黒い花

島倉大大主

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第二章:田沢京子

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「どうも、こんにちは」
 玄関に現れたのは大男だった。広い肩幅に厚い胸板。まるでレスラーだな、と中村は思った。男の裏から神経質そうな伊藤がひょいと顔を覗かせる。
「中さん、あの、あれです。電話のあれ」
「ああ、わかってる。中村です。どうぞ、こっちに来て現場を見てださい」
 男は頷くと、懐から警察手帳を出した。
野町のまちです。こういうのを専門に走り回ってます」
 中村は何度か頷くと先に立って階段を登り始めた。

 公安機動捜査隊特殊管理産業廃棄物処理班。通称、公機捜特。『お化けが出たら署長に言ってみろ、笑われて、馬鹿にされて、それから連中がくる』。そんな話を一昨年くらいから誰ともなく噂するようになった。中村も他の署員同様、頭の片隅のそのまた隅にちょろりと覚えている程度であった――少し前までは。

 半年ほど前、岡山に住んでいる友人から一本の電話があった。
 彼は高校時代、中村と空手部でバシバシやった仲で、同じ警察官同士でもあり、今でも交友が続いていた。腕っぷしと突進力を恐れた後輩からつけられたあだ名は、ヒグマ戦車。ウルトラセブンの恐竜戦車みたいだ、と部活帰りに本人はカレーライスの大盛りをがつがつ食いながら喜んでいたものだった。
 そんな男がかなり弱々しい声で電話の向こうで喋っている。病気か、と中村は考え、途端に気分が重くなった。同年齢の、しかも健康体の見本のような男が……。
「おい、平気か? 風邪でもひいたか?」
 しかし、耳を澄ますと何か話し声のようなものが聞こえる。女性? いや、大勢の声のような気がする。後ろでテレビがついているのだろうか?
「いや、風邪なんて高校の時の嘘滝修行以来ひいてねえよ。あれは金玉まで冷えちまったから、流石の俺でもダメだった」
 中村はいつも通りの軽口に安堵の溜息をついた。
「なんだ、そうなのか。俺はてっきり……しかし懐かしいな。あの時の滝は冷たかった!」
「はは……で、ムラ、俺が凹んでる理由、聞きたいか?」
 嫌な予感がした。
 健康診断か。まさか煙草の吸い過ぎで……。聞きたくない、そう言う前にヒグマ戦車は喋り出していた。
「実は幽霊を初めて見た」
「……なんだあ!?」
 あまりに唐突だったので、中村の声はひっくり返った。ヒグマ戦車は軽く笑った。
「なんて声出しやがるんだ。まあ聞けよ。殺しがあったんだ。マンションの一室で女が殺されて、同棲してた男が犯人で自首した。だが自首した理由がな、反省とか後悔とかそういうんじゃねえんだよ。女が死んで遺体が見つかるまで一週間あった。女は近所と交流が無かったから、下手したら長期間発覚しない可能性まであった。自首した場所も北海道だ」
「そりゃまた、ずいぶん遠くまで――」
「男がこっちまで移送されてきて驚いたよ。容貌がまるで別人になってやがった」
「整形か? 一週間で?」
「プチ整形ならいけるがね。まあ聞けよ。奴さん体重が半分くらいになって、片目が潰れてた。髪の毛もばさばさで、背中も曲がっちまってな、歯も半分くらい抜けてたよ」
「それは……その、病気――いや、ドラッグか?」
「……俺はあれが移送されてきた時、非番でな、突然呼び出されて、頼むからお前が調書を取ってくれって色々な人間に言われた。俺は担当じゃないのにな。なんでだと思う?」
「うーん、ホシが凶暴ってわけでもないよな、さっきの話だと」
「ボロボロのフラフラだったよ。いや、まあ、その、なんだ……ムラ、俺が今から言うこと聞いても、俺の頭がどうこうとか思うなよ。俺は『一応』正気だからな」
「……ああ。早く言えよ」
「うん……取調室に入ったらさ、いるんだよ」
「何が……おい、まさか幽霊とか言うなよ」
「いるんだよ。男の肩を両手で鷲掴みにして、おおがっそ……ぐちゃぐちゃな髪で物凄い顔した女が後ろにいるんだよ。俺は吃驚しちまって、うわっとか叫んだら、男が助けてくれ、こいつが痛い事をするって泣くんだよ。俺はそのまましばらく突っ立てたら、気持ちの悪い音がして男が悲鳴を上げるんだ。女が男の頭に噛みついて髪の毛を噛み毟ってる。ぶちぶちって音がして、俺は思わず駆け寄って『よせよせ! もういいだろう』なんて言っちまった。そしたら――」
「待て待て待て!」
 中村は段々と速くなるヒグマ戦車の言葉を遮って大声を上げた。
「お、お前、一体何の話をしてるんだ?」
 電話の向こうから擦れた笑い声が聞こえた。
「……やっぱりかあ。まあ、そういう反応するんじゃないかと思ってたよ。どうする、もっと聞きたいか?」
「いや、その……だって、お前――」
「勝手に話すぞ。詳細は後で酒の席で話してやるが、つづめて言うと、俺はその女に憑りつかれちまった。家についてきやがった。その夜は酷かったよ。風呂場に長い髪の毛が浮いてるのから始まってフルコースさ。金縛りにあうわ、首絞められるわ、しまいには天井を這いまわる女の姿を見ちまってさ、もう生まれて初めて怖くて泣いちまったよ。そうこうするうちに朝になったが、仕事を休むわけにはいかん。で、いつも通り署に行くと、みんなげっそりしてる。まさか、と思って聞いたらみんな家に女が出たと言うんだな。ちなみに捕まった男は前の夜に入院しちまったが、朝に死んでたそうだ」
 淡々と電話口から聞こえてくるヒグマ戦車の声。
 中村はなんとか声を絞り出す。
「……その、もしかして、お寺とか神社さんを呼んだのか?」
「いや、来てくれなかった。署長の伝手で色々頼んだらしいが、うちでは無理だとどこでもね。強引に頼もうとしたら、今電話口で来たら殺すと女が喚いているっていうんだな」
 電話口で。
 女が喚いている。
 ……今みたいにか。
「じゃ、じゃあ、どうしたんだよ。その、まだそのままなのか?」
「いや、解決したよ。今、俺んちから電話してる。ここ二日寝てなかったうえに、今ビール飲んでるから、もう無茶苦茶だけどな。テレビうるさかったか?」
 中村はほっとして大声で笑った。
「なんだ、酔っぱらってるのかよ! わけのわからん話でお前、吃驚させんなよな」
 電話の向こうでヒグマ戦車も笑い声を上げた。
「ははは、引っかかったな! ところで良い店を見つけたんだ。今度、年末に大阪で会おうや。今日の話のお詫びに一杯奢るよ」
「一杯しか奢らんのか!」
 中村は更に笑い語を上げながら、額の汗をぬぐった。
「いや、しかしお前に怪談の才能があったとは、変な小細工を――」
「そういや、オチを話してなかったな。坊主もダメ神主もダメ、しかも昼間だってのに暗がりを見ればあの女が壁を掻き毟って笑ってる。パトロールに行った奴等から後部座席に女が座ってると無線が入る。ほとほと弱っちまってたら連中が来た。お前も聞いたことがあるだろう? 公機捜特」
 中村は答えられなかった。頭の片隅にあった小さな欠片、それが突如立ち上がる。つられて聞き流していた様々な怪しげな噂が記憶の隙間から這いだしてくる。
「どうやら署長が呼んだらしい。で、聞いた話だと連中は殺害現場の例のマンションに行った。そこで何があったのかは知らんが、女は夕方にはぱったり出なくなった。署長にしつこく聞いたんだがね、何でも下の階にとんでもない箱があって、それを回収した、とか。
 え? どんな箱かって? なんか呪いだか祟りだかがびっちりと詰まった木箱だとさ。おっかないよなあ。
 え? 今? とりあえずは収まったが、まだ小さな『後遺症』みたいな事が起きるかもしれないが、そのうち収まるだろうから、酒でも飲んで耐えてくれ、だそうだ。
 ま、そんな感じだ。さて、遅くなっちまったな。じゃあ、またな」
 声も出せず、口を半開きにしたままずっと無言だった中村の耳に、誰かの甲高い笑い声が響き、ぶつりと電話が突然切れた。

 中村は以来、ヒグマ戦車とは連絡を取っていない。電話をかけよう、メールをしようと一瞬考えるが、それだけで行動に移せない。
 そして、あの電話の怪談以来、耳に入る公機捜特の噂は素通りできない強い力を持つようになっていた。
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