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第24話
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沈黙が、部屋の空気を凍らせたかのようだった。薪が弾けるたびに、小さな音が静けさの中に染み込み、やけに大きく響いて聞こえる。そしてその静けさを破るように、その人物が深く重みのある声で語り始めた。
「……なるほど、そう来たか」
獲物を前にした狩人のように、その声には抑えきれない楽しさがにじんでいた。
「あの愚かな孫には、一度、灸を据えてやる必要があると、思っていたところだ」
孫。その一言を聞いた瞬間、バラバラだった手がかりがひとつにつながり、私の中でぴたりと合わさった。目の前の人物の正体が、霧の中から姿を現すように、はっきりと見えた。
「よかろう。その茶番、私も一枚噛ませてもらおう。お前が事を起こす、その日。私も、法廷へ参上すると約束する」
「……! 本当、ですか」
「ああ。王家の長老として、腐りきった膿を、自らの手で出すのも、また一興」
まだどこか頼りなさに震えていた心に、しっかりと支えが差し出されたような感覚だった。その温かさと重みに、私は全身で応えるように、深く頭を下げることで想いを伝えた。
◇
日を追うごとに、王宮の空気は険悪さを帯び、言葉にできない重苦しさが広がっていった。人々の目には、不信と苛立ちが混じり合い、アーロンの名前が囁かれるたびに冷ややかな沈黙が降りた。彼はすべてを置き去りにし、カタリーナという名の幻想に取り憑かれたかのように我を忘れていたからだ。
「王子殿下、近頃どうかなされたのではないか?」
「ああ、公務も上の空で、あの辺境伯の娘のことばかり……」
「あのカタリーナとかいう令嬢、自分がもう王妃にでもなったつもりなのかしら」
「先日も、侯爵夫人に対して、無礼な口をきいたとか」
「アーロン王子は、あの女を盲愛されてるのよ」
カタリーナ様がまた――耳を澄ませば、廊下のあちらこちらから、同じ名がささやかれていた。それはもう、恐れというよりも、呆れと諦めの混じった声だった。
アーロンという強力な後ろ盾を得たことで、彼女は誰からの忠告も耳に入れず、玉座に座る女王のように振る舞っていた。高位の貴族を小馬鹿にし、使用人には冷たく傲慢に。彼女の中では、すでに自身がこの国の中心であるという確信があったのだろう。
「カタリーナは自由奔放で、彼女の愛らしい個性だ!」
彼女の気まぐれで傲慢な言動さえも、アーロンの目には魅力的な個性と映っていた。その姿は、恋に酔った少年のようでもあった。その盲目的な溺愛ぶりは、もう忠告すら無意味だと人々に思わせるほどで、侍女も貴族たちも口をつぐむようになった。
だが沈黙の裏では、冷めた視線が鋭く彼に注がれ、王宮の空気は、日に日にひそやかな敵意で満ちていった。
そんなある日、ミリアのもとに、一通の手紙がこっそりと届けられた。差出人の名もなく、王宮の紋章すら記されていない小さく折り畳まれた紙片。
しかしその中には、明らかに動揺の混じった筆跡で、短いながらも不穏な文言が書かれていた。紙のぬくもりよりも、そこに込められた怯えの気配が、ミリアの心をざわつかせた。それは、ひとりの侍女が、誰にも気づかれぬよう袖の中からそっと差し出したものだった。
『アーロン殿下は、カタリーナ様を正式な王太子妃として迎えるため、近々、国王陛下に強引に認可を求めるとのこと。どうか、お気をつけください』
目には見えない風のように、噂と情報が少しずつ私たちのもとへと集まりつつあった。沈黙に満ちた王宮の裏側で、心を共にしてくれる人々が、静かに息をひそめながら味方になり始めていた。
アーロンとカタリーナは、正気の境を越えたかのような蜜月の中で、今まさに破滅への臨界点に達しようとしていた。
その裏で、私たちの告発は、確実にその牙を研ぎ澄ませていた。証人サラによる宣誓供述書、カタリーナがオルフォンス家に宛てた手紙の原本。
そして――あの夜に会った王族すら恐れる生ける伝説の王家の長老。王宮そのものを揺るがす、最後にして最強の切り札が、私たちの背後には控えていた。
盤上の駒は、すべて揃った。あとは、いつ、チェックメイトを告げるかだけだ。
決戦の日は、すぐそこまで迫っていた。
「……なるほど、そう来たか」
獲物を前にした狩人のように、その声には抑えきれない楽しさがにじんでいた。
「あの愚かな孫には、一度、灸を据えてやる必要があると、思っていたところだ」
孫。その一言を聞いた瞬間、バラバラだった手がかりがひとつにつながり、私の中でぴたりと合わさった。目の前の人物の正体が、霧の中から姿を現すように、はっきりと見えた。
「よかろう。その茶番、私も一枚噛ませてもらおう。お前が事を起こす、その日。私も、法廷へ参上すると約束する」
「……! 本当、ですか」
「ああ。王家の長老として、腐りきった膿を、自らの手で出すのも、また一興」
まだどこか頼りなさに震えていた心に、しっかりと支えが差し出されたような感覚だった。その温かさと重みに、私は全身で応えるように、深く頭を下げることで想いを伝えた。
◇
日を追うごとに、王宮の空気は険悪さを帯び、言葉にできない重苦しさが広がっていった。人々の目には、不信と苛立ちが混じり合い、アーロンの名前が囁かれるたびに冷ややかな沈黙が降りた。彼はすべてを置き去りにし、カタリーナという名の幻想に取り憑かれたかのように我を忘れていたからだ。
「王子殿下、近頃どうかなされたのではないか?」
「ああ、公務も上の空で、あの辺境伯の娘のことばかり……」
「あのカタリーナとかいう令嬢、自分がもう王妃にでもなったつもりなのかしら」
「先日も、侯爵夫人に対して、無礼な口をきいたとか」
「アーロン王子は、あの女を盲愛されてるのよ」
カタリーナ様がまた――耳を澄ませば、廊下のあちらこちらから、同じ名がささやかれていた。それはもう、恐れというよりも、呆れと諦めの混じった声だった。
アーロンという強力な後ろ盾を得たことで、彼女は誰からの忠告も耳に入れず、玉座に座る女王のように振る舞っていた。高位の貴族を小馬鹿にし、使用人には冷たく傲慢に。彼女の中では、すでに自身がこの国の中心であるという確信があったのだろう。
「カタリーナは自由奔放で、彼女の愛らしい個性だ!」
彼女の気まぐれで傲慢な言動さえも、アーロンの目には魅力的な個性と映っていた。その姿は、恋に酔った少年のようでもあった。その盲目的な溺愛ぶりは、もう忠告すら無意味だと人々に思わせるほどで、侍女も貴族たちも口をつぐむようになった。
だが沈黙の裏では、冷めた視線が鋭く彼に注がれ、王宮の空気は、日に日にひそやかな敵意で満ちていった。
そんなある日、ミリアのもとに、一通の手紙がこっそりと届けられた。差出人の名もなく、王宮の紋章すら記されていない小さく折り畳まれた紙片。
しかしその中には、明らかに動揺の混じった筆跡で、短いながらも不穏な文言が書かれていた。紙のぬくもりよりも、そこに込められた怯えの気配が、ミリアの心をざわつかせた。それは、ひとりの侍女が、誰にも気づかれぬよう袖の中からそっと差し出したものだった。
『アーロン殿下は、カタリーナ様を正式な王太子妃として迎えるため、近々、国王陛下に強引に認可を求めるとのこと。どうか、お気をつけください』
目には見えない風のように、噂と情報が少しずつ私たちのもとへと集まりつつあった。沈黙に満ちた王宮の裏側で、心を共にしてくれる人々が、静かに息をひそめながら味方になり始めていた。
アーロンとカタリーナは、正気の境を越えたかのような蜜月の中で、今まさに破滅への臨界点に達しようとしていた。
その裏で、私たちの告発は、確実にその牙を研ぎ澄ませていた。証人サラによる宣誓供述書、カタリーナがオルフォンス家に宛てた手紙の原本。
そして――あの夜に会った王族すら恐れる生ける伝説の王家の長老。王宮そのものを揺るがす、最後にして最強の切り札が、私たちの背後には控えていた。
盤上の駒は、すべて揃った。あとは、いつ、チェックメイトを告げるかだけだ。
決戦の日は、すぐそこまで迫っていた。
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