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【4】器

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「本当に大丈夫でしょうか……」

 ゲンジロウの妻であるナミコは病室の前の硬いソファに座ったままつぶやいた。話相手は医師では無く、ビジネスマンとも研究者ともつかないような成の中年男性だ。白衣は着ているがボタンをとめず、ポケットの中に入っているであろうガサガサと音とたてるタバコを吸いにいきたくてたまらない様子で、わずかに足を震わせていた。

「既に実証は済んでいるんですよ、事故もありません、ご主人はまさに生まれ変わって目の前に現れる事になると思いますよ?」

 せいいっぱい親しみを込めようとしているのは何となくわかるのだが、年の功で気持ちが無い事のわかってしまうナミコは壁に向かって話をしているような気持ちだった。

 今となってはもう祈るしか無い。

 それは主治医からの紹介だった。認知症治療の為のそれは治験なのだ、とも。

 だが、何ページにも及ぶ注意事項、幾度と無くさせられたサインと捺印。

 それは、万が一の事が起きた場合の為の予防線では無かったのか。

 息子は辞めた方がよいとも言っていた。

 けれどナミコはもう耐えられなかったのだ。常ならぬ夫の姿をこれ以上見続ける事も。妻ではなく母とみなされる事も。

 元々恋愛感情からの結婚では無かった。しかし、だからといって離婚を望みもしなかった。

 なかなか授からなかった子供も、結婚後十年たちはしたが授かり、今となっては孫もいる。

 息子と孫を、これ以上夫の事でわずらわせたくなかったのだ。

 自分の息子を死んだ兄だと思う夫。

 息子は特に傷つきも悲しみもせず、そのまま受け入れているが、そんな息子家族を見る事がナミコには耐えられなかったのだ。

 口で心配しながらも、万が一の事を実は期待しているのでは無いか、と、昏い思いが染み出してくる。

 これは、治療の一種なのだ。

 そうナミコは思い直す事にした。

 状況が改善されればそれはそれでよし。

 もしそうでないのならば……。

 遠い記憶の中にたゆたう夫に、この先の命は必要なのだろうか。

 そして、それはナミコ自身にも言えた。

 自分は、夫より先に逝くわけにはいかないのだ。禍根を息子一家に残したくない。最低限の身の回りの事もできない、大きな子供のような夫。その心は文字通り幼い頃と壮年の働き盛りを行き来している。

 夫の目にはもう未来は見えていないのだ。だから、これからの息子たちに迷惑をかけるような事はあってはならないのだ。

 ナミコが両手を組み、祈るような様子で縮こまると、今がチャンスとばかりに、

「すみません、ちょっと離席しますので」

 そう言って白衣の男は足早に立ち去っていった。

 この病院に喫煙場があるかどうかはわからないが、恐らくそこに準じる場所へ言ったのだろう。

 別に居ても居なくても、何か説明をするわけでも無い相手だった。

 かえってすっきりした気持ちで閉じられた施術室の扉を見ると、わずかにその扉が動いたのだった。
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