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24. 踊らない舞踏会

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 ホールの近くには、従者の控え室や体調を崩したときの個室が設けられている。その一室から一人が退室し、セラフィーナとすれ違う。
 狭い廊下でムスクの甘い香りがふわりと匂い、反射的に振り向く。
 だが若い男は歩みを止めず、そのまま立ち去った。赤茶の髪の後ろ姿を見送るが、どうしても気になって彼の後を追うことにする。

(燕尾服を着ていたけど、他の招待客とは様子が違う気がする……)

 男は舞踏会の会場には戻らずに、そのまま直進した。早足で歩いていたのか、だいぶ距離が離されている。
 何度目かの曲がり角を曲がり、姿が見えなくなって焦って小走りで追う。これで追いつけるはず。そう思った矢先だった。

「……っ……!?」
「お静かに」

 くるりと身体を反転させられ、後ろから抱え込まれる。悲鳴を上げるより先に、口に当てられて言葉を封じられた。

(尾行していたのがバレていた……!?)

 できるだけ気配を消し、ヒールの音は毛足の長い絨毯が吸収していたはずにもかかわらず、相手のほうが一枚上手だった。
 抵抗する意思がないと両手を挙げると、口元を覆っていた大きな手が下ろされる。
 ゆっくり振り向くと、赤茶の髪に温和な表情をした男と視線がぶつかる。どこにでもいるような顔だが、碧色の瞳は見覚えがあった。一見、優しく見える双眸の奥はこちらの反応を窺うような気配が潜んでいる。

(この瞳……どこかで……)

 記憶の糸をたどる。魚の骨が喉元でひっかかったような、もどかしい気持ちで最近会った顔を思い出す。けれど、宮殿で働く仲間とこんなところで偶然会うとも思えない。
 消去法で候補を絞っていくうちに、ある可能性に気がついた。

「あなたは……まさかノイ・モーント伯爵?」

 忘れていたが、今夜は新月だ。そしてここはレクアルとニコラスが招待されているような、大きな舞踏会。その主催者である公爵家には当然、珍しい宝石や彫刻が多く眠っているはずだ。
 男は満足げに口の端をつり上げた。

「おや。一発でわかるとは。ぜひ理由を聞きたいね」
「その油断ならない瞳は一度見たら忘れられないわ。一体、何を盗みに来たの?」
「ふふ。今夜の獲物なら、もういただいた後だよ」

 ホールの給仕で人が出払っているのだろう。使用人すら通らない道に人気はない。誰かの助けを求めたくても、ここからでは声は届かないだろう。もしかしたら、それすらも伯爵の策かもしれない。
 セラフィーナは動揺を悟られないよう、努めて平静な声を出した。

「盗みは犯罪よ」
「わかっているさ。俺は貧しい村の出身でね。私腹を肥やすお貴族様の蓄えを民に分けているだけさ」
「義賊ということなの?」
「まあ、やっているのは泥棒と同じことだけどね」

 肩をすくめて見せる様子は嘘を言っているようには見えない。

「あなたから見たら、どれも同じ宝石かもしれないけど。もしかしたら、この世に一つしかない思い出の品かもしれないじゃない。そんなものを盗んで心が痛まないの?」
「いちいち良心を痛めていたら、怪盗業には向いていないだろうね」

 セラフィーナが言葉を発するより早く、伯爵が口元に人差し指を当てる。耳を澄ませば、誰かが走ってくる気配がした。どこからだろうと意識がそれた一瞬の隙を突いて煙幕が視界を防ぎ、視界が晴れたときには目の前にいた伯爵の姿はなかった。
 きょろきょろと周囲を見渡すが、影も形も見当たらない。

(逃げられたわ……!)

 その原因となった足音が後ろで止まったかと思えば、唐突に名を呼ばれる。

「そこのあなた!」

 幼さを含んだ高い声は記憶に新しい。セラフィーナが振り返ると、一度は身を翻したカレンデュラがそこにいた。

「勝負しなさい!」
「……勝負、ですか?」
「勝ち逃げなんて許さなくってよ。あなたも貴族の一員なら、その家名に誓って勝負を受けなさい」

 便宜上、侯爵令嬢だと紹介されたが、すでに追放された身だ。セラフィーナはもう貴族ではない。ただのセラフィーナなのだ。
 つまり、不要な勝負に乗る理由はない。ない、のだが。
 目元を赤くしたカレンデュラを見ていると、不覚にも心が揺れてしまった。

   ◇◆◇

 王宮にも引けを取らない薔薇園を横目に歩いていると、小走りで近づく足音がする。前を注視すると、燕尾服を着たエディが柱の影から姿を見せた。

「セラフィーナ。よかった、ここにいたんですね」
「……エディ様」
「探しましたよ。どこにも姿が見えなかったものですから」

 心配する眼差しを受け、居たたまれない心地になる。
 騎士服を着ていないエディは今、セラフィーナのパートナーだ。相方が戻ってこなければ、こうして探してきてくれる。その事実が心に波紋を落とす。

(だめ、勘違いしてはだめ。だって、わたくしたちの関係は……)

 彼とは今夜限りの偽りの関係。その役目も一応は果たした。
 これ以上、何を期待するというのだろうか。
 セラフィーナは伝えなければならないことを口にすることで、胸にうずく思いを打ち消した。

「伯爵と会いました」

 この国出身の彼ならばともかく、公国の貴族事情はセラフィーナにはわからない。もちろん、顔だけで爵位を見抜くなんて芸当もできない。
 だから、その爵位が意味する人物は一人しかいない。
 エディはわずかな沈黙の後、そっと息をついた。

「……それは、大怪盗の?」
「ええ」
「……また奴が現れたのですか。まさか、ここでも盗みを……?」
「すでに犯行は終わっていて、逃げられてしまいましたが」

 逃げる際の余裕のある笑みを思い出すだけで、ひどく口惜しい気分になる。
 一度ならず二度までも、みすみす逃がしてしまった。
 せめてドレスでなければ……。

「――怪我は?」
「え?」
「どこか、痛むところはありませんか?」

 どこか真剣な眼差しに、セラフィーナは自分の体を見下ろした。
 宮殿でレクアル付きの上級女官たちが全力で仕上げてくれた化粧とドレスは、まさに淑女の武装ともいえる出来映えだ。当然ながら、借り物のドレスは美しいままである。
 伯爵は油断できない相手だが、紳士だった。

「……いいえ、傷一つございません」
「あなたに怪我がなくてよかったです」

 ホッと表情を緩めた顔を見て、申し訳ない気持ちが募る。 

「ご心配をおかけして申し訳ございません。でも、エディ様に心配していただけて嬉しいです」
「当然です。あなたは殿下の第二妃候補ですから」
「――――」
「どうしました?」
「い、いえ。なんでもありません」

 小さく頭を振って、邪念を振り払う。エディはその反応を無言で見ていたが、遠くから聞こえる宮廷楽団の音色に顔を上げ、それからセラフィーナに視線を戻す。

「主催者と殿下に挨拶して帰りましょう」

 労るように背中に手を添えられ、会場までの道を二人で歩く。
 確かに用事は終わった。納得してもらえたかはともかく、カレンデュラとも話した。ならば、ここにいる必要はない。頭では理解できるのに、どうしてだか心が波立つ。
 静寂に包まれた中、彼の靴音と自分のヒールの音が余韻を残して響く。
 結局、その日は円舞曲を一曲も踊ることなく、帰りの馬車にいた。目の前に座るエディが視線に気がついて笑みを浮かべる。セラフィーナも笑みを返した。
 自分の役目は最初からわかっていたはずなのに。

 なぜ、こんなにも胸が痛いのだろう。
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