32 / 51
第32話
しおりを挟む
シン――。
時が、止まった。
大広間にいたすべての人間が、息を呑むのがわかった。玉座にいる王の背筋が凍りついたのも気配で感じた。支配者に向けて振るわれた、たった一本のナイフ。それは、ただの激情なんかじゃなかった。
愛に全てを捧げる者だけが感じる冷徹な狂気。それは嵐の前の静けさのように、覚悟を決めてすべてを捨て去る勇気から生まれるもの。何もかも失っても、そのひとつの愛のためにすべてを捧げる覚悟がカタリーナの心を支えている。
金細工のドレスの袖から覗いた銀の刃が、ひと筋の月光みたいに輝きながら、王太后の喉元へと、ぴたりと押し当てられている。
王太后の瞳が、恐怖に見開かれていた。どんな状況でも冷静さを保ち、余裕を見せていた彼女の顔が、どこか必死さを感じさせる歪みを見せた。
その変化を目の当たりにしたカタリーナは、心の中で笑みがこぼれるのを抑えきれなかった。ああ、ざまあみろ。全てが報われたような気がした。国を陰で支配し、王さえもその言葉に従わせてきた王太后が、今や私の力に完全に屈服している。壊れかけたカタリーナの自信だ。
「きゃああああ!」
どこかの令嬢が突如として金切り声を上げ、その声が大広間を震わせた。その瞬間、空気が一変し、嵐が吹き荒れたかのように場が乱れ始めた。衛兵たちは一斉に剣を抜き、冷徹な視線を向けながら、無言でゆっくりと確実に距離を詰めてくる。その緊迫した空気の中、心臓が高鳴り時間が一瞬で止まったかのように感じられた。
「動くな! 動けば、この女の喉を掻き切る!」
カタリーナの声は、あまりに冷静すぎて自分でも信じられないほどだった。震えはどこにも見当たらず、むしろ、今までの人生で一番、頭が冴え渡っている。どんな混乱も、今の彼女には無縁のことだった。
「カタリーナ嬢! 正気か! 今すぐその短剣を離すのだ!」
玉座から王が立ち上がり、声を震わせながら叫んだ。その声に含まれたのは怒りではなく、代わりに恐れと驚愕が入り混じった表情が浮かんでいた。その無意識に吸い込んだ息は、場にいる全員が感じ取ることができるほどに大きく、王の心の乱れがひと目でわかるほどだった。
そうでしょうね。まさか、辺境の地で育ち、か弱い存在だと誰もが思い込んでいたあの令嬢が、自分の母親に刃を突きつけるだなんて、王も考えもしなかったはず。そんな衝撃的な出来事が、今、現実となって目の前に広がっている。
カタリーナは、王を軽く見やると、その目をわずかに交わすだけで鼻からふっと笑い声を漏らした。その笑みには、王の存在がどれほど無価値であるかを示すような、冷たく計算された意図が込められていた。たったひとつの笑い声で、彼女はこの場を支配しているかのように無言の力を放っていた。
「正気ですよ、陛下。私は、かつてないほど、正気です。狂っているのは、あなたたちのほうでしょう?」
「な、何を言っておる!?」
王の顔は青白く、息を飲みながらもカタリーナを睨みつける。
「……お、おのれ、小娘が……わ、私を、誰だと思っている……」
王太后は、喉元に冷たい刃を押し当てられ、息を呑んで小さく震えた。苦しげな声が、震える唇からかろうじて漏れたが、それはまるで囁きのようにか細く、誰もが耳を澄まさなければ聞き取れないほどだった。
「もちろん、存じ上げておりますよ、王太后陛下。私の愛する人を、奈落の底に突き落とした、蛇のような女。そうですよね?」
ナイフの切っ先を、ほんの少しだけ、皮膚に食い込ませる。ぷつり、と赤い玉が浮かび上がり、白い首筋を伝って、一筋の線を描いた。
「ひっ……!」
王太后は、突然、胸の中からあふれ出すように短い悲鳴を上げた。その音は切なさと痛みに満ちており、まるで心が押し潰されるような響きが空気を震わせた。彼女の目はかすかに開き、言葉にできない恐怖を映し出していた。
「母上に刃を向けるなど……!? 許しがたい、許しがたいぞ、貴様!」
王の叫びは、もはや国王としての威厳を感じさせるものではなく、息子としての純粋な恐怖と絶望に変わっていた。ただ母の命を案じる不器用で無力な人間らしさが露わになっていた。
カタリーナは、ゆっくりと周囲を見回した。さっきまで私を見下ろしていた貴族たちが、今は恐怖に顔を引きつらせて後ずさっている。彼らにとって私はもう、ただの令嬢ではない。秩序を破壊するテロリストだ。
それでいい。
どうせ、アーロンのいない世界で、令嬢として生きていくことになんて、なんの意味もないのだから。
「一体、何が目的だ、要求を聞こう! だから、頼む、早まるな!!」
「私の要求は、一つだけです」
王の言葉にカタリーナは、はっきりと、広間中に響き渡る声で言った。
「アーロン様の名誉を回復し、王位継承権を元に戻すこと。それが、できないと言うのなら」
カタリーナは、ナイフを握る手に、さらに力を込めた。
「この場で、この女の命を、奪います」
――いまこの瞬間、王国の秩序が、たった一人の恋する彼女によって、完全に揺るがされている。
ひれ伏していたはずの床の上で誰もが、その異常な光景を、ただ呆然と見つめていた。
時が、止まった。
大広間にいたすべての人間が、息を呑むのがわかった。玉座にいる王の背筋が凍りついたのも気配で感じた。支配者に向けて振るわれた、たった一本のナイフ。それは、ただの激情なんかじゃなかった。
愛に全てを捧げる者だけが感じる冷徹な狂気。それは嵐の前の静けさのように、覚悟を決めてすべてを捨て去る勇気から生まれるもの。何もかも失っても、そのひとつの愛のためにすべてを捧げる覚悟がカタリーナの心を支えている。
金細工のドレスの袖から覗いた銀の刃が、ひと筋の月光みたいに輝きながら、王太后の喉元へと、ぴたりと押し当てられている。
王太后の瞳が、恐怖に見開かれていた。どんな状況でも冷静さを保ち、余裕を見せていた彼女の顔が、どこか必死さを感じさせる歪みを見せた。
その変化を目の当たりにしたカタリーナは、心の中で笑みがこぼれるのを抑えきれなかった。ああ、ざまあみろ。全てが報われたような気がした。国を陰で支配し、王さえもその言葉に従わせてきた王太后が、今や私の力に完全に屈服している。壊れかけたカタリーナの自信だ。
「きゃああああ!」
どこかの令嬢が突如として金切り声を上げ、その声が大広間を震わせた。その瞬間、空気が一変し、嵐が吹き荒れたかのように場が乱れ始めた。衛兵たちは一斉に剣を抜き、冷徹な視線を向けながら、無言でゆっくりと確実に距離を詰めてくる。その緊迫した空気の中、心臓が高鳴り時間が一瞬で止まったかのように感じられた。
「動くな! 動けば、この女の喉を掻き切る!」
カタリーナの声は、あまりに冷静すぎて自分でも信じられないほどだった。震えはどこにも見当たらず、むしろ、今までの人生で一番、頭が冴え渡っている。どんな混乱も、今の彼女には無縁のことだった。
「カタリーナ嬢! 正気か! 今すぐその短剣を離すのだ!」
玉座から王が立ち上がり、声を震わせながら叫んだ。その声に含まれたのは怒りではなく、代わりに恐れと驚愕が入り混じった表情が浮かんでいた。その無意識に吸い込んだ息は、場にいる全員が感じ取ることができるほどに大きく、王の心の乱れがひと目でわかるほどだった。
そうでしょうね。まさか、辺境の地で育ち、か弱い存在だと誰もが思い込んでいたあの令嬢が、自分の母親に刃を突きつけるだなんて、王も考えもしなかったはず。そんな衝撃的な出来事が、今、現実となって目の前に広がっている。
カタリーナは、王を軽く見やると、その目をわずかに交わすだけで鼻からふっと笑い声を漏らした。その笑みには、王の存在がどれほど無価値であるかを示すような、冷たく計算された意図が込められていた。たったひとつの笑い声で、彼女はこの場を支配しているかのように無言の力を放っていた。
「正気ですよ、陛下。私は、かつてないほど、正気です。狂っているのは、あなたたちのほうでしょう?」
「な、何を言っておる!?」
王の顔は青白く、息を飲みながらもカタリーナを睨みつける。
「……お、おのれ、小娘が……わ、私を、誰だと思っている……」
王太后は、喉元に冷たい刃を押し当てられ、息を呑んで小さく震えた。苦しげな声が、震える唇からかろうじて漏れたが、それはまるで囁きのようにか細く、誰もが耳を澄まさなければ聞き取れないほどだった。
「もちろん、存じ上げておりますよ、王太后陛下。私の愛する人を、奈落の底に突き落とした、蛇のような女。そうですよね?」
ナイフの切っ先を、ほんの少しだけ、皮膚に食い込ませる。ぷつり、と赤い玉が浮かび上がり、白い首筋を伝って、一筋の線を描いた。
「ひっ……!」
王太后は、突然、胸の中からあふれ出すように短い悲鳴を上げた。その音は切なさと痛みに満ちており、まるで心が押し潰されるような響きが空気を震わせた。彼女の目はかすかに開き、言葉にできない恐怖を映し出していた。
「母上に刃を向けるなど……!? 許しがたい、許しがたいぞ、貴様!」
王の叫びは、もはや国王としての威厳を感じさせるものではなく、息子としての純粋な恐怖と絶望に変わっていた。ただ母の命を案じる不器用で無力な人間らしさが露わになっていた。
カタリーナは、ゆっくりと周囲を見回した。さっきまで私を見下ろしていた貴族たちが、今は恐怖に顔を引きつらせて後ずさっている。彼らにとって私はもう、ただの令嬢ではない。秩序を破壊するテロリストだ。
それでいい。
どうせ、アーロンのいない世界で、令嬢として生きていくことになんて、なんの意味もないのだから。
「一体、何が目的だ、要求を聞こう! だから、頼む、早まるな!!」
「私の要求は、一つだけです」
王の言葉にカタリーナは、はっきりと、広間中に響き渡る声で言った。
「アーロン様の名誉を回復し、王位継承権を元に戻すこと。それが、できないと言うのなら」
カタリーナは、ナイフを握る手に、さらに力を込めた。
「この場で、この女の命を、奪います」
――いまこの瞬間、王国の秩序が、たった一人の恋する彼女によって、完全に揺るがされている。
ひれ伏していたはずの床の上で誰もが、その異常な光景を、ただ呆然と見つめていた。
965
あなたにおすすめの小説
婚約破棄の代償
nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」
ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。
エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。
【完結】家族にサヨナラ。皆様ゴキゲンヨウ。
くま
恋愛
「すまない、アデライトを愛してしまった」
「ソフィア、私の事許してくれるわよね?」
いきなり婚約破棄をする婚約者と、それが当たり前だと言い張る姉。そしてその事を家族は姉達を責めない。
「病弱なアデライトに譲ってあげなさい」と……
私は昔から家族からは二番目扱いをされていた。いや、二番目どころでもなかった。私だって、兄や姉、妹達のように愛されたかった……だけど、いつも優先されるのは他のキョウダイばかり……我慢ばかりの毎日。
「マカロン家の長男であり次期当主のジェイコブをきちんと、敬い立てなさい」
「はい、お父様、お母様」
「長女のアデライトは体が弱いのですよ。ソフィア、貴女がきちんと長女の代わりに動くのですよ」
「……はい」
「妹のアメリーはまだ幼い。お前は我慢しなさい。下の子を面倒見るのは当然なのだから」
「はい、わかりました」
パーティー、私の誕生日、どれも私だけのなんてなかった。親はいつも私以外のキョウダイばかり、
兄も姉や妹ばかり構ってばかり。姉は病弱だからと言い私に八つ当たりするばかり。妹は我儘放題。
誰も私の言葉を聞いてくれない。
誰も私を見てくれない。
そして婚約者だったオスカー様もその一人だ。病弱な姉を守ってあげたいと婚約破棄してすぐに姉と婚約をした。家族は姉を祝福していた。私に一言も…慰めもせず。
ある日、熱にうなされ誰もお見舞いにきてくれなかった時、前世を思い出す。前世の私は家族と仲良くもしており、色々と明るい性格の持ち主さん。
「……なんか、馬鹿みたいだわ!」
もう、我慢もやめよう!家族の前で良い子になるのはもうやめる!
ふるゆわ設定です。
※家族という呪縛から解き放たれ自分自身を見つめ、好きな事を見つけだすソフィアを応援して下さい!
※ざまあ話とか読むのは好きだけど書くとなると難しいので…読者様が望むような結末に納得いかないかもしれません。🙇♀️でも頑張るます。それでもよければ、どうぞ!
追加文
番外編も現在進行中です。こちらはまた別な主人公です。
【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?
碧井 汐桜香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。
まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。
様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。
第二王子?いりませんわ。
第一王子?もっといりませんわ。
第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は?
彼女の存在意義とは?
別サイト様にも掲載しております
幼馴染の婚約者を馬鹿にした勘違い女の末路
今川幸乃
恋愛
ローラ・ケレットは幼馴染のクレアとパーティーに参加していた。
すると突然、厄介令嬢として名高いジュリーに絡まれ、ひたすら金持ち自慢をされる。
ローラは黙って堪えていたが、純粋なクレアはついぽろっとジュリーのドレスにケチをつけてしまう。
それを聞いたローラは顔を真っ赤にし、今度はクレアの婚約者を馬鹿にし始める。
そしてジュリー自身は貴公子と名高いアイザックという男と結ばれていると自慢を始めるが、騒ぎを聞きつけたアイザック本人が現れ……
※短い……はず
幼馴染が熱を出した? どうせいつもの仮病でしょう?【完結】
小平ニコ
恋愛
「パメラが熱を出したから、今日は約束の場所に行けなくなった。今度埋め合わせするから許してくれ」
ジョセフはそう言って、婚約者である私とのデートをキャンセルした。……いったいこれで、何度目のドタキャンだろう。彼はいつも、体の弱い幼馴染――パメラを優先し、私をないがしろにする。『埋め合わせするから』というのも、口だけだ。
きっと私のことを、適当に謝っておけば何でも許してくれる、甘い女だと思っているのだろう。
いい加減うんざりした私は、ジョセフとの婚約関係を終わらせることにした。パメラは嬉しそうに笑っていたが、ジョセフは大いにショックを受けている。……それはそうでしょうね。私のお父様からの援助がなければ、ジョセフの家は、貴族らしい、ぜいたくな暮らしを続けることはできないのだから。
私は家のことにはもう関わりませんから、どうか可愛い妹の面倒を見てあげてください。
木山楽斗
恋愛
侯爵家の令嬢であるアルティアは、家で冷遇されていた。
彼女の父親は、妾とその娘である妹に熱を上げており、アルティアのことは邪魔とさえ思っていたのである。
しかし妾の子である妹を婿に迎える立場にすることは、父親も躊躇っていた。周囲からの体裁を気にした結果、アルティアがその立場となったのだ。
だが、彼女は婚約者から拒絶されることになった。彼曰くアルティアは面白味がなく、多少わがままな妹の方が可愛げがあるそうなのだ。
父親もその判断を支持したことによって、アルティアは家に居場所がないことを悟った。
そこで彼女は、母親が懇意にしている伯爵家を頼り、新たな生活をすることを選んだ。それはアルティアにとって、悪いことという訳ではなかった。家の呪縛から解放された彼女は、伸び伸びと暮らすことにするのだった。
程なくして彼女の元に、婚約者が訪ねて来た。
彼はアルティアの妹のわがままさに辟易としており、さらには社交界において侯爵家が厳しい立場となったことを伝えてきた。妾の子であるということを差し引いても、甘やかされて育ってきた妹の評価というものは、高いものではなかったのだ。
戻って来て欲しいと懇願する婚約者だったが、アルティアはそれを拒絶する。
彼女にとって、婚約者も侯爵家も既に助ける義理はないものだったのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる