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第二章 桃園輝

午前四時の初稿

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 午前四時。
 件名は「できました」。本文はなし。添付ファイルに、PDFがひとつ。

 桃園輝は、自宅のデスクに腰を下ろし、静かにモニターを覗き込んだ。
 都内主要駅から徒歩圏内、築浅のマンション。利便性は最高だが、どこか無機質で冷たい部屋。大きな窓の向こうには、深夜の街がまだ眠らずに光を放っている。部屋は片付いていた。生活の気配より、仕事の痕跡のほうが濃い。
 コンビニのコーヒーが、冷めたまま机に置かれている。ベッドは整えられたまま。多分、今夜も眠っていない。

(さて、第一回提出。……さて、だ)

 添付されたPDFファイルを開く。瞬間、画面いっぱいに文字が現れた。タイトルも、目次もまだ見ていない。なのに、何かが圧し掛かってくる。

 数行、目を滑らせる。

(……)

 二ページ目に進んだ瞬間、違和感が確信に変わった。

(……なんだこれ)

 体が微かにこわばる。
 独特なリズム。馴染みのある構成の常識を逸脱した文体。整っていない。それなのに、整える必要性を一切感じさせない。
 この語りは、読者を納得させるつもりなんかない。むしろ──
 無理やり引きずり込もうとしてくる。
 読者の手をつかみ、逃さず、物語の深みに叩き込む。

(どこで息継ぎすればいいんだ……)

 乱暴で、直線的で、火花のように鋭い。
 けれど──異常なまでの熱量がある。その熱が、粗さすら魅力に変えていく。怖いくらいに、読ませる力がある。

 十ページ、二十ページ……気づけば視線が止まらない。そして三十ページ目、伏線が一気に収束していく。
 構造の妙。感情の爆発。全てが一滴残らず、ここに向かって集まっていた。

(……これで、独学?)

 最後の一行を読み終えたとき、背筋にじわりと汗が滲んでいた。小さく息を吐き、椅子にもたれる。
 静寂の中で、口が自然に動く。

「──イカレてんな……。」

 声が漏れた。誰に向けるでもなく。背後の時計の針が、カチリと四時三十五分を指した。

*

 数日後、喫茶店。

 昼下がり、やけに落ち着いた雰囲気の店。外からの光がゆるく差し込む窓際の席。桃園は、封筒から紙の原稿を取り出し、音を立てぬようにそっとテーブルに置いた。

 向かいの鈴村ほまれは、手のひらにぐしゃぐしゃのハンカチを握っていた。額の汗、ピクリとも動かない背中。まるで処刑台に座らされてるみたいな顔をしてる。
 それでも、彼は逃げずにここにいる。

「今回の原稿、良かったです」

 桃園は、原稿に軽く触れる。人差し指でトン、と一度だけ叩いた。

「構成も、文体も、全体のトーンも。……これは、狙って書いてますよね?」
「えっ、あ……はい……たぶん……」

 声が小さい。かすれ気味。でも、確かに「はい」と言った。書いたものには自信があるのに、自分自身を信じきれていない。そんな矛盾が、彼の中に同居してる。

「執筆時間は?」
「あ、えっと……二週間くらい……で。寝れなくて……」

(……は?)

 桃園は目を見開きかけて、ぐっと表情を保った。

(二週間? この密度で?)

 狂ってる。
 けど──この原稿の熱量は、たしかに“そういう”書き方じゃないと出ない。自分を削りながら、魂を叩きつけるようにして書いた文だ。

(すげえな……)

 言葉にはしない。でも、内心では完全に惚れ込んでいた。
 読む側の脳を奪う。釘付けにされる。こいつは、書くことでしか生きられない人間だ。

「どこでそんな技術、身につけたんです?」
「えっ、あ、いや、小説ばっか読んでたんで……。友だちいなかったし……」
「なるほど」

 さらっと返したが、桃園の胸の奥には、さっきの原稿の言葉たちがまだ熱を持って残っている。

(肝が座ってる。言いたいことがある作家は、強い。……この不安定さごと、魅力になる)

「す、すみません、なんか、読みにくかったですよね……。変だったら言ってください……」

 ほまれが、おずおずと視線を上げる。ぐちゃぐちゃになったハンカチを握りしめたまま、必死に相手を伺っていた。

「変でした」
「ヒィッ……!」
 肩がびくっと跳ねた。まるで雷でも落ちたみたいな反応。

「でも、君の“変”は武器です。読む側の脳に、焼きつく」
 その一言に、ほまれの目がわずかに見開かれた。
「……えっ……」

 ぽかんと口を開けたまま、桃園の顔を見つめる。
 言葉じゃなくて、表情を凝視していた。

 それは、ほまれがこの日──いや、これまでで初めて見る桃園の「笑顔」だった。

 優しいわけでも、にこやかでもない。
 でも、確かにそこにあった。信頼と、興味と、期待がにじんだ不敵な笑み。

「……っ」

 ほまれは、こらえるように唇を噛んだ。
 ぐしゃぐしゃのハンカチを、もっとぐしゃぐしゃにしながら──それでも笑っていた。

 怖い。けれど、嬉しい。
 ちゃんと読んでくれてる。ちゃんと、認めてくれてる。

 桃園は、紙束の一枚を持ち上げて、指先で軽くとんとんと叩く。そこは中盤、主人公の動機がやや唐突に転じる場面だった。
「でも、ここは修正してください」
「あ、はい……」
「応募、こちらで進めて構いませんか?」
「はい……」

*

 あれから数ヶ月が経っていた。
 日中はアルバイトに明け暮れて、帰宅後は食事とシャワーを済ませて、ようやく自分の時間。それでも、眠気と戦いながらパソコンに向かう夜が、いまはどこか誇らしかった。

 物語を書くのは、もう生活の一部になっていた。
 書けない日は落ち着かないし、少しでも進むと、それだけで救われる。言葉を紡ぐことで、ようやく「自分」を肯定できる。

 ある昼下がり、アルバイトの帰り道。駅までの坂道をとぼとぼ歩きながら、今日の失敗を反芻する。本田先輩に叱られた。やっぱり、おれはまだ要領が悪い。でも、小松先輩が「気にすんな」と肩を叩いてくれた。

 そういうのが、嬉しい。うまくいかない日もある。でも、前の職場とは違う。叱られたら、叱られっぱなしじゃない。ちゃんと次がある。許してもらえる。
 ──見捨てられない。

 ここには、ちゃんと「人」がいる。それだけで、少し前を向ける。

 ポケットの中で、スマホが震えた。取り出して、画面を見た瞬間、心臓が跳ねる。

 “桃園さん”。

 背筋が、自然と伸びた。指先に少し汗がにじむ。

「はい、もしもし」

 自分の声が、少しだけ上ずった。

「鈴村先生、お疲れ様です。今お時間よろしいですか」

 淡々とした声だった。いつも通り。けれど、少しだけトーンが柔らかい気がした。

「はい、大丈夫です」

 ほんの一秒、間が空いた。

「おめでとうございます。新人文学賞、受賞です」

 ──その一言で、世界が止まった。

 目の前の交差点の信号が、青になったことにも気づかなかった。車の音も、人の声も、耳に届かない。
 ただ、スマホ越しの桃園の声だけが、脳の奥にしっかりと焼きついていた。

 嬉しい。
 信じられない。
 夢みたいで、どこか他人事のようで、でも確かに自分の名前が呼ばれていた。
 新人賞──この世に本当に存在していたんだ。都市伝説じゃなかったんだ。……もっと先の、もっと遠くの、すごい人たちだけの話だと思っていた。

「…ほ…本当ですか!!」

 やっと出た声は、ずっと喉の奥で押し込まれていたせいか、思ったより大きかった。行き交う人たちがちらりとこちらを振り返るのも気にせず、胸に手を当てて、深く息を吸う。
 指が震える。足も、ちょっとだけ震えてる。にわかに涙がにじんで、慌てて指で拭う。
 やばい、ほんとに泣いてしまう。こんなのは、ずるい。

「ええ、気を引き締めていきましょう。まだ、ここがスタートラインですから」

 電話越しの桃園の声は、いつもと同じトーン。落ち着いていて、そっけないくらいに淡々としている。けれど、その中に、わずかな熱があった。
 ──本当に、喜んでくれてるんだ。

 ほまれは、小さく笑った。
 自分でも驚くほど、あたたかい気持ちだった。

 ふと、なっちゃんの顔が浮かんだ。一番最初に、自分の文章を笑ってくれた人。
 ──なっちゃん。俺、今、こうなったよ。どうかな。すごいって思ってくれるかな。
 それとも、「まだ通過点だよ」って笑うかな。

 小さな文芸誌だから、たぶん気づかない。だけど、どこかで読んでてくれたらいいな。
 子どもじみた期待をしている自分が笑えて、ほんの少し寂しかった。

「改めておめでとうございます。俺も嬉しいです」
「……ありがとうございます」

 電話越しでも、桃園が少しだけ口元を緩めている気がした。ほまれの返事を受けて、わずかに空気が和らいだ。
 
 会話の熱が落ち着いた、その一瞬を見計らうように。

「……さて、“次”の話をしましょうか」
 落ち着いたトーンで、静かに火が灯される。ほまれは一瞬、ぽかんとした声を漏らした。
「次…。」

 なんとか賞を取れた、ようやくここに来られた──そう思っていた。けれど、桃園はまるで当然のように、その先を語り出す。

「この作品で新人賞を取ったわけですが……これは“入り口”です。むしろ、ここからが本番です」

 その言葉に、背筋がぞわりとした。もう一段階、空気の温度が上がる。

「鈴村先生、アンバー文学賞をご存じですよね」
 名前が出た瞬間、反射的に肩が跳ねた。手のひらが汗ばむ。スマホを持つ指に、力が入る。

「……あの、でっかい、やつですよね……?」
「“でっかい”やつです。毎年話題になるし、書店にも平積みされる。映像化の話が出ることもある。……ここを獲ったら、世界が変わる。少なくとも、俺の中ではそうです」

 語りながらも、声の奥には確かな熱があった。
 けれどそれは、煽るでもなく、夢を語るでもなく──現実として語られる“可能性”だった。

 ほまれは無言で息を呑む。桃園の言葉が、心の中の奥の奥に、まっすぐ届いていた。

「挑戦しましょう。きみには、その資格がある」
 その一言に、胸の奥がぐっと締めつけられた。
 喉が詰まるような感覚。信じられない、でも──信じたい。

 ごくん、と、喉が鳴る。
 この声は本物だ。この期待は、作り物じゃない。
 自分の中の何かが、強くなっていく気がした。

「次の締切は三か月後。文章量は、今の倍以上。構成力と筆の持久力、それからテーマ性が問われます。……言うまでもないですが、受賞者の半分は二作目で燃え尽きます」

 言葉が静かに、けれど容赦なく突き刺さる。電話越しでも伝わるような、プロの世界の冷たさ。
 ほまれは、膝の上で両手を固く握りしめた。血の気が引くような感覚。背筋がひやりと冷える。

「怖いですか?」

「……はい」
 迷いのない、即答だった。
 怖いに決まっている。自分にできるのか、本当に通用するのか、そんなことばかりが頭をよぎる。
 けれど。

「でも……やりたい。やります。」
 スマホを持つ手に、自然と力が入った。声は震えていたが、逃げなかった。自分の足で、もう一歩、前に踏み出していた。
 その言葉に、桃園が小さく息を吐いたような気がした。
 次の瞬間、電話越しに、ほんのわずかに柔らかくなった声が響く。

「いい返事です。じゃあ、戦い方を考えましょう」
 その一言が、全身に火を灯した。
 夢物語だった「作家になる」という未来が、確かな輪郭を持ち始めていく。

「連絡事項もありますし、お時間あるときに打合せをしたいです」
「わかりました。」
 通話が切れたあと、ほまれはしばらくその場に立ち尽くした。
 手の中のスマホはまだあたたかくて、さっきまでのやり取りが、現実だった証のように思えた。

 見上げた空は、ひどく青くて、眩しかった。これからもっと、怖くなる。もっと、しんどくなる。
 それでも。
 行くんだ。

 ──大きい賞。アンバー文学賞。
 新聞にも載る。書店に特設コーナーができる。
 それくらいの規模になれば、きっと、なっちゃんだって……。

 期待するな、と思うのに、勝手に期待してしまう自分がいる。
 ──読んでてくれたらいいな、なんて。

 ポケットに、スマホをしまいながら、
 ほまれは胸の奥で、そっと呟いた。

(……なっちゃんに、届くくらい、書けるといいな)
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