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第32話
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シン――。
時が、止まった。
大広間にいたすべての人間が、息を呑むのがわかった。玉座にいる王の背筋が凍りついたのも気配で感じた。支配者に向けて振るわれた、たった一本のナイフ。それは、ただの激情なんかじゃなかった。
愛に全てを捧げる者だけが感じる冷徹な狂気。それは嵐の前の静けさのように、覚悟を決めてすべてを捨て去る勇気から生まれるもの。何もかも失っても、そのひとつの愛のためにすべてを捧げる覚悟がカタリーナの心を支えている。
金細工のドレスの袖から覗いた銀の刃が、ひと筋の月光みたいに輝きながら、王太后の喉元へと、ぴたりと押し当てられている。
王太后の瞳が、恐怖に見開かれていた。どんな状況でも冷静さを保ち、余裕を見せていた彼女の顔が、どこか必死さを感じさせる歪みを見せた。
その変化を目の当たりにしたカタリーナは、心の中で笑みがこぼれるのを抑えきれなかった。ああ、ざまあみろ。全てが報われたような気がした。国を陰で支配し、王さえもその言葉に従わせてきた王太后が、今や私の力に完全に屈服している。壊れかけたカタリーナの自信だ。
「きゃああああ!」
どこかの令嬢が突如として金切り声を上げ、その声が大広間を震わせた。その瞬間、空気が一変し、嵐が吹き荒れたかのように場が乱れ始めた。衛兵たちは一斉に剣を抜き、冷徹な視線を向けながら、無言でゆっくりと確実に距離を詰めてくる。その緊迫した空気の中、心臓が高鳴り時間が一瞬で止まったかのように感じられた。
「動くな! 動けば、この女の喉を掻き切る!」
カタリーナの声は、あまりに冷静すぎて自分でも信じられないほどだった。震えはどこにも見当たらず、むしろ、今までの人生で一番、頭が冴え渡っている。どんな混乱も、今の彼女には無縁のことだった。
「カタリーナ嬢! 正気か! 今すぐその短剣を離すのだ!」
玉座から王が立ち上がり、声を震わせながら叫んだ。その声に含まれたのは怒りではなく、代わりに恐れと驚愕が入り混じった表情が浮かんでいた。その無意識に吸い込んだ息は、場にいる全員が感じ取ることができるほどに大きく、王の心の乱れがひと目でわかるほどだった。
そうでしょうね。まさか、辺境の地で育ち、か弱い存在だと誰もが思い込んでいたあの令嬢が、自分の母親に刃を突きつけるだなんて、王も考えもしなかったはず。そんな衝撃的な出来事が、今、現実となって目の前に広がっている。
カタリーナは、王を軽く見やると、その目をわずかに交わすだけで鼻からふっと笑い声を漏らした。その笑みには、王の存在がどれほど無価値であるかを示すような、冷たく計算された意図が込められていた。たったひとつの笑い声で、彼女はこの場を支配しているかのように無言の力を放っていた。
「正気ですよ、陛下。私は、かつてないほど、正気です。狂っているのは、あなたたちのほうでしょう?」
「な、何を言っておる!?」
王の顔は青白く、息を飲みながらもカタリーナを睨みつける。
「……お、おのれ、小娘が……わ、私を、誰だと思っている……」
王太后は、喉元に冷たい刃を押し当てられ、息を呑んで小さく震えた。苦しげな声が、震える唇からかろうじて漏れたが、それはまるで囁きのようにか細く、誰もが耳を澄まさなければ聞き取れないほどだった。
「もちろん、存じ上げておりますよ、王太后陛下。私の愛する人を、奈落の底に突き落とした、蛇のような女。そうですよね?」
ナイフの切っ先を、ほんの少しだけ、皮膚に食い込ませる。ぷつり、と赤い玉が浮かび上がり、白い首筋を伝って、一筋の線を描いた。
「ひっ……!」
王太后は、突然、胸の中からあふれ出すように短い悲鳴を上げた。その音は切なさと痛みに満ちており、まるで心が押し潰されるような響きが空気を震わせた。彼女の目はかすかに開き、言葉にできない恐怖を映し出していた。
「母上に刃を向けるなど……!? 許しがたい、許しがたいぞ、貴様!」
王の叫びは、もはや国王としての威厳を感じさせるものではなく、息子としての純粋な恐怖と絶望に変わっていた。ただ母の命を案じる不器用で無力な人間らしさが露わになっていた。
カタリーナは、ゆっくりと周囲を見回した。さっきまで私を見下ろしていた貴族たちが、今は恐怖に顔を引きつらせて後ずさっている。彼らにとって私はもう、ただの令嬢ではない。秩序を破壊するテロリストだ。
それでいい。
どうせ、アーロンのいない世界で、令嬢として生きていくことになんて、なんの意味もないのだから。
「一体、何が目的だ、要求を聞こう! だから、頼む、早まるな!!」
「私の要求は、一つだけです」
王の言葉にカタリーナは、はっきりと、広間中に響き渡る声で言った。
「アーロン様の名誉を回復し、王位継承権を元に戻すこと。それが、できないと言うのなら」
カタリーナは、ナイフを握る手に、さらに力を込めた。
「この場で、この女の命を、奪います」
――いまこの瞬間、王国の秩序が、たった一人の恋する彼女によって、完全に揺るがされている。
ひれ伏していたはずの床の上で誰もが、その異常な光景を、ただ呆然と見つめていた。
時が、止まった。
大広間にいたすべての人間が、息を呑むのがわかった。玉座にいる王の背筋が凍りついたのも気配で感じた。支配者に向けて振るわれた、たった一本のナイフ。それは、ただの激情なんかじゃなかった。
愛に全てを捧げる者だけが感じる冷徹な狂気。それは嵐の前の静けさのように、覚悟を決めてすべてを捨て去る勇気から生まれるもの。何もかも失っても、そのひとつの愛のためにすべてを捧げる覚悟がカタリーナの心を支えている。
金細工のドレスの袖から覗いた銀の刃が、ひと筋の月光みたいに輝きながら、王太后の喉元へと、ぴたりと押し当てられている。
王太后の瞳が、恐怖に見開かれていた。どんな状況でも冷静さを保ち、余裕を見せていた彼女の顔が、どこか必死さを感じさせる歪みを見せた。
その変化を目の当たりにしたカタリーナは、心の中で笑みがこぼれるのを抑えきれなかった。ああ、ざまあみろ。全てが報われたような気がした。国を陰で支配し、王さえもその言葉に従わせてきた王太后が、今や私の力に完全に屈服している。壊れかけたカタリーナの自信だ。
「きゃああああ!」
どこかの令嬢が突如として金切り声を上げ、その声が大広間を震わせた。その瞬間、空気が一変し、嵐が吹き荒れたかのように場が乱れ始めた。衛兵たちは一斉に剣を抜き、冷徹な視線を向けながら、無言でゆっくりと確実に距離を詰めてくる。その緊迫した空気の中、心臓が高鳴り時間が一瞬で止まったかのように感じられた。
「動くな! 動けば、この女の喉を掻き切る!」
カタリーナの声は、あまりに冷静すぎて自分でも信じられないほどだった。震えはどこにも見当たらず、むしろ、今までの人生で一番、頭が冴え渡っている。どんな混乱も、今の彼女には無縁のことだった。
「カタリーナ嬢! 正気か! 今すぐその短剣を離すのだ!」
玉座から王が立ち上がり、声を震わせながら叫んだ。その声に含まれたのは怒りではなく、代わりに恐れと驚愕が入り混じった表情が浮かんでいた。その無意識に吸い込んだ息は、場にいる全員が感じ取ることができるほどに大きく、王の心の乱れがひと目でわかるほどだった。
そうでしょうね。まさか、辺境の地で育ち、か弱い存在だと誰もが思い込んでいたあの令嬢が、自分の母親に刃を突きつけるだなんて、王も考えもしなかったはず。そんな衝撃的な出来事が、今、現実となって目の前に広がっている。
カタリーナは、王を軽く見やると、その目をわずかに交わすだけで鼻からふっと笑い声を漏らした。その笑みには、王の存在がどれほど無価値であるかを示すような、冷たく計算された意図が込められていた。たったひとつの笑い声で、彼女はこの場を支配しているかのように無言の力を放っていた。
「正気ですよ、陛下。私は、かつてないほど、正気です。狂っているのは、あなたたちのほうでしょう?」
「な、何を言っておる!?」
王の顔は青白く、息を飲みながらもカタリーナを睨みつける。
「……お、おのれ、小娘が……わ、私を、誰だと思っている……」
王太后は、喉元に冷たい刃を押し当てられ、息を呑んで小さく震えた。苦しげな声が、震える唇からかろうじて漏れたが、それはまるで囁きのようにか細く、誰もが耳を澄まさなければ聞き取れないほどだった。
「もちろん、存じ上げておりますよ、王太后陛下。私の愛する人を、奈落の底に突き落とした、蛇のような女。そうですよね?」
ナイフの切っ先を、ほんの少しだけ、皮膚に食い込ませる。ぷつり、と赤い玉が浮かび上がり、白い首筋を伝って、一筋の線を描いた。
「ひっ……!」
王太后は、突然、胸の中からあふれ出すように短い悲鳴を上げた。その音は切なさと痛みに満ちており、まるで心が押し潰されるような響きが空気を震わせた。彼女の目はかすかに開き、言葉にできない恐怖を映し出していた。
「母上に刃を向けるなど……!? 許しがたい、許しがたいぞ、貴様!」
王の叫びは、もはや国王としての威厳を感じさせるものではなく、息子としての純粋な恐怖と絶望に変わっていた。ただ母の命を案じる不器用で無力な人間らしさが露わになっていた。
カタリーナは、ゆっくりと周囲を見回した。さっきまで私を見下ろしていた貴族たちが、今は恐怖に顔を引きつらせて後ずさっている。彼らにとって私はもう、ただの令嬢ではない。秩序を破壊するテロリストだ。
それでいい。
どうせ、アーロンのいない世界で、令嬢として生きていくことになんて、なんの意味もないのだから。
「一体、何が目的だ、要求を聞こう! だから、頼む、早まるな!!」
「私の要求は、一つだけです」
王の言葉にカタリーナは、はっきりと、広間中に響き渡る声で言った。
「アーロン様の名誉を回復し、王位継承権を元に戻すこと。それが、できないと言うのなら」
カタリーナは、ナイフを握る手に、さらに力を込めた。
「この場で、この女の命を、奪います」
――いまこの瞬間、王国の秩序が、たった一人の恋する彼女によって、完全に揺るがされている。
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