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第20話 二つの笑顔
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商人たちがそそくさと屋敷を後にし、泣き叫んでいたイザベルとローザも自室に引きこもった。重たい扉が閉まる音を最後に、屋敷から人の気配がすっと消える。先ほどまでの怒号や悲鳴が嘘のように静けさが戻ってきた。
床には乱れたままの絨毯、踏み荒らされたドレスの裾、倒れた椅子。荒れた痕跡は残っているのに、空気だけは不思議なほど澄んでいる。まるで嵐がすべてを引きはがし、余計なものだけを連れ去っていった後のようだった。
少し殺風景で、どこか寂しいはずなのに心は驚くほど楽だった。私は深く息を吸い込み、その静寂を確かめるように、ゆっくりと吐き出した。
「……はあ。やっと、空気が普通になったわ。深呼吸ができるって、こんなに贅沢だったかしら」
そう呟いてから、改めて思う。この屋敷は、ようやく“正気の屋敷”に戻ったのだと実感できた。
私は執務室に戻ると、椅子に深く身を預けた。背もたれに体を沈めた瞬間、どっと疲れが押し寄せてくる。正直、さすがに消耗した。けれど、不快な疲れではない。やるべきことをやり切ったあとの心地よい疲労感だ。
エドガーは完全に無力化した。そして、イザベルとローザが頼りきっていた金の流れも、きれいに断ち切った。これで彼女たちは、この屋敷で生きていくためには、私に頭を下げるしかない。選択肢はもう残っていないと思う。
もっとも、すぐに反省するとは思っていない。一晩もすれば、また別の悪だくみを考え始めるだろう。そういう人間だということは、もう嫌というほど分かっている。だが、今の私には切り札がある。『契約』と『金』これ以上なく現実的で、これ以上なく強力な武器だ。
「戦いが終わった? いいえ、そんな生ぬるい話ではない。私はただ、主導権を完全に握っただけ」
首輪をつけ、鎖の長さを決め、逃げ場を丁寧に塞いだにすぎない。二人が策を弄するなら、何度でも受けて立つ。そのたびに、きっちり叩き潰してやるまでだ。私は小さく息を吐き、机の上の書類に視線を落とした。
しばらくして、私は小さく笑みを浮かべて姿勢を正した。イザベルとローザが、互いに責任を押しつけ合い、口汚く叫び合っていた光景が脳裏によみがえる。実に、いい顔をしていた。あの瞬間の二人に、鏡を差し出してやりたかったくらいだ。
外から見れば、家を守るために立ち上がった健気な娘。冷静で落ち着いていて情けを忘れない。誰の目にも、気高く慈悲深い聖女そのものに映るだろう。
もっともその聖女が、今後どれほど丁寧に、時間をかけて二人とエドガー様の首を絞めていくつもりかなど、誰も想像しないだろうけれど……。
(だってこれは“制裁”ではなく、しつけなのだから。矯正であり、教育であり、再発防止策だ)
私は、そう心の中で言い切り、唇に薄い笑みを浮かべた。罰は一度で終わらせるものではない。毎日、少しずつ。逃げ場がないと理解した瞬間からが、本当の始まりだ。
彼女たちはこれから、私の許可がなければ息をすることすら不安になる。感謝と恐怖を混ぜて与える。それが一番、よく効く。私は優しいからこそ、壊す順番を間違えない。
「安心なさい。命までは取らないわ。その代わり、生き方を一から覚え直してもらうだけ。逃げ道はあるわ……私の言うことを聞けば、ね」
壊すより、飼い慣らすほうが長く楽しめるでしょう?
「――お茶が入りました、お嬢様」
穏やかな声とともに、ジェラルドが新しい紅茶を運んできた。白磁のカップから立ちのぼる湯気と一緒に、ほのかに甘い香りが広がる。
「……ありがとう、ジェラルド。今日は長い一日だったわ」
「ええ。ですが、素晴らしい采配でした。亡き奥様も、草葉の陰で拍手喝采なさっていることでしょう」
私はそう言って、彼にだけは隠す必要のない素直な笑みを向ける。その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなり、張りつめていた何かがほどけていくのを感じた。味方がいる。それだけで、人はこんなにも楽になれるのだ。
「どうかしらね。母様は優しかったから、『可哀想なことをして』って叱られるかもしれないわ」
「いいえ。奥様は優しくあられましたが、同時に不正を最も嫌う方でした。お嬢様は、正しくその血を引いておられます」
ジェラルドの言葉に、胸の奥がやさしく満たされていく。
「それと、ご報告があります。先ほど、旦那様の意識が一時的に戻られました」
「えっ……!?」
私はカップを置いた。
床には乱れたままの絨毯、踏み荒らされたドレスの裾、倒れた椅子。荒れた痕跡は残っているのに、空気だけは不思議なほど澄んでいる。まるで嵐がすべてを引きはがし、余計なものだけを連れ去っていった後のようだった。
少し殺風景で、どこか寂しいはずなのに心は驚くほど楽だった。私は深く息を吸い込み、その静寂を確かめるように、ゆっくりと吐き出した。
「……はあ。やっと、空気が普通になったわ。深呼吸ができるって、こんなに贅沢だったかしら」
そう呟いてから、改めて思う。この屋敷は、ようやく“正気の屋敷”に戻ったのだと実感できた。
私は執務室に戻ると、椅子に深く身を預けた。背もたれに体を沈めた瞬間、どっと疲れが押し寄せてくる。正直、さすがに消耗した。けれど、不快な疲れではない。やるべきことをやり切ったあとの心地よい疲労感だ。
エドガーは完全に無力化した。そして、イザベルとローザが頼りきっていた金の流れも、きれいに断ち切った。これで彼女たちは、この屋敷で生きていくためには、私に頭を下げるしかない。選択肢はもう残っていないと思う。
もっとも、すぐに反省するとは思っていない。一晩もすれば、また別の悪だくみを考え始めるだろう。そういう人間だということは、もう嫌というほど分かっている。だが、今の私には切り札がある。『契約』と『金』これ以上なく現実的で、これ以上なく強力な武器だ。
「戦いが終わった? いいえ、そんな生ぬるい話ではない。私はただ、主導権を完全に握っただけ」
首輪をつけ、鎖の長さを決め、逃げ場を丁寧に塞いだにすぎない。二人が策を弄するなら、何度でも受けて立つ。そのたびに、きっちり叩き潰してやるまでだ。私は小さく息を吐き、机の上の書類に視線を落とした。
しばらくして、私は小さく笑みを浮かべて姿勢を正した。イザベルとローザが、互いに責任を押しつけ合い、口汚く叫び合っていた光景が脳裏によみがえる。実に、いい顔をしていた。あの瞬間の二人に、鏡を差し出してやりたかったくらいだ。
外から見れば、家を守るために立ち上がった健気な娘。冷静で落ち着いていて情けを忘れない。誰の目にも、気高く慈悲深い聖女そのものに映るだろう。
もっともその聖女が、今後どれほど丁寧に、時間をかけて二人とエドガー様の首を絞めていくつもりかなど、誰も想像しないだろうけれど……。
(だってこれは“制裁”ではなく、しつけなのだから。矯正であり、教育であり、再発防止策だ)
私は、そう心の中で言い切り、唇に薄い笑みを浮かべた。罰は一度で終わらせるものではない。毎日、少しずつ。逃げ場がないと理解した瞬間からが、本当の始まりだ。
彼女たちはこれから、私の許可がなければ息をすることすら不安になる。感謝と恐怖を混ぜて与える。それが一番、よく効く。私は優しいからこそ、壊す順番を間違えない。
「安心なさい。命までは取らないわ。その代わり、生き方を一から覚え直してもらうだけ。逃げ道はあるわ……私の言うことを聞けば、ね」
壊すより、飼い慣らすほうが長く楽しめるでしょう?
「――お茶が入りました、お嬢様」
穏やかな声とともに、ジェラルドが新しい紅茶を運んできた。白磁のカップから立ちのぼる湯気と一緒に、ほのかに甘い香りが広がる。
「……ありがとう、ジェラルド。今日は長い一日だったわ」
「ええ。ですが、素晴らしい采配でした。亡き奥様も、草葉の陰で拍手喝采なさっていることでしょう」
私はそう言って、彼にだけは隠す必要のない素直な笑みを向ける。その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなり、張りつめていた何かがほどけていくのを感じた。味方がいる。それだけで、人はこんなにも楽になれるのだ。
「どうかしらね。母様は優しかったから、『可哀想なことをして』って叱られるかもしれないわ」
「いいえ。奥様は優しくあられましたが、同時に不正を最も嫌う方でした。お嬢様は、正しくその血を引いておられます」
ジェラルドの言葉に、胸の奥がやさしく満たされていく。
「それと、ご報告があります。先ほど、旦那様の意識が一時的に戻られました」
「えっ……!?」
私はカップを置いた。
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