逆光

まよい

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とけたチョコレートみたいな

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 夜、いつもうまく眠ることができない。失恋があってもなくても。眠れそうになる瞬間は、すぐにわたしの手を逃れてゆく。あれからしばらく、沙織に会っていないな、とぼんやり思う。誘う理由も思いつかないけれど。そういう瞬間が連続して、きょうまで来てしまった。スマートフォンが震えて、メッセージが来たことを知らせる。
 「お見舞い、一緒に行かない?」
 夜の一時にメッセージを送ってくる友達は光くんくらいで、「お見舞い」という見慣れない単語に首をかしげた。
 「誰の?」
 「沙織ちゃんの」
 沙織の、とつぶやいた声は、当然ながら誰のところにもとどかない。
 「なにか病気とかしてたっけ」
 「しらないの?」
 食い入るように画面を見るわたしとは裏腹に、軽快な音をたてて、小気味よくメッセージが表示される。わたしはゆっくりとまばたきを繰り返す。
 「沙織ちゃん、いま、骨折して入院してるよ」
 え、とつぶやいた声は、誰のところにもとどかないまま、しゃぼん玉のように浮かんで夜の隙間に消えていく。

 じわじわとなにもかもを焦がすような太陽。駅のホームで電車を待っているだけなのに、からだのあちこちに汗が滲む。夏という季節を考慮せずに黒いブラウスを着てきたことを、すこしだけ後悔した。
 「暑いね、あとでコンビニとか寄る?」
光くんは終始すずしげな顔をしていて、憎たらしさのちょっと手前のところで飄々としている。
 「コンビニより駅でなにか買って行ったほうがいいかも、お菓子とか」
 「完全に忘れてた」
 お見舞いに行こうって言ったのはそっちでしょ、とか、そういうことを言う元気はわたしにはもうなかった。
 「可愛い缶のクッキーがいい」
 「スイーツとかのほうがよくない? せっかくだし」
 光くんは不思議そうな顔をしている。たぶんはじめて見る顔。
 「スイーツはすぐ食べないといけないし、あとに残らないから」
わたしがそう言うと、納得がいったのか、晴れやかな顔になった。どの瞬間も表情がじめじめしていなくて羨ましい。やっぱり茶髪のほうが黒髪より涼しいのだろうか。気になるけれど、わざわざ訊ねる気にはならなかった。

 建物のなかに入ると、病院にただよう独特のにおいがわたしたちの身体を包んだ。受付で名前を書く。光くんの字がカクカクしているということに、はじめて気がつく。そういえば、光くんの字を見るのもはじめてかもしれない。そんなことももう、いまさらだっていうのに。建物ぜんぶが、やたらに白い。
病室に入ると、沙織はわたしたちふたりを見てすこし目をまるくしたのち、やわらかに微笑んだ。表情に痛々しさは全くないのに、だからこそ、白いベッドに横たわる沙織がくるしく見えた。
 「このチョコレート、たべて。ミカコが持ってきてくれたの。この部屋、日の光がよくはいるから溶けちゃって。有名なやつらしいよ」
 「ありがとう。具合はどう?」
 これも、とクッキーの入った紙袋を差し出して、光くんはやさしく笑った。ニコニコしている光くんの、頬のあたりを斜め後ろからながめる。輪郭が光ってみえて、ほんとうにこの部屋の日当たりがいいらしいということを知る。
 「順調らしいよ。自分ではよくわからないけど」
 よかった、と光くんは言って、チョコレートの箱を手にとった。
 「どうぞ」
 光くんから受け取った黒い箱は光をあつめてしまうせいで温まっていて、中身もたしかにもとのかたちを失っていた。かつて繊細なかたちをしていたであろうチョコレート。ひと粒つまむと、指のかたちに沿って歪む。やわらかくなったチョコレートが、人差し指と親指に纏わりつく。ぬるくなっているせいなのか、喉がからからに乾いているせいなのか、焼かれるようにあまい。
 「ごめん、来たばっかりだけど、このあと用事があって」
 ティッシュペーパーで丁寧に指を拭ってから、光くんはそう言った。
 「そっか、来てくれてありがとう。クッキーも」
 ここは退屈だから、とかすかに笑って沙織は言う。
 「じゃあ、また来るから」
 光くんが出ていって、しずかに扉が閉まる。居心地のわるい沈黙がおりる。そういえば、この部屋に来てから光くんばかり喋っていたのだと気がつく。
 「なんでなの?」
 「なにが?」
 沙織はくちびるの端をすこしだけ持ち上げて笑った。
 「なにがって、なんで骨折したのかとか、なんで入院のことを光くんには教えてわたしには教えてくれなかったのかとか、いろいろあるでしょ」
 「光くんはたぶんミカコから聞いたと思う。サークルのみんなでお見舞い行こう、みたいな」
 さきほどのチョコレートのせいではなく、むかむかと胸やけがする。嫉妬みたいな感情なのかもしれないけれど、もはや誰に嫉妬しているのかもわからない。ぜんぜん怒っていないのに、湧いてくる言葉は怒っている人のそれみたいなものばかりで、結局なにも言えない。沙織のことを責めたいわけではないし、しかもこんなところで。しばらくの間、また居心地のわるい沈黙がおりる。わたしは意味もなくティッシュペーパーで指先を拭いつづける。沙織はじっと、真っ白な壁をみつめている。
 「どうやって、失恋したの?」
 「なんで今そんなこと訊くの?」
 「気になったから」
 沙織はじっとなにかをみつめている。言うべき言葉が見当たらない。わたしが黙っていると、沙織がうすく口をひらいた。呼吸の音がやけに鮮明にきこえる。
 「ニール・アームストロングになれなかった」
 「飛んだの? どこから?」
 「ひとりで飛んでも、ひとりだと違う気がして。灯里の手に体重をかけると、なにか掴めたような感じになるんだけど、なにがちがうのかわからなくて。高さが足りないのかと思って、高いところからなら飛べるかなって思って、灯里と一緒の時みたいに」
 そしたら着地に失敗した、と沙織は言った。入院するほどの怪我をしているくせに、妙にあっさりとしている。目を伏せて、おおきな瞳がみえなくなる。
 「灯里と出会う前までは、ひとりで飛んでいたはずなのに」
 「なれないよ、ニール・アームストロングには」
 「でも」
 「わたしたちには羽根がないし、わたしたちには宇宙船もない」
 「灯里が手を貸してくれるとき、輪郭がもらえたような気がする」
 「わたしも手を貸すとき、沙織が世界から切り離されていると思ってるよ。でも、切り離されたあとの沙織にわたしが輪郭をあげているわけじゃない」
 「でも」
 沙織がわたしを見ていないのに、居心地のわるさは変わらない。沙織を照らす太陽がゆっくりと傾いてきている。真っ白だった部屋の中がわずかにオレンジになる。
 「私も灯里に輪郭をあげられたらよかった」
 輪郭じゃなくても、と沙織は言って、またゆっくりとまばたきをした。つややかにひかるおおきな瞳が、オレンジ色の光を吸いこんでいる。
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