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Chapter1
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穂積春人は、誰の記憶にも残ることができない。
その異常は、いつのまにか彼の人生の底に沈んでしまった、感情のない日常のひとつだった。
始まりは幼い頃――
だが、その理由と原因を彼は知らない。二十四時間という時間が過ぎれば、人々の中から春人に関する記憶は、汚れを洗い流すようにきれいに抜け落ちる。
使った物や残した痕跡は残り続けるが、そこに「彼がいた」という事実だけが、人々の認識から消えてしまう。どれほど近くで深く関わったとしても、人は春人を「昨日からの続き」として正しく認識することができない。
理由を探したところで、結局どこにも辿り着けなかった。ただ、「忘れられる」という事実だけが残り、あとは時間が押し流していく。何度繰り返しても変わらない出来事に、驚くことすらなくなった。忘れられるという現象は、もはや特別ではない。春人にとっては、朝に冷たい空気が流れ込んでくるのと同じように、ただ「そこにあるもの」として扱われている。
抗う気力も、理由を求める熱もとうに失われた。残っているのは、「そういうものだ」という乾き切った諦念だけだった。
昼前の客足が途切れた時間帯だった。店内にミルの音だけが細く響いている。カウンター席に、扉のベルと同時に一人の男が腰を下ろした。常連のような慣れた動きだったが、春人には覚えがない。これもいつものことだ。
「オリジナルブレンドひとつ。砂糖とミルク多めで」
声は明るいが、随分と甘党らしい。春人は短く頷き、豆を挽き始めた。
「お兄さん、今日はクッキーないの?」
抽出の合間に、男が軽く首を傾けて尋ねてきた。
「本日はご用意がありません。日替わりですので」
言いながら、代わりに小さなメレンゲを皿にのせて差し出す。
「そっか。じゃあまたそのときに来ればいいね」
男はふっと笑い、メレンゲをつまんで口へ運んだ。そのあまりに自然な仕草を見て、春人の思考が一瞬だけ停止する。まるで、以前にも全く同じ会話をしたかのような口ぶりだった。だがすぐに胸のざわつきは消えた。男が覚えているのは「店の商品」であって、自分のことではない――
そう理解するのは、もう生きるための習慣になっていた。
――その日からだった。乾き切った日が、少しずつ、しかし確実にその「乾燥」を変質させ始めたのは。
翌日。昼前、また扉のベルが鳴った。来たのは昨日の男だった。春人はすぐに気づいた。しかし、心には「初めて入店した、陽気な客」として映っている。
「やあ、お兄さん。今日はクッキーある?」
口調も笑顔も昨日と変わらない。ただ春人にとって、クッキーのことを尋ねる客は珍しくない。「今日もクッキーか」と軽く流す。
「本日はチョコサンドをご用意しています」
「お、いいね。昨日のメレンゲも美味しかったけど、チョコも好きだよ」
また「昨日」。しかし春人は、昨日も今日も同じ商品棚の前で購入した客を、ただ見ているだけだと判断した。些細な違和感を、深追いする理由はどこにもない。
三日目の昼。思ったより客が多く、店内はほどよく声が満ちていた。春人がエスプレッソを落としていると、また扉が鳴る。男は昨日と同じ席に腰を下ろし、ひらひらと手を振った。
「今日は混んでるね。昨日はもっと静かだった気がするけど」
春人は胸の奥に小さなズレを感じる。だが、客の立場からすれば、店の雰囲気を覚えている程度の話だ。
「オリジナルブレンドを?」
「もちろん。眠気覚ましにね」
そう言う男の声は軽い。しかし、次の一言が、春人の意識にじんわりとした熱となって残った。
「よかった、今日は眠そうじゃないね。昨日は目を瞑ったらすぐ寝ちゃいそうな感じだったけど」
——何を、見て。
春人は一瞬、手を止めた。だが忙しさに紛れ、その疑問はゆっくりと、いつもの静寂に沈んでいった。
四日目。昼下がり、客足が途切れた頃、扉が控えめに鳴る。
「こんにちは。昨日のと同じやつね」
常連客のような気安さで、男は席に腰を下ろす。春人は淡々と豆を挽いた。日常のルーティンのように。抽出し終えたコーヒーを置くと、男は湯気を吸い込むようにして目を細めた。一口含み、やわらかく微笑む。
「うん。やっぱり君のが一番美味しいね」
春人の胸に、小さな釘が硬い床に打ち込まれるような感覚が走る。
「昨日も思ったけど、ここの珈琲は落ち着く」
——昨日も。昨日も何を思ったというのか。
「……昨日?」
思わず、言葉が音として漏れた。
「うん。昨日の朝のほうが、ちょっと眠そうだったけど」
その瞬間、逃げ道が消えた。男は「店」を覚えているのではない。「穂積春人」を、「昨日の続き」として見ている。春人の声は自然と低くなる。乾いた音が混ざった。
「……あんたは、……俺を覚えてるんですか?」
男は首を軽く傾け、春人を見る。驚きではなく、ただ「当然」を言われたような表情で。
「え? 覚えてないわけないじゃん。昨日も、その前も、会ってるんだから」
春人は息を飲む。彼の日常と化していた世界の法則が、ごく静かに、ひっそりと音を立てて崩れ始めた。
その異常は、いつのまにか彼の人生の底に沈んでしまった、感情のない日常のひとつだった。
始まりは幼い頃――
だが、その理由と原因を彼は知らない。二十四時間という時間が過ぎれば、人々の中から春人に関する記憶は、汚れを洗い流すようにきれいに抜け落ちる。
使った物や残した痕跡は残り続けるが、そこに「彼がいた」という事実だけが、人々の認識から消えてしまう。どれほど近くで深く関わったとしても、人は春人を「昨日からの続き」として正しく認識することができない。
理由を探したところで、結局どこにも辿り着けなかった。ただ、「忘れられる」という事実だけが残り、あとは時間が押し流していく。何度繰り返しても変わらない出来事に、驚くことすらなくなった。忘れられるという現象は、もはや特別ではない。春人にとっては、朝に冷たい空気が流れ込んでくるのと同じように、ただ「そこにあるもの」として扱われている。
抗う気力も、理由を求める熱もとうに失われた。残っているのは、「そういうものだ」という乾き切った諦念だけだった。
昼前の客足が途切れた時間帯だった。店内にミルの音だけが細く響いている。カウンター席に、扉のベルと同時に一人の男が腰を下ろした。常連のような慣れた動きだったが、春人には覚えがない。これもいつものことだ。
「オリジナルブレンドひとつ。砂糖とミルク多めで」
声は明るいが、随分と甘党らしい。春人は短く頷き、豆を挽き始めた。
「お兄さん、今日はクッキーないの?」
抽出の合間に、男が軽く首を傾けて尋ねてきた。
「本日はご用意がありません。日替わりですので」
言いながら、代わりに小さなメレンゲを皿にのせて差し出す。
「そっか。じゃあまたそのときに来ればいいね」
男はふっと笑い、メレンゲをつまんで口へ運んだ。そのあまりに自然な仕草を見て、春人の思考が一瞬だけ停止する。まるで、以前にも全く同じ会話をしたかのような口ぶりだった。だがすぐに胸のざわつきは消えた。男が覚えているのは「店の商品」であって、自分のことではない――
そう理解するのは、もう生きるための習慣になっていた。
――その日からだった。乾き切った日が、少しずつ、しかし確実にその「乾燥」を変質させ始めたのは。
翌日。昼前、また扉のベルが鳴った。来たのは昨日の男だった。春人はすぐに気づいた。しかし、心には「初めて入店した、陽気な客」として映っている。
「やあ、お兄さん。今日はクッキーある?」
口調も笑顔も昨日と変わらない。ただ春人にとって、クッキーのことを尋ねる客は珍しくない。「今日もクッキーか」と軽く流す。
「本日はチョコサンドをご用意しています」
「お、いいね。昨日のメレンゲも美味しかったけど、チョコも好きだよ」
また「昨日」。しかし春人は、昨日も今日も同じ商品棚の前で購入した客を、ただ見ているだけだと判断した。些細な違和感を、深追いする理由はどこにもない。
三日目の昼。思ったより客が多く、店内はほどよく声が満ちていた。春人がエスプレッソを落としていると、また扉が鳴る。男は昨日と同じ席に腰を下ろし、ひらひらと手を振った。
「今日は混んでるね。昨日はもっと静かだった気がするけど」
春人は胸の奥に小さなズレを感じる。だが、客の立場からすれば、店の雰囲気を覚えている程度の話だ。
「オリジナルブレンドを?」
「もちろん。眠気覚ましにね」
そう言う男の声は軽い。しかし、次の一言が、春人の意識にじんわりとした熱となって残った。
「よかった、今日は眠そうじゃないね。昨日は目を瞑ったらすぐ寝ちゃいそうな感じだったけど」
——何を、見て。
春人は一瞬、手を止めた。だが忙しさに紛れ、その疑問はゆっくりと、いつもの静寂に沈んでいった。
四日目。昼下がり、客足が途切れた頃、扉が控えめに鳴る。
「こんにちは。昨日のと同じやつね」
常連客のような気安さで、男は席に腰を下ろす。春人は淡々と豆を挽いた。日常のルーティンのように。抽出し終えたコーヒーを置くと、男は湯気を吸い込むようにして目を細めた。一口含み、やわらかく微笑む。
「うん。やっぱり君のが一番美味しいね」
春人の胸に、小さな釘が硬い床に打ち込まれるような感覚が走る。
「昨日も思ったけど、ここの珈琲は落ち着く」
——昨日も。昨日も何を思ったというのか。
「……昨日?」
思わず、言葉が音として漏れた。
「うん。昨日の朝のほうが、ちょっと眠そうだったけど」
その瞬間、逃げ道が消えた。男は「店」を覚えているのではない。「穂積春人」を、「昨日の続き」として見ている。春人の声は自然と低くなる。乾いた音が混ざった。
「……あんたは、……俺を覚えてるんですか?」
男は首を軽く傾け、春人を見る。驚きではなく、ただ「当然」を言われたような表情で。
「え? 覚えてないわけないじゃん。昨日も、その前も、会ってるんだから」
春人は息を飲む。彼の日常と化していた世界の法則が、ごく静かに、ひっそりと音を立てて崩れ始めた。
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