ごさせるようにするから」
「はい。……あれ?そういえば、アーニャはフロアに降りてくるようになったんですね」
私はアーニャを撫でながら呟く。
今までの経験からすると、猫カフェが開店中の時のアーニャは、主に二階やスタッフルームで過ごしていた。客や猫たちを苦手としているからだ。
でも、今のアーニャは開店時間が迫っていてもフロアに留まっているようだ。
宗谷さんは肩を竦めて答える。
「ここ何週間か、舞空さんがいなかっただろう。アーニャのやつ、舞空さんを探していたみたいで……、いつもはいない場所にいるかもと考えたのか、フロアにも出るようになったんだ。相変わらず猫にも人間にも愛想は無いが、客の前に姿を見せる事は増えた」
「そうなんですね」
目を閉じて私の撫でを受け入れるアーニャを見つめながら、ここ数週の彼女の事を思った。
猫の避妊手術は人間からすれば様々なメリットがあるけれど、猫にとっては説明もなしに突然身体を弄られるのだ。メンタルが不安定になってもおかしくない。
そんな中で私までいなくなったから、アーニャは強い不安に襲われた事だろう。
……お客様が来る間は、スタッフが猫を独占しないように気をつけている。だけど、閉店してからは目一杯アーニャを甘やかしてあげよう。
「ありがとうございましたー」
「いらっしゃいませ!」
今日も猫カフェの開店時間になった。
何週間かぶりに復帰したカフェの内装は以前から少し変化していた。
宗谷さんの言っていた、保護猫カフェを再開する――という話が実現されたからだ。
店の中には譲渡希望者用の書類が置いてあって、里親を希望する猫がいる場合、書類を書いて提出してもらう。そこから諸々の審査がある――そう聞いていた。
そのうちの条件の一つが、カフェに何回か来てもらった上で書類を出してもらうという事だ。
猫と人にはそれぞれ相性がある。相性が悪い事を見極められないままに猫を迎えてしまうと、猫と人双方にとって不幸な事態になる。それを避けるためにこの条件を課しているのだという。
このサービスが始まったのは最近であり、何回かカフェに通う必要がある事もあって、今のところ譲渡希望者はまだ現れていない。宗谷さんからはそう聞いた。
譲渡のサービスが始まったとはいえ、基本的にはカフェが開店している時にやる事は以前と変わりが無い。長く休んでいた遅れを取り戻す為にも、私は基本の動きをおさらいしつつ仕事に励む。
人の接客をするのは未だにどきどきする事もあるけれど、慣れもあってか以前よりも捌く事がうまくなったという実感がある。
単純に私の能力が上がった事だけでなく、お客様との交流によって安心感が得られたという事も大きいだろう。
猫カフェに来る人の中には常連さんも多い。私自身は人を覚えるのは苦手な方だけど、スタンプカードのやり取りをしたり、お客様から話しかけてもらったりして、段々と覚えていった。
後は猫とのセットで覚えている事もある。このお客様にはこの猫がよく懐いているとか、相性がいいだとか。
今は平日の遅い時間で、カフェの中には二人のお客様しかいない。花守兄妹だ。妹の花守雛さん、尊さん共々、定期的に店を訪れてくれる常連客だ。
「チャー、いいこいいこ。美味しい?」
「ふみゅ……」
雛さんは猫用のウェットフードを買い求め、カフェ中の猫にあげていた。最後に時間を取ってチャーハンに残ったものを食べさせている。
雛さんはチャーハンと仲良しだ。
カフェに来たら猫みんなに挨拶はするけれど、チャーハンとは特に長く遊んでいるのをよく見る。
チャーハンは人ならなんでも好きな猫みたいだけど、雛さんが自分によくしているのは覚えているのか、喉を鳴らしてごろごろしているのをよく見る。今日もそうだ。
閉店時間が近いカフェの中は、ゆったりとした時間が流れていた。
「すみません」
「はい」
花守兄妹の兄の方、花守尊さんが私に声をかける。
その手には家族構成などの個人情報が書かれた紙があった。猫の譲渡を希望する人は記入して欲しいと置いてあるものだ。
「この店では猫の譲渡が再開したと聞きました。なので相談させて下さい。希望後に条件のすり合わせの面談があると聞いているので、話は改めて聞かせて下さい」
「あ、はい。ちなみに、どの子をご希望ですか?」
「あの子です」
尊さんはカフェのある一点を指し示した。
そこには猫が休みたい時の為に置かれたハウスがあった。ハウスに身を入れていると猫の身体はすっぽりと覆われるけど、尻尾は見えるから誰が入っているかは判別出来る事が多い。
今、あそこにいるのは……。
ふわふわで雪原のような白銀の尻尾を持っていて、今はピンク色の服を着ている……。
「アーニャちゃんです。アーニャちゃんの譲渡を希望します」
その名前を聞いて、私の頭は一瞬真っ白になった。
瞬きをしたあと、私の眼の前にいる尊さんの顔を見て、いけない――と気持ちを切り替える。
私は猫カフェのスタッフだ。猫の状態については私が第一に把握した上で、お客様に伝えないといけない。今回の件については既に宗谷さんの説明もあった事だから、尚更だ。
「アーニャの里親を希望するのですね」
「はい」
「アーニャについてですが、この子はメスの子猫です。避妊手術を終えてからまだ日が浅いので、今すぐに譲渡するという事は出来ないです。住処を変える事は猫にとっては負担になるので、体力を消耗する手術後にすぐに引き渡す事は出来ません。また、里親希望があっても条件次第で譲渡は不可になる可能性があります」
「はい。承知しました。時間がかかってもいいので、ゆっくり相談させていただきたいです。譲渡制度が始まってから、もともとアーニャちゃんに希望を出そうと思っていたんです。アーニャちゃんが無事に避妊手術を終えるまで提出は控えていました。これから何かがあっても待つ事は出来ると思います」
「はい。私からもお願いします!」
「……そうなのですね」
私は花守兄妹の様子を見て、そして胸の中で考える。
ああ、この人達は本当にアーニャを迎えたいんだ――と。
「……皆さん、すみません」
気づけば私の横には宗谷さんがいて、花守兄妹に話しかけていた。
「そろそろ閉店の時間なので、帰りの準備をお願いします」
「あっ!すみません。じゃあ舞空さん、さっきの話については後で連絡下さいね!」
「それでは」
花守兄妹は手早く支度をして去っていった。フロアに残されたのは私と宗谷さん二人だけになった。
宗谷さんは私の持っている紙に目を落とす。
「譲渡希望があったんだな。花守さんからか。希望の猫は……アーニャ、か」
宗谷さんは紙に書かれた名前を読み上げる。そしてスタッフルームの方を指した。
「舞空さん。この後少し時間はあるかい」
「は、はい」
「これまで譲渡の話が出ていなかったから、本格的に説明する事は無かったけど……。話が出たなら、白金も含めて説明したい。猫の譲渡について」
スタッフルームは猫が出入り出来るように猫用の出入り口を設けているけれど、集中する会議をしたい時は出口を一時封鎖する事がある。今回はスタッフルームにいた白金さんが出口を閉じて、会議しやすいようにボードも用意してくれた。
宗谷さんはボードの近くに立って、私と白金さんに向き直った。
「白金。舞空さんが先程譲渡希望を貰ったらしい」
「あ、そうなんだ。これが第一号って事だよね。誰?」
「アーニャ、です」
「あ、へえ~……。そうなんだ。お客さんから第一に手が挙がったのはアーニャだったんだ」
「はい」
「そっかあ……。でもまあ、アーニャの避妊手術が終わるまで待っていたんだから、前々から気になってたんだね、アーニャの事が。そうかあ~。うん……」
白金さんの声色が、浮かれたようなものから段々と落ち着かないようなトーンになっていく。
猫の里親を希望する者がいるというのは、本来はめでたい事の筈だ。でも、白金さんはどこか戸惑ったような様子をしている。アーニャは舞空ちゃんにべったりだから――と以前言っていたから、貰われていく未来が想像出来なかったのかもしれない。
そして、それは私にもそっくり当てはまるのだ。
アーニャが家の猫になるかもしれないという事を、私はまだ受け止めきれていない。
何故ならば――アーニャは、未だに人の事を避ける傾向にあるからだ。
私の気配を察知すると飛んでくるけど、お客様が構おうとすると脱兎のごとく逃げていく。
そんなアーニャがお客様の家庭に行って、無事に馴染めるものなのだろうか……。
私が頭の中で考え事をしているうちに、白金さんが宗谷さんの方を向いて、手を挙げて言った。
「……で、宗谷くん。猫の譲渡の流れは、前教えて貰った通りでいいの。譲渡希望があったら面談して、それをクリアしたらトライアルだっけ?」
「そうだ」
宗谷さんは頷く。
保護猫の里親制度を開始するにあたって、スタッフたちは宗谷さんから簡単にレクチャーを受けていた。
お客様がカフェに来店する中で、自分の家に迎えたいと思った猫がいたら譲渡希望の書類を出す。
このとき、猫を飼える住宅に住んでいるか、同居家族がいる場合家族が猫を飼う事に納得しているか、猫アレルギー等猫と暮らすにあたって問題となる事項が無いか、経済的な問題を抱えていないか、猫は室内で終生飼育するか――といった、基本的な事項について確認する。
保護猫とは特定の飼い主がいない猫の事を示すが、里親を待つ保護猫には様々な背景がある。
野良猫が保護されたもの。
捨て猫が保護されたもの。
ペットショップやブリーダーで取り扱われたが、買い手が見つからなかったもの。
猫を飼っている人間が病気になった等の理由で飼いきれなくなったもの。
猫を避妊去勢しないまま複数で飼っていて、家の中で繁殖し過ぎたもの。
もともと猫を取り巻く環境が良くない事もあって、新たな飼い主の環境が猫に適したものであるかは事前に確認するように取り決められていた。
猫の取り扱いについては、時代の流れによってかなり変化があったようだ。
例えば猫を室内で飼うか否か。
昔は猫を外に出すのが一般的だったし、現代においても車の通りが少ない場所では猫を外に出して飼っている家庭もいる。だが、外に出した猫が事故に遭ったり、病気にかかったり、連れ去られる可能性があるので、この猫カフェでは室内飼いを徹底する事を条件としている。
里親希望の人間が責任を持って猫を飼えない場合、猫の譲渡は断るようにする。
宗谷さんの父親がかつてやっていた保護猫カフェでは、常連客であっても猫を引き渡さなかった例もあるらしい。
書類段階で問題が見つからなかった場合、希望者とスタッフとで面談を行う。
お客様が希望した猫について、スタッフだけが把握している情報もあるからだ。猫の情報を伝えた上で、お客様の希望は変わらないかの確認を行う。
問題ないとなったら、トライアルの日を決める。
トライアルとは、『試しに何かをすること』という意味だ。里親制度においては、猫を希望者の自宅まで送り届けて、まず一緒に住んで様子を見る事を言う。
トライアル期間中に猫を飼い続けられない理由が判明した場合、猫はカフェに返される。
猫と暮らし続ける事を選んだ場合、正式譲渡となる。
猫はカフェの子ではなく、希望者の子となるのだ。
そして、尊さんから頂いた里親希望の書類の中身は問題が無いようだった。
宗谷さんは私達を見回しながら口を開く。
「通常の場合はこのまま譲渡の面談に入る。だけど、アーニャに関してはもう少し相談した方がいいと思った。理由は……アーニャは、性質として家猫が向いているのかどうか、まだ測りかねているところがある。また、アーニャは避妊手術を終えたばかりで、環境を変えるのはもう少し先にしたいという事情もあるからだ」
「それについては、尊さんから聞きました。譲渡が少し長くなってもいいと」
「そうか。それなら、気にするべきはアーニャの方ということになるな」
「アーニャの、ほう……?」
「譲渡の時に気にする事について……。人の条件については前に言ったな。でも、猫の条件についてはまだ詳しく話していないと思う。だからこれから説明させてほしい。アーニャの事だけでなく、他の猫についても当てはまる事だ」
猫側の条件……。
今回の場合、アーニャの状況について何か気になる事があるという事か。
「へー。……宗谷くん、ちなみにだけど、何で猫側の条件の方は事前に説明してなかったの。どの猫についても当てはまるような事なんでしょ?事前にスタッフに説明した方が、譲渡の作業もスムーズにいったんじゃない?」
「それは……単純に、俺の気持ちの問題だ。すまない」
「へっ?気持ち?」
白金さんは首を傾げる。私も同じリアクションをした。
……このカフェを保護猫カフェにしたいと提案したのは宗谷さんだ。でも、何か明かしたくない事情があったんだろうか。
宗谷さんは猫の食事が入っている棚をちらりと見つめながら呟く。
「猫の世話をしている者として、俺は……このカフェの猫に優劣があるような事を言いたくなかったんだ」
「…………」
「これから俺は、人に求められやすい猫とは何かを説明する。でもそれは、猫に人間目線で序列をつけるようなものだ。猫に序列がつくと、扱いに差が出る場所もあるのだという。話さなければいけない事だとは思っていたが、長い事抵抗があった。だから、優劣では無く、向き不向きがある――という風に考えてほしい。……構わないだろうか?」
宗谷さんの言葉を聞いて、白金さんと私は頷いた。
「正直なところ、俺は宗谷くんほどゴチャゴチャ考えないね。多少差異があるとはいえ、猫はみんな手間がかかるやつだよ。だから優秀な猫の事を特別に可愛がるとかは特にしないから。個別対応なんて面倒くさいしな」
「私もそうです。私はまだ勉強中の身で……目の前の猫に向き合っていくしかなくて。それぞれの猫に合ったやり方を見つけようとはしていますが、意図的に猫の扱いを変えるような事はしないです。いえ、出来ないです」
宗谷さんは私達の回答に瞬きをして、そして呟く。
「ありがとう」
「まず、猫のタイプについて。猫のタイプをざっくり分けると、四つに分けられる。基本的にはこの順番に扱いにくい猫になる。猫の譲渡の人気も大体はこの順番だな」
そう言うと、宗谷さんはホワイトボードにマジックでこう書いた。
①猫好き人好き
②猫嫌い人好き
③猫好き人嫌い
④猫嫌い人嫌い
「人好きというのは、人間の膝に自主的に乗ったり、甘えたり、撫でられたりするのを良しとする猫だと思って欲しい。初対面の人間に対してもこの態度が出来るのが、人好きの猫だ。猫好きは、猫同士グルーミングしたり遊んだりするのを好む猫の事。人嫌い猫嫌いは……人間や猫に近付くのを執拗に避けたり、威嚇したり、ときには攻撃する猫の事だ。カフェの中の猫がどれに当てはまるか、イメージ出来るか?」
白金さんと私は頷いた。
何匹もの猫の世話をしていると、その中で手のかからない子とそうでない子の判別は自然とつく。
そして、私はカフェに来た当初にこの話題について話した記憶があった。
私はホワイトボードを見つめながら口を開く。
「私が来た当初よりかは落ち着きましたが、アーニャは四番目って事ですよね。……つまり、一番貰われづらい……という……」
「……それは間違ってはいないが、だが条件次第でひっくり返る事はある。譲渡で特に人気のある属性というものがあるんだ」
宗谷さんはホワイトボードをひっくり返し、更に書き続けた。
・血統種
・子猫
・見た目がいい
・人間に非常に懐いている
「この辺りだな。猫はどんな存在であっても尊いもの……と、口で言うのは簡単だ。実際に暮らすに当たっては、人間側は様々な条件を考えるものだという事だ」
折角一緒に暮らす猫を選ぶならば、価値があるとされる血統種を。
一番可愛い時期であり、しつけもしやすい時期である子猫を。
猫は可愛さを愛でるものだから、存分にその魅力を堪能出来るようにルックスがいい猫を。
わざわざ飼うのだから、自分や家族に目一杯懐いてくれる子を。
白金さんは宗谷さんの説明を聞きながら頷く。
「……どれも人気が出るのに納得出来るね。うちでこの辺の条件に当てはまるのは……エリザ、シャルル、はちみにきなこ、そんなところか」
「そうだな。猫を家に迎える時、保護猫ではなくペットショップやブリーダーから迎える需要が高いのも頷ける。それら相手ならばこの全ての条件を満たす事も容易だろうからな。猫の世話を終生行うのは人間にも大きな負担になるものだから、より自分に適している猫を選ぼうとするのは自然な事だ」
宗谷さんは目を伏せ、条件の横に両矢印を書き足し、更に条件を加えた。
「人気が出やすい猫がいる一方で、出にくい猫もいる。歳を取った猫、人間を避ける猫、見た目が悪い猫……」
「……。ふーん。うちでいうなら、つむぎが四歳で最年長だったよね。つむぎはあんまり人と遊ぼうとしないし、歳も取っている。貰われる可能性は低いという事かな」
「それは否定しない。今のところ一番可能性が低いのはつむぎだろう」
「宗谷くん。猫は美人でもそうでなくても可愛いとか、歳を取ってもずっと可愛いとか、よく聞く話なんだけどな。あれは実際には違うってこと?」
「勿論、どんな猫も愛してくれる人だっている。だけど、そうでない人も大勢いるんだ。どんな猫でも愛して欲しい――とは思うが、理想を言うだけでは解決出来ないこともある。同じ猫であっても、猫を取り巻く環境が変わったら敬遠される可能性もあるんだ」
それは、つまり……。
私は考えを口に出す。
「……アーニャについて考えると。アーニャは、性格面で考えれば貰い手が見つかりにくい猫かもしれない。だけど、今はきっと貰い手が沢山いる。子猫で、見た目もいいから。だけど……そのうち、アーニャは大人猫になる。そうなったら、貰い手は見つかりにくくなるかもしれない……そういう事ですか」
「そうだ。……俺としては、アーニャがもっと人や猫に慣れてくれればいいと思った。その方が家庭では過ごしやすくなるからだ。これは舞空さんに不平を言っている訳ではない。舞空さんはよくアーニャに接してくれたし、アーニャも舞空さんにはよく慣れた。その上で人間の事も猫の事も避けがちなのは、アーニャの性格、個性と言っていいだろう」
「アーニャの……個性」
「今のアーニャの様子からすると、トライアルで環境を変えるのは一長一短だと思う。だが、もっとトライアル向きの性格になるのをを待っているうちにアーニャは大人猫になるだろう。だから、今トライアルに出すかどうか、相談して決めたい」
宗谷さんは花守さんから貰った書類を見て、そして言葉を続ける。
「俺は、条件を見て判断するに、花守さんには面談を受ける資格があると思う。アーニャも少しずつ避妊手術からもとの状態と変わらないくらいまで回復してきてる。でも、アーニャの事を一番に世話してくれたのは舞空さんだ。君から見て、何か問題があるならばアーニャの譲渡の話は中止しようと思う。今日アーニャと過ごして、何か気になる事はあったか?」
宗谷さんと白金さんが私の方を向く。私の答えを待っているのだろう。
私は、宗谷さんの言葉を聞いて考える。
……私の発言が、アーニャの行方を左右する……ことになるんだろうか。
ここは、しっかり思い出さないといけないところだ。
今日のアーニャの様子は……。
開店前後で私にべったりしてくるのはいつもの事だけど、開店中のアーニャは……
猫が近づいてくるとさっと避けていたし、人間が寄ってきても距離を取っていたけれど…。
フロアの中で自分が心地良い場所にいるときは、ゆっくりしていて……。
「宗谷さん」
「うん」
「アーニャ自体は特別体調が悪かったり、精神面に不安を抱えているという事はなかったと思います。ですので……花守さんと面談してからでないと、判断はつけられないと思います」
「よろしくお願いします」
「はい。こちらからもお願いします」
今日はいつもならば定休日の日だ。今カフェの中にいる人間は、花守兄妹の二人と、私と宗谷さんのみである。宗谷さんが私を含めて面談をセッティングしてくれたのだ。
とはいえ、譲渡に当たって専門的な事を知っているのは宗谷さんの方だ。だから話をするのは宗谷さんがほとんどで、私はおまけみたいなものだけれど。
それでも、アーニャを引き渡すかもしれない人には、直接会って様子を確認したかった。
花守さん達とは既にカフェの客として顔を合わせているけれど、私は彼らの普段の生活を詳細に知っている訳ではない。
スタッフと客の関係だったら詳細に知る必要も無いのだが、譲渡の話だとそうもいかなかった。
「私はオーナーの宗谷です。舞空さんには、アーニャをよく知るスタッフとして同席してもらいました。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
「はい、よろしくお願いします」
宗谷さんは花守さん達に頭を下げて話を切り出す。
「では、書類に書かれた事も含めて、諸々確認させてください。ご自宅は猫を飼っても問題ない住居なのでしょうか」
「私達は家族で一緒に住んでいます。その住宅は一軒家で、ペット可なんです。今は猫を飼っていませんが、猫も飼えるという事は確認済みです」
「ペット可といえど、特別に猫の為に住処を変えてもらう必要もあると思います。脱走防止用の柵はありますか?」
「柵……?」
「猫はふとした瞬間に外に脱出する事があります。人間が注意するだけでは対応しきれないものです。なので、外に繋がる玄関や窓に脱出防止用の措置をする必要があります。その処置もしていただけますか?」
「そうなんですね……。恐らく調べたら出来ると思います。アーニャちゃんのトライアルが決定したら、家に来るまでにつけるようにします」
「承知しました。花守さんのご家族の構成は?今回は兄妹で来られていますが、家に住む全ての人に許可は貰っていますか?」
「家に住んでいるのは、私と兄と、父親と母親です。みんな猫を飼うことは了承してくれています」
「雛さんは大学生で、尊さんは社会人という事ですが、今後お二人が家を出たり、出た先に猫を連れて行くような予定はありますか?」
「今のところ家を出ていく予定は無いです。猫は現在の自宅で飼い続ける予定です」
「自宅の近くには動物病院があるでしょうか。猫の定期的な健診が出来るように、また、猫が体調を崩したらすぐに連れていけるように、通える病院の目処は付いていますか」
「はい。少し歩いた先に動物病院があるので、そこに連れて行く予定です」
「猫を自宅で飼うに当たっては、普段の生活の中で気を付ける事が増えます。人間が外から猫の病気のウイルスを運んでくる可能性があるので、必ず帰ったら手を洗うようにしてください。ここのような猫カフェの猫や野良猫に触った時は特に気を付けてください。また、人間は平気でも、猫にとっては毒になるような植物も多くあります。ポピュラーなものでは、百合や紫陽花がそうです。植物を家に持ち帰る際も注意するようにして下さい」
「ありがとうございます。家族で共有するようにします」
花守さん兄妹は、ある時は兄の尊さんが、ある時は妹の雛さんが宗谷さんの質問に答えていた。二人の回答が淀むような事は殆どなかったので、家族間で話を通しているというのは本当のようだ。
宗谷さんは一通り質問を終えた後、ちらりと私を見て言う。
「それじゃあ……アーニャ関連の事について聞くか。舞空さん、気になる事があれば質問して欲しい」
「はい。仮にアーニャを飼う事になったとして……今後、猫を新たに迎える予定はありますか」
「猫の多頭飼いをするという事ですか?今のところ、その予定はありません」
「私がこれまでアーニャを見ていて思ったのは、アーニャは猫が苦手なのだという事です。他の猫たちがアーニャに寄り添おうとしても、アーニャの方が逃げてしまいます。なので、今後新たに猫を飼いたいと思った時、アーニャと一緒に飼うのは厳しいかもしれません」
「アーニャちゃん一匹で飼うという事ですね。わかりました」
「あと、そうですね……アーニャとのコミュニケーションを取るにあたって……、アーニャは人に懐きにくい猫みたいです。幸運な事に、私には懐いてくれたんですけれど、他の人には中々心を開かなくて……。皆アーニャに良くしてくれるんですけど、それでも懐かないんです。花守さん達がアーニャと暮らす事になっても、望んだように懐かない可能性はあります。それについて、了承してくださいますか」
「わかりました。カフェに来る時にアーニャちゃんの様子はよく見ているので、性格も承知の上です」
雛さんと尊さんの回答に、私は頷く。
そして、最後の質問をした。
「この猫カフェには沢山の猫がいますが、その中でアーニャをご希望いただいた理由は何
でしょうか」
私の質問に、雛さんと尊さんが顔を見合わせた。
まず、雛さんの方が話し始める。
「その件については……どの猫を希望するか、結構二人で話し合いました。色んな候補がありました」
「参考程度に、聞かせていただいてもいいですか?」
「最初は、チャーハンがいいなと思っていたんです。私の膝に乗ってくれるし、ゴロゴロしていて可愛いし……。でも、私達が初めて猫を飼う事になって、どんな猫がいいか話し合いました。それで、子猫から一緒に暮らしたいって話になって。このカフェの中ではきなこくん、はちみちゃん、アーニャちゃんの三匹が子猫ですよね。皆可愛いと思ったんですが……、兄の希望もあって、アーニャちゃんにしました」
私は雛さんの答えに頷き、尊さんの方に身体を向ける。
「尊さんの希望との事ですが、どのような理由でアーニャを希望しましたか?」
「僕は、そうだな……アーニャちゃん、物陰に隠れちゃうじゃないですか。今もですけど」
「え、あ、はい。そうですね」
尊さんの言う通り、アーニャはフロア内の隅のクッションに隠れて姿を消していた。といっても、尻尾は見えているのだが。
定休日に客が来たという事で花守さん達の周りをうろうろしたり甘えてきている猫たちもいるのだが、アーニャとしては来客がお気に召さなかったらしい。
そんなアーニャを見つめている尊さんは、穏やかな横顔をしている。
「このカフェの中には色んな子がいますけど。僕の目には、アーニャちゃんがこのカフェの中で一番に居場所を探しているように見えました。……だから、ですかね。この子のためならいくらでも頑張りたい、成長したいって思えたんです。この子と一緒に毎日を過ごしてみたいと強く思いました。なので、アーニャちゃんを希望しました」
「今日はお疲れ様、舞空さん」
「宗谷さん!……こちらこそ、お疲れ様でした」
花守さん達が帰ったカフェでは、猫たちが遊び相手を求めて私たちのもとに寄ってきている。うにおやきなこをあやしたり撫でたりしながら、私は宗谷さんと話を続ける。
「一応、こちらから花守さんに聞きたい事は全部聞けた」
「……はい。私もです」
「何か、気になるところはある?」
「…………。宗谷さんの方は、どう考えましたか?」
「俺は……花守さん達の環境には、問題は見られないと思う。心からアーニャを迎えたいというのも本当なんだろうと。アーニャの方は、相変わらず花守さん達に近づこうとしなかったが……」
「そうですね」
私はフロアの隅で気配を消しているアーニャをちらりと見た。
私の視線を感じたのか、アーニャはそろそろと近づいてきたけど、私のもとに猫がいるのを見てまだまだ距離を取っているようだ。
「舞空さんに異論が無いなら、俺はアーニャをトライアルに出発させたい」
宗谷さんは私にそう言った。
「後は舞空さんの考え次第だ。今日すぐに答えを出してくれなくてもいい。考えが固まったら伝えて欲しい」
「…………」
私は無言で考える。
ここで頷けば、アーニャはトライアルに出発する事になる。
花守さん達は、フロアの隅で尻尾しか見せないアーニャを見つめながら、愛おしそうに微笑んでいた。
アーニャを家に迎えられるとわかったら、喜んでくれるだろう。
トライアルが成功するか否かは置いておくとして、トライアルの前例が出来たら保護猫カフェとしての活動もしやすくなる筈。
でも……。
私は、すぐには答えを出せなかった。
無言でいると、宗谷さんがぽつりと呟く。
「アーニャの声が……」
「え?」
「前に言っていただろう。ゴローのものかもしれない声が聞こえたと。……俺がアーニャと話をする事が出来て、アーニャに直接トライアルの話を聞けたら、どんなに良かったか」
「……。そうですね。でも、私はアーニャの声は一回も聞いた事が無いです。やっぱりあれは私の勘違いだったか、ゴローが特別な猫なのだと思います」
「ふふ。俺から見たゴローは、ちょっとボス適性があって不思議と猫にもててたけど、後は普通の猫だったがな。それに、仮にアーニャに直接話せたとしても、アーニャはトライアルを全力で拒否するだろうから、相談しようも無いか」
「そうですね……」
嫌とかやだとかみんな嫌いとか言いながら、猛スピードで逃げるアーニャを想像して私は微笑む。
……そんなある種微笑ましい光景を想像しながらも、私は改めて思う事がある。
なるべく猫には伸び伸び過ごしてもらいたいとはいえ、猫がどう生きるかの決定権は実質的に人間側が持っているという事だ。
猫にとっては、病院で診察を受けるのも、ブラッシングも爪切りも、本当はやりたくない事だろう。だが猫が嫌がる事であっても人間が強行する事は往々にある。現代での猫の多くが人間社会で暮らす生き物である以上、それは致し方ない事だ。
アーニャの事も、実質私が決定権を握っている。
アーニャの気持ちがどうであれ。
アーニャの気持ち、か……。
私は……。
…………。
「宗谷さん」
「ああ」
「もし……。もしですよ。……アーニャを私が引き取りたいと言った場合、どうなりますか?」
宗谷さんは私の答えを受けて、軽く頷く。彼は然程動じていない様子だ。
私がこう申し出る可能性がある事を、彼は予想していたんだろう。
「保護猫カフェに在籍している猫であっても、必ずしも客が引き取っていくとは限らない。スタッフの家の猫になる事もある。ゴローはそのケースだ。だが、引き取る際には客と同じ段階を踏んでもらう事になるな」
それは、つまり……。
「花守さんが書いたものと同じ書類を書いて、面談を受けるという事ですよね」
「そうだ」
「……じゃあ……私は、駄目です」
「どうして?」
「花守さんは今現在の段階で条件をクリアしているようでした。ですけど、私は違います。今、猫を飼えるような生活は出来ていないんです。だから……」
「……このカフェの猫達は、今のところスタッフ達の庇護下にある。希望してくれた花守家には申し訳ない事にはなるが、舞空さんがアーニャと暮らす事を望むのなら、その時まで譲渡不可にしてもいい」
「え。そうなんですか」
「アーニャが一番懐いているのは、舞空さんだ。アーニャと直接話が出来るならば、アーニャ本人は舞空さんとの同居を選ぶのだと思う。他の相手はきっと拒否する。舞空さん以外の相手でも一緒に住んでみたら大丈夫かもしれないが、それは今の段階ではわからない」
「…………」
「だから、最終的には舞空さんの選択に任せる。アーニャをトライアルに出発させるか、譲渡不可という事にするか……。譲渡不可にするなら、俺も一緒に花守さんに謝罪しよう。トライアルに出発させる場合は、舞空さんも一緒に来てほしい。その方がアーニャの緊張がほぐれるだろうから。……舞空さんは、どうする?」
その日にすぐに回答を出す事は出来なかった。
それから何日も経って、未だに確固たる答えは出せていない。
私は、自室で考え事をしていた。
今の私には──大きく分けて、二つの選択肢がある。
私がアーニャを引き取るか、花守さんにアーニャとのトライアルを打診するか。
花守さんの事だけでなく、いつか私がアーニャと一緒に暮らせたらという事についても、私はしっかりと考えていなかったと思う。アルバイト先に行けばアーニャに会えるのだから、その日々が終わる時が来るという事を具体的にイメージ出来ていなかった。
今からでもいい。自分なりに考えよう。
――まず、私がアーニャを引き取った場合。
引き取った場合……といっても、今すぐに引き取れる訳ではない。
私の家族は、動物を飼う事には反対している。
私が猫カフェでバイトを始めたと家族に伝えた時、その話し合いをした。
動物を飼うのはお金も時間も使う事だし、自分たちは動物が苦手なので、この家で飼うつもりはない――それが家族の意見だった。
私はそれに頷いた。
動物を飼うのは家族全体に影響が出る事だから、全員の同意が取れなければ飼うべきではない――それには私も納得している。
逆に言えば、私が家から出れば動物を飼う事は可能のようだ。
猫用の住居を見つけたり、猫用の貯金が出来るようになれば、アーニャと暮らす事は出来る。
でも、具体的にそれを叶えられるのは、遠い未来の話になるだろう。
私は今大学一年生で、住んでいる場所や日々の生活費については親に頼り切りだ。アルバイトでお金を貰ってはいるものの、猫を飼うに当たっては少額過ぎる。私の今の私財ではアーニャと暮らす事は出来ないのだ。
大学を卒業したら就職して働き始める予定で、猫を正式に飼うとしたらその後になるだろう。つまり、今から四年後以降という事だ。
猫も歳を重ねていく訳だが、その時間の流れ方は人間とは異なるものらしい。
猫の時間を人間の年齢に換算すると、生後一年で十八歳、ニ年で二十四歳になる。その後は一年で四歳ずつ歳を取っていく。
今現在のアーニャは生後半年ほどだ。
私がアーニャを迎えられるようになったとして、その時のアーニャは四歳を超えている事になる。人間で換算すると三十歳以上だ。
今現在のアーニャは子猫で私よりも年下だけど、その頃には私よりも実質歳を重ねた存在になるんだ。
――年齢を重ねた猫よりも、年若い猫の方が譲渡での人気は高い。
私は、宗谷さんに教えてもらった事を思い出す。
子猫などの若い猫が譲渡において需要が高い理由は複数あるらしい。子猫がかわいらしいから、猫が子猫でいられる時期は貴重なものだから――という理由の他に、猫にとっても年若い方が新たな環境に馴染みやすいからという事が挙げられる。
住処を変えるというのは、猫にとっては一大事なのだという。
人間にとっても引っ越しや学校など毎日過ごす環境が変化するのは一大イベントではあるけれど、猫にとっての衝撃はその比ではないようだ。
猫にとって家が変わるというのは……、人間で例えるとするなら、住んでいる国が変わるくらいの衝撃に等しいのかもしれない。
私が明日から別の国に住む事になって、文化も全てその国のものに合わせなければいけなくなると考えると、憂鬱になったり体調を崩してしまうだろう事は想像に難くない。
そして、アーニャにとってはもっと過酷なものになるだろう。
猫は環境が変わる事にストレスを感じる習性を持つ。
それは今までアーニャを見ていても感じた事だ。
猫カフェで複数の猫や人間と暮らすことになったアーニャは、中々その環境を受け入れようとしなかった。
様々な協力者の力によって、アーニャは当初よりも落ち着いて過ごせているようだけど、それでも猫や人間が嫌いというのには変わりが無いように見える。
アーニャは頑固で繊細な性格なのだ。
そんなアーニャに、環境を変えるように強いるのか。
しかも、環境の変化によりストレスを感じるようになるという、大人猫になってから……。
「……うーん」
私は、天を仰いで頭を抱える。
……いざ猫を迎える事を具体的に考えると、沢山の問題が出てくるものだ。
しかも、先程考えたのはこれでも一番順調にいったルートなのである。
実際に未来を迎えた時、私が就職活動でつまずくかもしれないし、仕事についていけず休職しているかもしれないし、猫と一緒に住める住居を見つけるのに難儀しているかもしれない。
そして……、面談で聞いた事も加味して、花守さんの方についても考えると……。
…………。
頭の中で考えながら、思う。
私は、アーニャと出会って猫カフェで働くようになって、以前よりも自信を持てるようになっていた。
だけど――、こうして考えていると、色々と自信が揺らいでしまう。
アーニャの事を考えて一緒に過ごして、アーニャは私と過ごす事を受け入れるようになってくれた。それが自信にも繋がっていた。
でも、いざアーニャの進退について考えていると、何が正しい事なのか決めきれないのだ。
アーニャを迎えるにあたって、経済面や自分の生活について気にせざるを得ない――アーニャの為に全てを投げうって尽くす事が出来ない自分にも嫌気がさす。
宗谷さんは、私に判断を任せると言ってくれたけど。
こんな私に、アーニャの事を決める権利はあるんだろうか。
猫に関する経験値が豊富な宗谷さんに任せた方が、ずっといいんじゃないか。
……でも。
私は考える。
今になって――かつて宗谷さんの言っていた事が、本当の意味で理解出来た気がする。
猫を保護して里親を見つけるというのは、一見曇りなく素晴らしい事のように思える。
だけど、それを達成するためには様々な困難があって、時には挫折する事もある。
宗谷さんはその負担もあって、当初猫の譲渡はしないようにしていたのだろう。
でも、私と一緒ならば乗り越えられるのだと、そう言ってくれた。
宗谷さんは私を信頼して言ってくれたのだ。
なら。
私がするべき事は――。
「…………」
長い時間が経った。
私は――スマホのチャットにある文面を打ち込む。
メッセージを送信すると、机の隅にスマホを置いた。
メッセージを送っただけだけど、ようやくやるべき事を果たした――という気持ちが湧いてくる。ずっと緊張状態だったのが落ち着いて、だからこそ疲労感が身体中を襲ってくるような……。
椅子にもたれてぼうっとしている私のもとに、突然電話のコール音が鳴り響いた。
私は驚いて身体を震わせつつ、スマホを手にした。
「もしもし……」
『舞空さんか?』
電話をかけてきたのは宗谷さんだった。
『さっき送ってくれたメッセージ、見たんだ。それで舞空さんは問題ないか、念のため最後に確認したくて』
「はい」
私は宗谷さんの質問に答える。
「メッセージの通りで間違いないです。私はアーニャを花守さんへのトライアルに出発させる事にしました」
猫カフェの定休日。
客が来ないこの日は、どの猫たちもまったりしている。昼下がりの陽だまりの中、日向ぼっこしている猫も沢山いる。
アーニャは、陽の当たらない方へとそろそろと歩いていっている。日差しを堪能するよりも、猫のいない場所を確保する方が重要だと考えているのだろう。
「アーニャ」
「なう」
私がアーニャに向けて指を差し出すと、アーニャは私の方へとすとすと歩み寄ってきて、顔をすりすりと擦り付け始めた。両手でアーニャを抱っこすると、ごろごろと喉を鳴らす。
そんなアーニャを、私は少しずつ、少しずつ運搬して……キャリーケースの中に仕舞いこみ。
私はアーニャ入りのキャリーケースを持って宗谷さんの運転する車に乗り込んだ。
「アオー、ウルアアアアアア」
「……アーニャ、ここにいるのは嫌だって言ってるみたいですね」
「基本的に猫が車に乗るのは病院に行く時だからな。前回避妊手術で行った時の記憶が蘇ってるんだろう」
アーニャは移動中にずっと鳴いて抗議していたが、私は心を無にしてアーニャに無反応を貫いた。
何も意地悪している訳ではない。実際問題として、私は助手席の人間として花守さんの住所の確認をしたり、花守さんに連絡を入れる必要があった。
アーニャの家族になる人にきちんと送り届ける必要があった。
やがて、花守兄妹の家に到着した。
「失礼します」
「お疲れ様です!」
「ここまで来ていただいてありがとうございました」
花守尊さんと雛さんが私達を迎えに来た。重い柵を開けて、私達は家の中にあがる。
私はトライアルに同行する事も初めてなので、素人に近い立場だ。主な説明は宗谷さんが担当した。
「まず、家の中の様子を見せて下さい。といっても、一部の場所だけで結構です。猫の脱出防止について確認させてください。先程玄関の柵は確認出来ましたので、窓の方をお願いします」
「こちらになります」
「これなら大丈夫そうですね。ありがとうございます」
宗谷さんは窓に近づいて頷き、そして花守さん達に向き直る。
「トライアル期間は二週間となります。ですがこの期間については多少前後しても構いません。少し長めに様子を見たいと思ったり、逆にもっと短い期間でも正式に迎えたいと考えが決まった場合、こちらに連絡して下さい。また、トライアル中に問題が起きて相談したい場合も連絡していただいて構いません」
「はい。ありがとうございます」
「あと……こちらは、お客様達から預かったものになります」
「え!……お兄ちゃん、見て。かわいいアーニャちゃんがいっぱい」
「本当だ。あ、こっちはおもちゃと……おやつも入ってる。いただいてしまっていいんですか?」
「カフェを訪れるお客様達は、アーニャが家の子になるのをお祝いしてくれていました。何か贈り物をしたいというお話を沢山貰ったので、花守さんに届ける事にしました。活用していただけたら幸いです」
私達が花守さんに渡したのは、アーニャのトライアルにあたって客が個人的に贈ってくれたプレゼントの数々だ。山崎さんからはアーニャの写真集を、天路さんはアーニャのお気に入りの猫じゃらしを、他にも様々なお客様からグッズやおやつを貰っている。
お客様から色々なものを預かるに当たって、かつて私が学校を卒業した際にプレゼントを貰った時を思い出した。花守さんにお客様からの気持ちを渡す事が出来て、私はひとまずほっとする。
でも、一番に私が届けないといけないのは……。
「アーニャ、ほら。新しいお家だよ」
私はキャリーケースを開けて、アーニャの名前を呼ぶ。
アーニャは出て来ない。
普段住んでいる場所と環境が変わったから警戒しているのだろう。
「アーニャ、おいで」
「みう」
私は、おやつで誘導しながらアーニャをキャリーケースから出した。
見慣れない場所に着いたアーニャは耳を真一文字にして身体を固くしている。だが、あるものを見つけて少し落ち着いたようだった。いつもカフェで使っているアーニャのトイレだ。
私はアーニャを抱き上げて、猫用トイレの猫砂にアーニャの足を触れさせる。これでトイレの場所は覚えてくれる筈だ。
後は、花守さん達に対応を任せなければいけない。
私はアーニャから手を離して、距離を取ろうとした。
「みゃう」
「……アーニャ」
「みゃあ!」
だが、私の計画は失敗した。
アーニャは私の手に二本の前足で抱きついて、動こうとしない。
ここにはいたくない、一緒にカフェに帰ると、そう言っているみたいだ。
――私は、失敗したのかもしれない。
心の中でそう考えた。
家でもカフェでもあんなに悩んで結論を出したのに、アーニャの姿を見ると後悔がどっと押し寄せてくる。
私は、アーニャに言葉を伝える事が出来ない。
さようならも言えないし、ずっとあなたを忘れないと伝える事も出来ないのだ。
保護猫を取り巻く環境について聞いたとき、動物に対して酷い扱いをできる人間もいるものなのだなと思った。
でも、今の私は他の人の事を糾弾できるような立場にないかもしれない――そう思う。
アーニャからすれば、置いてけぼりにされるのと何も変わりないだろうから。
アーニャを見つめながら、私は花守さん達に聞く。
「花守さん……」
「はい」
「最後にちょっとだけ、少しだけアーニャと過ごさせて貰ってもいいですか」
「わかりました」
「いくらでも待ちます」
二人は頷いた。
それを受けて、私はアーニャの方に向き直る。
私の片手はアーニャにぴったりと抱きつかれている。もう片方の手はフリーだ。
その手をアーニャに伸ばし、アーニャの眉間から背中にかけて、そしてお腹をすりすりと指先で撫でた。
「みう……」
アーニャは私の接触により、目を瞑る。やがて、ごろごろと喉を鳴らし始めた。
リラックスしたように身体を伸ばすアーニャは、目を瞑ったまま脱力している。眠ってしまったのだ。
私は、眠るアーニャをゆっくりと近くのクッションに置いた。静かに手を離すと、アーニャはそのまま動かなかった。普段どおりに撫でてもらえたから安心して眠ってしまって、私が離れた事に気づいていないのだ。
私の心の中に、様々な感情が渦巻く。
自分が今までアーニャのためにベストな選択を出来ていたのかわからない。
大学の試験など程々にして、もっとアーニャとの思い出を作っていればよかったのかもしれない。アーニャにとっては、今まで通りカフェで過ごした方が幸せなのかもしれない。
アーニャと別れたら、私は後悔するだろう。
でも――きっと、アーニャを引き渡さないと言ったとしても、私は後悔するのだ。
花守さん達はアーニャの事を真剣に考えてくれたのに、私の一存でアーニャを渡すのを拒否してしまう事。
アーニャにとってはより良い環境で過ごせるかもしれないのに、その可能性を閉ざしてしまう事。
私はずっと、花守さん達にアーニャを引き渡していいものなのか、迷っていた。
花守さん達が悪い人かもしれないから、ではない。
花守さん達がいい人達だから、アーニャが戻ってこなくなるであろう事が寂しい――と、無意識下で思っていたのだろう。
実際に家に訪問して思う。花守さん達はアーニャのために自宅を改装して、自分達に寄って来ないアーニャを目の当たりにしても暖かく笑ってくれている。
アーニャと別れるのは、寂しい。
でも、この人達にアーニャを送ってあげたい、とも思う。
私は昔から、何かに迷う事の多い人間だった。猫カフェで充実した日々を過ごせた今も、それは変わらない。
だけど――きっと、迷う事はそんなに悪い事では無いんだ。
これだけは蔑ろにしたくないと思う事があるから、私は迷った。
そして、何が大切なのか長い時間をかけて向き合う事が出来た。
私にとって大切なのは、アーニャが穏やかに日々を過ごせるようになる事。
その為には――他に猫がおらず、アーニャを第一に大切にしてくれる、この家がふさわしい。
私は花守さん達に向き直り、そして口を開く。
「花守さん。アーニャは……」
「はい」
「性格がとげとげしている所があるように見えるかもしれないですけれど……、寂しがり屋で怖がりで、だから他の猫を攻撃しちゃう子で……慣れたらすごく甘えてくれる。本当は愛情深い子なんです。家族になる人の事も、きっと沢山愛してくれます」
「――はい」
「一緒に過ごす中で、色々な事があると思いますが……見守って貰えたら、私はとても嬉しいです。アーニャをどうかよろしくお願いします」
大学の試験は、高校までとは様相が大きく異なる。日々の出席さえしていればテストは簡単なものもあれば、過去問まできっちりと網羅して出題傾向を抑えないと凌げないような難易度のものもある。
私一人だけではどうにもならなかっただろうけど、春野さんや椎名さん、それに語学クラスの仲間達にも質問して、何とか対策を立てる事は出来た。
初めて迎える大学の試験という事もあって、アルバイトと両立する事は難しく、休みを取れるか相談した。宗谷さんは私の臨時の休みを了承してくれた。
試験の対策も含めて何週間かアルバイトを休んだが、何とか試験は終わった。
私は保護猫カフェのアルバイトに復帰する事に決め、店に連絡をする。
気がつけばもうすっかり夏だ。猫カフェの店内は常に冷房を聞かせているものの、初夏の時点から猫達は暑さに気づきつつあったようで、身を寄せ合って眠る事は無くなったらしい。
寒い季節になればまた猫団子を見る事が出来るのかもしれない。
でも……、アーニャは他の猫達と団子を作る事は無いのかもしれないな。
以前よりマシになったとはいえ、まだまだアーニャは他の猫が苦手だ。くつろいでいる時に他の猫が近づいてきたらパッと逃げてしまうし、私が作ったアーニャ用ベッドを誰かが使っていたら唸る。
今カフェの中にいる猫達は、アーニャに威嚇されても流してくれる猫が多い。何回かアーニャに威嚇される中で、慣れてしまったのかもしれない。
宗谷さんによると、アーニャはメスだしまだ子猫だから相手にしていない猫が多いのだろうとの事だ。これが大人猫のオスだったりすると、以前のシャークとジロウのようにもっと激しい喧嘩に発展する事も多いらしい。
その言葉を聞いて、私は安心したけど……。
アーニャにとっては、集団で暮らすのは合っていない、という事は変わりなさそうだ。
それに、アーニャは近頃大きなイベントが起きた。
アーニャは避妊手術を終えたのだ。
暫く店に行くことが出来なくなったが、店の近況は宗谷さんから聞いていた。アーニャは私がいない間に手術可能な状態まで体重を増やしたらしい。そして避妊手術を終えたようだ。
手術後のアーニャは人間全てを強く恨むように鳴いてはぐったりするのを繰り返していたが、やがて手術前とそう変わらない様子にまで戻ったらしい。
その話を聞いて、私の心は痛んだ。
……試験が忙しい時期だったからどうしても行けなかったけど、手術を終えたアーニャの傍にいてやりたかった。
私以外のスタッフがアーニャの世話を焼いてくれたみたいだけど、どうもアーニャは周りを拒絶していたらしい。
アーニャの事を気にかけてくれるのは私だけではないのだから、私以外にも懐いてくれたらいい、と思う。でも、アーニャ本人としては他の人に心を開くのは難しいようだ。
――試験を終えて、大学で自分がやるべき事は大体わかった。
次からは、ここまで試験に時間をかけずとも何とかなるかもしれない。
試験期間中もアルバイトを続けて、アーニャの世話を継続的に出来るようにしよう。そのために、試験期間だけでなくもっと前から過去問を調べるようにしたり、試験に重きが置かれていない授業を選ぶようにしないと……。
私はやるべき事を指折り数えながら、猫カフェへの道を急いだ。
「こんにちは!」
「ああ。舞空さん、よく来てくれた」
「宗谷さん、お久しぶりです。あ……」
「にゃうー」
私を迎えてくれた宗谷さんの背後に、猫がいた。アーニャだ。
でも、私の記憶の中の姿とは異なる。
今のアーニャはその白銀の毛皮に、ピンク色のタンクトップのような服を纏っていた。
私の姿を見つめたアーニャは、走り出して私の足元にずぼっと収まった。
怒っているような興奮しているような声で、ずっと私に向かって鳴いている。
私がしゃがみこむと、アーニャはぐっと頭を擦り付けてきた。
「……アーニャは、舞空さんに暫く会えなくて寂しがっていたみたいだな。一応、術後の一番しんどい時期は過ぎたようだが……」
「宗谷さん。あの、この服は……」
「避妊手術が終わった後は、猫が患部を触ったりしないように処置をするんだ。アーニャの場合は術後服を付けてもらった。手術が終わってから時間が経ったから、明日には服を脱がせる事が出来ると思う」
「そうですか。宗谷さん、私がいない間アーニャを見ていただいてありがとうございました」
「うん。アーニャはフロアに出すようにしているけれど、もしアーニャがしんどそうだったら言って欲しい。スタッフルームの中で静かに過ごさせるようにするから」
「はい。……あれ?そういえば、アーニャはフロアに降りてくるようになったんですね」
私はアーニャを撫でながら呟く。
今までの経験からすると、猫カフェが開店中の時のアーニャは、主に二階やスタッフルームで過ごしていた。客や猫たちを苦手としているからだ。
でも、今のアーニャは開店時間が迫っていてもフロアに留まっているようだ。
宗谷さんは肩を竦めて答える。
「ここ何週間か、舞空さんがいなかっただろう。アーニャのやつ、舞空さんを探していたみたいで……、いつもはいない場所にいるかもと考えたのか、フロアにも出るようになったんだ。相変わらず猫にも人間にも愛想は無いが、客の前に姿を見せる事は増えた」
「そうなんですね」
目を閉じて私の撫でを受け入れるアーニャを見つめながら、ここ数週の彼女の事を思った。
猫の避妊手術は人間からすれば様々なメリットがあるけれど、猫にとっては説明もなしに突然身体を弄られるのだ。メンタルが不安定になってもおかしくない。
そんな中で私までいなくなったから、アーニャは強い不安に襲われた事だろう。
……お客様が来る間は、スタッフが猫を独占しないように気をつけている。だけど、閉店してからは目一杯アーニャを甘やかしてあげよう。
「ありがとうございましたー」
「いらっしゃいませ!」
今日も猫カフェの開店時間になった。
何週間かぶりに復帰したカフェの内装は以前から少し変化していた。
宗谷さんの言っていた、保護猫カフェを再開する――という話が実現されたからだ。
店の中には譲渡希望者用の書類が置いてあって、里親を希望する猫がいる場合、書類を書いて提出してもらう。そこから諸々の審査がある――そう聞いていた。
そのうちの条件の一つが、カフェに何回か来てもらった上で書類を出してもらうという事だ。
猫と人にはそれぞれ相性がある。相性が悪い事を見極められないままに猫を迎えてしまうと、猫と人双方にとって不幸な事態になる。それを避けるためにこの条件を課しているのだという。
このサービスが始まったのは最近であり、何回かカフェに通う必要がある事もあって、今のところ譲渡希望者はまだ現れていない。宗谷さんからはそう聞いた。
譲渡のサービスが始まったとはいえ、基本的にはカフェが開店している時にやる事は以前と変わりが無い。長く休んでいた遅れを取り戻す為にも、私は基本の動きをおさらいしつつ仕事に励む。
人の接客をするのは未だにどきどきする事もあるけれど、慣れもあってか以前よりも捌く事がうまくなったという実感がある。
単純に私の能力が上がった事だけでなく、お客様との交流によって安心感が得られたという事も大きいだろう。
猫カフェに来る人の中には常連さんも多い。私自身は人を覚えるのは苦手な方だけど、スタンプカードのやり取りをしたり、お客様から話しかけてもらったりして、段々と覚えていった。
後は猫とのセットで覚えている事もある。このお客様にはこの猫がよく懐いているとか、相性がいいだとか。
今は平日の遅い時間で、カフェの中には二人のお客様しかいない。花守兄妹だ。妹の花守雛さん、尊さん共々、定期的に店を訪れてくれる常連客だ。
「チャー、いいこいいこ。美味しい?」
「ふみゅ……」
雛さんは猫用のウェットフードを買い求め、カフェ中の猫にあげていた。最後に時間を取ってチャーハンに残ったものを食べさせている。
雛さんはチャーハンと仲良しだ。
カフェに来たら猫みんなに挨拶はするけれど、チャーハンとは特に長く遊んでいるのをよく見る。
チャーハンは人ならなんでも好きな猫みたいだけど、雛さんが自分によくしているのは覚えているのか、喉を鳴らしてごろごろしているのをよく見る。今日もそうだ。
閉店時間が近いカフェの中は、ゆったりとした時間が流れていた。
「すみません」
「はい」
花守兄妹の兄の方、花守尊さんが私に声をかける。
その手には家族構成などの個人情報が書かれた紙があった。猫の譲渡を希望する人は記入して欲しいと置いてあるものだ。
「この店では猫の譲渡が再開したと聞きました。なので相談させて下さい。希望後に条件のすり合わせの面談があると聞いているので、話は改めて聞かせて下さい」
「あ、はい。ちなみに、どの子をご希望ですか?」
「あの子です」
尊さんはカフェのある一点を指し示した。
そこには猫が休みたい時の為に置かれたハウスがあった。ハウスに身を入れていると猫の身体はすっぽりと覆われるけど、尻尾は見えるから誰が入っているかは判別出来る事が多い。
今、あそこにいるのは……。
ふわふわで雪原のような白銀の尻尾を持っていて、今はピンク色の服を着ている……。
「アーニャちゃんです。アーニャちゃんの譲渡を希望します」
その名前を聞いて、私の頭は一瞬真っ白になった。
瞬きをしたあと、私の眼の前にいる尊さんの顔を見て、いけない――と気持ちを切り替える。
私は猫カフェのスタッフだ。猫の状態については私が第一に把握した上で、お客様に伝えないといけない。今回の件については既に宗谷さんの説明もあった事だから、尚更だ。
「アーニャの里親を希望するのですね」
「はい」
「アーニャについてですが、この子はメスの子猫です。避妊手術を終えてからまだ日が浅いので、今すぐに譲渡するという事は出来ないです。住処を変える事は猫にとっては負担になるので、体力を消耗する手術後にすぐに引き渡す事は出来ません。また、里親希望があっても条件次第で譲渡は不可になる可能性があります」
「はい。承知しました。時間がかかってもいいので、ゆっくり相談させていただきたいです。譲渡制度が始まってから、もともとアーニャちゃんに希望を出そうと思っていたんです。アーニャちゃんが無事に避妊手術を終えるまで提出は控えていました。これから何かがあっても待つ事は出来ると思います」
「はい。私からもお願いします!」
「……そうなのですね」
私は花守兄妹の様子を見て、そして胸の中で考える。
ああ、この人達は本当にアーニャを迎えたいんだ――と。
「……皆さん、すみません」
気づけば私の横には宗谷さんがいて、花守兄妹に話しかけていた。
「そろそろ閉店の時間なので、帰りの準備をお願いします」
「あっ!すみません。じゃあ舞空さん、さっきの話については後で連絡下さいね!」
「それでは」
花守兄妹は手早く支度をして去っていった。フロアに残されたのは私と宗谷さん二人だけになった。
宗谷さんは私の持っている紙に目を落とす。
「譲渡希望があったんだな。花守さんからか。希望の猫は……アーニャ、か」
宗谷さんは紙に書かれた名前を読み上げる。そしてスタッフルームの方を指した。
「舞空さん。この後少し時間はあるかい」
「は、はい」
「これまで譲渡の話が出ていなかったから、本格的に説明する事は無かったけど……。話が出たなら、白金も含めて説明したい。猫の譲渡について」
スタッフルームは猫が出入り出来るように猫用の出入り口を設けているけれど、集中する会議をしたい時は出口を一時封鎖する事がある。今回はスタッフルームにいた白金さんが出口を閉じて、会議しやすいようにボードも用意してくれた。
宗谷さんはボードの近くに立って、私と白金さんに向き直った。
「白金。舞空さんが先程譲渡希望を貰ったらしい」
「あ、そうなんだ。これが第一号って事だよね。誰?」
「アーニャ、です」
「あ、へえ~……。そうなんだ。お客さんから第一に手が挙がったのはアーニャだったんだ」
「はい」
「そっかあ……。でもまあ、アーニャの避妊手術が終わるまで待っていたんだから、前々から気になってたんだね、アーニャの事が。そうかあ~。うん……」
白金さんの声色が、浮かれたようなものから段々と落ち着かないようなトーンになっていく。
猫の里親を希望する者がいるというのは、本来はめでたい事の筈だ。でも、白金さんはどこか戸惑ったような様子をしている。アーニャは舞空ちゃんにべったりだから――と以前言っていたから、貰われていく未来が想像出来なかったのかもしれない。
そして、それは私にもそっくり当てはまるのだ。
アーニャが家の猫になるかもしれないという事を、私はまだ受け止めきれていない。
何故ならば――アーニャは、未だに人の事を避ける傾向にあるからだ。
私の気配を察知すると飛んでくるけど、お客様が構おうとすると脱兎のごとく逃げていく。
そんなアーニャがお客様の家庭に行って、無事に馴染めるものなのだろうか……。
私が頭の中で考え事をしているうちに、白金さんが宗谷さんの方を向いて、手を挙げて言った。
「……で、宗谷くん。猫の譲渡の流れは、前教えて貰った通りでいいの。譲渡希望があったら面談して、それをクリアしたらトライアルだっけ?」
「そうだ」
宗谷さんは頷く。
保護猫の里親制度を開始するにあたって、スタッフたちは宗谷さんから簡単にレクチャーを受けていた。
お客様がカフェに来店する中で、自分の家に迎えたいと思った猫がいたら譲渡希望の書類を出す。
このとき、猫を飼える住宅に住んでいるか、同居家族がいる場合家族が猫を飼う事に納得しているか、猫アレルギー等猫と暮らすにあたって問題となる事項が無いか、経済的な問題を抱えていないか、猫は室内で終生飼育するか――といった、基本的な事項について確認する。
保護猫とは特定の飼い主がいない猫の事を示すが、里親を待つ保護猫には様々な背景がある。
野良猫が保護されたもの。
捨て猫が保護されたもの。
ペットショップやブリーダーで取り扱われたが、買い手が見つからなかったもの。
猫を飼っている人間が病気になった等の理由で飼いきれなくなったもの。
猫を避妊去勢しないまま複数で飼っていて、家の中で繁殖し過ぎたもの。
もともと猫を取り巻く環境が良くない事もあって、新たな飼い主の環境が猫に適したものであるかは事前に確認するように取り決められていた。
猫の取り扱いについては、時代の流れによってかなり変化があったようだ。
例えば猫を室内で飼うか否か。
昔は猫を外に出すのが一般的だったし、現代においても車の通りが少ない場所では猫を外に出して飼っている家庭もいる。だが、外に出した猫が事故に遭ったり、病気にかかったり、連れ去られる可能性があるので、この猫カフェでは室内飼いを徹底する事を条件としている。
里親希望の人間が責任を持って猫を飼えない場合、猫の譲渡は断るようにする。
宗谷さんの父親がかつてやっていた保護猫カフェでは、常連客であっても猫を引き渡さなかった例もあるらしい。
書類段階で問題が見つからなかった場合、希望者とスタッフとで面談を行う。
お客様が希望した猫について、スタッフだけが把握している情報もあるからだ。猫の情報を伝えた上で、お客様の希望は変わらないかの確認を行う。
問題ないとなったら、トライアルの日を決める。
トライアルとは、『試しに何かをすること』という意味だ。里親制度においては、猫を希望者の自宅まで送り届けて、まず一緒に住んで様子を見る事を言う。
トライアル期間中に猫を飼い続けられない理由が判明した場合、猫はカフェに返される。
猫と暮らし続ける事を選んだ場合、正式譲渡となる。
猫はカフェの子ではなく、希望者の子となるのだ。
そして、尊さんから頂いた里親希望の書類の中身は問題が無いようだった。
宗谷さんは私達を見回しながら口を開く。
「通常の場合はこのまま譲渡の面談に入る。だけど、アーニャに関してはもう少し相談した方がいいと思った。理由は……アーニャは、性質として家猫が向いているのかどうか、まだ測りかねているところがある。また、アーニャは避妊手術を終えたばかりで、環境を変えるのはもう少し先にしたいという事情もあるからだ」
「それについては、尊さんから聞きました。譲渡が少し長くなってもいいと」
「そうか。それなら、気にするべきはアーニャの方ということになるな」
「アーニャの、ほう……?」
「譲渡の時に気にする事について……。人の条件については前に言ったな。でも、猫の条件についてはまだ詳しく話していないと思う。だからこれから説明させてほしい。アーニャの事だけでなく、他の猫についても当てはまる事だ」
猫側の条件……。
今回の場合、アーニャの状況について何か気になる事があるという事か。
「へー。……宗谷くん、ちなみにだけど、何で猫側の条件の方は事前に説明してなかったの。どの猫についても当てはまるような事なんでしょ?事前にスタッフに説明した方が、譲渡の作業もスムーズにいったんじゃない?」
「それは……単純に、俺の気持ちの問題だ。すまない」
「へっ?気持ち?」
白金さんは首を傾げる。私も同じリアクションをした。
……このカフェを保護猫カフェにしたいと提案したのは宗谷さんだ。でも、何か明かしたくない事情があったんだろうか。
宗谷さんは猫の食事が入っている棚をちらりと見つめながら呟く。
「猫の世話をしている者として、俺は……このカフェの猫に優劣があるような事を言いたくなかったんだ」
「…………」
「これから俺は、人に求められやすい猫とは何かを説明する。でもそれは、猫に人間目線で序列をつけるようなものだ。猫に序列がつくと、扱いに差が出る場所もあるのだという。話さなければいけない事だとは思っていたが、長い事抵抗があった。だから、優劣では無く、向き不向きがある――という風に考えてほしい。……構わないだろうか?」
宗谷さんの言葉を聞いて、白金さんと私は頷いた。
「正直なところ、俺は宗谷くんほどゴチャゴチャ考えないね。多少差異があるとはいえ、猫はみんな手間がかかるやつだよ。だから優秀な猫の事を特別に可愛がるとかは特にしないから。個別対応なんて面倒くさいしな」
「私もそうです。私はまだ勉強中の身で……目の前の猫に向き合っていくしかなくて。それぞれの猫に合ったやり方を見つけようとはしていますが、意図的に猫の扱いを変えるような事はしないです。いえ、出来ないです」
宗谷さんは私達の回答に瞬きをして、そして呟く。
「ありがとう」
「まず、猫のタイプについて。猫のタイプをざっくり分けると、四つに分けられる。基本的にはこの順番に扱いにくい猫になる。猫の譲渡の人気も大体はこの順番だな」
そう言うと、宗谷さんはホワイトボードにマジックでこう書いた。
①猫好き人好き
②猫嫌い人好き
③猫好き人嫌い
④猫嫌い人嫌い
「人好きというのは、人間の膝に自主的に乗ったり、甘えたり、撫でられたりするのを良しとする猫だと思って欲しい。初対面の人間に対してもこの態度が出来るのが、人好きの猫だ。猫好きは、猫同士グルーミングしたり遊んだりするのを好む猫の事。人嫌い猫嫌いは……人間や猫に近付くのを執拗に避けたり、威嚇したり、ときには攻撃する猫の事だ。カフェの中の猫がどれに当てはまるか、イメージ出来るか?」
白金さんと私は頷いた。
何匹もの猫の世話をしていると、その中で手のかからない子とそうでない子の判別は自然とつく。
そして、私はカフェに来た当初にこの話題について話した記憶があった。
私はホワイトボードを見つめながら口を開く。
「私が来た当初よりかは落ち着きましたが、アーニャは四番目って事ですよね。……つまり、一番貰われづらい……という……」
「……それは間違ってはいないが、だが条件次第でひっくり返る事はある。譲渡で特に人気のある属性というものがあるんだ」
宗谷さんはホワイトボードをひっくり返し、更に書き続けた。
・血統種
・子猫
・見た目がいい
・人間に非常に懐いている
「この辺りだな。猫はどんな存在であっても尊いもの……と、口で言うのは簡単だ。実際に暮らすに当たっては、人間側は様々な条件を考えるものだという事だ」
折角一緒に暮らす猫を選ぶならば、価値があるとされる血統種を。
一番可愛い時期であり、しつけもしやすい時期である子猫を。
猫は可愛さを愛でるものだから、存分にその魅力を堪能出来るようにルックスがいい猫を。
わざわざ飼うのだから、自分や家族に目一杯懐いてくれる子を。
白金さんは宗谷さんの説明を聞きながら頷く。
「……どれも人気が出るのに納得出来るね。うちでこの辺の条件に当てはまるのは……エリザ、シャルル、はちみにきなこ、そんなところか」
「そうだな。猫を家に迎える時、保護猫ではなくペットショップやブリーダーから迎える需要が高いのも頷ける。それら相手ならばこの全ての条件を満たす事も容易だろうからな。猫の世話を終生行うのは人間にも大きな負担になるものだから、より自分に適している猫を選ぼうとするのは自然な事だ」
宗谷さんは目を伏せ、条件の横に両矢印を書き足し、更に条件を加えた。
「人気が出やすい猫がいる一方で、出にくい猫もいる。歳を取った猫、人間を避ける猫、見た目が悪い猫……」
「……。ふーん。うちでいうなら、つむぎが四歳で最年長だったよね。つむぎはあんまり人と遊ぼうとしないし、歳も取っている。貰われる可能性は低いという事かな」
「それは否定しない。今のところ一番可能性が低いのはつむぎだろう」
「宗谷くん。猫は美人でもそうでなくても可愛いとか、歳を取ってもずっと可愛いとか、よく聞く話なんだけどな。あれは実際には違うってこと?」
「勿論、どんな猫も愛してくれる人だっている。だけど、そうでない人も大勢いるんだ。どんな猫でも愛して欲しい――とは思うが、理想を言うだけでは解決出来ないこともある。同じ猫であっても、猫を取り巻く環境が変わったら敬遠される可能性もあるんだ」
それは、つまり……。
私は考えを口に出す。
「……アーニャについて考えると。アーニャは、性格面で考えれば貰い手が見つかりにくい猫かもしれない。だけど、今はきっと貰い手が沢山いる。子猫で、見た目もいいから。だけど……そのうち、アーニャは大人猫になる。そうなったら、貰い手は見つかりにくくなるかもしれない……そういう事ですか」
「そうだ。……俺としては、アーニャがもっと人や猫に慣れてくれればいいと思った。その方が家庭では過ごしやすくなるからだ。これは舞空さんに不平を言っている訳ではない。舞空さんはよくアーニャに接してくれたし、アーニャも舞空さんにはよく慣れた。その上で人間の事も猫の事も避けがちなのは、アーニャの性格、個性と言っていいだろう」
「アーニャの……個性」
「今のアーニャの様子からすると、トライアルで環境を変えるのは一長一短だと思う。だが、もっとトライアル向きの性格になるのをを待っているうちにアーニャは大人猫になるだろう。だから、今トライアルに出すかどうか、相談して決めたい」
宗谷さんは花守さんから貰った書類を見て、そして言葉を続ける。
「俺は、条件を見て判断するに、花守さんには面談を受ける資格があると思う。アーニャも少しずつ避妊手術からもとの状態と変わらないくらいまで回復してきてる。でも、アーニャの事を一番に世話してくれたのは舞空さんだ。君から見て、何か問題があるならばアーニャの譲渡の話は中止しようと思う。今日アーニャと過ごして、何か気になる事はあったか?」
宗谷さんと白金さんが私の方を向く。私の答えを待っているのだろう。
私は、宗谷さんの言葉を聞いて考える。
……私の発言が、アーニャの行方を左右する……ことになるんだろうか。
ここは、しっかり思い出さないといけないところだ。
今日のアーニャの様子は……。
開店前後で私にべったりしてくるのはいつもの事だけど、開店中のアーニャは……
猫が近づいてくるとさっと避けていたし、人間が寄ってきても距離を取っていたけれど…。
フロアの中で自分が心地良い場所にいるときは、ゆっくりしていて……。
「宗谷さん」
「うん」
「アーニャ自体は特別体調が悪かったり、精神面に不安を抱えているという事はなかったと思います。ですので……花守さんと面談してからでないと、判断はつけられないと思います」
「よろしくお願いします」
「はい。こちらからもお願いします」
今日はいつもならば定休日の日だ。今カフェの中にいる人間は、花守兄妹の二人と、私と宗谷さんのみである。宗谷さんが私を含めて面談をセッティングしてくれたのだ。
とはいえ、譲渡に当たって専門的な事を知っているのは宗谷さんの方だ。だから話をするのは宗谷さんがほとんどで、私はおまけみたいなものだけれど。
それでも、アーニャを引き渡すかもしれない人には、直接会って様子を確認したかった。
花守さん達とは既にカフェの客として顔を合わせているけれど、私は彼らの普段の生活を詳細に知っている訳ではない。
スタッフと客の関係だったら詳細に知る必要も無いのだが、譲渡の話だとそうもいかなかった。
「私はオーナーの宗谷です。舞空さんには、アーニャをよく知るスタッフとして同席してもらいました。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
「はい、よろしくお願いします」
宗谷さんは花守さん達に頭を下げて話を切り出す。
「では、書類に書かれた事も含めて、諸々確認させてください。ご自宅は猫を飼っても問題ない住居なのでしょうか」
「私達は家族で一緒に住んでいます。その住宅は一軒家で、ペット可なんです。今は猫を飼っていませんが、猫も飼えるという事は確認済みです」
「ペット可といえど、特別に猫の為に住処を変えてもらう必要もあると思います。脱走防止用の柵はありますか?」
「柵……?」
「猫はふとした瞬間に外に脱出する事があります。人間が注意するだけでは対応しきれないものです。なので、外に繋がる玄関や窓に脱出防止用の措置をする必要があります。その処置もしていただけますか?」
「そうなんですね……。恐らく調べたら出来ると思います。アーニャちゃんのトライアルが決定したら、家に来るまでにつけるようにします」
「承知しました。花守さんのご家族の構成は?今回は兄妹で来られていますが、家に住む全ての人に許可は貰っていますか?」
「家に住んでいるのは、私と兄と、父親と母親です。みんな猫を飼うことは了承してくれています」
「雛さんは大学生で、尊さんは社会人という事ですが、今後お二人が家を出たり、出た先に猫を連れて行くような予定はありますか?」
「今のところ家を出ていく予定は無いです。猫は現在の自宅で飼い続ける予定です」
「自宅の近くには動物病院があるでしょうか。猫の定期的な健診が出来るように、また、猫が体調を崩したらすぐに連れていけるように、通える病院の目処は付いていますか」
「はい。少し歩いた先に動物病院があるので、そこに連れて行く予定です」
「猫を自宅で飼うに当たっては、普段の生活の中で気を付ける事が増えます。人間が外から猫の病気のウイルスを運んでくる可能性があるので、必ず帰ったら手を洗うようにしてください。ここのような猫カフェの猫や野良猫に触った時は特に気を付けてください。また、人間は平気でも、猫にとっては毒になるような植物も多くあります。ポピュラーなものでは、百合や紫陽花がそうです。植物を家に持ち帰る際も注意するようにして下さい」
「ありがとうございます。家族で共有するようにします」
花守さん兄妹は、ある時は兄の尊さんが、ある時は妹の雛さんが宗谷さんの質問に答えていた。二人の回答が淀むような事は殆どなかったので、家族間で話を通しているというのは本当のようだ。
宗谷さんは一通り質問を終えた後、ちらりと私を見て言う。
「それじゃあ……アーニャ関連の事について聞くか。舞空さん、気になる事があれば質問して欲しい」
「はい。仮にアーニャを飼う事になったとして……今後、猫を新たに迎える予定はありますか」
「猫の多頭飼いをするという事ですか?今のところ、その予定はありません」
「私がこれまでアーニャを見ていて思ったのは、アーニャは猫が苦手なのだという事です。他の猫たちがアーニャに寄り添おうとしても、アーニャの方が逃げてしまいます。なので、今後新たに猫を飼いたいと思った時、アーニャと一緒に飼うのは厳しいかもしれません」
「アーニャちゃん一匹で飼うという事ですね。わかりました」
「あと、そうですね……アーニャとのコミュニケーションを取るにあたって……、アーニャは人に懐きにくい猫みたいです。幸運な事に、私には懐いてくれたんですけれど、他の人には中々心を開かなくて……。皆アーニャに良くしてくれるんですけど、それでも懐かないんです。花守さん達がアーニャと暮らす事になっても、望んだように懐かない可能性はあります。それについて、了承してくださいますか」
「わかりました。カフェに来る時にアーニャちゃんの様子はよく見ているので、性格も承知の上です」
雛さんと尊さんの回答に、私は頷く。
そして、最後の質問をした。
「この猫カフェには沢山の猫がいますが、その中でアーニャをご希望いただいた理由は何
でしょうか」
私の質問に、雛さんと尊さんが顔を見合わせた。
まず、雛さんの方が話し始める。
「その件については……どの猫を希望するか、結構二人で話し合いました。色んな候補がありました」
「参考程度に、聞かせていただいてもいいですか?」
「最初は、チャーハンがいいなと思っていたんです。私の膝に乗ってくれるし、ゴロゴロしていて可愛いし……。でも、私達が初めて猫を飼う事になって、どんな猫がいいか話し合いました。それで、子猫から一緒に暮らしたいって話になって。このカフェの中ではきなこくん、はちみちゃん、アーニャちゃんの三匹が子猫ですよね。皆可愛いと思ったんですが……、兄の希望もあって、アーニャちゃんにしました」
私は雛さんの答えに頷き、尊さんの方に身体を向ける。
「尊さんの希望との事ですが、どのような理由でアーニャを希望しましたか?」
「僕は、そうだな……アーニャちゃん、物陰に隠れちゃうじゃないですか。今もですけど」
「え、あ、はい。そうですね」
尊さんの言う通り、アーニャはフロア内の隅のクッションに隠れて姿を消していた。といっても、尻尾は見えているのだが。
定休日に客が来たという事で花守さん達の周りをうろうろしたり甘えてきている猫たちもいるのだが、アーニャとしては来客がお気に召さなかったらしい。
そんなアーニャを見つめている尊さんは、穏やかな横顔をしている。
「このカフェの中には色んな子がいますけど。僕の目には、アーニャちゃんがこのカフェの中で一番に居場所を探しているように見えました。……だから、ですかね。この子のためならいくらでも頑張りたい、成長したいって思えたんです。この子と一緒に毎日を過ごしてみたいと強く思いました。なので、アーニャちゃんを希望しました」
「今日はお疲れ様、舞空さん」
「宗谷さん!……こちらこそ、お疲れ様でした」
花守さん達が帰ったカフェでは、猫たちが遊び相手を求めて私たちのもとに寄ってきている。うにおやきなこをあやしたり撫でたりしながら、私は宗谷さんと話を続ける。
「一応、こちらから花守さんに聞きたい事は全部聞けた」
「……はい。私もです」
「何か、気になるところはある?」
「…………。宗谷さんの方は、どう考えましたか?」
「俺は……花守さん達の環境には、問題は見られないと思う。心からアーニャを迎えたいというのも本当なんだろうと。アーニャの方は、相変わらず花守さん達に近づこうとしなかったが……」
「そうですね」
私はフロアの隅で気配を消しているアーニャをちらりと見た。
私の視線を感じたのか、アーニャはそろそろと近づいてきたけど、私のもとに猫がいるのを見てまだまだ距離を取っているようだ。
「舞空さんに異論が無いなら、俺はアーニャをトライアルに出発させたい」
宗谷さんは私にそう言った。
「後は舞空さんの考え次第だ。今日すぐに答えを出してくれなくてもいい。考えが固まったら伝えて欲しい」
「…………」
私は無言で考える。
ここで頷けば、アーニャはトライアルに出発する事になる。
花守さん達は、フロアの隅で尻尾しか見せないアーニャを見つめながら、愛おしそうに微笑んでいた。
アーニャを家に迎えられるとわかったら、喜んでくれるだろう。
トライアルが成功するか否かは置いておくとして、トライアルの前例が出来たら保護猫カフェとしての活動もしやすくなる筈。
でも……。
私は、すぐには答えを出せなかった。
無言でいると、宗谷さんがぽつりと呟く。
「アーニャの声が……」
「え?」
「前に言っていただろう。ゴローのものかもしれない声が聞こえたと。……俺がアーニャと話をする事が出来て、アーニャに直接トライアルの話を聞けたら、どんなに良かったか」
「……。そうですね。でも、私はアーニャの声は一回も聞いた事が無いです。やっぱりあれは私の勘違いだったか、ゴローが特別な猫なのだと思います」
「ふふ。俺から見たゴローは、ちょっとボス適性があって不思議と猫にもててたけど、後は普通の猫だったがな。それに、仮にアーニャに直接話せたとしても、アーニャはトライアルを全力で拒否するだろうから、相談しようも無いか」
「そうですね……」
嫌とかやだとかみんな嫌いとか言いながら、猛スピードで逃げるアーニャを想像して私は微笑む。
……そんなある種微笑ましい光景を想像しながらも、私は改めて思う事がある。
なるべく猫には伸び伸び過ごしてもらいたいとはいえ、猫がどう生きるかの決定権は実質的に人間側が持っているという事だ。
猫にとっては、病院で診察を受けるのも、ブラッシングも爪切りも、本当はやりたくない事だろう。だが猫が嫌がる事であっても人間が強行する事は往々にある。現代での猫の多くが人間社会で暮らす生き物である以上、それは致し方ない事だ。
アーニャの事も、実質私が決定権を握っている。
アーニャの気持ちがどうであれ。
アーニャの気持ち、か……。
私は……。
…………。
「宗谷さん」
「ああ」
「もし……。もしですよ。……アーニャを私が引き取りたいと言った場合、どうなりますか?」
宗谷さんは私の答えを受けて、軽く頷く。彼は然程動じていない様子だ。
私がこう申し出る可能性がある事を、彼は予想していたんだろう。
「保護猫カフェに在籍している猫であっても、必ずしも客が引き取っていくとは限らない。スタッフの家の猫になる事もある。ゴローはそのケースだ。だが、引き取る際には客と同じ段階を踏んでもらう事になるな」
それは、つまり……。
「花守さんが書いたものと同じ書類を書いて、面談を受けるという事ですよね」
「そうだ」
「……じゃあ……私は、駄目です」
「どうして?」
「花守さんは今現在の段階で条件をクリアしているようでした。ですけど、私は違います。今、猫を飼えるような生活は出来ていないんです。だから……」
「……このカフェの猫達は、今のところスタッフ達の庇護下にある。希望してくれた花守家には申し訳ない事にはなるが、舞空さんがアーニャと暮らす事を望むのなら、その時まで譲渡不可にしてもいい」
「え。そうなんですか」
「アーニャが一番懐いているのは、舞空さんだ。アーニャと直接話が出来るならば、アーニャ本人は舞空さんとの同居を選ぶのだと思う。他の相手はきっと拒否する。舞空さん以外の相手でも一緒に住んでみたら大丈夫かもしれないが、それは今の段階ではわからない」
「…………」
「だから、最終的には舞空さんの選択に任せる。アーニャをトライアルに出発させるか、譲渡不可という事にするか……。譲渡不可にするなら、俺も一緒に花守さんに謝罪しよう。トライアルに出発させる場合は、舞空さんも一緒に来てほしい。その方がアーニャの緊張がほぐれるだろうから。……舞空さんは、どうする?」
その日にすぐに回答を出す事は出来なかった。
それから何日も経って、未だに確固たる答えは出せていない。
私は、自室で考え事をしていた。
今の私には──大きく分けて、二つの選択肢がある。
私がアーニャを引き取るか、花守さんにアーニャとのトライアルを打診するか。
花守さんの事だけでなく、いつか私がアーニャと一緒に暮らせたらという事についても、私はしっかりと考えていなかったと思う。アルバイト先に行けばアーニャに会えるのだから、その日々が終わる時が来るという事を具体的にイメージ出来ていなかった。
今からでもいい。自分なりに考えよう。
――まず、私がアーニャを引き取った場合。
引き取った場合……といっても、今すぐに引き取れる訳ではない。
私の家族は、動物を飼う事には反対している。
私が猫カフェでバイトを始めたと家族に伝えた時、その話し合いをした。
動物を飼うのはお金も時間も使う事だし、自分たちは動物が苦手なので、この家で飼うつもりはない――それが家族の意見だった。
私はそれに頷いた。
動物を飼うのは家族全体に影響が出る事だから、全員の同意が取れなければ飼うべきではない――それには私も納得している。
逆に言えば、私が家から出れば動物を飼う事は可能のようだ。
猫用の住居を見つけたり、猫用の貯金が出来るようになれば、アーニャと暮らす事は出来る。
でも、具体的にそれを叶えられるのは、遠い未来の話になるだろう。
私は今大学一年生で、住んでいる場所や日々の生活費については親に頼り切りだ。アルバイトでお金を貰ってはいるものの、猫を飼うに当たっては少額過ぎる。私の今の私財ではアーニャと暮らす事は出来ないのだ。
大学を卒業したら就職して働き始める予定で、猫を正式に飼うとしたらその後になるだろう。つまり、今から四年後以降という事だ。
猫も歳を重ねていく訳だが、その時間の流れ方は人間とは異なるものらしい。
猫の時間を人間の年齢に換算すると、生後一年で十八歳、ニ年で二十四歳になる。その後は一年で四歳ずつ歳を取っていく。
今現在のアーニャは生後半年ほどだ。
私がアーニャを迎えられるようになったとして、その時のアーニャは四歳を超えている事になる。人間で換算すると三十歳以上だ。
今現在のアーニャは子猫で私よりも年下だけど、その頃には私よりも実質歳を重ねた存在になるんだ。
――年齢を重ねた猫よりも、年若い猫の方が譲渡での人気は高い。
私は、宗谷さんに教えてもらった事を思い出す。
子猫などの若い猫が譲渡において需要が高い理由は複数あるらしい。子猫がかわいらしいから、猫が子猫でいられる時期は貴重なものだから――という理由の他に、猫にとっても年若い方が新たな環境に馴染みやすいからという事が挙げられる。
住処を変えるというのは、猫にとっては一大事なのだという。
人間にとっても引っ越しや学校など毎日過ごす環境が変化するのは一大イベントではあるけれど、猫にとっての衝撃はその比ではないようだ。
猫にとって家が変わるというのは……、人間で例えるとするなら、住んでいる国が変わるくらいの衝撃に等しいのかもしれない。
私が明日から別の国に住む事になって、文化も全てその国のものに合わせなければいけなくなると考えると、憂鬱になったり体調を崩してしまうだろう事は想像に難くない。
そして、アーニャにとってはもっと過酷なものになるだろう。
猫は環境が変わる事にストレスを感じる習性を持つ。
それは今までアーニャを見ていても感じた事だ。
猫カフェで複数の猫や人間と暮らすことになったアーニャは、中々その環境を受け入れようとしなかった。
様々な協力者の力によって、アーニャは当初よりも落ち着いて過ごせているようだけど、それでも猫や人間が嫌いというのには変わりが無いように見える。
アーニャは頑固で繊細な性格なのだ。
そんなアーニャに、環境を変えるように強いるのか。
しかも、環境の変化によりストレスを感じるようになるという、大人猫になってから……。
「……うーん」
私は、天を仰いで頭を抱える。
……いざ猫を迎える事を具体的に考えると、沢山の問題が出てくるものだ。
しかも、先程考えたのはこれでも一番順調にいったルートなのである。
実際に未来を迎えた時、私が就職活動でつまずくかもしれないし、仕事についていけず休職しているかもしれないし、猫と一緒に住める住居を見つけるのに難儀しているかもしれない。
そして……、面談で聞いた事も加味して、花守さんの方についても考えると……。
…………。
頭の中で考えながら、思う。
私は、アーニャと出会って猫カフェで働くようになって、以前よりも自信を持てるようになっていた。
だけど――、こうして考えていると、色々と自信が揺らいでしまう。
アーニャの事を考えて一緒に過ごして、アーニャは私と過ごす事を受け入れるようになってくれた。それが自信にも繋がっていた。
でも、いざアーニャの進退について考えていると、何が正しい事なのか決めきれないのだ。
アーニャを迎えるにあたって、経済面や自分の生活について気にせざるを得ない――アーニャの為に全てを投げうって尽くす事が出来ない自分にも嫌気がさす。
宗谷さんは、私に判断を任せると言ってくれたけど。
こんな私に、アーニャの事を決める権利はあるんだろうか。
猫に関する経験値が豊富な宗谷さんに任せた方が、ずっといいんじゃないか。
……でも。
私は考える。
今になって――かつて宗谷さんの言っていた事が、本当の意味で理解出来た気がする。
猫を保護して里親を見つけるというのは、一見曇りなく素晴らしい事のように思える。
だけど、それを達成するためには様々な困難があって、時には挫折する事もある。
宗谷さんはその負担もあって、当初猫の譲渡はしないようにしていたのだろう。
でも、私と一緒ならば乗り越えられるのだと、そう言ってくれた。
宗谷さんは私を信頼して言ってくれたのだ。
なら。
私がするべき事は――。
「…………」
長い時間が経った。
私は――スマホのチャットにある文面を打ち込む。
メッセージを送信すると、机の隅にスマホを置いた。
メッセージを送っただけだけど、ようやくやるべき事を果たした――という気持ちが湧いてくる。ずっと緊張状態だったのが落ち着いて、だからこそ疲労感が身体中を襲ってくるような……。
椅子にもたれてぼうっとしている私のもとに、突然電話のコール音が鳴り響いた。
私は驚いて身体を震わせつつ、スマホを手にした。
「もしもし……」
『舞空さんか?』
電話をかけてきたのは宗谷さんだった。
『さっき送ってくれたメッセージ、見たんだ。それで舞空さんは問題ないか、念のため最後に確認したくて』
「はい」
私は宗谷さんの質問に答える。
「メッセージの通りで間違いないです。私はアーニャを花守さんへのトライアルに出発させる事にしました」
猫カフェの定休日。
客が来ないこの日は、どの猫たちもまったりしている。昼下がりの陽だまりの中、日向ぼっこしている猫も沢山いる。
アーニャは、陽の当たらない方へとそろそろと歩いていっている。日差しを堪能するよりも、猫のいない場所を確保する方が重要だと考えているのだろう。
「アーニャ」
「なう」
私がアーニャに向けて指を差し出すと、アーニャは私の方へとすとすと歩み寄ってきて、顔をすりすりと擦り付け始めた。両手でアーニャを抱っこすると、ごろごろと喉を鳴らす。
そんなアーニャを、私は少しずつ、少しずつ運搬して……キャリーケースの中に仕舞いこみ。
私はアーニャ入りのキャリーケースを持って宗谷さんの運転する車に乗り込んだ。
「アオー、ウルアアアアアア」
「……アーニャ、ここにいるのは嫌だって言ってるみたいですね」
「基本的に猫が車に乗るのは病院に行く時だからな。前回避妊手術で行った時の記憶が蘇ってるんだろう」
アーニャは移動中にずっと鳴いて抗議していたが、私は心を無にしてアーニャに無反応を貫いた。
何も意地悪している訳ではない。実際問題として、私は助手席の人間として花守さんの住所の確認をしたり、花守さんに連絡を入れる必要があった。
アーニャの家族になる人にきちんと送り届ける必要があった。
やがて、花守兄妹の家に到着した。
「失礼します」
「お疲れ様です!」
「ここまで来ていただいてありがとうございました」
花守尊さんと雛さんが私達を迎えに来た。重い柵を開けて、私達は家の中にあがる。
私はトライアルに同行する事も初めてなので、素人に近い立場だ。主な説明は宗谷さんが担当した。
「まず、家の中の様子を見せて下さい。といっても、一部の場所だけで結構です。猫の脱出防止について確認させてください。先程玄関の柵は確認出来ましたので、窓の方をお願いします」
「こちらになります」
「これなら大丈夫そうですね。ありがとうございます」
宗谷さんは窓に近づいて頷き、そして花守さん達に向き直る。
「トライアル期間は二週間となります。ですがこの期間については多少前後しても構いません。少し長めに様子を見たいと思ったり、逆にもっと短い期間でも正式に迎えたいと考えが決まった場合、こちらに連絡して下さい。また、トライアル中に問題が起きて相談したい場合も連絡していただいて構いません」
「はい。ありがとうございます」
「あと……こちらは、お客様達から預かったものになります」
「え!……お兄ちゃん、見て。かわいいアーニャちゃんがいっぱい」
「本当だ。あ、こっちはおもちゃと……おやつも入ってる。いただいてしまっていいんですか?」
「カフェを訪れるお客様達は、アーニャが家の子になるのをお祝いしてくれていました。何か贈り物をしたいというお話を沢山貰ったので、花守さんに届ける事にしました。活用していただけたら幸いです」
私達が花守さんに渡したのは、アーニャのトライアルにあたって客が個人的に贈ってくれたプレゼントの数々だ。山崎さんからはアーニャの写真集を、天路さんはアーニャのお気に入りの猫じゃらしを、他にも様々なお客様からグッズやおやつを貰っている。
お客様から色々なものを預かるに当たって、かつて私が学校を卒業した際にプレゼントを貰った時を思い出した。花守さんにお客様からの気持ちを渡す事が出来て、私はひとまずほっとする。
でも、一番に私が届けないといけないのは……。
「アーニャ、ほら。新しいお家だよ」
私はキャリーケースを開けて、アーニャの名前を呼ぶ。
アーニャは出て来ない。
普段住んでいる場所と環境が変わったから警戒しているのだろう。
「アーニャ、おいで」
「みう」
私は、おやつで誘導しながらアーニャをキャリーケースから出した。
見慣れない場所に着いたアーニャは耳を真一文字にして身体を固くしている。だが、あるものを見つけて少し落ち着いたようだった。いつもカフェで使っているアーニャのトイレだ。
私はアーニャを抱き上げて、猫用トイレの猫砂にアーニャの足を触れさせる。これでトイレの場所は覚えてくれる筈だ。
後は、花守さん達に対応を任せなければいけない。
私はアーニャから手を離して、距離を取ろうとした。
「みゃう」
「……アーニャ」
「みゃあ!」
だが、私の計画は失敗した。
アーニャは私の手に二本の前足で抱きついて、動こうとしない。
ここにはいたくない、一緒にカフェに帰ると、そう言っているみたいだ。
――私は、失敗したのかもしれない。
心の中でそう考えた。
家でもカフェでもあんなに悩んで結論を出したのに、アーニャの姿を見ると後悔がどっと押し寄せてくる。
私は、アーニャに言葉を伝える事が出来ない。
さようならも言えないし、ずっとあなたを忘れないと伝える事も出来ないのだ。
保護猫を取り巻く環境について聞いたとき、動物に対して酷い扱いをできる人間もいるものなのだなと思った。
でも、今の私は他の人の事を糾弾できるような立場にないかもしれない――そう思う。
アーニャからすれば、置いてけぼりにされるのと何も変わりないだろうから。
アーニャを見つめながら、私は花守さん達に聞く。
「花守さん……」
「はい」
「最後にちょっとだけ、少しだけアーニャと過ごさせて貰ってもいいですか」
「わかりました」
「いくらでも待ちます」
二人は頷いた。
それを受けて、私はアーニャの方に向き直る。
私の片手はアーニャにぴったりと抱きつかれている。もう片方の手はフリーだ。
その手をアーニャに伸ばし、アーニャの眉間から背中にかけて、そしてお腹をすりすりと指先で撫でた。
「みう……」
アーニャは私の接触により、目を瞑る。やがて、ごろごろと喉を鳴らし始めた。
リラックスしたように身体を伸ばすアーニャは、目を瞑ったまま脱力している。眠ってしまったのだ。
私は、眠るアーニャをゆっくりと近くのクッションに置いた。静かに手を離すと、アーニャはそのまま動かなかった。普段どおりに撫でてもらえたから安心して眠ってしまって、私が離れた事に気づいていないのだ。
私の心の中に、様々な感情が渦巻く。
自分が今までアーニャのためにベストな選択を出来ていたのかわからない。
大学の試験など程々にして、もっとアーニャとの思い出を作っていればよかったのかもしれない。アーニャにとっては、今まで通りカフェで過ごした方が幸せなのかもしれない。
アーニャと別れたら、私は後悔するだろう。
でも――きっと、アーニャを引き渡さないと言ったとしても、私は後悔するのだ。
花守さん達はアーニャの事を真剣に考えてくれたのに、私の一存でアーニャを渡すのを拒否してしまう事。
アーニャにとってはより良い環境で過ごせるかもしれないのに、その可能性を閉ざしてしまう事。
私はずっと、花守さん達にアーニャを引き渡していいものなのか、迷っていた。
花守さん達が悪い人かもしれないから、ではない。
花守さん達がいい人達だから、アーニャが戻ってこなくなるであろう事が寂しい――と、無意識下で思っていたのだろう。
実際に家に訪問して思う。花守さん達はアーニャのために自宅を改装して、自分達に寄って来ないアーニャを目の当たりにしても暖かく笑ってくれている。
アーニャと別れるのは、寂しい。
でも、この人達にアーニャを送ってあげたい、とも思う。
私は昔から、何かに迷う事の多い人間だった。猫カフェで充実した日々を過ごせた今も、それは変わらない。
だけど――きっと、迷う事はそんなに悪い事では無いんだ。
これだけは蔑ろにしたくないと思う事があるから、私は迷った。
そして、何が大切なのか長い時間をかけて向き合う事が出来た。
私にとって大切なのは、アーニャが穏やかに日々を過ごせるようになる事。
その為には――他に猫がおらず、アーニャを第一に大切にしてくれる、この家がふさわしい。
私は花守さん達に向き直り、そして口を開く。
「花守さん。アーニャは……」
「はい」
「性格がとげとげしている所があるように見えるかもしれないですけれど……、寂しがり屋で怖がりで、だから他の猫を攻撃しちゃう子で……慣れたらすごく甘えてくれる。本当は愛情深い子なんです。家族になる人の事も、きっと沢山愛してくれます」
「――はい」
「一緒に過ごす中で、色々な事があると思いますが……見守って貰えたら、私はとても嬉しいです。アーニャをどうかよろしくお願いします」
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