馬の背の橋 物問川居座りの初夏 屋根付きの橋の住人は皆さんクセが強い

あべ舞野

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4日目 7月11日 爺さんが怪我をした 落とされたのか? 忍び寄る不穏

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四日目 七月十一日

 朝食が済んでもハジメが一階にいる。
「出かけないの?」
 昨日まではすぐにいそいそと二階へ向かい、お出かけの準備をしていた。今日は短パンで畳の上だ。今朝の天気のようにじとっとした視線を玲市に送る。
「ゼロの代わりに何か出来る事あるだろう? 俺、その為に来てるんだぞ」
「配食」
 にこやかにはっきりとした返事だ。ハジメは首を曲げて髪をかきむしった。他にもできる事があるはずだ。しかし介護の経験などない。いやそもそも家事だって母親の手伝い程度だ。何をすればいとこの手助けになれるのか。
「だから~なんていうか...建設的な」
「あ」
 玲市が天井を見上げた。つられてハジメも上を向く。しかしそこにはただの木目の板。眉をひそめるハジメを置いてきぼりにして玲市が口を開く。単に玲市が用事を思い出した動きだった。
「建設で思い出したよ。物問橋でちょっとボランティアしてほしいな。もし良ければだけれど」
 御霊流しが明後日に迫った。イベント広場に臨時の供物授与場や観光協会の案内用のテントなど設営するそうだ。地元の青年団の協力も不可欠だ。
「名目は任意参加なんだけど、顔出しくらいはしておきたいと思ってたんだよ」
「俺は青年団に入ってねーぞ」
 部外者がいいのかい、と尋ねる。地縁が大事な地域だが、血縁も重要視される。手伝いに来た親戚の者も排除はしない。
「ラーメン馬瀬からって言えば通じるから」
 はっとハジメの動きが止まる。看板を下ろしたばかりでもまだ名乗りはそれなのか。玲市の顔には特別の感情は浮かんでいない。
「朝の配食は僕が行くね」
 それが今朝の話だ。そんなにあっさりと受け入れ可能なのかと思ったら大丈夫だった。協会内に羽舞がいたのも助かった。むしろ男手おとこでは助かるとばかりに歓迎ムードだ。職員からさっそくテントの資材などの場所を案内される。ハジメにしても大学のサークル活動や文化祭を思い出す作業だった。
 ハジメに託されたのはテントの設営だ。神社で言われた通り、供物授与の為だ。準備は協会だ。まずは協会の倉庫から鉄骨などを運び出す。
 順調に進む...と思いきや。先ほど別れたばかりの羽舞が躓きながら駆けて来た。
「イトコ! ちょっと一緒に来て! 早く! 今、観光の人から連絡があったの」
 二人は急いで橋の階段を上がった。
 
 一方の玲市も橋に着いた。肩にクーラーボックスだ。オバサンの泊まる場所を選ばなくてはならない。彼女に探す手段はほぼ無いからだ。あまり手持ちの現金はなさそうだ。まずそれが宿泊場所の選択を狭める。外部の女性が来ている猿は放っておいていいだろう。しかし爺さんの外泊の面倒を見る気があるのか、ないのか。
(爺ちゃんはどうするか)
 昨日の様子だと一時的にとはいえ移動を拒否しそうだ。画家なら橋に居てもらっても、観光協会から露骨な立ち退き要求はしないだろう。こういう時には有名人はお得だ。
(いっそ開き直って全員で居ようかな。どうせ観光客がいる昼間だっているんだし)
 夜間に橋に立ち入りがあるからって何なんだ。クーラーボックスを背負いなおした。すぐ横をスーツの男性が通り過ぎる。ここでは珍しい服装だ。観光客ならもっとカジュアルか、むしろオシャレをしている。近隣住民なら普段着だ。顔ははっきり見えなかった。
(まさかね。アイツが今さら)
 オバサンが見たのと同一人物なのか。
 階段を登り切った。人が殆どいない。反対側の階段方面に集まっている。小さなイベント広場がある側だ。嫌な予感がした。急いで向かった。皆同じ方向を見下ろしている。爺さんが歪な姿勢で血だまりの上に横たわる。顔が真っ赤だ。三段飛ばしの勢いでそこまで降りた。
「爺さん!」
 声をかける。返事がない。鼻に手を当てると空気の動きを感じた。
「ゼロ!」
 ハジメの声だ。羽舞と一緒にやって来た。状況を見て息を呑む。
「うわ、どうしたんだ」
 玲市は努めて冷静に声を出した。
「息はあるよ。病院へ行こう」
 羽舞が意味なく左右に体を揺らす。
「どうしよう? 救急車? ねえ救急車呼ぶ?」
 迷子の子供みたいな声だ。
「いや」
 玲市が首を振った。
「直接がいいかな。ハジメ、悪い。僕の車で連れてってくれる?」
 駐車場に...と車とバイクのカギを交換する。
 救急車だとかかる時間が読めない上に、受け入れ先の病院がどこになるか分からない。救急受け入れの病院は限られているものの、市内に空きが無ければ遠くの場所に運ばれてしまう。直に怪我人の搬送なら、門前払いはしないはずだ。玲市は矢継ぎ早に指示を出した。
「国道を南へ。駅を越えたら馬瀬総合病院がある。すぐに分かるから。母さんが入院しているんだ。遠縁の...そうだな。木村一郎、七十歳。帰省中で保険証が無いって言って。支払いは全額負担の十割でいいから、馬瀬玲子と一緒にしてもらうって事で。住所は僕の家にしておいて」
 医療費を全額負担にすると、支払いさえきっちりすれば身元の確認はさほど厳しくはならない時もある。入院患者の親戚なら尚更だ。
「おい...」
 ハジメは何か言いたそうだ。それでも目の前に怪我人がいる。話は後だ。
「大丈夫だよ。何かあれば馬瀬玲子の息子にって言って」
 突っ立ったままの羽舞は置いておき、玲市がハジメの背中に爺さんを背負わせた。
「汚れるね。ごめん」
「そんなのいいから! お前が謝るな。ていうか行かないのか。後で話があるからな」
「うん。僕もだよ。で、うーちゃん。後で監視カメラを確認して」
 やっと羽舞の体の揺れが止まった。小刻みに何度も頷く。手は震えているが、周囲に向けて声を張った。
「すみません。怪我人が通ります。開けて下さい」
 何とか仕事モードに意識を切り替えたようだ。そのまま通行人たちを規制しながら、ハジメと共にその場を去った。
 玲市も腰を伸ばした。広場の奥の木立をじっと見つめる。管理はほぼされていない。枝葉はねじくれた腕を伸ばし、濃い影を落として背後の低い山に続く。黄色と黒の規制線と立ち入り禁止の札は泥と埃で黒ずみ、二年の月日を伝えている。鬱蒼とした雑草は朝の光を受けられずに真っ黒だった。
 足元に目を戻す。血はかなりの量だ。持っているペットボトルの水を垂らす。これだけでは埒が明かない。少し広がっただけだ。後は羽舞が何とかしてくれるだろう。玲市はまず一番近い猿と爺さんの部屋に向かった。
「猿! いるかな?」
 むしろをめくって猿の面が現れた。やはり黒のTシャツだ。短パンなのは部屋着なのだろう。ビニール袋を下げていた。
「朝っぱらから邪魔するな。これから女王様と優雅に朝飯よ」
 水道もない場所でコンビニ飯が優雅なのかな、と普段の玲市なら言ってしまうかもしれない。実際に喉元まで出かかった言葉を押し返す。
「爺さんが怪我をしたんだ」
「え? さっき流木を探しに行ったけどな。転んだか?」
「分からない」
 コツコツ、と橋を固い足音が近づく。女王様がご降臨だ。
「朝ごはんはどうしたの?」
 出て来た女王は斜に構えて腕を組んだ。化粧はバッチリ、真っ赤な唇が弧を描く。長い茶色の髪は横に流してあった。ピンクのスーツでスカートは短い。玲市は初めて女王とまともに向き合ったが、女性の年齢は本当に分かりにくい。
(三十代に造ってあるけどもうちょっと上だよな)
 などと首の様子などから失礼な値踏みを無意識にしていた。女王も同じらしい。目が笑っていない営業用スマイルで、獲物の鮮度を見極めるかのごとき熟練の目つきである。
「誰なの? ご飯の配達のお兄さん? あ...血?」
 玲市の腕や服に飛び散るのは赤茶の染みだ。
「うん。爺さんの。病院へ運んでもらったよ」
 猿が一歩前に出た。
「勝手な真似すんな」
「意識が無かったんだ。ここへ連れて来たら何とかなったのかな?」
「その口、本当に鬱陶しいな。楽しすぎて首を絞めたくなるぜ」
 女王が焦れた声を出す。
「爺さんは生きてるの?」
「さてね」
 玲市は猿に言った。
「ご飯の後はお出かけだよね? そのままずっと? 帰らないくらい遠くへ?」 
「お前は何て事...!」
「爺さんの心配はしないのかな?」
 猿の拳が上がる。しかし玲市は顔を上げて焦点を定めず面を見返す。どことなく笑っているような気配もあり、反抗なのか揶揄やゆなのか。猿には彼の意図が読めない。
「...手間をかけさせてって感謝しろってか? 文句を言うなら放っとけばいいだろう! どこの病院だ? 具合は?」
「もちろん放っておくよ。猿、君の方を」
 搬送先を教えるつもりは無かった。そこで玲市の制御できないトラブルが起きるのは困る。
「待て。協会に聞けば分かるのか?」
「へえ。出て行けと言っている所に出向く?」
 彼女が何か言っている。それにかぶせてこの野郎、との怒号を背に部屋を後にした。
 爺さんを猿に任せても良かったのだろう。同居しているのだからむしろそちらが良かったのだ。だが今は女王が居る。少なくとも御霊流しの間は二人とも留守にしたいのなら、爺さんの面倒を見るのは難しい。
 そもそもどうして彼女は来た? 水道も鍵もかからないそんな不便な場所に? 観光地の橋に泊まれるなんて、好奇心の強い人なら楽しみになるかもしれない。だが彼女はもう嫌だと言っていた。
 爺さんを放っておく選択は玲市にはない。片手を突き出し、目の前で広げる。ついやってしまう癖だ。彼の周囲では死がありふれている。だからこそ指の先にでもひっかかった命なら引き止めたい。ぐっと拳を握った。
 祖母の春枝が逝ったのは二年前だ。昼食を届けに二階へ玲子が出向いた時だった。やがて来たのは救急車と警察車両だった。祖母は椅子に座ったままこと切れていたそうだ。不審死に当たる為、検視が必要になるとの事だった。死因は心房細動だ。公俊は所用で不在の時だった。もともと心臓に疾患は無かったはずなのだ。誰かがそばにいたら助けられたかもしれない。
 八年前に倒れた父を見つけたのは玲市だった。朝の仕込みの時間だ。母は台所にいた。朝ごはんを伝えに行ったら、厨房の床で倒れて呻く父を見つけた。乳白色の液体を湛えた寸胴鍋がたぎる音が響く。
『火を、火を頼む』
 それだけ伝えて意識が消えた。急いで火を消し、すぐに救急車を呼んだ。搬送先で緊急手術が施された。だが意識は戻らず、その日のうちに息を引き取った。急性大動脈解離だった。致死性の高い血管障害だ。
 最後の言葉の意味はどちらなのか。消すのか、スープを仕上げて欲しかったのか。もう聞くのは叶わない。
 妹が亡くなったのは二十年と少し前だ。玲市が四歳の時だった。お腹の大きい母をぼんやり覚えている。次の記憶は病院だ。大きなガラス窓の向こうにちっぽけな妹が管だらけで横たわる。それを無言の母と並んで見つめた。しっかりと母の手を握ったが、まだ入院中でパジャマ姿の母の手は冷たかった。妹は心臓に疾患を持って生まれて、もって一週間だろうと言われたのだ。でも彼女は頑張った。倍の二週間持ちこたえて力尽きた。白いお包みに包まれた妹を初めて抱いた。軽かった。目を開いた妹を見たかった。
 見知らぬ兄は、二歳の誕生日を迎えてまもなく旅立った。まだ玲市が玲子のお腹にいた頃だ。寒い日が続いていたそうだ。発熱で病院へ行き、薬をもらった。しかし熱は下がらない。次の日には意識不明になって入院、その夜に短い生涯を終えた。インフルエンザ脳症だった。
 数か月後に入れ替わるように生まれた次男に、両親は長男と同じ『玲市』と名付けたのだ。
 一緒に家族を看取り続けた玲子も、すでにターミナルケアに入っている。
 公俊は高齢だ。体調は心配だ。まるで春枝のお迎えをただ待つかのように、頑として病院に行かない。見た目は年の割に元気そうだが、いつ何があるか。
 そして長い髪の女性は秋風のように微笑む。
 ...私はもう何者でもないから。自由だから...
 誰かそばにいれば。どんなに些細な兆候でも見逃さずにいれば。そんな後悔はもう御免だ。
 不意にひんやりした風が頬を撫でた。
(雨のにおいだな)
 玲市はオバサンの部屋に向かった。彼女は今日も看板を出していない。
「お邪魔。今日の占いは?」
 彼女はコットに腰かけていた。部屋の片づけは進んでいないようだ。
「もうすぐ雨が降るだろうよ」
「それじゃ普通の天気予報だよ」
 はいお水、と数本のペットボトルを差し出す。
「オバサン、泊まる場所は見つかった?」
「お前は分かって聞いているだろう」
 軽く睨まれた。値段と探す手段。どちらにもオバサンには手持ちがない。
「いっそずっと居る? 飾りつけに部屋に入られるくらいだよね?」
「そうだねえ」
 オバサンは頭上を見上げた。御霊流しの間は橋の屋根や外の壁にも装飾を付けるし、ライトアップの時間も伸びる。部屋の中から梁伝いに電線を這わせるのだ。部屋への立ち入りは必須である。
「ところで」
 天気の続きのような調子で玲市が言った。
「バーみどりって聞いた事ある?」
 びく、と肩が動いた。零れそうなほど目が大きくなってからしぼんだ。俯いたせいで肩が丸くなる。老いた猫が体を丸めたようだった。
「いや...ああ...」
 この態度はもはや肯定だ。玲市が答えを待っている。オバサンは軽く息を吐いた。ぴっと背筋を伸ばして正面から玲市を見た。
「驚かせるんじゃないよ。本当にこの子ときたら、突然ナニを言い出すんだろうね。お嬢...あの子の東京のバイト先だよ。どこから聞いた?」
 かつてここにほんの僅かの期間だけ滞在した、髪の長い女性。安中あんなか井乃いのだ。
「さてね」
 あ、とオバサンの口が開いた。
「猿の所にいる女王様。あれそうなのかい? 何だかアイツも見かけたし...何で今更...何が起きてるんだい?」
「分からないよ。まあ注意はしておいてね。爺さんが怪我をして病院送りになったし」
 え、の形で唇が固まった。一瞬おいてばねが膝にあるように立ち上がった。
「ちょっとちょっと! 何だい?」
 玲市は少し笑ったままだ。人差し指を唇に当てた。
 急ぎ公俊に食事を届けた。挨拶もそこそこに協会に向かう。外からうかがうと、羽舞は受付に戻っていた。玲市の視線に気が付いた。招くのと同時に外に出て来た。
「イトコが車に乗るまでは見たよ。血も洗ったし。それで連絡来た?」
「まだだよ。世話かけたね。ありがとう」
 羽舞は指をもじもじ動かした。
「あのさ~監視カメラ見たよ。どうしようかな...どうすればいいんだろう...」
 ただ転んだだけではない事があったようだ。玲市もそれは予想していた。
「もう上に伝えた?」
「ううん。住んでる人が怪我したってだけしか言ってない。それでさぁ」
 周囲を見渡して声をさらに潜めた。
「ちょっと前だけど住んでる人の事を聞きたいって奴が来たの。見た事あるような気がしてさ~名刺ももらったんだ」
 それで古い名刺を引っ張り出して調べたそうだ。すると同じ物が見つかった。二年前だ。住所は東京。○○保険××営業所。八木原やぎはらとおる
「よく取ってあったね。同じ人?」
「そう。同じ奴。同じ名刺。取っておいたっていうかね~管理がね~」
 アナログ資料の保管が多少ずさんなのだろう。だがそれが幸いした。
「ふうん...」
 空はますます黒い。
「ねえゼロちゃん、どうしたらいいんだろう?」
 玲市は自分の手のひらを見つめた。ぎゅっと握りしめる。この数日は、何回同じ動きを繰り返しただろうか。再度開き、その手で羽舞の肩を軽く叩いた。
「大丈夫だよ。うーちゃんは何も知らなかったでいいんだよ」
「でも...」
 大丈夫、大丈夫と何度も繰り返す。協会の扉が開いた。男性職員が顔を出す。
「お~い、戻ってよ~」
 眉をひそめたまま、羽舞は手を振った。それに手を振り返した。振り返りながら職場に戻る。
「詰めが甘いな」
 呟きと同時に、ほんの刹那だけ玲市の瞳に強い光が宿った。
 靴の先で水が弾けた。一つ、二つ、それから一気に地面が黒くなる。雨が降り始めた。
「あ、洗濯物」
 まあいいか、と首を振る。それよりも急いで片付けなくてはならないミッションが幾つか発生したようだ。
 駐車場で中華ヘルメットが待っていた。シートの上で雨に濡れている。クーラーボックスが枷になって体に絡みつく。水の垂れる頭を振り、後部座席に括り付ける。一度は家に戻る選択肢もあった。しかし今は、雨に打たれるままに走りたかった。


 玲市が家に戻ったのは夕方に近かった。雨は既に本降りだった。途中でレインコートを買ったものの、パンツまでびしょ濡れだ。持って帰ったのはクーラーバッグだけだ。それを一階の玄関に放り込んだ。洗濯物が干しっぱなしだった。そのまま二階に上がろうとすると声を掛けられた。
「おい。何が言う事あるんだよな?」
 ハジメが居間から立ち上がった。
「爺さんの搬送ありがとう。とりあえず洗濯物をしまってくるよ。それから話を...」
「さっき取り込んだ。見事にずぶ濡れ。俺の服が...」
「あ~替えはある? 乾燥機ないんだよね。街道沿いならコインランドリーが」
「じゃなくて! あんな事があったのに普通に洗濯物の話をするのか、お前は」
「大事じゃない? あ、押し入れから短パン出してくれる?」
「あ?」
 このまま部屋に入ると全身から水が垂れて畳が濡れる。ふん、と鼻を鳴らしながらもハジメが衣装ケースをさぐる。Tシャツとタオルも一緒に出してくれた。玲市はその場でパンツまで脱いでしまい、直接短パンを履いた。若干気持ち悪いが仕方ない。どうせこれから風呂のつもりだ。
「パンツも出してやろうか? 何なら抱っこして温めてやるぞ」
「そこまで求めてないよ」
 乾いた服を着るだけで、かなり体が温まる。タオルで髪を拭きながらほっと息を吐いた。
「先に風呂に入れよ」
「そうする。それで爺さんは?」
「う~ん...」
 玲市の指示通りの病院へ運んだ。幸いすぐに対応してもらえたおかげかすぐに意識は戻ったそうだ。だが脳震盪を起こしたらしく受け答えが不明瞭だ。怪我の状況は腰に打ち身と頭部裂傷、右前腕の橈骨骨折。これは右手の肘から先にある二本のうち、外側の骨が折れたという事だ。脳波に異常はないが、年齢的にも念の為入院にしてもらった。
「重症だね...」
「まあな。会計は言われた通りでやってくれるって」
「ありがとう。手間をかけたね」
「お金...大丈夫なのか?」
「うん。実は...ってほどじゃないけど、父方の祖父がいろいろ遺してくれて不労所得があるんだ。ま、こっちの話はお仕舞」
 この建物からも賃料はある。それに人の懐事情をあまり聞くのも失礼だ。その常識はハジメも持っている。
 じゃあ、と濡れた服をまとめて持つ。洗濯機はもう二階にしかない。体を温めろと言うわりには、ハジメは立ち上がったままで玲市をじっと見ている。
「爺さんは馬瀬っていうのか? お前の名前を出した時、爺さんが返事した」
 玲市はへえ、と呟いただけだ。
「伯母さんに会いたいって言ったんだけど、断られた。何でって言っても看護師さん答えてくんねーし」
「個人情報管理が厳しいからねえ」
「甥だぞ」
「もうすぐ退院なんだよ。お見舞いってほどじゃないからかな? 検査とかもあるし、意外と入院生活って忙しいしね」
 玲子がなぜ面会を断ったのか。弱った自分を見られたくないのか、心配をかけるのか嫌なのか。玲市には分からない。しかし玲子は会わない選択をした。玲市はその意思を尊重する。柔らかな笑みで息をするように嘘を吐く。
 まだ何か言おうとしたハジメだった。だが玲市の顔色が青白いのに気が付く。七月の関東とはいえ東北との境界と言ってもいい地方だ。雨のせいで上着が恋しいほど気温が下がっている。
「風呂に入って来いよ。そんなに俺に抱っこされたいか」
「また今度ね。そんな機会があればだけど」
 洗濯物を抱えて玲市が去った。
 ややあって戻ったと思ったら、さっさと配食へ出かけてしまった。それならハジメは二階へ行くしかない。
 何かがおかしい。ハジメの知らない事情がどんどん転がって先へ進んでいる。それを黙って横で見ているだけ。胸の奥がちりちりするようなもどかしさを感じる。
 リビングのあちこちにぶら下げた洗濯物に触れてみた。生乾きだ。すっきりしない。
(俺もだわ)
 夜になって、再び車が発進したのにハジメは気が付かなかった。
 改めて玲市とはどういう関係だったろうかと考えてみる。小学生の頃は毎年会っていた。正月と夏休みはほぼ馬瀬に帰省していたからだ。一緒に物問川で遊んだ記憶もある。帰る時には泣きたくなるほど楽しんだものだ。最後に会ったのは中学二年だ。市郎が亡くなる前年だ。玲市は高校生で、もうじゃれあう年でもない。むしろハジメのきょうだいの相手を一緒にしてくれた。翌年に伯父の葬儀があった。家族葬だったので両親のみが参列したので会っていない。
 年賀状のやり取りは親同士がやっていたし、接点は本当に薄かった。玲市の事を殆ど知らなかったのだ。交流があまり無いのに酒居家に助けを求めた玲市。気安く観光に出ていた自分はどう見えていたのか。
 胸がずきりと痛んだ。
 一週間の約束は、もう四日が終わろうとしている。

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