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第10話
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アンドレは、再びニーナの屋敷へと向かっていた。公爵家を訪れるも、先ほどと同じように執事に追い返されてしまう。しかし、彼は諦めることなく叫んだ。
「ニーナ! 夏の祭礼で、必ず君の心を取り戻す!」
その声は、屋敷の窓から見つめていたニーナの耳にも届いた。彼女は何も言わず、心の中に湧き上がる様々な感情を抱えながら、その瞬間を静かに見守ることしかできなかった。
◇
王都が一年で最も浮き足立つ日、夏の祭礼。街路には色とりどりのリボンが風に揺れ、香辛料の効いた肉の焼ける匂いと、甘い焼き菓子の香りが入り混じり、人々の心を無意識に弾ませていく。
ニーナは、王太子ロッド殿下の隣を歩きながら、彼との穏やかな時間に心からの幸せを感じていた。彼の温かな視線が自分に注がれるたび、胸の奥にじんわりとした安堵が広がり、どこか安らかな気持ちに包まれていく。
周りの喧騒や色とりどりの祭りの景色も、彼の隣ではすべてが心地よく平穏に感じられた。彼と歩む未来が、どこか確かなものとして感じられ、これが自分の歩むべき道だと自分に言い聞かせていた。
しかし、心のどこかに、消し去りきれない小さな炎のようなくすぶりが残っている。騎士アンドレ――彼のことを思うたび、胸の奥が静かに痛むのだ。忘れなければ。忘れるべきだと、自分に言い聞かせながらもアンドレの言葉がふと蘇る。
「ニーナ、大丈夫かい? 少し顔色が悪いようだ」
ロッドが心配そうに私の顔を覗き込んできた。彼の紫色の瞳は、いつも澄んでいて、私の内面まで見透かしているような気がする。
「いえ、大丈夫ですわ、ロッド。少し、人の多さに当てられただけです」
私が微笑むと、彼も穏やかに微笑み返してくれる。その優しさに、どれほど救われてきたことか。
しかし、その時だった。人混みの向こうに、今は決して見たくない見慣れた背中を見つけてしまった。逞しい肩幅、少し癖のある栗色の髪のアンドレだった。彼は一人、所在なさげに屋台の品々を眺めている。その姿を見て、私はふと、あの日以来耳にした噂を思い出した。彼は私を失った後から、どこか虚ろな瞳をしているという。
心がざわつく。逃げ出したいような、駆け寄りたいような、矛盾した感情が渦巻いていく。そして、運命のいたずらのように、彼の視線がふとこちらに向けられた。私と隣にいるロッドを見つめ、彼の瞳が大きく見開かれる。
その瞬間、気まずい沈黙が広がる。祭りの喧騒だけが、やけに大きく響いているように感じた。
「……奇遇だな」
先に口を開いたのはロッドだった。さすが王太子、どんな時でも冷静さを保ち穏やかに話すその姿は、動じることのない高潔さを感じさせる。
「アンドレ卿。息災そうで何よりだ」
「……ロッド殿下」
私とロッドのあまりにも親密な感じに、アンドレは心の中で大きな衝撃を受けたのだろうか? 彼の声は、ひどくかすれていた。何かを抑え込むように絞り出すように、発せられたその声に彼の苦しみが感じられる。
その時、物陰からぬるりと姿を現したもう一人の人物。キャンディだ。アンドレを巡って私と火花を散らし、彼に絶縁された後、しばらく姿を見なかったはずの彼女が何故ここにいるのだろう。意外にも元気そうに見えた。
「……アンドレ」
彼女の呟きは、誰の耳にも届かないほど小さかったが、それでも確かに彼女の唇から発せられた。
四つの視線が、気まずく絡み合う。その場に漂うのは、過去の愛憎と今の関係性が入り混じった複雑な感情。それらが、夏の夜の熱気の中で溶け合うように混ざり合い、どうしようもなくぎこちなく重く感じられた。
「ニーナ! 夏の祭礼で、必ず君の心を取り戻す!」
その声は、屋敷の窓から見つめていたニーナの耳にも届いた。彼女は何も言わず、心の中に湧き上がる様々な感情を抱えながら、その瞬間を静かに見守ることしかできなかった。
◇
王都が一年で最も浮き足立つ日、夏の祭礼。街路には色とりどりのリボンが風に揺れ、香辛料の効いた肉の焼ける匂いと、甘い焼き菓子の香りが入り混じり、人々の心を無意識に弾ませていく。
ニーナは、王太子ロッド殿下の隣を歩きながら、彼との穏やかな時間に心からの幸せを感じていた。彼の温かな視線が自分に注がれるたび、胸の奥にじんわりとした安堵が広がり、どこか安らかな気持ちに包まれていく。
周りの喧騒や色とりどりの祭りの景色も、彼の隣ではすべてが心地よく平穏に感じられた。彼と歩む未来が、どこか確かなものとして感じられ、これが自分の歩むべき道だと自分に言い聞かせていた。
しかし、心のどこかに、消し去りきれない小さな炎のようなくすぶりが残っている。騎士アンドレ――彼のことを思うたび、胸の奥が静かに痛むのだ。忘れなければ。忘れるべきだと、自分に言い聞かせながらもアンドレの言葉がふと蘇る。
「ニーナ、大丈夫かい? 少し顔色が悪いようだ」
ロッドが心配そうに私の顔を覗き込んできた。彼の紫色の瞳は、いつも澄んでいて、私の内面まで見透かしているような気がする。
「いえ、大丈夫ですわ、ロッド。少し、人の多さに当てられただけです」
私が微笑むと、彼も穏やかに微笑み返してくれる。その優しさに、どれほど救われてきたことか。
しかし、その時だった。人混みの向こうに、今は決して見たくない見慣れた背中を見つけてしまった。逞しい肩幅、少し癖のある栗色の髪のアンドレだった。彼は一人、所在なさげに屋台の品々を眺めている。その姿を見て、私はふと、あの日以来耳にした噂を思い出した。彼は私を失った後から、どこか虚ろな瞳をしているという。
心がざわつく。逃げ出したいような、駆け寄りたいような、矛盾した感情が渦巻いていく。そして、運命のいたずらのように、彼の視線がふとこちらに向けられた。私と隣にいるロッドを見つめ、彼の瞳が大きく見開かれる。
その瞬間、気まずい沈黙が広がる。祭りの喧騒だけが、やけに大きく響いているように感じた。
「……奇遇だな」
先に口を開いたのはロッドだった。さすが王太子、どんな時でも冷静さを保ち穏やかに話すその姿は、動じることのない高潔さを感じさせる。
「アンドレ卿。息災そうで何よりだ」
「……ロッド殿下」
私とロッドのあまりにも親密な感じに、アンドレは心の中で大きな衝撃を受けたのだろうか? 彼の声は、ひどくかすれていた。何かを抑え込むように絞り出すように、発せられたその声に彼の苦しみが感じられる。
その時、物陰からぬるりと姿を現したもう一人の人物。キャンディだ。アンドレを巡って私と火花を散らし、彼に絶縁された後、しばらく姿を見なかったはずの彼女が何故ここにいるのだろう。意外にも元気そうに見えた。
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彼女の呟きは、誰の耳にも届かないほど小さかったが、それでも確かに彼女の唇から発せられた。
四つの視線が、気まずく絡み合う。その場に漂うのは、過去の愛憎と今の関係性が入り混じった複雑な感情。それらが、夏の夜の熱気の中で溶け合うように混ざり合い、どうしようもなくぎこちなく重く感じられた。
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