君たちが贈る明日へ

天野 星

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第三章 二重の世界

2-2

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 三度目にもなると慣れたもので。規則正しい生活に栄養バランスが考えられた食事。それ以外は自由な時間。同じ穴の狢を生きる人間のみで構成された世界では、簡単に息ができた。母に監視されている家とは違う解放された空間。何よりも、私以上に具合の悪い人を見ると心が軽くなった。
 そのせいもあってか、入院中だけはブログを更新する気にはなれなかった。

「絵美ちゃん?」

 休憩室の椅子に座って紅茶を飲んでいると、前から小走りで駆けてくる女性を認めた。目を凝らしてみると、二度目の入院で仲良くなった患者さんだった。
柿沢かきざわさん」

 手を振って小太りの女性の名前を呼ぶ。

「絵美ちゃん、久しぶりね」
「柿沢さんこそ、お久しぶりです」

 空いている目の前の席を勧め、互いの近況について報告をする。深いところまでは踏み込まないのが、ここでの暗黙のルールだ。
 当たり障りのない範囲で病状や愚痴を話し、あっという間に時間は過ぎていった。

「また怒られるし、何よりこれ以上心配かけたくなくて、黙っていたことはそんなにも悪いことなんですか?」

 入院の決め手となった出来事で、納得できなかった部分ついて訊いてみた。
 柿沢さんには私と同じ年の息子さんがいる。母親の立場からの意見を訊きたかった。

「そうねえ。絵美ちゃんがそう思うことは悪くないわよ。でもね、もしも息子が同じことをしていたら、きっと絵美ちゃんのお母さんと同じように怒っていたわ」
「黙っていて悪化した挙げ句に入院したことをですか?」
「違うわ。どうして何も言ってくれなかったのかってことよ。親なんだから子どもを心配するのは当然のことでしょう? それとね、気づけなかった自分が一番許せないかな。そういう複雑な気持ちをどうにもできなくて、ついカッとなって怒鳴ってしまったんじゃないかしら」
「そうなることがわかっていたから黙っていたことが、余計に母を苦しめてしまったということですか……」

 膝上で組んでいた手に力が入る。

「絵美ちゃんは悪くないのよ。ただ、もう少しお母さんのことを信じてあげたらどうかしら。立派な大人なんだから、あなた一人支えるくらいどうってことないわ。それよりも、子どもに気を遣わせていることのほうが、お母さんにとっては辛いことだと思うの」

 最後に「自分を責めちゃ駄目よ」と言い残すと、病室へと帰っていった。
 柿沢さんと話した後、無性に母の声が聞きたくなって、フロアに一台しかない公衆電話に向かった。
 離れて数日しか経っていないのにひどく懐かしい声に甘えたくなって、明日見舞いに来て欲しいとお願いした。

 翌日の昼食後にやってきた母は疲れた顔をしていて。父と喧嘩でもしたのかと訊ねても「大丈夫」だとしか言ってくれない母に苛立ちが募る。
 何も出来ないことが悔しくて、惨めで、せっかく持ってきてくれたプリンも口にできない。
 終始ギクシャクとした面会は「用事がある」という母の一言で早々に終わりを告げた。
 ロビーで会った柿沢さんに面会の様子を話していると、次々と涙が溢れてきて、夕食の時間までずっと頭や背中を撫でてもらっていた。
 一ヶ月間の入院生活で父が見舞いにきたのはたった一度だけ。あの日以来、母も滅多に顔を出さなくなり、私から連絡をすることもなかった。
 入院中、約束通りに戒斗が見舞いにきてくれたときは嬉しかった。有名店の期間限定シュークリームを手に顔を出した戒斗の雰囲気が以前とは変わっていた。

『初めて先生ときちんと話した気がする』

 照れくさそうに頭を掻きながら話す戒斗の笑顔はとても眩しくて。
 少しずつ変わろうとしていることに、喜びだけではない感情が渦巻いていたことは誰にも言えない。
 その日、初めてブログを更新したいと思った。
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