君たちが贈る明日へ

天野 星

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第七章 両生類は夜を知る

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 今日は診察日だ。昨日の夜、母から電話があった。父と一緒に診察に同席するという。
 俺のことになど興味がないといった姿勢を貫き、意味のわからないところで父親面をしていた血縁関係だけの人。そんな人が診察に同行する。戸惑って言葉に詰まった俺の〝無言〟を肯定と捉えた母の「――よろしく」だけが今も耳に残っている。
 絵美と話をしてからの数日間、特に変わったことはなかった。スマートフォンを使って『解離性遁走』という症状を調べてみたが、納得がいくようでどこか引っかかりを覚えた。
 日常生活から逃げ出したいのに、母と一緒に行動を共にする。そんな矛盾があるのだろうか。
 医学が進歩し、多くの病が不治の病ではなくなってきている昨今。精神世界に特化した医者がいるにも拘わらず、未だ全容解明されていないものが人間であり精神世界なのだろう。
 普段の俺なら考えもしないことをずっと考えていたので眠りは浅くなっていた。
 現実と夢の境界線を越えて、夢に足を踏み入れるたびに現れる顔なし男。
 耳のない俺には何も伝わらないのに必死で叫び続ける虚しいのっぺらぼう。
 夢ですら半透明な哀れな存在。
 伸ばされた腕を叩き落とす。
 同じことを繰り返しても諦めない俺に似ている哀れな人間。
 臆病な俺は答えを知っているのに、知らないふりをしている。
 まざまざと弱さを見せつけられて、真っ向から受け入れられる人がどれほどいるのか。
 簡単なこともわからない、愚かな人間もどきが鬱陶しくて。

 お前なんか消えればいい――。

 誰に向けて言い放ったのか。本当はわかっている。
 診察当日。父が同席することに嫌悪感を抱きながらも、通い慣れた廊下を進んで診察室の扉を開けた。
 後から入ってきた両親に気づいた主治医が、後ろの丸いすに腰掛けた二人に会釈をした。

「こんにちは。調子はどうだい」
「少しだけ眠りが浅いです。それよりも、今日は先生に訊きたいことがあります」
「それはご両親が聞いても問題のないことかな」
「俺の都合も訊かずに来たんですから、何かしら意味があるんでしょう。さして問題はありません」
「わかりました。それでは聞かせてもらえますか」

 俺は今まで感じていた違和感や、絵美と相談していた内容を全て話した。息次ぐ間もなく話す俺を止めもせずにじっと聞いている主治医。
 後ろにいる両親の表情は見えないが、渋い顔をしているであろうことは想像に難くない。俺が言っていることは、両親にとって都合の悪いことだろうから。

「先生。俺は解離性遁走という病気なんですか? 十三日に、俺の友人がこの病院で俺とよく似た奴と、母さんらしき女性を見たと言ってます。それと以前から話していたこと。違和感。両親のよそよそしい態度。全部繋ぎ合わせると、その答えに行き着くんです。でも」
「でも。なんだい?」
「俺なりに調べてみたんですが、どうにもしっくりこなくて。それで、色々と思い出しながら考えてみたんです。そしたら、一つの可能性に行き着きました」
「…………」

 誰も話さない。最後まで話し終えてから反論しようと思っているのか。

「多重人格。解離性同一性障害じゃありませんか?」

 これが俺の答えだ。今まで考えもしなかった病気。背中に感じる二つの空気が全てを物語っていた。
 一瞬詰まった母の声。表情にこそ出ていないが、主治医の微妙な変化は俺の中の最悪の答えを肯定するには十分だった。

「先生。本当のことを教えて下さい。俺は何の病気ですか」

 我慢できなくなったのだろう。母の噎び泣く声がする。父が主治医の名を呼んだ。

「橘先生。これ以上はもう……」
「父さんもこう言ってます」
「わかりました。君は何から知りたいんだね」

 諦めたような。いや、最初からこうなることがわかっていたように、主治医の態度は終始落ち着いていた。

「俺の言ったことは、どこまで当たっていますか?」
「まず、解離性遁走という病気ではないよ。君が言ったとおり。解離性同一性障害だ。簡単に言うと多重人格。君が話してくれた違和感は、もう一人の人格が行っていたことだよ」
「二人ともいつから知ってたんですか」
「もう一人の人格が出てきて少ししてからかな。君に話さなかったのはタイミングを伺っていたんだ。本来であれば早々にカウンセリングや、病状に見合った投薬治療をしなければならなかったんだけどね。戒斗君。君の場合は違ったんだよ。だから今日まで話さなかった」
「で、その結果がこれですか? 今までずっと俺のことを皆で騙していたってことですか?」
「違う。皆、君が気づいてくれることを願っていたんだ。騙していたつもりはないが、君からすればそう思っても仕方がない。すまなかった」

 白髪交じりの頭を下げる主治医を見て、俺は何も感じることができなかった。ただ、言われたことを聞き流す。それだけしかできない。

「父さんも母さんも、ずっと騙してたんだ。やっぱり俺が聞いたことは、聞き間違いじゃなかった」

 椅子を回転させて両親と向き合う。

「聞いたこと? 戒斗、それはどういうことなの?」
「あんたが服をくれた夜。夜中に水飲みにリビングに行こうとしたら、二人の話し声が聞こえてきたんだよ。上手く説明できたかしらとかなんとか。そのときは知らないふりしたけど、あんたらの様子が変だったからずっと気になってたんだ。やっぱり俺じゃなくて別人から聞いたんじゃないか。何が俺から聞いた、だ。全部、全部嘘じゃないか!」

 椅子から立ち上がって右手を振り上げたところで父と主治医に制止された。ぶっ飛んだ視界に映った世界は、ユラユラと滲む母の顔と濁った父の顔。

「戒斗君。落ち着いて」

 力尽くで押さえつけられて椅子に戻される。

「落ち着いてられるか! 俺の、俺の知らないところで他人が俺の生活領域に踏み込んでたんだぞ! 信じてた医者にも嘘つかれて、一番の味方であるべき両親にまで騙され続けて! 俺の話を聞いて皆で嘲笑ってたんだろう!」

 止めどなく溢れ出る涙は俺が流したものなのか。それとも、もう一人の俺なのか。自分さえ信じられなくて。ひたすら泣き叫び続けた。
 今宮戒斗は死んでいた。
 そう言われた気がした。
 ただ、それだけだった。
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