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第33話
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あの夜から、私の世界はすっかり様子を変えてしまった。
窓から差し込む陽の光も、侍女たちが淹れてくれる紅茶の香りも、庭に咲き誇る薔薇の姿も、すべてがどこか色を失って見える。心は、あの仮面舞踏会の夜に取り残されたまま。耳の奥には、まだ彼の低い声と、優雅なワルツの旋律が鳴り響いていた。
『君が仮面を脱げたときに、私も名を明かそう』
その言葉が、解けない呪いのように私を縛り付ける。
仮面を、脱ぐ。
それは一体、どういうことなのだろう。公爵令嬢という役割を捨て去ること? ありのままの自分でいること?
考えれば考えるほど、分からなくなる。そもそも、『ありのままの私』って、一体どんな人間なんだろう。臆病で、ひねくれていて、退屈しきっているだけの、空っぽな存在じゃないか。
「あらあら、アイラ。ずいぶんと魂が抜けたような顔しちゃって」
ぼんやりと窓の外を眺めていると、背後から姉のクラリスの楽しそうな声がした。振り返ると、モーニングドレス姿の姉が、面白そうに私を見ている。
「ひょっとして、あの舞踏会で何かあったのかしら? 素敵な殿方でも見つかった?」
「なっ……! そ、そんなわけないでしょう!」
図星を突かれて、思わず声が裏返る。私の分かりやすい反応に、姉はますます笑みを深めた。本当に、この姉には敵わない。
「まあ、いいわ。そんな心ここにあらずのあなたに、ちょうどいいお知らせがあるの」
「お知らせ?」
「ええ。三日後、王宮で外交団を歓迎する晩餐会が開かれるわ。セドリックも私も出席するのだけれど、あなたも一緒に来なさい」
「ええっ、私もですか? 私は別に……」
「『別に』じゃないの。バランシュナイル公爵家の令嬢として、顔を見せておくのも大事な務めよ。それに、家の中でだらだらしているより、よっぽど気分転換になるわ」
姉はそう言うと、『決定事項よ』とでも言うように、私の肩をポンと叩いた。
外交晩餐会。それはつまり、仮面のない、本物の社交の場。考えただけで、溜め息が出そうになる。あの息苦しい腹の探り合いが、また始まるのだ。
でも、心のどこかで、ほんの少しだけ、何かが動き出すのを感じていた。
万が一。ほんの、ほんの万が一でいい。
あの夜の彼が、もし、どこかの国の使節団の一員だったとしたら。
そんなあり得ない奇跡を、私はどこかで期待してしまっていたのだ。
そして、運命の三日後。
王宮の大広間は、シュヴァルツ辺境伯の邸宅とは比べ物にならないほど、高貴で、そして格式のある静けさに満ちていた。天井には歴史を物語るフレスコ画が描かれ、磨き上げられた床は鏡のように私たちの姿を映している。
様々な国の言葉が飛び交い、きらびやかなドレスや金糸をあしらった軍服に身を包んだ人々が、優雅に談笑している。私は姉とセドリックの少し後ろを歩きながら、相変わらずの居心地の悪さを感じていた。誰も彼もが、値踏みするような視線を向けてくる。ああ、やっぱり来るんじゃなかった。
そう思って、ふと視線を上げた、その瞬間だった。
人垣の向こう、少し離れた場所に立つ男と、目が合った。
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
嘘。そんな。
黒絹のような髪。すっと通った鼻筋。引き結ばれた唇。
仮面はない。けれど、間違えるはずがなかった。あの夜、月明かりの下で見た横顔と、寸分違わぬ姿。
そして何より、その瞳。
私を射抜く、鋭く、どこか切なさを感じさせる光。あの夜と同じ、瞳。
彼は、隣国の外交官らしき男と何かを話していたが、私の視線に気づくと、ぴたりと動きを止めた。時間が、止まったみたいだった。周囲の喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。
窓から差し込む陽の光も、侍女たちが淹れてくれる紅茶の香りも、庭に咲き誇る薔薇の姿も、すべてがどこか色を失って見える。心は、あの仮面舞踏会の夜に取り残されたまま。耳の奥には、まだ彼の低い声と、優雅なワルツの旋律が鳴り響いていた。
『君が仮面を脱げたときに、私も名を明かそう』
その言葉が、解けない呪いのように私を縛り付ける。
仮面を、脱ぐ。
それは一体、どういうことなのだろう。公爵令嬢という役割を捨て去ること? ありのままの自分でいること?
考えれば考えるほど、分からなくなる。そもそも、『ありのままの私』って、一体どんな人間なんだろう。臆病で、ひねくれていて、退屈しきっているだけの、空っぽな存在じゃないか。
「あらあら、アイラ。ずいぶんと魂が抜けたような顔しちゃって」
ぼんやりと窓の外を眺めていると、背後から姉のクラリスの楽しそうな声がした。振り返ると、モーニングドレス姿の姉が、面白そうに私を見ている。
「ひょっとして、あの舞踏会で何かあったのかしら? 素敵な殿方でも見つかった?」
「なっ……! そ、そんなわけないでしょう!」
図星を突かれて、思わず声が裏返る。私の分かりやすい反応に、姉はますます笑みを深めた。本当に、この姉には敵わない。
「まあ、いいわ。そんな心ここにあらずのあなたに、ちょうどいいお知らせがあるの」
「お知らせ?」
「ええ。三日後、王宮で外交団を歓迎する晩餐会が開かれるわ。セドリックも私も出席するのだけれど、あなたも一緒に来なさい」
「ええっ、私もですか? 私は別に……」
「『別に』じゃないの。バランシュナイル公爵家の令嬢として、顔を見せておくのも大事な務めよ。それに、家の中でだらだらしているより、よっぽど気分転換になるわ」
姉はそう言うと、『決定事項よ』とでも言うように、私の肩をポンと叩いた。
外交晩餐会。それはつまり、仮面のない、本物の社交の場。考えただけで、溜め息が出そうになる。あの息苦しい腹の探り合いが、また始まるのだ。
でも、心のどこかで、ほんの少しだけ、何かが動き出すのを感じていた。
万が一。ほんの、ほんの万が一でいい。
あの夜の彼が、もし、どこかの国の使節団の一員だったとしたら。
そんなあり得ない奇跡を、私はどこかで期待してしまっていたのだ。
そして、運命の三日後。
王宮の大広間は、シュヴァルツ辺境伯の邸宅とは比べ物にならないほど、高貴で、そして格式のある静けさに満ちていた。天井には歴史を物語るフレスコ画が描かれ、磨き上げられた床は鏡のように私たちの姿を映している。
様々な国の言葉が飛び交い、きらびやかなドレスや金糸をあしらった軍服に身を包んだ人々が、優雅に談笑している。私は姉とセドリックの少し後ろを歩きながら、相変わらずの居心地の悪さを感じていた。誰も彼もが、値踏みするような視線を向けてくる。ああ、やっぱり来るんじゃなかった。
そう思って、ふと視線を上げた、その瞬間だった。
人垣の向こう、少し離れた場所に立つ男と、目が合った。
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
嘘。そんな。
黒絹のような髪。すっと通った鼻筋。引き結ばれた唇。
仮面はない。けれど、間違えるはずがなかった。あの夜、月明かりの下で見た横顔と、寸分違わぬ姿。
そして何より、その瞳。
私を射抜く、鋭く、どこか切なさを感じさせる光。あの夜と同じ、瞳。
彼は、隣国の外交官らしき男と何かを話していたが、私の視線に気づくと、ぴたりと動きを止めた。時間が、止まったみたいだった。周囲の喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。
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