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1巻
1-2
彼女は不満そうな表情を浮かべ、これで会話は終わりかと思ったのですが、打って変わって嬉々とした表情で話題を変えました。
「ところで、ロンドバルド辺境伯についての噂はご存じですか?」
「いえ、あまり」
私が答えると、彼女は再びとうとうと語りだしました。
「辺境伯は変わり者と聞きますが、広い領地とかなりの軍事力を持つため、王国も彼の機嫌を取るためにさまざまな貴族令嬢を嫁に送り込んだらしいですわ。しかし辺境伯のあまりの偏屈さに、一か月持った花嫁候補はいなかったそうです。そのため、辺境伯はもう三十を越えたのに、いまだ独身なのだとか」
「そう……」
彼女は楽しそうに辺境伯の悪い噂を語ります。
私はそれを聞いてどんどん不安になりましたが、できるだけそれを表情に出さないように努めます。
私にお構いなく、シシリーは話を続けました。
「政略結婚だというのに、それだけ何人ものご令嬢が出戻りになるなんて、よほど問題のある人か、もしくはよほど居心地が悪いところなのかのどちらかでしょうね」
シシリーは大人気の王子に嫁ぎ、私はそんな辺境伯に厄介払いに出される。その事実にシシリーはご満悦なよう。
私は興味ない振りをして聞いていましたが、もしそれが本当だったらどうしようと身震いしました。
特に私の場合はシシリーによってあらぬ悪評を立てられています。
つまり、出会う前から辺境伯が抱く印象は最悪でしょう。その状態でそんな偏屈な人物に、気に入られる自信など全然ありません。嫁いだ先でいじめに遭ったという話は昔から枚挙にいとまがありませんし……
「せいぜい頑張ってきてくださいね。男あさりの噂に加えて出戻りなんて事実まで上乗せされたらどうしようもありませんから」
そう言ってシシリーはご満悦な様子で笑みを浮かべて部屋を出ていきました。
ただ、私は彼女の勝ち誇った笑みの中に、どこか劣等感のような卑屈さが潜んでいるのに気づいていました。彼女はいまだにあの時のことで私を敵視しているのかしら。
彼女と話したせいか、荷造りもどうでもよくなりました。
明日に備えてさっさと寝てしまうことにしましょう。
翌朝、私は最低限の着替えと貴重品だけ入れた小さな荷物を持って家を出ました。
見送ってくれたのはシシリーと両親、それから懇意にしていた料理人のエリックだけ。
本来、貴族家それも公爵家から嫁に出るとなれば、持参品や花嫁衣裳などを持たされるものです。しかし私が冷遇されているせいか、嫁ぎ先が辺境だからか、父上が書いた一通の手紙以外は何もありません。
これでは嫁ぐというより流刑地に向かうようです。
いくらうちより格下とはいえ――こんなことが許されるのでしょうか。
「これ以上、我が家の名に泥を塗るのではないぞ」
父上は私に対して最後まで厳しい言葉をかけてきます。私の悪評がそんなに恥ずかしかったのですか? それなら悪評を立てた人を恨んでほしいのですが……
シシリーが私の噂を流したという証拠をつかめないのが悔しい限りです。
「心配しなくともいいんじゃない? 辺境ならあさるほどの男もいなさそうだし。この子には田舎の方がお似合いよ」
冷淡に言った母上はすでに私への関心を完全に失っているようでした。結局彼女もシシリーだけが可愛いのです。
「お姉様、お元気で。時々は手紙を出しますからね」
シシリーはこんな時でも「心優しい妹」アピールなのか、目に涙を浮かべて私に手を振ります。そんな彼女を見て両親は「シシリーは優しいな」「こんな不出来な姉にもそこまで言うなんて」と感動しています。
そんな茶番を目の前にすると怒りよりも先にあきれ果ててしまいます。
そんな中、一人だけ私との別れを本気で惜しんでくれる人がいました。
「エリサお嬢様、辺境でもお元気で」
「ありがとう、エリック。そう思ってくれているのはきっとあなただけよ」
私の辺境行きを本気で悲しんでくれたのは我が家の料理人のエリックでした。彼が作るご飯はいつもおいしく、ここ最近はそれだけが毎日の楽しみだったわ。
両親は料理などおいしくて当たり前、下手な時は叱責するのみでしたが、私だけはいつもお礼を言ったり作り方を聞いたりしていたので、彼とは仲が良かったのです。
「そんなことはありません。同僚にも密かに別れを惜しんでいる者はいますよ」
「ありがとう。そう言ってもらえるだけで嬉しい」
「これが一週間分のお弁当です。日持ちする物を選びましたから」
彼はそう言って弁当がいくつか入った包みを渡してくれます。
それを見て温かい気持ちになりました。
この場で私に好意を示せば、今後父上たちに白い目で見られるというのに。
案の定、彼らはエリックのことを苦々しく見ています。
「ありがとう。馬車旅の唯一の楽しみだわ」
あまり長々と話していてはどんどんエリックが疎まれそう。名残惜しいですが、馬車に乗ります。
こうして私は辺境に旅立ちました。
実家で用意された馬車に乗り、ひたすら南西に進んで辺境に向かいます。同乗しているのは御者が一人と護衛が一人だけ。
ずっとごとごとと揺られているだけの馬車旅は退屈で、最初は御者や護衛に話しかけましたが、すぐに世間話の種もなくなりました。
馬車が王都周辺の発展した地域を出ると、道は悪くなり余計に揺れが激しくなります。それでも最初は移りゆく景色を楽しんでいましたが、次第に見渡す限りの平原に変わりました。こうなってはもはや景色も代わり映えしません。
ここローザン王国は広大な土地を治めていますが、王都とその周辺、それといわゆる辺境では大きく異なると言われています。
というのも王都は国内でもとりわけ精霊の加護が強い場所に作られたため、その周辺ではよく雨が降り、土地も豊かなのです。中央部と呼ばれるのは国の面積の三分の一ほどですが、小麦などの主要な農作物の多くはそこで収穫されます。
一方の辺境ではわずかな農地で採れる農作物に、荒れ地でも育つイモや雑穀、そして狩猟などで細々と生計を立てている……と書物には書いてありました。
極めつきは辺境には魔物と呼ばれる狂暴な動物が跋扈するということ。辺境の貴族は魔物討伐対策や、さらに国境防御のために軍勢を維持しなければなりません。軍事権は強くても政治的な発言力は与えられていません。
中央部の貴族は財政に余裕があり、国政に対する発言力も強いです。その代表格が我が家のオルロンド家と言えるでしょう。
ローザン王国は王政ではありますが、重要なことはおおむね貴族の合議で決まります。国王といえど、有力な貴族家の賛同がなければ命令を通すことはできません。そして公爵・侯爵位の貴族は軒並み中央部の貴族で占められているのです。
ロンドバルド辺境伯は辺境貴族の中では最も広い領地を治め、統治も安定しているようです。
本で読んだ時はピンときませんでしたが、この広大な平原を見るとそれも納得ができます。しかしいくら広い領地を持っていても、財政が厳しくては意味がありません。
そんな旅が五日ほど続いた辺りで、私は退屈と揺れにすっかり参ってしまいました。
「お昼休憩です」
そう言って御者が馬車を止めると、お弁当を持って馬車を下りました。
一応ロンドバルド辺境伯の領地には入っているようですが、毎晩の宿を取るために町(時には村)に寄るだけで、周囲はほぼ荒れ地です。
いい加減馬車の中に飽き、ずっと車内にいると酔いそう。
私は外の風に当たりながらその辺の石に腰を下ろしてお弁当を広げました。日持ちするメニューということで、干し肉やパンが多いですが、毎日微妙に味付けが変わっているので飽きません。この時間が本当に私の唯一の楽しみです。
今日のメニューはカボチャのパイ。一きれ口に含むと、さくさくの食感とともに甘味が口の中に広がります。
ゆっくり味わいながらパイを食べていると、少し離れたところから一人の老婆が歩いて来るのが見えました。この辺の道は通る人が少ないので、通行人は非常に目立ちます。
危なっかしいな、などと思っていると彼女はふらふらしながら近くの石に倒れ込むように腰を下ろしました。
心配になって彼女の近くに駆け寄ります。
老婆は非常に弱っているように見えました。年齢はおそらく六十歳以上、髪の毛はすっかり白くなっています。体はやつれ、息も絶え絶えでどうにか岩に腰かけている体です。さらに髪はぼさぼさ、お金がないのか着ている服は汚れ、あちこちが破けています。
ただ、なぜかはわかりませんが、私は老婆の皺だらけの顔にただならぬ品格のようなものを感じました。
「大丈夫ですか⁉」
「うぅ……腹が減った。すまぬが水と食べ物を分けてくれないか?」
「は、はい」
ささやかな楽しみのお弁当ですが、目の前で困っている人がいれば食べさせてあげるほかありません。
私は少し惜しみつつももう一つあったカボチャのパイを食べやすいようにちぎって手渡し、それから予備のコップに水を入れて差し出しました。
「ありがとう」
そう言って彼女はパイを口に入れました。
「ふむ、うまい」
一口パイをかじり、水を飲むごとに老婆は次第に活力を取り戻していくようでした。
少しずつ彼女の体は若返っていくようにも思えます。
最初は彼女が元気を取り戻しただけかと思いましたが、真っ白な髪はみずみずしい水色になっていき、顔や手の皮膚からは皺が減っていきます。いくらお腹が満たされたからといって、そんなことが本当に起こるのでしょうか。
パイを全て食べ終えた老婆を見て私は開いた口がふさがりませんでした。
そこに立っていたのは老婆ではなく完全に一人の少女だったのです。
しわしわだった肌はみずみずしくなり、つやを取り戻した水色の髪は腰のあたりまで伸び、きれいな青い瞳にも若さが宿っています。ついでに着ている服もぼろぼろの布切れから踊り子のような装束に変わっていました。
これでは同一人物かどうか疑わしいほどです。
「え、あ、あの、あなたは……」
「私はこの周辺の水を司る精霊です」
「えぇ⁉」
精霊と聞いて私は驚きのあまり大きな声を上げてしまいました。
これまで精霊の存在は書物の中では知っていましたが、実際に見たことはありませんでした。伝説上の存在に近く、大多数の人が人間とは触れ合うことはないと思っているでしょう。
しかし目の前の女性が発した声は先ほどの老婆のしわがれた声とは全く違う、透き通るような美しい声でした。それに、少し食事をしただけでここまで若返るなど、普通の人間ではありえません。
そもそもこんな何もない街道の真ん中に老婆が一人で歩いているのが不思議でした。
そう考えると精霊という言葉も出鱈目ではないのかも……
「大変おいしい食事をありがとうございます。このところ、力を失っている上にさらに力を使い過ぎてしまい、あやうく干からびて動けなくなる寸前でしたが、あなたのおかげで動けるぐらいには復活しました」
そう話す声も鈴を転がすようなものに変わっています。
「ど、どういたしまして」
動揺を抑えきれず、声がひっくり返りました。
「それほど簡単に回復するものですか?」
「もちろん姿を取り戻しただけで、使い過ぎた力のほとんどはまだ失われたままです」
ほんの少し力が戻っただけでここまで姿が変わるとは……全ての力が戻ればどれほどのことができるのでしょうか。
精霊はにこやかに笑いながら一つの鈴を私に差し出します。
「もし今後困ったことがあれば、この鈴を振ってください。その時は何でも一つ、恩返しいたします。水に関することであれば、大抵は力になれるでしょう」
「は、はい」
「それでは失礼します」
そう言うと彼女は光の粒になり、空気に溶けるようにしていなくなってしまいました。
これまでは力を失っていてそれすらもできなかったということなのかしら。
一体何だったんだろう、今のは。
あっという間の出来事に、その場に残された私は呆然と立ちつくしました。
白昼夢かと思ったのですが、彼女にもらった鈴だけはしっかりと手の中に残っています。
私は鈴を大事にポケットにしまい、馬車旅を再開したのでした。
◇ ◇ ◇
精霊との出会いの次の日、私はようやく辺境伯の館に辿り着きました。
もっとも、最初に見た時はその建物がお屋敷だとは思えませんでしたが。
最初馬車が停まったときは何かの間違いかとすら思いました。
王都近くで見る貴族の館といえば、小綺麗なお屋敷か壮麗な建物のどちらかですが、今私の目の前にある辺境伯の館は単なる古びた屋敷でした。庭も大して手入れされず雑草が伸びていますし、一部分にいたっては菜園にされています。近くにある商館や神殿の方がまだ立派に見えるぐらい……
唯一の取り柄は領地が広いおかげで、敷地がやたら広いことでしょうか。
中心地だけあって周囲に広がっている街はまあまあの規模でした。
しかし、屋敷がある街ですら王都の華やかさには比べようもありません。
私が嫁いでくることは事前に知らされていたはずですが、出迎えに出たのは一人の着古した服をまとった三十ほどの男と、彼が連れている武将らしき家臣が数人、そして執事が一人でした。
冷静に考えてみると、公爵家の娘が嫁ぐのに馬車一台で大した持参品もなく、家族や侍従がついてくることもなく、ほぼ一人でやってくるのも異例です。
私自身は厄介払いで嫁がされるのだと受け入れていましたが、辺境伯からしてもそのような嫁ぎ方をされるのは心外でしょう。
嫁ぎ方が非常識な以上、ちゃんとした花嫁のもてなし方を期待するのも無理かしら。
「おぬしがエリサ・オルロンドか?」
「は、はい」
男がぶっきらぼうな声で尋ね、私は少し緊張しながら答えました。
「私が辺境伯のレリクス・ロンドバルドだ」
その言葉に私は失礼ながら驚きました。
お世辞にも彼は辺境伯の位を持つ人物の身なりとはいえません。着古したチュニックに飾り気のないズボンと、身に着けているものは少し裕福な平民とそこまで変わりません。
しかし彼の鋭い目つき、貫禄ある声は常人とは思えません。服の袖や襟元からのぞく肉体は鍛え上げられているのでしょう、筋肉がついていて引き締まっていますし、その眼光は何物をも見通すかのようです。これまで幾多の修羅場をくぐってきたのか、身体には小さな古傷が数多くありました。
そんな彼ですが、初対面だというのに私に対する敵意を隠そうともしません。
醸し出される険悪な雰囲気にたじろいでしまいそうになります。
「先に言っておくが、都からきた貴族のご令嬢たちはすぐにここの暮らしに絶望して帰っていく。おぬしはおそらく五人目だ。帰りたくなったらいつでも好きに帰るといい」
「い、いえ、そのようなことは……」
いきなりそのようなことを言われ、私も答えようがありません。
「建前はいい。話に聞く限り、都では男遊びをしていたそうではないか。そんな奴がこの地での暮らしに堪えられるとは思えぬ」
「そ、それはまったくの嘘です! 私はまだ清らかな身です!」
こればかりは信じてほしいと思いつつ私が叫ぶと、レリクスは私の全身を値踏みするように見ました。
が、すぐに彼はふん、と鼻を鳴らします。
「どうだかな。何にせよ、ここで一か月も暮らせばわかるだろう。貴族の箱入り娘が期待するような花嫁生活はできないが、代わりに好きに暮らすといい。ただどうせ帰るなら早く帰ってもらった方がこちらとしても気が楽だ」
「……」
そこまであけすけに言われるなんて。
「この者が我が家の執事のマルクだ。何かあれば彼に言うがいい。もっとも、当家が用意できるものは何もないがな」
そう言ってレリクスは家臣たちを連れて去っていきます。
私をここまで連れてきた御者たちも役目を終えたとばかりに来た道を帰り、後に残されたのは老齢の執事マルクと私だけ。
彼は年齢は五十ほどでしょうか、白くなった髪をオールバックにまとめ、顔つきはレリクスとは反対に温和な印象です。
彼は私を嫌っているというよりは、レリクスの私に対する態度を見てすっかり困ってしまっているようでした。着ている執事服は着古されていますが、丁寧に手入れされているせいかみすぼらしい印象はありません。
思っていた以上の状況の困難さに私は呆然としてしまいます。
確かにこんな方が相手では、一か月ももたずに都に帰ってしまったご令嬢たちの気持ちもわからなくはありません。
とはいえ、私は先に来た方々と違って帰ることもできませんが……
レリクスの姿が見えなくなるとマルクは一つ大きなため息をつきました。
彼は私を見て申し訳なさそうに言います。
「申し訳ありません、エリサ様。レリクス様は本来あのような言い方をなさる方ではないのです。しかし最初に嫁いでこられたご令嬢が三日で田舎暮らしに嫌気が差し、帰ってしまわれたのです。それ以来閣下は都から来た者を厭われるようになりまして」
「そ、そうだったのですね」
それを聞くと私は苦笑するしかありません。
確かにシシリーがこの地に来たら、レリクスの態度がどうであろうと三日ももたずに逃げ出すでしょう。そしてレリクスからすれば、そのような去られ方は不愉快なはずです。
「ロンドバルド領は領地は広くても、近年は日照りが続き、このように貧しい暮らしを強いられています。また、集めた税や元々の財も魔物と戦うための軍備に割かねばならず、立派な屋敷を建てることもできないのです」
「そうだったのですね」
話を聞くにつれ、私の中でレリクスの領主としての評価は上がりました。
確かに頑固で偏屈という評判は当たっていますが、彼は貧しい領地の中で自分だけ贅沢をせず、自ら率先して倹約しているのです。
であればその妻となる私も、その倹約生活に不満を言うべきではないでしょう。
まあ、それ以前の問題があるような気はしますが……
「わかりました。私もなるべく贅沢はせず、ひっそりと暮らします」
「そう言っていただけるとありがたいです。ではこちらへどうぞ」
マルクはレリクスが私を粗略に扱うことを申し訳なく思っているようで、しきりに恐縮しています。
マルクに案内された部屋は、正直言うと途中で泊まった街の宿と大して変わりません。置いてある家具は全てが古く、ちっともおしゃれではありません。
ただ掃除は行き届いており、古い割に清潔さはありました。それに屋敷自体が広いために部屋も広く、荒れてはいますが庭もついています。手入れ次第ではきれいな庭になるかもしれません。
持ってきたわずかな荷物を片付けた後、出てきた質素な夕食を食べて私は横になりました。当然初夜などなく、食事も就寝も私一人です。
本当にこの地でうまくやっていけるのか。レリクスは私に心を開いてくれるのか。心配事はつきませんが、横たわると旅の疲れがどっと出て、そのまま眠ってしまいました。
翌日から、一応私の辺境伯夫人として暮らしが始まりました。
とはいえ、夫人らしい待遇や家事をすることもほとんどなく、執事のマルクは呼べば来てくれますが、私に何か役割や務めを求めることは一切ありません。
これでは夫人というより、ただの居候です。そもそも私たちは結婚式すら挙げていません。これでは本当に結婚しているのか疑わしくなってきました……
もちろん自由にしていいと言われるのは嬉しいのですが、それはあくまで自分が受け入れられている場合です。そうでない場所で好きにしていいと言われても、居心地の悪さが上回ります。屋敷の中を少し歩くと、ほとんどの使用人は私が誰なのかも知らず、じろじろと無遠慮な視線を向けられました。そういえば、館の侍従や侍女に紹介もされていませんね……?
伯爵からすれば、一か月もせずに帰るような女は相手にするだけ時間の無駄なのでしょうが、そういう態度が余計に私を追いつめています。
レリクスの部下たちも私とすれ違ってもどうせすぐいなくなると思われているのか、見て見ぬ振りに近い反応をされてしまいます。
そんな訳で私は二日目の夕方にして、すでにむずむずしてきました。
こんな針の筵のような状態で放っておかれるぐらいなら、家事の一つでもした方がよほど気が楽です。
思いたってすぐ、マルクを探します。
「マルク?」
が、マルクは見当たりません。館を出ているのでしょうか?
探し回っていると、一人の使用人が私に気づいて声をかけてくれました。
「マルクだったら厨房にいるよ」
「厨房ですか⁉ ありがとうございます」
なぜ彼は執事なのに厨房にいるのかしら?
王都にいた私には料理は侍女がするもの、という意識があるため、首をかしげます。もちろん料理人の多くは男性ですが、専門として働かれている方ばかりです。
私が厨房に向かうと、本当にマルクが何人かの使用人とともに包丁を手にしていてびっくりしました。しかも見たところ、特別包丁捌きがうまいようにも見えません。
マルクは私に気づいて驚いたように尋ねます。
「何かご用でしょうか?」
「いえ……なぜマルクが料理しているのですか?」
私の問いに彼はきょとんとした顔をします。
「そりゃあ、料理人などを雇えばお金がかかってしまいます。ですので、この屋敷では料理は手が空いている者がやることになっているのですよ」
「そ、そうなのですか」
一瞬、効率的ですね、と納得しかけましたが、そんなことってあるのでしょうか。
「ところで、ロンドバルド辺境伯についての噂はご存じですか?」
「いえ、あまり」
私が答えると、彼女は再びとうとうと語りだしました。
「辺境伯は変わり者と聞きますが、広い領地とかなりの軍事力を持つため、王国も彼の機嫌を取るためにさまざまな貴族令嬢を嫁に送り込んだらしいですわ。しかし辺境伯のあまりの偏屈さに、一か月持った花嫁候補はいなかったそうです。そのため、辺境伯はもう三十を越えたのに、いまだ独身なのだとか」
「そう……」
彼女は楽しそうに辺境伯の悪い噂を語ります。
私はそれを聞いてどんどん不安になりましたが、できるだけそれを表情に出さないように努めます。
私にお構いなく、シシリーは話を続けました。
「政略結婚だというのに、それだけ何人ものご令嬢が出戻りになるなんて、よほど問題のある人か、もしくはよほど居心地が悪いところなのかのどちらかでしょうね」
シシリーは大人気の王子に嫁ぎ、私はそんな辺境伯に厄介払いに出される。その事実にシシリーはご満悦なよう。
私は興味ない振りをして聞いていましたが、もしそれが本当だったらどうしようと身震いしました。
特に私の場合はシシリーによってあらぬ悪評を立てられています。
つまり、出会う前から辺境伯が抱く印象は最悪でしょう。その状態でそんな偏屈な人物に、気に入られる自信など全然ありません。嫁いだ先でいじめに遭ったという話は昔から枚挙にいとまがありませんし……
「せいぜい頑張ってきてくださいね。男あさりの噂に加えて出戻りなんて事実まで上乗せされたらどうしようもありませんから」
そう言ってシシリーはご満悦な様子で笑みを浮かべて部屋を出ていきました。
ただ、私は彼女の勝ち誇った笑みの中に、どこか劣等感のような卑屈さが潜んでいるのに気づいていました。彼女はいまだにあの時のことで私を敵視しているのかしら。
彼女と話したせいか、荷造りもどうでもよくなりました。
明日に備えてさっさと寝てしまうことにしましょう。
翌朝、私は最低限の着替えと貴重品だけ入れた小さな荷物を持って家を出ました。
見送ってくれたのはシシリーと両親、それから懇意にしていた料理人のエリックだけ。
本来、貴族家それも公爵家から嫁に出るとなれば、持参品や花嫁衣裳などを持たされるものです。しかし私が冷遇されているせいか、嫁ぎ先が辺境だからか、父上が書いた一通の手紙以外は何もありません。
これでは嫁ぐというより流刑地に向かうようです。
いくらうちより格下とはいえ――こんなことが許されるのでしょうか。
「これ以上、我が家の名に泥を塗るのではないぞ」
父上は私に対して最後まで厳しい言葉をかけてきます。私の悪評がそんなに恥ずかしかったのですか? それなら悪評を立てた人を恨んでほしいのですが……
シシリーが私の噂を流したという証拠をつかめないのが悔しい限りです。
「心配しなくともいいんじゃない? 辺境ならあさるほどの男もいなさそうだし。この子には田舎の方がお似合いよ」
冷淡に言った母上はすでに私への関心を完全に失っているようでした。結局彼女もシシリーだけが可愛いのです。
「お姉様、お元気で。時々は手紙を出しますからね」
シシリーはこんな時でも「心優しい妹」アピールなのか、目に涙を浮かべて私に手を振ります。そんな彼女を見て両親は「シシリーは優しいな」「こんな不出来な姉にもそこまで言うなんて」と感動しています。
そんな茶番を目の前にすると怒りよりも先にあきれ果ててしまいます。
そんな中、一人だけ私との別れを本気で惜しんでくれる人がいました。
「エリサお嬢様、辺境でもお元気で」
「ありがとう、エリック。そう思ってくれているのはきっとあなただけよ」
私の辺境行きを本気で悲しんでくれたのは我が家の料理人のエリックでした。彼が作るご飯はいつもおいしく、ここ最近はそれだけが毎日の楽しみだったわ。
両親は料理などおいしくて当たり前、下手な時は叱責するのみでしたが、私だけはいつもお礼を言ったり作り方を聞いたりしていたので、彼とは仲が良かったのです。
「そんなことはありません。同僚にも密かに別れを惜しんでいる者はいますよ」
「ありがとう。そう言ってもらえるだけで嬉しい」
「これが一週間分のお弁当です。日持ちする物を選びましたから」
彼はそう言って弁当がいくつか入った包みを渡してくれます。
それを見て温かい気持ちになりました。
この場で私に好意を示せば、今後父上たちに白い目で見られるというのに。
案の定、彼らはエリックのことを苦々しく見ています。
「ありがとう。馬車旅の唯一の楽しみだわ」
あまり長々と話していてはどんどんエリックが疎まれそう。名残惜しいですが、馬車に乗ります。
こうして私は辺境に旅立ちました。
実家で用意された馬車に乗り、ひたすら南西に進んで辺境に向かいます。同乗しているのは御者が一人と護衛が一人だけ。
ずっとごとごとと揺られているだけの馬車旅は退屈で、最初は御者や護衛に話しかけましたが、すぐに世間話の種もなくなりました。
馬車が王都周辺の発展した地域を出ると、道は悪くなり余計に揺れが激しくなります。それでも最初は移りゆく景色を楽しんでいましたが、次第に見渡す限りの平原に変わりました。こうなってはもはや景色も代わり映えしません。
ここローザン王国は広大な土地を治めていますが、王都とその周辺、それといわゆる辺境では大きく異なると言われています。
というのも王都は国内でもとりわけ精霊の加護が強い場所に作られたため、その周辺ではよく雨が降り、土地も豊かなのです。中央部と呼ばれるのは国の面積の三分の一ほどですが、小麦などの主要な農作物の多くはそこで収穫されます。
一方の辺境ではわずかな農地で採れる農作物に、荒れ地でも育つイモや雑穀、そして狩猟などで細々と生計を立てている……と書物には書いてありました。
極めつきは辺境には魔物と呼ばれる狂暴な動物が跋扈するということ。辺境の貴族は魔物討伐対策や、さらに国境防御のために軍勢を維持しなければなりません。軍事権は強くても政治的な発言力は与えられていません。
中央部の貴族は財政に余裕があり、国政に対する発言力も強いです。その代表格が我が家のオルロンド家と言えるでしょう。
ローザン王国は王政ではありますが、重要なことはおおむね貴族の合議で決まります。国王といえど、有力な貴族家の賛同がなければ命令を通すことはできません。そして公爵・侯爵位の貴族は軒並み中央部の貴族で占められているのです。
ロンドバルド辺境伯は辺境貴族の中では最も広い領地を治め、統治も安定しているようです。
本で読んだ時はピンときませんでしたが、この広大な平原を見るとそれも納得ができます。しかしいくら広い領地を持っていても、財政が厳しくては意味がありません。
そんな旅が五日ほど続いた辺りで、私は退屈と揺れにすっかり参ってしまいました。
「お昼休憩です」
そう言って御者が馬車を止めると、お弁当を持って馬車を下りました。
一応ロンドバルド辺境伯の領地には入っているようですが、毎晩の宿を取るために町(時には村)に寄るだけで、周囲はほぼ荒れ地です。
いい加減馬車の中に飽き、ずっと車内にいると酔いそう。
私は外の風に当たりながらその辺の石に腰を下ろしてお弁当を広げました。日持ちするメニューということで、干し肉やパンが多いですが、毎日微妙に味付けが変わっているので飽きません。この時間が本当に私の唯一の楽しみです。
今日のメニューはカボチャのパイ。一きれ口に含むと、さくさくの食感とともに甘味が口の中に広がります。
ゆっくり味わいながらパイを食べていると、少し離れたところから一人の老婆が歩いて来るのが見えました。この辺の道は通る人が少ないので、通行人は非常に目立ちます。
危なっかしいな、などと思っていると彼女はふらふらしながら近くの石に倒れ込むように腰を下ろしました。
心配になって彼女の近くに駆け寄ります。
老婆は非常に弱っているように見えました。年齢はおそらく六十歳以上、髪の毛はすっかり白くなっています。体はやつれ、息も絶え絶えでどうにか岩に腰かけている体です。さらに髪はぼさぼさ、お金がないのか着ている服は汚れ、あちこちが破けています。
ただ、なぜかはわかりませんが、私は老婆の皺だらけの顔にただならぬ品格のようなものを感じました。
「大丈夫ですか⁉」
「うぅ……腹が減った。すまぬが水と食べ物を分けてくれないか?」
「は、はい」
ささやかな楽しみのお弁当ですが、目の前で困っている人がいれば食べさせてあげるほかありません。
私は少し惜しみつつももう一つあったカボチャのパイを食べやすいようにちぎって手渡し、それから予備のコップに水を入れて差し出しました。
「ありがとう」
そう言って彼女はパイを口に入れました。
「ふむ、うまい」
一口パイをかじり、水を飲むごとに老婆は次第に活力を取り戻していくようでした。
少しずつ彼女の体は若返っていくようにも思えます。
最初は彼女が元気を取り戻しただけかと思いましたが、真っ白な髪はみずみずしい水色になっていき、顔や手の皮膚からは皺が減っていきます。いくらお腹が満たされたからといって、そんなことが本当に起こるのでしょうか。
パイを全て食べ終えた老婆を見て私は開いた口がふさがりませんでした。
そこに立っていたのは老婆ではなく完全に一人の少女だったのです。
しわしわだった肌はみずみずしくなり、つやを取り戻した水色の髪は腰のあたりまで伸び、きれいな青い瞳にも若さが宿っています。ついでに着ている服もぼろぼろの布切れから踊り子のような装束に変わっていました。
これでは同一人物かどうか疑わしいほどです。
「え、あ、あの、あなたは……」
「私はこの周辺の水を司る精霊です」
「えぇ⁉」
精霊と聞いて私は驚きのあまり大きな声を上げてしまいました。
これまで精霊の存在は書物の中では知っていましたが、実際に見たことはありませんでした。伝説上の存在に近く、大多数の人が人間とは触れ合うことはないと思っているでしょう。
しかし目の前の女性が発した声は先ほどの老婆のしわがれた声とは全く違う、透き通るような美しい声でした。それに、少し食事をしただけでここまで若返るなど、普通の人間ではありえません。
そもそもこんな何もない街道の真ん中に老婆が一人で歩いているのが不思議でした。
そう考えると精霊という言葉も出鱈目ではないのかも……
「大変おいしい食事をありがとうございます。このところ、力を失っている上にさらに力を使い過ぎてしまい、あやうく干からびて動けなくなる寸前でしたが、あなたのおかげで動けるぐらいには復活しました」
そう話す声も鈴を転がすようなものに変わっています。
「ど、どういたしまして」
動揺を抑えきれず、声がひっくり返りました。
「それほど簡単に回復するものですか?」
「もちろん姿を取り戻しただけで、使い過ぎた力のほとんどはまだ失われたままです」
ほんの少し力が戻っただけでここまで姿が変わるとは……全ての力が戻ればどれほどのことができるのでしょうか。
精霊はにこやかに笑いながら一つの鈴を私に差し出します。
「もし今後困ったことがあれば、この鈴を振ってください。その時は何でも一つ、恩返しいたします。水に関することであれば、大抵は力になれるでしょう」
「は、はい」
「それでは失礼します」
そう言うと彼女は光の粒になり、空気に溶けるようにしていなくなってしまいました。
これまでは力を失っていてそれすらもできなかったということなのかしら。
一体何だったんだろう、今のは。
あっという間の出来事に、その場に残された私は呆然と立ちつくしました。
白昼夢かと思ったのですが、彼女にもらった鈴だけはしっかりと手の中に残っています。
私は鈴を大事にポケットにしまい、馬車旅を再開したのでした。
◇ ◇ ◇
精霊との出会いの次の日、私はようやく辺境伯の館に辿り着きました。
もっとも、最初に見た時はその建物がお屋敷だとは思えませんでしたが。
最初馬車が停まったときは何かの間違いかとすら思いました。
王都近くで見る貴族の館といえば、小綺麗なお屋敷か壮麗な建物のどちらかですが、今私の目の前にある辺境伯の館は単なる古びた屋敷でした。庭も大して手入れされず雑草が伸びていますし、一部分にいたっては菜園にされています。近くにある商館や神殿の方がまだ立派に見えるぐらい……
唯一の取り柄は領地が広いおかげで、敷地がやたら広いことでしょうか。
中心地だけあって周囲に広がっている街はまあまあの規模でした。
しかし、屋敷がある街ですら王都の華やかさには比べようもありません。
私が嫁いでくることは事前に知らされていたはずですが、出迎えに出たのは一人の着古した服をまとった三十ほどの男と、彼が連れている武将らしき家臣が数人、そして執事が一人でした。
冷静に考えてみると、公爵家の娘が嫁ぐのに馬車一台で大した持参品もなく、家族や侍従がついてくることもなく、ほぼ一人でやってくるのも異例です。
私自身は厄介払いで嫁がされるのだと受け入れていましたが、辺境伯からしてもそのような嫁ぎ方をされるのは心外でしょう。
嫁ぎ方が非常識な以上、ちゃんとした花嫁のもてなし方を期待するのも無理かしら。
「おぬしがエリサ・オルロンドか?」
「は、はい」
男がぶっきらぼうな声で尋ね、私は少し緊張しながら答えました。
「私が辺境伯のレリクス・ロンドバルドだ」
その言葉に私は失礼ながら驚きました。
お世辞にも彼は辺境伯の位を持つ人物の身なりとはいえません。着古したチュニックに飾り気のないズボンと、身に着けているものは少し裕福な平民とそこまで変わりません。
しかし彼の鋭い目つき、貫禄ある声は常人とは思えません。服の袖や襟元からのぞく肉体は鍛え上げられているのでしょう、筋肉がついていて引き締まっていますし、その眼光は何物をも見通すかのようです。これまで幾多の修羅場をくぐってきたのか、身体には小さな古傷が数多くありました。
そんな彼ですが、初対面だというのに私に対する敵意を隠そうともしません。
醸し出される険悪な雰囲気にたじろいでしまいそうになります。
「先に言っておくが、都からきた貴族のご令嬢たちはすぐにここの暮らしに絶望して帰っていく。おぬしはおそらく五人目だ。帰りたくなったらいつでも好きに帰るといい」
「い、いえ、そのようなことは……」
いきなりそのようなことを言われ、私も答えようがありません。
「建前はいい。話に聞く限り、都では男遊びをしていたそうではないか。そんな奴がこの地での暮らしに堪えられるとは思えぬ」
「そ、それはまったくの嘘です! 私はまだ清らかな身です!」
こればかりは信じてほしいと思いつつ私が叫ぶと、レリクスは私の全身を値踏みするように見ました。
が、すぐに彼はふん、と鼻を鳴らします。
「どうだかな。何にせよ、ここで一か月も暮らせばわかるだろう。貴族の箱入り娘が期待するような花嫁生活はできないが、代わりに好きに暮らすといい。ただどうせ帰るなら早く帰ってもらった方がこちらとしても気が楽だ」
「……」
そこまであけすけに言われるなんて。
「この者が我が家の執事のマルクだ。何かあれば彼に言うがいい。もっとも、当家が用意できるものは何もないがな」
そう言ってレリクスは家臣たちを連れて去っていきます。
私をここまで連れてきた御者たちも役目を終えたとばかりに来た道を帰り、後に残されたのは老齢の執事マルクと私だけ。
彼は年齢は五十ほどでしょうか、白くなった髪をオールバックにまとめ、顔つきはレリクスとは反対に温和な印象です。
彼は私を嫌っているというよりは、レリクスの私に対する態度を見てすっかり困ってしまっているようでした。着ている執事服は着古されていますが、丁寧に手入れされているせいかみすぼらしい印象はありません。
思っていた以上の状況の困難さに私は呆然としてしまいます。
確かにこんな方が相手では、一か月ももたずに都に帰ってしまったご令嬢たちの気持ちもわからなくはありません。
とはいえ、私は先に来た方々と違って帰ることもできませんが……
レリクスの姿が見えなくなるとマルクは一つ大きなため息をつきました。
彼は私を見て申し訳なさそうに言います。
「申し訳ありません、エリサ様。レリクス様は本来あのような言い方をなさる方ではないのです。しかし最初に嫁いでこられたご令嬢が三日で田舎暮らしに嫌気が差し、帰ってしまわれたのです。それ以来閣下は都から来た者を厭われるようになりまして」
「そ、そうだったのですね」
それを聞くと私は苦笑するしかありません。
確かにシシリーがこの地に来たら、レリクスの態度がどうであろうと三日ももたずに逃げ出すでしょう。そしてレリクスからすれば、そのような去られ方は不愉快なはずです。
「ロンドバルド領は領地は広くても、近年は日照りが続き、このように貧しい暮らしを強いられています。また、集めた税や元々の財も魔物と戦うための軍備に割かねばならず、立派な屋敷を建てることもできないのです」
「そうだったのですね」
話を聞くにつれ、私の中でレリクスの領主としての評価は上がりました。
確かに頑固で偏屈という評判は当たっていますが、彼は貧しい領地の中で自分だけ贅沢をせず、自ら率先して倹約しているのです。
であればその妻となる私も、その倹約生活に不満を言うべきではないでしょう。
まあ、それ以前の問題があるような気はしますが……
「わかりました。私もなるべく贅沢はせず、ひっそりと暮らします」
「そう言っていただけるとありがたいです。ではこちらへどうぞ」
マルクはレリクスが私を粗略に扱うことを申し訳なく思っているようで、しきりに恐縮しています。
マルクに案内された部屋は、正直言うと途中で泊まった街の宿と大して変わりません。置いてある家具は全てが古く、ちっともおしゃれではありません。
ただ掃除は行き届いており、古い割に清潔さはありました。それに屋敷自体が広いために部屋も広く、荒れてはいますが庭もついています。手入れ次第ではきれいな庭になるかもしれません。
持ってきたわずかな荷物を片付けた後、出てきた質素な夕食を食べて私は横になりました。当然初夜などなく、食事も就寝も私一人です。
本当にこの地でうまくやっていけるのか。レリクスは私に心を開いてくれるのか。心配事はつきませんが、横たわると旅の疲れがどっと出て、そのまま眠ってしまいました。
翌日から、一応私の辺境伯夫人として暮らしが始まりました。
とはいえ、夫人らしい待遇や家事をすることもほとんどなく、執事のマルクは呼べば来てくれますが、私に何か役割や務めを求めることは一切ありません。
これでは夫人というより、ただの居候です。そもそも私たちは結婚式すら挙げていません。これでは本当に結婚しているのか疑わしくなってきました……
もちろん自由にしていいと言われるのは嬉しいのですが、それはあくまで自分が受け入れられている場合です。そうでない場所で好きにしていいと言われても、居心地の悪さが上回ります。屋敷の中を少し歩くと、ほとんどの使用人は私が誰なのかも知らず、じろじろと無遠慮な視線を向けられました。そういえば、館の侍従や侍女に紹介もされていませんね……?
伯爵からすれば、一か月もせずに帰るような女は相手にするだけ時間の無駄なのでしょうが、そういう態度が余計に私を追いつめています。
レリクスの部下たちも私とすれ違ってもどうせすぐいなくなると思われているのか、見て見ぬ振りに近い反応をされてしまいます。
そんな訳で私は二日目の夕方にして、すでにむずむずしてきました。
こんな針の筵のような状態で放っておかれるぐらいなら、家事の一つでもした方がよほど気が楽です。
思いたってすぐ、マルクを探します。
「マルク?」
が、マルクは見当たりません。館を出ているのでしょうか?
探し回っていると、一人の使用人が私に気づいて声をかけてくれました。
「マルクだったら厨房にいるよ」
「厨房ですか⁉ ありがとうございます」
なぜ彼は執事なのに厨房にいるのかしら?
王都にいた私には料理は侍女がするもの、という意識があるため、首をかしげます。もちろん料理人の多くは男性ですが、専門として働かれている方ばかりです。
私が厨房に向かうと、本当にマルクが何人かの使用人とともに包丁を手にしていてびっくりしました。しかも見たところ、特別包丁捌きがうまいようにも見えません。
マルクは私に気づいて驚いたように尋ねます。
「何かご用でしょうか?」
「いえ……なぜマルクが料理しているのですか?」
私の問いに彼はきょとんとした顔をします。
「そりゃあ、料理人などを雇えばお金がかかってしまいます。ですので、この屋敷では料理は手が空いている者がやることになっているのですよ」
「そ、そうなのですか」
一瞬、効率的ですね、と納得しかけましたが、そんなことってあるのでしょうか。
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