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微笑むポートレイト
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なぜか、そのビルに最寄りの地下鉄の出口にはエスカレーターがない。エスカレーターのあるメインの出口を出れば、とりあえず地上に出ることはできるが、そのビルからは微妙に距離があり、信号のある大きな通りを3本超えなければならない。仕方なく、最寄りの出口の階段を登るのだが、運動が少し苦手な川添勇気にとって、微妙に堪える朝のルーティーンになりそうだ。
勇気にとって最近変わったばかりの職場には、まだ数回出勤したのみである。
日本橋化学株式会社の本社ビルの3階に足を踏み入れた。エレベーターの扉が開くと、殺風景なオフィスフロアの光景が目に飛び込んでくる。どのデスクにも無機質な蛍光灯の光が降り注ぎ、均一に並んだデスクが、冷たく静かな空間を形作っている。その整然とした風景の中に、異質なものが。
勇気の目が捉えたのは、無数のデスクに無造作に置かれた中年男性の顔写真だった。
「朝からおっさんのドアップか…」
まだ就業前ではあるが、その顔写真から疲労感がドッと押し寄せてきた。表情はどこかいやらしげで、その写真がフロアの至る所に並べられている光景は、まるで悪趣味なアートのように勇気を圧倒した。デスクで、気味の悪い写真をしばらく訝しげに見つめるしか無かった。
「それ、ウチの社長だから、顔を覚えておいたほうがいいよ。見かけたらちゃんと挨拶して。」
背後から聞こえた声に、勇気は驚いて振り返った。新卒で日本橋化学株式会社入社、アラフォーの横山信雄が椅子に座ったまま、得意げな顔をして彼に話しかけていた。彼の背後のデスク周りは整然としており、キーボードをカタカタと叩く音が冷たいオフィスに響き渡る。
どうやら、社長の顔を知らずに、すれ違っても挨拶をしない、元かもめ化学株式会社の社員たちに対する日本橋化学株式会社の社員たちの策らしい。
勇気が新卒で入社して10年のかもめ化学は、日本橋化学に最近吸収合併され、このフロアは元かもめ化学の社員たちが集められた異質な空間と化していた。
「朝早くから、ご苦労様です。」
内心の不快感を押し隠しながら、勇気は斜めに顔を向け、横山に礼を述べた。このオフィスで発する言葉は、全て空虚だった。
彼の心は既にPCの画面に向かっていた。今日の予定を確認するが、スケジュール表には何も書かれていない。それも当然である。100人以上いる部門で、新しく新設された広域流通グループと銘打たれた勇気のいるグループは、なんと勇気ひとりで、上司も部下もいない。当然、スケジュールなど、勇気がきめない限り、あるわけがない。
吸収合併によって、便宜的に寄せ集められた、名ばかりの部門で、実務が進む気配はなかった。蛍光灯の光がデスクに反射し、フロア全体が白々とした静寂に包まれている。勇気はその無機質な空気に耐えられなくなり、そそくさと本社ビルを後にした。
「行ってきます。」
無意味に周囲の社員たちに挨拶しながら、勇気はビルを出た。しかし、行き先も定まらなかった。
10時前の神田駅は、まだポツリポツリとこれから出勤する人々も居る。会社を去ってきた勇気にとっては、少し異質な感じがした。特段、向かう場所もない。
自宅のある川崎駅へと向かっていたが、全く無意識の行動であった。時計を見るとまだ午前10時半。このまま帰宅すれば、何も知らない妻が不安になるだろう。駅前に戻ってきたことを後悔しながら、勇気はしばらく駅周辺を彷徨った。
やがて、ショッピングモールの1階にあるゲームセンターが目に入った。入り口から漏れるカラフルな照明と、賑やかなゲームの音が彼を迎え入れる。勇気はフロアに入り、無意味にクレーンゲームに手を出した。彼が狙ったのはバイキンマンのぬいぐるみだ。なぜそのキャラクターなのか、理由は分からない。ただ、無機質な蛍光灯の光から逃れたかったのかもしれない。
何度も小銭を投入し、クレーンのアームがぬいぐるみに掴みかかる。が、あと一歩のところで、ぬいぐるみは滑り落ちる。そのたびに勇気は虚無感に襲われた。ゲーセンの中に響き渡るゲームの音すら、彼には無音のように感じられる。
最終的に、10回以上お金をつぎ込んで2500円を費やした末、ようやくバイキンマンのぬいぐるみを手に入れた。昼の陽光が差し込む商店街を、スーツにネクタイ姿のまま、ぬいぐるみを抱えて歩く勇気。その姿はどこか滑稽であり、同時に哀愁が漂っていた。彼は次にどこへ向かうべきか、途方に暮れながらランチの場所を探し始めた。
ノルマもなければ、上司も部下もいない。取り立てて仕事もないが、給料は貰える。
勇気は、こんな生活も悪くはないかも知れない、と思った。
徐に昔よく行った蕎麦屋で、カツ丼とかけそばのセットを注文し、スマホを眺めていたら、近くの席でどこかで見たことのある人影が視界に入った。
勇気にとって最近変わったばかりの職場には、まだ数回出勤したのみである。
日本橋化学株式会社の本社ビルの3階に足を踏み入れた。エレベーターの扉が開くと、殺風景なオフィスフロアの光景が目に飛び込んでくる。どのデスクにも無機質な蛍光灯の光が降り注ぎ、均一に並んだデスクが、冷たく静かな空間を形作っている。その整然とした風景の中に、異質なものが。
勇気の目が捉えたのは、無数のデスクに無造作に置かれた中年男性の顔写真だった。
「朝からおっさんのドアップか…」
まだ就業前ではあるが、その顔写真から疲労感がドッと押し寄せてきた。表情はどこかいやらしげで、その写真がフロアの至る所に並べられている光景は、まるで悪趣味なアートのように勇気を圧倒した。デスクで、気味の悪い写真をしばらく訝しげに見つめるしか無かった。
「それ、ウチの社長だから、顔を覚えておいたほうがいいよ。見かけたらちゃんと挨拶して。」
背後から聞こえた声に、勇気は驚いて振り返った。新卒で日本橋化学株式会社入社、アラフォーの横山信雄が椅子に座ったまま、得意げな顔をして彼に話しかけていた。彼の背後のデスク周りは整然としており、キーボードをカタカタと叩く音が冷たいオフィスに響き渡る。
どうやら、社長の顔を知らずに、すれ違っても挨拶をしない、元かもめ化学株式会社の社員たちに対する日本橋化学株式会社の社員たちの策らしい。
勇気が新卒で入社して10年のかもめ化学は、日本橋化学に最近吸収合併され、このフロアは元かもめ化学の社員たちが集められた異質な空間と化していた。
「朝早くから、ご苦労様です。」
内心の不快感を押し隠しながら、勇気は斜めに顔を向け、横山に礼を述べた。このオフィスで発する言葉は、全て空虚だった。
彼の心は既にPCの画面に向かっていた。今日の予定を確認するが、スケジュール表には何も書かれていない。それも当然である。100人以上いる部門で、新しく新設された広域流通グループと銘打たれた勇気のいるグループは、なんと勇気ひとりで、上司も部下もいない。当然、スケジュールなど、勇気がきめない限り、あるわけがない。
吸収合併によって、便宜的に寄せ集められた、名ばかりの部門で、実務が進む気配はなかった。蛍光灯の光がデスクに反射し、フロア全体が白々とした静寂に包まれている。勇気はその無機質な空気に耐えられなくなり、そそくさと本社ビルを後にした。
「行ってきます。」
無意味に周囲の社員たちに挨拶しながら、勇気はビルを出た。しかし、行き先も定まらなかった。
10時前の神田駅は、まだポツリポツリとこれから出勤する人々も居る。会社を去ってきた勇気にとっては、少し異質な感じがした。特段、向かう場所もない。
自宅のある川崎駅へと向かっていたが、全く無意識の行動であった。時計を見るとまだ午前10時半。このまま帰宅すれば、何も知らない妻が不安になるだろう。駅前に戻ってきたことを後悔しながら、勇気はしばらく駅周辺を彷徨った。
やがて、ショッピングモールの1階にあるゲームセンターが目に入った。入り口から漏れるカラフルな照明と、賑やかなゲームの音が彼を迎え入れる。勇気はフロアに入り、無意味にクレーンゲームに手を出した。彼が狙ったのはバイキンマンのぬいぐるみだ。なぜそのキャラクターなのか、理由は分からない。ただ、無機質な蛍光灯の光から逃れたかったのかもしれない。
何度も小銭を投入し、クレーンのアームがぬいぐるみに掴みかかる。が、あと一歩のところで、ぬいぐるみは滑り落ちる。そのたびに勇気は虚無感に襲われた。ゲーセンの中に響き渡るゲームの音すら、彼には無音のように感じられる。
最終的に、10回以上お金をつぎ込んで2500円を費やした末、ようやくバイキンマンのぬいぐるみを手に入れた。昼の陽光が差し込む商店街を、スーツにネクタイ姿のまま、ぬいぐるみを抱えて歩く勇気。その姿はどこか滑稽であり、同時に哀愁が漂っていた。彼は次にどこへ向かうべきか、途方に暮れながらランチの場所を探し始めた。
ノルマもなければ、上司も部下もいない。取り立てて仕事もないが、給料は貰える。
勇気は、こんな生活も悪くはないかも知れない、と思った。
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