上 下
1 / 1

男装令嬢、お茶会に赴く

しおりを挟む
「ミーア。お前だけが頼りだ」

 事の発端は、二週間前のガーデンパーティーだった。
 貴族の子どもたちの交友会で、お忍びの第一王女が双子の兄に恋をした。御年十二歳の王女は思い込みが激しく、これは運命の恋だわと騒ぎ、熱烈なアプローチをした。王女の機嫌を損ねるわけにはいかず、お友達から始めましょうと、その場は事なきを得た。
 しかし、それを真に受けた王女から再三にわたり、お茶会の招待状が届く。
 断るわけにもいかず、おずおずと顔を見せに行くと、自己アピール攻撃は激しくなる一方だった。昼夜を問わずに自筆のお手紙も届き、とうとう兄は寝込んでしまった。
 もともと気弱な性格だったのもあるが、双子の妹であるミーアに言わせれば、よくここまで持ちこたえたと思う。

「どうかノエルの代わりに、断ってきてくれ。我が家に王女殿下を迎えることを考えただけでも、胃がキリキリする。カレンベルクの家系は皆、小心者なんだ。わかるだろう?」

 父親のローエンがすがるような目を向けてくる。
 ミーアは母親譲りの翡翠の瞳を瞬き、人差し指を顎にのせた。

「気持ちはわからないこともありませんけれど……バレたときが大変なのでは?」
「幸か不幸か、お前たちは顔だけでなく、声もそっくりだ。口調を真似れば、どっちか区別がつかない。よく知る者なら騙されないだろうが、王女殿下とはまだ面識も浅い。勝機はある」
「……わかりました。断ってきたらいいのですね?」

 死んだ母が生きていたら止めていただろうが、小心者の身内をかばえるのは自分しかいない。そうと決まったら、行動は早いほうがよい。
 執事を呼び、男装の準備について詳細な打ち合わせをした後、ミーアは夕食の席にいた。兄はまだベッドの上だ。ローエンはカトラリーを置いて、ジッと娘を見つめる。

「何も髪を切る必要はなかったんじゃ……」

 長かった藤色の髪は今、肩につくほどの長さに変わっていた。着ている洋服も兄のものだ。その場しのぎの演技で王女を騙せるとは思えない。兄になりきるには、今から練習を積み重ねておく必要がある。

「……話を聞く限り、王女様は溌剌とした方のようです。何が起こるかわかりません。バレたときのリスクを考えれば、これぐらいの覚悟は必要です」
「で、でも、きれいな髪がもったいない……」
「髪はすぐに伸びます。それに、勝ち気な女を娶りたいという殿方もそうはいません。もとより、行き遅れは覚悟の上です」
「気概は素晴らしいが、父親としては複雑だ……」

 ローエンの嘆きは聞き流し、ローストビーフにソースをつけて口に運んだ。

   ◆◇◆

 自分は高熱に浮かされて、ここ数週間の記憶があやふやになっているという設定を作り、ミーアは王城に向かった。噂はローエンに流してもらった。寝込んでいる本物の兄からは「……頼む」とだけ言われている。やるしかない。
 向かう先は王女がよく使うサロンだ。白雪の間というらしい。白い柱が続く回廊を渡っていると、向かい側から騎士姿の若い男が歩いてきた。目礼して通り過ぎようとするが、面識があったのか、話しかけられてしまった。

「ノエル様。数日寝込んでいたと伺いましたが、もう大丈夫なのですか?」

 捕まってしまったものは仕方がない。話を合わせるほかない。
 この三日間の特訓の成果を見せるときだ。ミーアは兄ならどう言うかを考え、口を開いた。

「今はこのとおり、回復したよ。……ただ、熱の弊害で……」
「ああ、確か記憶が一部欠けているとか。おつらいですね。あ、私はジェラルド殿下の護衛をしております、アルヴィでございます。……覚えていらっしゃいませんか?」

 ミーアは目の前の男を見返す。
 淡い金髪にアクアマリンと同じ瞳の色。ふわふわに波打った髪は柔らかそうで、整った顔立ちをしている。目元は涼しげな一重で、色気を感じさせる。

「すまない。アルヴィ殿。まだ記憶が混乱しているんだ」
「早くよくなるとよいですね。よろしければ、ご案内しましょうか」
「白雪の間は……この通りをまっすぐ行った先で合っているだろうか?」
「はい」
「ならば供は必要ない。貴殿も仕事があるのだろう? 護衛の任務を優先してくれ」
「承知しました。ジェラルド殿下もお茶会に呼ばれていますので、後ほど合流できるでしょう。では」

 一礼して去っていくのを見送り、ミーアは内心ため息をつく。

(ジェラルド殿下って、まだ八歳の第三王子よね? 王子もお茶会に呼ばれているなんて聞いてないわよ……)

 王女だけを騙せば終わりかと思っていたが、違うようだ。
 しかし、すでに作戦は始まっている。今さら退けない。頼れるのは自分だけだ。気を引き締めて歩みを再開した。

   ◆◇◆

 白雪の間には、第一王女と側仕えのメイドが揃って待っていた。
 小柄な王女は腰までまっすぐに伸びた髪を揺らし、駆け寄ってくる。ふと、耳元から編み込まれた後ろ髪に挿された華やかな簪|《かんざし》が目に留まる。花びらをいくつも重ねた簪は、小さな宝石が連なって飾られ、王女が身じろぎするたび軽やかに揺れた。

「ノエル様、少し見ない間にやつれられたようですわ……。熱がなかなか下がらず、今は記憶もあいまいだとか……。まだ安静になさっていたほうがよろしいのでは?」

 ミーアは王女の前で膝をつき、見上げるようにして視線を合わす。

「エヴェリーナ様、ご心配には及びません。それに、本日はあなたにどうしてもお伝えしたいことがあって参りました」
「まぁ……なんですの?」
「求婚の件ですが……」

 早速本題に入ろうとしたところで、来客用のベルが鳴る。メイドが取り次ぎ、ジェラルドとアルヴィが姿を見せる。

「エヴェリーナ姉上、本日はお招きありがとうございます。ノエル義兄上もお元気そうで安心いたしました」

 ほっとした様子で笑顔を見せる若き王子に、ミーアの思考は停止した。

(義兄上。あにうえ。……あにうえ!?)
 
 驚きをどうにかやり過ごし、とにかく否定しなければ、と息を吸い込んだところで一歩出遅れた。エヴェリーナが前に進み出て、弟を歓迎する。

「よく来てくれたわ、ジェラルド。今日は隣国から取り寄せたお菓子があるのよ」
「わぁ、楽しみです」

 エヴェリーナとジェラルドは、二人並ぶとよく似ている。金茶色の髪にアンバーの瞳は王族共通のもので、やや垂れ目な目元は優しげだ。
 ミーアは花が飾られたテーブルに誘導され、エヴェリーナの斜め向かいの席に座る。ジェラルドは姉の横の席だ。壁際で皆の様子を見守っているアルヴィを見やると、ふわりと微笑が返ってくる。

(なんだか見張られているようで落ち着かないわね……)

 ケーキスタンドに載った軽食を各自のお皿に取り分け、和やかな雰囲気でお茶会が始まる。素直なジェラルドは姉の解説に耳を傾け、一口大のチョコレートに目を輝かせた。

「これが外国のお菓子ですか……まるで宝石みたいですね」
「ええ、そうでしょう? ノエル様にも喜んでいただきたくて。さあ、どうぞ召し上がって」
「……いただきます」

 円形にお花のデコレーションがされたチョコレートを口に頬張る。ほろ苦いチョコレートが口の中で溶け、中に入っていたピスタチオがいいアクセントになっている。

「これは……美味しいですね。食べるのがもったいないくらい」
「でしょう? わたくしも初めはびっくりしたわ」
「姉上、これは大人の味がします。ですが、口の中でとろける瞬間が楽しいです」
「ふふ、喜んでもらえてよかったわ」

 姉弟の平和な会話を聞きながら、ミーアは話すタイミングを計りかねていた。

(まさか、弟王子にまで義兄上扱いされているなんて……。お兄様が行っていたお茶会はジェラルド様もいつも一緒だったのかしら?)

 今日は縁談を蹴りに来たのだ。
 王女に泣かれる可能性は高いと思って腹を決めていたが、弟王子までの扱いは想定していない。自分の言葉でお茶会がぶち壊しになる展開を想像して、気鬱になる。

「そういえば、ノエル様。先ほどは話が途中でしたわね。わたくしに何か伝えたいことがあるとか。……はっ、とうとう求婚のお返事を聞かせてくれるのかしら!?」

 アンバーの瞳が期待できらきらと輝き、罪悪感が一気に高まる。
 細く息を吐き出し、ミーアは口元を引き締めた。

「エヴェリーナ様のお気持ちは嬉しいです。ただ、やはり求婚はお受けできません」
「まぁ、なぜですの? わたくしに何の問題が?」

 さすが、聞いていたとおりだ。折れることを知らない人の物言いだ。
 ミーアは目元をそっと伏せ、懺悔をするように両手を組んだ。ちなみにこれは兄がよくする癖の一つだ。

「実は……ずっと言えずにいたのですが、僕には他に恋い慕う人がいるのです」
「それは……わたくしのことではないの?」
「道ならぬ恋なのです。どうか、そっとしておいてくださいませんか?」
「まぁ、道ならぬ恋……ですって? お相手は一体……」

 衝撃のあまり、エヴェリーナが頬にあてる指先が小刻みに震えている。

(相手はいないんだけど……どうしたものかしら)

 実在しない相手の正体を明かすことはできない。こうなったら、のらりくらりと躱すしかない。
 困ったミーアは部屋を見渡し、白い軍服を着たアルヴィに目を留める。だが、その視線の先を追っていたのだろう。ガタンッという音ともに、エヴェリーナが椅子から立ち上がった。
 反射的にマズい、と思ったときには、彼女はすでに結論を出していた。

「もしかして、相手はアルヴィ……!? そうなのね!」
「…………」
「そもそも、女のわたくしでは、ノエル様の心を射止めることができなかったのね。わたくし、わたくし……うっ、ううう」

 大粒の涙をためて、エヴェリーナは悲しげに眉を寄せた。
 けれど、泣きたいのはこちらのほうだ。
 なぜ、よりによって男が好きだという話になっているのか。完全に自分のキャパを超えている。さすがに兄に申し訳が立たない。

(だけど……エヴェリーナ様の涙はきれいね。本当にお兄様が好きだったんだわ……)

 王女の瞳から、ひたひたと涙のしずくが頬を伝い落ちる。
 その泣き顔は思わず見惚れてしまうような美しさがあり、胸が締めつけられた。
 今さら、ひどい男になってしまった事実は変えられない。だが、純真な女の子を悲しい表情のままにしておくこともできない。
 ミーアは彼女の背後に回り込み、華奢な肩をなだめるように両手を置く。糸が切れたように、すとん、とエヴェリーナが椅子に座った。ミーアは彼女の足元に跪き、絹のハンカチを差し出した。

「泣かないでください。エヴェリーナ様。わ……僕はあなたを泣かせたいわけではないのです。あなたに好意を寄せられて喜ばない男はおりません」
「でも……だって……わたくしは。あなたに嫌われるようなことをしました。好きな殿方がいるのに迫って……さぞ迷惑だったことでしょう」
「それでも、王女殿下に慕われることは名誉なことでした。僕とあなたの道は交わらないですが、あなたの幸せを祈ってもよいでしょうか?」

 兄から借りたハンカチを握りしめ、エヴェリーナは目を丸くする。

「姉上。ぼくも祈らせてください。姉上の幸せを」

 ジェラルドも便乗し、部屋中の視線がエヴェリーナに集まる。
 気高き王女は涙を指先で拭い取り、そっと微笑んだ。

   ◆◇◆

 話を無事丸く収めて、安堵できたのは短い時間だった。
 勉強があるらしいジェラルドを先に見送り、ミーアも頃合いを見てそそくさと退室した。できるだけ人気のない道を選んで歩いていると、ふと淡い金髪が目に入る。

(しまった……この人のこと、忘れてた)

 ジェラルドの姿はない。一人で待ち構えていたのだろう。
 行く手を塞ぐように立つアルヴィは目が合うと、隙のない笑顔を向けた。

「もうお帰りですか?」
「は、はい……」
「残念ですが、このまま帰すわけにはいきません。少々付き合ってもらいます」

 有無を言わさぬ口調に、ミーアは力なく頷いた。

「……かしこまりました」

 連行された先は狭い一部屋だった。物置になっているのか、棚にはいくつかの箱が並べられている。窓から差し込む夕日に照らされたアルヴィの顔は厳しい。

「……あの、怒っていますか?」

 おずおずと切り出すと、アルヴィはずんずんと近づいてきて肩に顔を埋めた。何が起こっているのかわからず、硬直するミーアの耳元で声が囁く。

「……甘い香りですね……」
「はっ? え、な、なに、を……」

 背中に手を回され、抱きしめられる格好になる。助けを求めて伸ばした手が虚しく宙を切る。異常事態が起こっている。一体なぜ。
 そこまで考えて、ある可能性に気がつき、ミーアは声を大にして謝罪の言葉を口にした。

「ご、ごめんなさい。道ならぬ恋というのは嘘です! あなたの気持ちには応えられません! だから、この手を離してください!」

 必死に言い募ると、すぐに腕の拘束は解かれた。ミーアは脱兎のごとく、ドアまで一気に後退して距離を取る。警戒をあらわにしていると、アルヴィが真顔で見つめてくる。

「あなたは……ノエル・カレンベルクではないですね」
「……っ……!」

 否定しなければ、肯定したのと同じだ。そう思うのに、口の中で言葉が空回りする。
 その様子すら見透かしたように、アルヴィは淡々と述べる。

「姿形はそっくりですが、あなたは男性ではない。女物の髪の匂い、体の線の細さ、そして何より、佇まいが本物より優雅だった」
「…………」
「本物のノエル様はいつも自信なさそうに、びくびくとしていらっしゃいました。ですが、今日のあなたには余裕がある。ふとした仕草にも違和感がありました」

 気をつけていたつもりだったのに、勘づかれるとは。

(騎士の観察力をなめていたわ……!)

 何としてでも、王女や王子にバレるわけにはいかない。目の前の男に口止めさえすれば、まだ活路はある。この際、同情でもなんでもいい。
 ミーアは顎を引き、自分の非を認めた。

「……おっしゃるとおりです。私は双子の妹のミーアと申します。ですが、これにはやむを得ない事情があったのです。昼夜を問わない、王女殿下の熱烈なアプローチに兄は今も寝込んでいます。そして、我がカレンベルク家は王女を受け入れる心の余裕がないのです。ですから、王女の求婚をキッパリ断るために、私は派遣されました」
「では、お兄様の代わりに……?」
「兄は気が弱い男です。貧血がちで、体も丈夫とは言いがたいです。この縁談をお受けするわけにはいかなかったのです」

 切々と訴えると、アルヴィは神妙な表情になった。

「断りきれない男の代わりに、私に白羽の矢が立てられました。王族の方々を騙してしまったことは悪いと思いますが、このままなし崩し的に婚約して結婚した後、王女様が不幸になる未来を避けるためでございました。どうかお見逃しいただきますよう、お願いいたします」

 頭を下げ、自分の靴先を見下ろす。と、そこへ大きい靴が視界に入ってくる。反射的に顔を上げると、アルヴィが困ったように笑った。

「そういう事情なら、私も口を閉ざしておきます」
「……共犯者になっていただけるのですか?」
「ええ、まぁ。そういうことになりますね。私たちは秘密の共犯者です」

 オレンジの光を背後に纏い、アルヴィは内緒話をするように、人差し指を唇に押し当てた。

   ◆◇◆

 王女の求婚騒ぎは一段落し、風の噂によれば、今はルルツェン侯爵令息を追いかけ回しているらしい。寝込んでいた兄も復活し、貴族院で学友と勉学に励んでいる頃だろう。
 平和な一日は素晴らしい。
 そう思いながら蔓草の刺繍に励んでいると、バタバタと騒がしい足音が近づいてくる。かと思えば、バンッと勢いよく私室のドアが開いた。

「大変だ……!」

 ノックもなしに開けられるドアに、父親の後ろにいた執事がうろたえた様子を見せる。しかし、ローエンはいつになく狼狽した様子で、目が血走っていた。
 ミーアは執事に目で大丈夫だと伝えて下がらせ、椅子から立ち上がる。

「一体何事ですか、お父様。落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるか! お前に婚約の申し込みが来たのだ」
「……お兄様ではなく? 私にですか?」
「そうだ」
「何かの間違いでは……」

 思い違いを示唆すると、ローエンは胸元のポケットから一通の封筒を取り出した。それを受け取り、ミーアは宛先を確認した。
 ローエンはソファに力なく座り込み、両手を組んだ。

「間違いなく、ミーア・カレンベルク宛てに届いている。アルヴィ・キースリングという名前に覚えはあるか?」
「……ああ、アルヴィ様ですか。第三王子の護衛の方ですね」
「なんだと? 第三王子の側近に見初められるとは、一体何をしたのだ?」

 見初められた覚えはないが、何をしたかと言われたら一つしかない。

「何って……男装をしましたが」
「ま……まさか……! バレたのか!?」
「確かにバレましたが、口止めはしてあります。問題ありません」
「問題大ありだろう。よもや、男装する趣味があると思われていないよな? いや、もしかして男装のお前が気に入ったとか……!? なんてことだ!」

 頭を抱えてしまったローエンに、ミーアは解決策を提示する。

「落ち着いてください。どういう了見なのか、直接問いただせばよいではありませんか」
「そうだな、問いただす……いや待て。丁寧に尋ねるのだ。相手は王子の側近だ。余計な問題を引き起こしたくない」

 小心者らしい返答だったが、これ以上、取り乱されては困る。ミーアは渋々頷いた。

   ◆◇◆

 王都のカフェのテラス席で待っていると、呼び出した男が真向かいの席に腰を下ろす。

「お待たせいたしました」

 今日のアルヴィは近衛隊の制服ではなく、私服だ。貴族らしく紺地のフロックコートを纏っているので、前回と印象が違う。美しい結び目のクラヴァットには、緑の宝石をあしらったクラヴァットピンが光っていた。
 彼はお水を出しに来た店員に注文を済ませ、優雅な仕草で首を傾げた。

「今日はお返事をいただけるのでしょうか」

 大人の余裕が窺える笑みに、ミーアはわずかに眉根を寄せた。

「――その前にハッキリさせなければいけないことがあります。あなたは女の私がお好きなのですか? それとも男装の……」
「ちょっ、ちょっと待ってください。……何やら誤解があるようです」
「では、やはり婚約の申し込みは兄のほうでしたか」
「…………どうしてそうなるんです?」

 アルヴィは頭が痛いというように額に指先をあてた。
 両者の間に沈黙が訪れる。通りを横切る車輪の音、楽しそうに笑う声、小鳥が羽ばたく音。それらに耳を傾けていると、店員が珈琲を持ってきた。
 その姿を見送り、何やら考えこんでいるアルヴィを見つめる。思い詰めたような表情でさっきから微動だにしないが、そろそろ切り込んでもいいだろうか。
 ミーアはミルクティーを一口飲み、ティーカップをソーサーに置いてから口火を切った。

「あなたと会ったのは兄の姿をしたときだけです。ということは、つまり。男の姿が好ましい、ということでしょう?」
「ち、違います!」
「……え?」

 思わず聞き返すと、慌てたように少し身を乗り出して、否定の言葉が続く。

「断じて違います。私はミーア嬢を女性として見ています。いくら男装していたからといっても、あなたは女性でしょう。そして、男装は趣味ではなく、兄の窮地を救うために致し方なくしたことであると」
「……そうです」

 王女の目は欺けたが、好き好んで男装していたわけじゃない。
 それを肯定すると、アルヴィは満足したように一度頷く。そして、まだ口をつけていないコーヒーカップを一瞥し、次にミーアに視線を合わす。

「あれから、俺はあなたのことが気になって仕方がないんです。しかし、俺たちに接点はありません。ですから、会う機会がないなら作るまでだと考えました」
「……それで、婚約を……?」
「そのとおりです」

 当然だとばかりに頷かれたが、問題はまだ片付いていない。というより、ここからが本題だ。ミーアはテーブルの下でぎゅっと拳を握った。

「で、ですけど……私、髪をばっさり切ってしまって。性格も男勝りだと言われてきて、誰も娶りたいなんて思わないような女ですよ……?」

 今日は外出用のかつらを被っているが、地毛は男のように短いままだ。
 ミーアといえば、地元では悪戯をする男の子たちを締め上げ、その名を轟かせていたほどだ。家族で一人だけ血の気が多いミーアは浮いていた。
 だが、アルヴィは恐れおののくかと思いきや、静かに微笑んで見せる。

「そうですか。それは好都合です」
「だ、だから行き遅れは確定しているようなもので……」
「行き遅れにはさせません。俺が面倒を見ます。どうぞご安心を」
「いや、あの。だから、考え直されたほうがよろしい……かと」

 ミーアの必死の訴えに、アルヴィはゆるく首を振った。

「髪はいずれ伸びますし、人前では今のように取り繕っていれば問題ないと考えます。それに、強気な女性はむしろ好感が持てます。俺は自分の直感を信じます。運命の恋をするなら、あなたがいい」
「…………」
「俺ではだめですか?」

 なぜだろう。今、自分がとても悪いことをしている気分になってくる。
 声が干上がって出てこない。だけど、アルヴィは返事を待っている。覚悟を決め、カラカラになった喉から声を絞り出そうと口を開く。

「……だ……っ……」
「だ?」
「……だめとかじゃないです。……でも、後悔しても知りませんよ?」
「後悔させないよう、全力を尽くします」

 敗北だ。自分はこの先も、この男には勝てない気がする。
 さっきから鼓動が激しいのはこの際、認めよう。ミーアは降参とばかりに、左手をそっと持ち上げた。
 意図はすぐに伝わったようで、アルヴィは椅子から立ち上がり、ミーアの横に跪く。視線が交わると、暁の瞳が嬉しそうに細められる。途端、心臓が跳ねた。
 アルヴィは固まって動けなくなったミーアの左手を優しくつかみ、そっと手の甲に唇を近づけた。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...