君たちが贈る明日へ

天野 星

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最終章 逃避行の終末

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 『両生類の進化』を始めた当初。俺の精神は不安定だった。
 数少ない友人にも教師にも見捨てられ、親にも裏切られた。
 順風満帆に歩んできた道は、クラスメイトという赤の他人によって曲げられた。
 引きこもり、自殺未遂という暴挙に出て、恥を晒した。
 行きたくもなかった精神科の門を叩いたときには既に始まっていたのかもしれない。
 悠斗がずっと言っていたこと。
 対極の存在。
 答えは俺の中にある。
 そして、悠斗が存在する意味は――。

『生きていたい』
『生きてほしい』

 ただ、それだけだった。

 夢の中で見ていた悠斗は俺。正確にはずっと戒斗だったのだ。
 全てに絶望し、誰にも吐露することができなかった思いを知ってほしくて開設した『両生類の進化』はまさしく『両生類』だった。
 俺はずっと今宮戒斗という存在を騙し続けてきたのだ。歪んだ心から始まったことが、最終的に悠斗という人格を創り出した。
 意味のわからなかったメッセージに託された願いは俺に宛てたものではない。
 俺が『俺に』宛てた願いだった。
 人肌を求めていたのも俺。母と一緒に病院に行くことを決めたのも俺。

『君は本当に『戒斗』なのか? そして僕は……俺は本当に『ユウト』だと思う? いつまでも見ないふりができる真実はないんだ。
 君が。いや。俺が吐いたは『生きるために必要な嘘なのか。それとも――死ぬために必要な嘘だったのか』

 全てはここに集約されていた。
 俺は逃げたくて自死を図った。死にたかったからそうした。そこまでは単純だった。
 ただ、隠された悲鳴に気づいてほしかった。
 死にたい戒斗の対極である生きたい悠斗。
 俺は、俺の信じる理想の自分を演じていただけ。
 そう、ブログを始める前からどこか深いところで夢想し続けた毎日。だけど、日の当たる場所では生きていけないから、夜を彷徨うことしかできなかった。にも拘わらず意思の弱い俺は、仮の姿を借りて日の下へと繰り出すこともあった。
 もう一人の自分を演じ始めた当初は、まだ『悠斗』を演じていると認識できていたし、自分との区別もできていた。髪を染めるという挑戦も、両親や主治医を欺くことに一役買うことになってしまったけれど。普段の俺とは違う人間になることが優先だった。
 両親さえも気づかない。主治医でさえも戒斗が演じているとは気づかなかった。結果としてつけられた病名が、解離性同一性障害。
 俺にとっては都合がよかった。
 二人の人間の人生を生きることによって、辛い現実から逃げられたような気になっていたから。
 死にたいけれど死ねなかった俺は、ひたすら真っ直ぐ生きたいと願いながら悠斗を演じ続けた。
 誰もいない暗闇でこそ深く息ができる。
 間違った生き方でも、俺にとっては正しいこと。
 悠斗といるときの両親は少しだけぎこちなかったが、少なくとも戒斗といるときよりは心を開いている気がした。
 そうして二人の人間を演じ続け、自分をも騙し続けるうちに、ふとしたきっかけで俺は悠斗であることを忘れてしまう。
 今では思い出せないほど些細なこと。泡沫が弾けた瞬間に、悠斗は別の人格として生まれ変わり、存在意義が〝生きたい〟ではなく〝生きてほしい〟に変わった。。
 ずっと夢で叫んでいたのは『悠斗というもう一人の自分に気づいて』ではなく、
『戒斗という存在を忘れないで』という想いだったのだ。
 悠斗が存在した意味は俺を生かすこと。
 乗っ取ることができないのも、自分の意思で表に出てこないのも全て。俺が演じていたから。
 悠斗という別人格として生まれ変わっても、根底にあるものは同じだったのだろう。最初から最後まで俺は半端者だった。
 公園で俺が閃いたことは、俺の意思で俺の人格を消すこと。そうして辛いもの全てを悠斗に押しつけて、俺は死ぬはずだった。
 でも、思い出してしまった。
 悠斗はどこにも存在しない現実に。
 最後にブログに書いたメッセージの意味は伝わっただろうか。
 扉の向こう側が騒がしい。
 俺がバタバタと階段を駆け上がったことで両親が起きてきたのだろう。きっとまたよからぬことをしていると思って、慌てて見にきたに違いない。
 扉をノックする音が室内に反響する。

「戒斗。どうした? 何かあったのか?」

 父の焦った声。

「外に出てたの? 戒斗、ここを開けて?」

 安否を気遣う母の声。
 果たして今の俺はどちらの『存在』なのか。
 ねえ、今のお前には何が見える?
 鍵を開けて二人を招き入れた。

「お父さんもお母さんも心配しなくても大丈夫だよ? 俺はこの通り元気だから」

 悠斗のときの俺は『お』をつけて両親を呼んでいたが、一人称は『僕』だ。
 果たしてこの違いに二人は気づくのか。いや、気づいてくれるのか。
 これは最後の賭けだった。
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