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第8話
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絶望が心に広がるにつれて、怒りは静かに沈んでいった。まるで、どこからともなく冷静さが忍び寄ってきたかのように。
「夜会が終わりましたら、あなたの執務室でお待ちしております。お二人で、お話がしたいのです」
私は驚くほど落ち着いた声で、最後の問いを投げかけた。その言葉には、深い意味が込められていることを私自身が強く感じていた。
そして、振り返ることなくその場を離れた。背後に冷たい風が吹き抜けるのを感じながら、凍りつくような空気の中で、ひとり静かにバルコニーを後にした。その足音が、無言のまま遠くに消えていくのが、まるで運命の分かれ道のように響いていた。
執務室の暖炉では、ぱちぱちと音を立てて炎が燃えていた。私はその前に立ち、ただ静かにブラッドを待っていた。夜会はまだ終わっていない。けれど、私にとって、もうどうでもいいことだった。
やがて、重い扉が開いてブラッドが入ってくる。その顔には、苛立ちと不機嫌がありありと浮かんでいた。
「まだ何か話があるのか。俺は君の理不尽な嫉妬に付き合うつもりは……」
「座ってくださいませ」
私の声が強く響いた瞬間、彼は少し驚いたように目を見開き思わず体を縮めた。しかし、すぐに諦めたように背中を椅子に預け、深く腰を下ろした。その動きからは、反論する気力は感じられなかった。
「ブラッド。私は、あなたの正真正銘の妻です。そして、クロエは、あなたの血を分けた、たった一人の娘です。なぜ、私たち家族よりも、他人を優先なさるのですか」
私はゆっくりと彼に向き直り、心の奥から絞り出すように言葉を口にした。その言葉には、もうこれ以上の余地はないという決意が込められていた。
私のまっすぐな視線がブラッドを捉えた瞬間、彼はこれまでにないほど動揺の色を見せた。彼の目が一瞬、明らかに不安そうに揺れ、言葉を探すかのように口を開けた。しかし、何も出てこないのか彼はその口を再び閉じた。その一瞬の迷いが、彼がすでに追い詰められていることを物語っていた。
長く、沈黙が支配する部屋の中で、ただ暖炉の薪がパチパチと音を立てるだけが異常に大きく響いた。その音が、静かな空間を切り裂くように感じられた。やがて、彼は観念したかのように肩を落とし深くうなだれた。そして、かすれた声がようやく口を開いた。
「……すまない。君を、裏切るつもりはなかった。だが……エミリーを守りたいという気持ちが、どうしても消えなかったんだ。彼女は、俺が守らなければ、壊れてしまいそうだった。昔から、ずっと……」
それは、私が決して耳にしたくなかったけれど、避けられない告白だった。彼の心には、最初から最後までエミリーしか存在しなかったのだ。
私との結婚、クロエの誕生――それらはすべて、彼の中に残る彼女への想いを消し去ることはできなかった。私たちの存在は、彼の人生の中で、ただの背景に過ぎなかったのだ。
涙は一滴も流れなかった。代わりに、不思議なほど静かな感覚が心を包み込んでいった。すべてが終わったと思うと同時に、ふとした空白のような気持ちが広がった。そしてその空白が、次に進まなければならないという強い衝動に変わっていった。すべてを終わらせた今、次は新たな何かを始めなければならないのだと心が告げていた。
「ならば、離縁して、彼女を守り通しなさいませ」
「な……!」
背筋を伸ばし、心の中で強い決意を感じながら、私は今までで一番はっきりとした声で彼に告げた。その言葉が放たれた瞬間、部屋の空気が一瞬にして凍りつくような感覚を覚えた。ブラッドはその声に驚き顔を上げた。目の奥に戸惑いと驚きが交じっているのがすぐにわかった。
「夜会が終わりましたら、あなたの執務室でお待ちしております。お二人で、お話がしたいのです」
私は驚くほど落ち着いた声で、最後の問いを投げかけた。その言葉には、深い意味が込められていることを私自身が強く感じていた。
そして、振り返ることなくその場を離れた。背後に冷たい風が吹き抜けるのを感じながら、凍りつくような空気の中で、ひとり静かにバルコニーを後にした。その足音が、無言のまま遠くに消えていくのが、まるで運命の分かれ道のように響いていた。
執務室の暖炉では、ぱちぱちと音を立てて炎が燃えていた。私はその前に立ち、ただ静かにブラッドを待っていた。夜会はまだ終わっていない。けれど、私にとって、もうどうでもいいことだった。
やがて、重い扉が開いてブラッドが入ってくる。その顔には、苛立ちと不機嫌がありありと浮かんでいた。
「まだ何か話があるのか。俺は君の理不尽な嫉妬に付き合うつもりは……」
「座ってくださいませ」
私の声が強く響いた瞬間、彼は少し驚いたように目を見開き思わず体を縮めた。しかし、すぐに諦めたように背中を椅子に預け、深く腰を下ろした。その動きからは、反論する気力は感じられなかった。
「ブラッド。私は、あなたの正真正銘の妻です。そして、クロエは、あなたの血を分けた、たった一人の娘です。なぜ、私たち家族よりも、他人を優先なさるのですか」
私はゆっくりと彼に向き直り、心の奥から絞り出すように言葉を口にした。その言葉には、もうこれ以上の余地はないという決意が込められていた。
私のまっすぐな視線がブラッドを捉えた瞬間、彼はこれまでにないほど動揺の色を見せた。彼の目が一瞬、明らかに不安そうに揺れ、言葉を探すかのように口を開けた。しかし、何も出てこないのか彼はその口を再び閉じた。その一瞬の迷いが、彼がすでに追い詰められていることを物語っていた。
長く、沈黙が支配する部屋の中で、ただ暖炉の薪がパチパチと音を立てるだけが異常に大きく響いた。その音が、静かな空間を切り裂くように感じられた。やがて、彼は観念したかのように肩を落とし深くうなだれた。そして、かすれた声がようやく口を開いた。
「……すまない。君を、裏切るつもりはなかった。だが……エミリーを守りたいという気持ちが、どうしても消えなかったんだ。彼女は、俺が守らなければ、壊れてしまいそうだった。昔から、ずっと……」
それは、私が決して耳にしたくなかったけれど、避けられない告白だった。彼の心には、最初から最後までエミリーしか存在しなかったのだ。
私との結婚、クロエの誕生――それらはすべて、彼の中に残る彼女への想いを消し去ることはできなかった。私たちの存在は、彼の人生の中で、ただの背景に過ぎなかったのだ。
涙は一滴も流れなかった。代わりに、不思議なほど静かな感覚が心を包み込んでいった。すべてが終わったと思うと同時に、ふとした空白のような気持ちが広がった。そしてその空白が、次に進まなければならないという強い衝動に変わっていった。すべてを終わらせた今、次は新たな何かを始めなければならないのだと心が告げていた。
「ならば、離縁して、彼女を守り通しなさいませ」
「な……!」
背筋を伸ばし、心の中で強い決意を感じながら、私は今までで一番はっきりとした声で彼に告げた。その言葉が放たれた瞬間、部屋の空気が一瞬にして凍りつくような感覚を覚えた。ブラッドはその声に驚き顔を上げた。目の奥に戸惑いと驚きが交じっているのがすぐにわかった。
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