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第17話
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「マリアお嬢様……」
いつの間にか、私の隣に、侍女のリナが寄り添ってくれていた。彼女は、この屋敷に来てからずっと、私付きでいてくれた一番の味方だ。その大きな瞳には、涙が光っていた。
「……ようやく、心穏やかに、救われましたね」
リナは、私の苦しみをずっと見ていてくれた。フレッド様との婚約が決まってから、私が無理に笑い、日に日に痩せていくのを、誰よりも心配してくれていた。だから、この結末を、彼女は悲劇だとは思っていなかった。私にとっての、解放だとわかってくれていたのだ。
私は彼女に向かって、この数週間、いえ、数ヶ月で初めて、心の底から微笑むことができた。
「ええ。ありがとう、リナ。私、私自身のことを、やっと祝福できる気がするわ」
この日、この瞬間を境に、伯爵令嬢マリアの物語は、夢見る乙女の章から、誇り高き女の章へと、そのページをめくった。
◇
その後、談話室がどうなったのか、私は知らない。
私は静かにその場を後にした。もう、あそこにいるべき人間は一人もいなかったから。
廊下を歩いていると、後ろから足音が聞こえた。振り返ると、ヒューゴ様だった。倒れた姉様には目もくれず、彼は迷わず私のあとを追ってきた。
「マリア嬢……」
彼は、ひどく疲れた顔をしていた。
「……すまなかった。俺が、もっと早くカミーユの異変に気づいていれば、君をここまで苦しませずに済んだ」
「いいえ」
私は静かに首を振った。
「ヒューゴ様のせいではありませんわ。むしろ、感謝しています。最後まで、私の味方でいてくださって」
「……味方、か。俺は、自分の妻一人、正しく導けなかった愚か者だ」
苦笑いを浮かべる彼の横顔が、あまりに切なくて、私は何も言えなかった。
私たちの間に流れるのは、恋愛感情などではない。共に裏切られ、共に戦った『戦友』のような静かな絆だった。
「お子様たちのところに、行かれるのですか?」
「ああ」
彼は短く頷いた。
「あの子たちには、罪はない。父親として、俺が全力で守らねばならん」
そう言って、彼は向きを変え、黙って背中を見せた。傷つき、打ちのめされていながらも、父親としての強い決意に満ちていた。
私は、自室に戻ると、大きく窓を開け放った。
ひんやりとした夜明け前の空気が、火照った頬を撫でていく。東の空が、ほんのりと白み始めていた。長い、長い夜が、終わろうとしている。
私は、部屋にあるフレッド様に関わるものを、一つ残らずゴミ袋に詰めた。手紙も、贈り物も。あの婚約指輪も、窓から庭の池に向かって、思いきり投げ捨てた。明日のために用意されていた純白のウェディングドレスは、暖炉の火にくべてやった。燃え上がる炎が、私の過去を浄化してくれるようだった。
すべてを終えて、鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、少し疲れてはいるけれど、その瞳に強く、澄みわたる光に照らされたその顔は、私にとってまったくの初対面だった。
「私の物語は」
私は、鏡の中の自分に語りかける。
「ここから、始まるのよ」
この断罪劇の先に、それぞれの過酷な運命が待っていることを、私はまだ知らない。
後に明らかになるのだが、カミーユはフレッドの仕掛けた魔道具によって精神を操られていた。
彼女は被害者だった。フレッドの歪んだ欲望によって、人生を狂わされ、最も深く傷つけられたのは彼女だった。
それでもなお、彼女は自分の行いに深い罪の意識を抱く。
その事実を知ったヒューゴの心は、大きく揺れ動くことになる。
フレッドが味わうのは、これが序章にすぎない。真に恐ろしい“転落劇”は、この先に用意されているのだから。
そして、私の人生に、この傷を癒し、新たな光をもたらしてくれるであろう、思いがけない出会いが、もうすぐそこまで近づいていることも。
ただ、今はわかる。
私はもう、誰かのための飾りじゃない。誰かの物語の脇役でもない。
この人生を生きるのは、他の誰でもない、自分自身なのだと。
いつの間にか、私の隣に、侍女のリナが寄り添ってくれていた。彼女は、この屋敷に来てからずっと、私付きでいてくれた一番の味方だ。その大きな瞳には、涙が光っていた。
「……ようやく、心穏やかに、救われましたね」
リナは、私の苦しみをずっと見ていてくれた。フレッド様との婚約が決まってから、私が無理に笑い、日に日に痩せていくのを、誰よりも心配してくれていた。だから、この結末を、彼女は悲劇だとは思っていなかった。私にとっての、解放だとわかってくれていたのだ。
私は彼女に向かって、この数週間、いえ、数ヶ月で初めて、心の底から微笑むことができた。
「ええ。ありがとう、リナ。私、私自身のことを、やっと祝福できる気がするわ」
この日、この瞬間を境に、伯爵令嬢マリアの物語は、夢見る乙女の章から、誇り高き女の章へと、そのページをめくった。
◇
その後、談話室がどうなったのか、私は知らない。
私は静かにその場を後にした。もう、あそこにいるべき人間は一人もいなかったから。
廊下を歩いていると、後ろから足音が聞こえた。振り返ると、ヒューゴ様だった。倒れた姉様には目もくれず、彼は迷わず私のあとを追ってきた。
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彼は、ひどく疲れた顔をしていた。
「……すまなかった。俺が、もっと早くカミーユの異変に気づいていれば、君をここまで苦しませずに済んだ」
「いいえ」
私は静かに首を振った。
「ヒューゴ様のせいではありませんわ。むしろ、感謝しています。最後まで、私の味方でいてくださって」
「……味方、か。俺は、自分の妻一人、正しく導けなかった愚か者だ」
苦笑いを浮かべる彼の横顔が、あまりに切なくて、私は何も言えなかった。
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「お子様たちのところに、行かれるのですか?」
「ああ」
彼は短く頷いた。
「あの子たちには、罪はない。父親として、俺が全力で守らねばならん」
そう言って、彼は向きを変え、黙って背中を見せた。傷つき、打ちのめされていながらも、父親としての強い決意に満ちていた。
私は、自室に戻ると、大きく窓を開け放った。
ひんやりとした夜明け前の空気が、火照った頬を撫でていく。東の空が、ほんのりと白み始めていた。長い、長い夜が、終わろうとしている。
私は、部屋にあるフレッド様に関わるものを、一つ残らずゴミ袋に詰めた。手紙も、贈り物も。あの婚約指輪も、窓から庭の池に向かって、思いきり投げ捨てた。明日のために用意されていた純白のウェディングドレスは、暖炉の火にくべてやった。燃え上がる炎が、私の過去を浄化してくれるようだった。
すべてを終えて、鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、少し疲れてはいるけれど、その瞳に強く、澄みわたる光に照らされたその顔は、私にとってまったくの初対面だった。
「私の物語は」
私は、鏡の中の自分に語りかける。
「ここから、始まるのよ」
この断罪劇の先に、それぞれの過酷な運命が待っていることを、私はまだ知らない。
後に明らかになるのだが、カミーユはフレッドの仕掛けた魔道具によって精神を操られていた。
彼女は被害者だった。フレッドの歪んだ欲望によって、人生を狂わされ、最も深く傷つけられたのは彼女だった。
それでもなお、彼女は自分の行いに深い罪の意識を抱く。
その事実を知ったヒューゴの心は、大きく揺れ動くことになる。
フレッドが味わうのは、これが序章にすぎない。真に恐ろしい“転落劇”は、この先に用意されているのだから。
そして、私の人生に、この傷を癒し、新たな光をもたらしてくれるであろう、思いがけない出会いが、もうすぐそこまで近づいていることも。
ただ、今はわかる。
私はもう、誰かのための飾りじゃない。誰かの物語の脇役でもない。
この人生を生きるのは、他の誰でもない、自分自身なのだと。
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