「ふるさと秋田」短編集

モンキー書房

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01『黒沼あい話』(2016)

01:鶴ヶ池

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 五月下旬。


 中学校の部活動が終わって、オレは校舎脇にある駐輪場へ向かった。
 自転車のカゴにカバンを放り込むと、駆け出しながらペダルに片足をかける。


 時刻は午後六時半を回っていた。


 歩いて帰路につく集団を何組か追い越す。
 そのまま学校の敷地を出て、周りが緑に囲まれた道路を疾走した。


 秋田県横手市の中でも、オレの住む地域は約九十パーセントが山野で、豊かな自然に恵まれた土地が広がっている。
 右側を向くと一瞬、木々の隙間から最寄駅が、距離があったため小さく見えた。
 この地域の中でも、この辺りは駅や小中学校などもあり、比較的建物が密集している印象がある。


 前方には「鶴ヶ池つるがいけ」と呼ばれる池が見えてきた。
 オレはそれをよけるように左折して、ほとりに沿って自転車を進ませる。
 水面にははすの葉が浮かんでいるが、見頃は先なのか花は咲いていなかった。


 まだ左側は学校の敷地内で、プールとグラウンドが間近に見える。
 部活終了時刻はとっくに過ぎていたが、何人かの生徒が残っているようだった。
 野球部員が、荒れたグラウンドをトンボでならし、散らばったボールを拾ってあと片づけしている。
 練習中に飛ばしたボールが鶴ヶ池に落ちることがあるらしい、ということを野球部員から聞いたことがあった。
 いったい鶴ヶ池の中には、何個のボールが沈んでいるのか、それは地元の人にもわからない。


 そこから少しして、鶴ヶ池のほとりにある、ちょっとした公園が見えてくる。
 グラウンドは森の陰に隠れ、校舎は完全に見えなくなった。


 無造作に置かれた岩に混じって、村立百周年の記念に建てられた石碑や、台座の上に建てられた忠魂碑などもある。
 東屋の奥には「鶴ヶ池」の名前の由来になっている、二羽の鶴の銅像が静かに佇んでいた。


 そんないつもの風景を何気なく眺めていたが、公園の一番端に差しかかったとき、オレは自転車を漕いでいた足を止めた。
菅江真澄すがえますみの道」と書かれた木製の標柱の奥に、池に面して据えられたベンチがある。
 その近くには白いワンピースを着た少女が、ひとり立っていたのだ。


 おそらく年齢は、オレと同学年か少し上なくらいだろう。その少女は、この辺りでは見かけない顔だった。
 住民みんな知り合い、というほど小さな村ではないが、小中学校はひとつしかないので、相当な理由がない限り大抵は同じところに通う。
 だから、この地域の子なら、どこかしらで会っているはずだ。


 肩甲骨まで伸びた黒髪がつややかにきらめき、鶴ヶ池の彼方かなたを眺める物憂ものうげな横顔に、思わず見惚みとれてしまう。
 前方から近づいてくる車に気づかず、オレは慌てて道路端に寄った。


 そして、車が通り過ぎていったとき、すぐに異変に気づいた。
 倒れ込んでいた彼女の姿を視界に捉え、とっさにオレは自転車をその場に投げ捨て、彼女のもとに駆け寄る。


「だ、大丈夫ですか?」


 彼女に近づいて声をかける。どうしよう。誰か助けを呼ぶべきか。


 地面に突っ伏した状態の彼女の身体は、小刻みに震え、なにかを言いたげに口を動かしていた。
 そんな彼女の顔を改めて見ると、オレは妙な違和感を覚える。


 水滴が長い髪の先から滴り落ち、頬に毛先がペタっとくっついていた。
 それだけではなく、まるで水の中にでも浸かっていたかのように、彼女は全身を濡らしている。
 髪が艶やかに見えたのは、水滴が反射していたからだったのか。


 それにしても、なぜこんなに濡れているのだろう。
 今日、雨は降っていなかったはずだ。
 まさかとは思うが、池にでも落ちたのか。


「お兄ちゃん? なにしてんの?」


 不意に、聞き覚えのある声が耳に届いて、オレは振り返る。
 そこにいたのは、まだランドセルを背負ったままの妹だった。
 なにをしているかだって? こっちが訊きたい。


 鶴ヶ池を挟んだ中学校の向かい側に、妹の通う小学校がある。
 ひょっこり顔を覗かせてもおかしくはないが、ここは家と逆方向のはずだ。
 日没間近のこんな時間に、いったいなにをしているんだ。


「ああ!」


 なにごとかと思った。
 いきなり大声を発すると、妹はずんずんと歩み出て、足元に横たわる彼女に視線を注ぐ。
 それから、オレの顔とを交互に見て、大仰なほど口をわなわな震わせると、ひとこと言った。


「自首して」


 なんでだ。


 どう説明しようか思案している最中、微かに声を聞き取った。


「……まん……かへ……けね……」


「え?」


 オレと妹は、彼女の口元に耳を寄せる。


まま……へで……けねっすが……」


 いまどきの若者にしては、珍しいほど訛りがひどかった。
 妹と顔を見合わせ、しばしの沈黙が訪れる。
 そのあと満面の笑みを浮かべた妹は、彼女に向かって元気よく頷いた。


「うん、いいよ!」そう言って、オレのほうを見やる。「うちに連れて行こうよ」


 はいはい。彼女をこのまま放置しておけないし、風邪でもひいたら大変だ。
 ふたりで彼女を支えながら起こし、近くのベンチに座らせる。


 救急車を呼ぶほどでもないとひと安心し、オレはケイタイを取り出して、母さんに電話することにした。


「なした?」


 何コールかしたのち電話口から、欠伸混じりの億劫そうな声色が聞こえる。
 ついさっきまで寝てたな、これは。


「いますぐ、迎えに来て」


 手短に場所を伝え、母さんが来るのを待った。
 指定通り車で来た母さんの肩を支えにして、彼女は後部座席に乗り込む。
 この際、座席が水浸しになることぐらいは目を瞑ろう、と母さんが申し出てくれた。


 妹も後部座席に押し込み、車を発進させる。
 バックミラーで見たとき、胸元がはだけそうになっていて、とっさにオレは目をそらした。
 ……胸元?
 ここでようやく、彼女が着ているのはワンピースではなく、薄い着物のようだということに気づく。


 家に着いて真っ先に、母さんは彼女を連れて、風呂場へと向かった。
 その間に妹は、奥のタンスから洋服を引っ張り出しに行く。


「これでいいかな」


 そう言って、昔に着ていた母さんの服を、脱衣所に持っていく。
 シャワーの音がしばらく響いていたあと、母さんは戻って来ると台所に立ち、夕飯の支度を始めた。


 それから十数分後、妹も手伝って料理が運ばれてくる。
 風呂上りで、少し上気した彼女が、ドアを開けて入ってきた。


「いい湯っこだったっす」


 湖で会ったときの蒼白な顔色とは違い、いまは火照った頬が白いブラウスとの対比で、より鮮やかなピンク色に染まっていた。


「いただきます!」


 母さんが運んできた食事に、彼女は箸をつける。
 そうとう腹が減っていたのか、無我夢中で頬張っていく。
 手を忙しなく動かす彼女を眺めながら、妹が名前を訊ねた。


 口をもぐもぐさせたまま、顔だけを妹のほうへと向ける。
 ポカンとした表情で、数秒の時間が流れたあと、彼女は首を横に振った。
 どういうこと?
 そう言いたげに小首を傾げて、妹はオレのほうに視線を寄越よこす。


「どこからきた?」


 今度はオレが質問した。
 この問いにも、彼女は数秒間考える素振りを見せて、ひとこと「わがらね」とだけ言った。


 さっきも彼女の声を聞いたが、顔どおりの透き通った声をしている。
 訛りも相まって、清楚な美少女さを際立たせていた。


「歳は? お兄ちゃんと同じくらい?」


おべでねぇ……」


 またしても、妹の質問に頭を振る。
 さすがの妹も不審がりだしたのか、怪訝な面持ちでオレのほうを見た。


「記憶……喪失、なの?」


 オレは、首を傾げることしかできない。
 困惑の表情は、オレや妹ばかりではなく、彼女も同様だった。
 その表情を見るに、とても彼女が、嘘をついているようにも思えない。


 そこで会話は途切れ、結局のところわからずじまいのまま、彼女は黙々と箸を動かし続けた。


 父さんも仕事から帰って来て、午後八時になる頃には、家族そろっての夕食が始まる。
 彼女は改まって、正座をしていた。


「あの……」


 なにかを言いたそうに、彼女が口ごもらせる。
 その言葉を遮って、母さんが優しく微笑んだ。


「どっかさ、行ぐ当てあるんだが?」
 母さんの言葉に、彼女は首を振った。
「へば、ウチさ泊まってけばがべ」


「え? したども……」


「んだな、それがいい」
 晩酌のコップを傾けながら、父さんはそう頷いた。
「知り合いのおまわりさ、行方不明者の連絡きてねがったか、かけあってみるがら」


 空のコップにビールを注ぎ、母さんは客間につながる襖を開ける。


「この部屋を使っでけれ」


 申し訳なさそうにはにかみ、彼女は頭をポリポリと掻いた。


申訳しがだねっす……」


 それからしばらくして、台所からは皿が擦れ合う音が響く。
 父さんが見ているテレビの音に紛れて、彼女がぼそりと呟いた声が辛うじて聞こえた。
 危うく聞き流すところだった。


「黒沼……」


「ん? 黒沼が、どうかした?」


 黒沼というと、ダムへ向かう道を進んだ先にある、水面が黒く底が見えない沼のことである。


「黒沼さ居だ。先程さぎったまで」


「そこから、どこに行った?」


「……」


 なにも答えず、ただ黙ってうつむいた。
 すると、なんの事情も知らない妹の、能天気なまでの明るい声が聞こえてくる。


「なんて名前がいいかな?」


 突然だな。オレは首を傾げて訊き返す。


「名前?」


「だって、自分の名前もわからないんじゃ、わたしたちは、なんて呼べばいいの?」


 オレは彼女をチラと見て「『ツル』っていうのは?」と、軽く提案する。


「ツル? まさかとは思うけど、鶴ヶ池から取ったんじゃないよね?」


「別にいいだろ。便宜上の呼び方だし」


「ツル……」彼女は何度か復唱したのち、満面の笑みを浮かべた。「うん、いい名前なめっこ」
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