馬の背の橋 物問川居座りの初夏 屋根付きの橋の住人は皆さんクセが強い

あべ舞野

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5日目 7月12日 爺さん退院、そしてハジメはやっと真実のカケラを知る

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五日目 七月十二日

 ハジメは困っていた。洋服がない。昨日の雨で濡れた分が湿っている。着られなくはないが、そのうち生乾き臭がしてくるパターンだ。今朝は雨で洗濯機を回せないし、昨日のシャツを連用するのも躊躇がある。
 何かないだろうか。入った事のない部屋を開ける。クローゼットのある洋室だった。ベッドと机があるくらいで何の飾り気もない。不愛想なビジネスホテルのようだ。クローゼットを開けると、玲市のシャツが何枚か下がっている。もう荷物の一部はこちらへ運ばれているらしい。無難そうな白いシャツを取り出して、しばらく体が固まった。背中いっぱいに真っ赤な字で『いらっしゃい馬瀬?』とあり、袖口と裾にはこれまた金赤の波頭がプリントされていた。ラーメン屋用ではなくて、地域か青年団のイベント用だろう。
 他のシャツも似たりよったりだ。ここに下がっているのは宣伝用のばかりだった。結果、最初のシャツが一番地味だった。
「借ります」
 その場にいない持ち主に声をかける。
 その恰好で一階に降りた。玲市の姿はない。クーラーボックスの上にはレインコートがあった。手回しが良い。バイクを使えという事だろう。
(これで中華ヘルメットかい)
 気分はすっかり馬瀬青年団だ。
 橋についてレインコートは脱いだ。しかしヘルメットをかぶったままにした。さすがにこのシャツは恥ずかしい。土産物の店主がきょろっと視線を送ってくる。バイザーは下げたままで頭を下げつつ手を振った。おそらく玲市だと思っただろう。
 雨模様にも関わらずオバサンが外にいた。看板の横で俯き、目は閉じたままだ。
「おはよ~神秘十字だよ~」
 と顔の前でひらひら手を振った。片目を開けて相手を確認。すぐに両目でまっすぐ向き合った。
「何だいゼロ? おや」
 バイザーを上げた顔を見て眉をひそめた。
「ゼロにしちゃお調子が良すぎると思ったよ。さっき帰ったのにおかしいなと」
 オバサンは服のせいで勘違いしたらしい。前に羽舞が間違えたくらいだ。体格もやはり似ているのだろう。訪問は入れ違いになったようだ。配食以外にも橋に用があったのか。
「ゼロが? 何しに来たの?」
「知らないよ。すぐ帰ったし」
 ハジメはオバサンの前にしゃがんだ。
「今日は営業中なんだ?」
「外の方が安全だろうからね。人目があるし」
「何の話?」
 オバサンは何とも言えない顔をした。
「ああ...知らないんだったね」
 ハジメが微妙な表情になる番だった。
「ナニを? 大体ゼロはいつからここに来てるんだ?」
「本人に聞けばいいさ」
「どこ? 居ない奴に聞けないよ」
 ハジメはヘルメットの額に手をやり、辺りを探すふりをした。やれやれ、とオバサンが首を振った。
「絵描きさんと一緒くらいかね」
 では二年前からか。
「オバサンはいつからいるの?」
 返答は意外な方向からだった。
「あんたはゼロと裏と表みたいな奴だね。あれの無いものを持ってるし、あれが持ってるのを持っていない。だけど似ている」
 性格がかなり違う自覚はある。どうせなら表がいいな、などとしょうもない事を考えているうちにもオバサンは続ける。
「あんたはすぐに自分の家に帰るんだろう? ゼロが言ってたよ。だったら聞いてどうする? ゼロの事情なんかアタシだって知らないよ。知らせたくない何かなんて誰にだってあるさ。汲んでおやり」
 オバサン自身の事情を含めてこれ以上聞くな、という事だ。まともに視線がぶつかる。オバサンの頬が少し上気しているようだ。すっと目を逸らす。彼女なりの緊張感だ。それが分からないほどハジメは幼くはない。だが、目が合って赤くなるなんて乙女かよ~と少し曲がって受け止めておかしくなった。ばん、とバイザーを下した。曲げたままの膝もそろそろ痛い。勢いをつけて立ち上がった。
「分かった、どうしてゼロがここで世話を焼くのか。だって毎日無料で占いしてもらえるんだからな」
 不穏な発言に、オバサンはすぐに調子を取り戻す。
「ああ? 誰がタダって言った。最初だけだよ」
「前に水を差し入れしたじゃん」
「そこまでアタシは安くないよ」
 あまり実の無い内容だ。しかし会話が盛り上がっているように見えなくもない。足を停める人も出て来た。もしや支払いをしてくれる客が付くかもしれない。
「それじゃあね」
 数歩踏み出してすぐだった。土産物の陳列をしている男性に声をかけられた。
「おうラーメン屋」
 バイザーを下げた状態でまた玲市と間違えられた。この間の屋台村に居た顔のような気もする。
「雨だからさ、今日の設営は延期だ。あの、ほら手伝いに来た兄ちゃんに伝えておいて。あいつ面白いな。また飲みに来いって言っといてな。協会に行けば予定表もらえるぞ」
 こくこく、と頷いた。正体をばらすほどの事もないし、羽舞がいれば予定表を渡してくれるだろう。ハジメはゆっくりと歩き始めた。絵描きさんはまた椅子の上に違いないと思いながら。

 関東の梅雨開けはまだらしい。大きな雨粒がひっきりなしに天から降り注ぐ。物問川の水量は増えて唸り声をあげている。観光客も足早に石造りの橋を通り過ぎるばかりだ。昼を過ぎても客足はまばらだ。
 観光協会のすぐ外で玲市と羽舞が立ち話だ。玲市の車は職員用の場所にこっそりと停めてある。
「昨日はありがとう。爺さんは退院したんだけど」
 含みのある言い方だ。
 車で待っているはずの爺さんが降りて来た。頭に包帯、頬に青あざがあるし、三角巾で腕を吊っている。腰が痛いのだろう。歩き方がぎこちない。赤ちゃんの初めてのあんよのような足取りで二人の近くまで来た。入り口に飾られた風船を片手で撫でる。何かぶつぶつ小声で囁く。何とか聞き取れる大きさだ。
「...元気だったか...そうそう...そりゃ良かったね...」
 風船相手に世間話だ。目つきはどこかとろんとしているが、穏やかで楽しそうだ。
 入院によるせんもうが起きているらしい。環境の変化や痛みによるストレスで入院患者に一定の割合で起こる症状だ。記憶や認知に一時的な障害が起きてしまう。身体の症状が回復すると軽減する。医者の見立てはそれだった。重傷だが命に別状はない。脳波に異常もない事から退院になった。
 玲市の家はまもなく改装だ。公俊の世話もあり、ずっと介護はできない。転院するにももう自宅療養を言われている。結局ここへ帰るしかない。
「爺さん、そろそろ戻ろうか」
 そう声を掛けたが、彼は風船からなかなか離れない。
「うん、まだ話がね、もうちょっとね、お茶でも飲んでけって言うからね」
「あ、ちょっと待って」
 羽舞が中に戻る。すぐにA6サイズの小箱を手に戻った。爺さんに渡す。
「こないだのイベントで余ったの。上げるね」
 自由な片手が塞がった。爺さんは目をぱしぱしさせたものの、おとなしく玲市に促されて橋に向かう。部屋に猿と女王はいなかった。『自宅』に戻った事で多少は意識がすっきりしたのか。爺さんは一度は座ったものの、すぐに立ち上がる。
「材料をね、木を探して来ようかね」
「水が増えているから危ないよ」
「そう、じゃあたくさん流れて来ているね」
 今にも外によろよろと行ってしまいそうだ。さっき羽舞が渡してくれたのは色とりどりの風船だった。大急ぎで膨らませた。
「爺さん、ほら風船」
 ぼんやりした瞳の焦点が合った。頬に赤みが差す。
「ああ、ケンちゃんか。そんなところに」
 赤い風船を愛おしそうに撫でる。
「怪我しちゃったんだよ。そりゃ痛いさ。心配ありがとうな」
 やっと座ってくれた。
「おお、わざわざ来てくれてな」
 風船が手を離れた。部屋を転がる。追いかけてまた足を引っかけたら大変だ。玲市は爺さんのベルトに風船をくくりつけた。
「ほら爺さん、一緒に座ろうって」
「そうかそうか」
 風船と共に爺さんは微笑む。彼は過去の知己と共にある。この満ち足りた表情が彼の仕合せを雄弁に語る。とりあえずは部屋にいてくれそうだ。玲市は箪笥替わりのスーツケースを探った。爺さんに声を掛ける。
「痛み止めをもらったよ。どこに置けばいい?」
「あっち」
「どっち?」
 二つの部屋には、もう女王の荷物の気配はない。かと思いきや、台所の隅に不自然な塊がある。Tシャツがかかっている。床だ。隠す物が他になかったのだろう。めくると不織布の袋があった。すぐに元に戻した。
「爺さん、台所に置くよ」
 『木村一郎』名義の薬袋を、床にあったペットボトルと竈の上に並べた。
 そこへ仮面の男と行き会った。一人だ。
「何をしてやがる」
「おかえり。爺さんを連れて帰って来たよ。薬はこれ」
 猿は薬袋を見下ろした。ちっと舌打ちをする。
「てめえが勝手にした事だ。礼なんか言わないからな」
「あ、するつもりがあったんだ?」
 やかましいわ、とばかりに猿が手を振った。一応は様子を見に帰ってきたらしい。ちらっと爺さんに視線を送る。
「何だ、あの風船」
「話し相手」
「何だそりゃ」
 しかし大人しく爺さんは座っている。痛々しい様子にため息をつく。
「怪我の具合とか後で詳しく聞かせろよ。爺さんはお前に任せてやる。俺はちょっと野暮用を済ませてくる」
 またちらっと部屋の方を見た。そして彼は玲市の返事を待たずにきびすを返した。
 玲市は追いかけて部屋を出た。手すりからそっと彼の行く手を見た。傘もささずに猿が大股で歩いて行く。遊歩道の方ではない。そこより山側の川岸の方だ。傘でよく分からないが、スーツのズボンと黒いビジネスシュ―ズが見えた。彼と猿は連れ立って林の方へ入って行く。
(アイツが保険会社の奴か?)
 しばらく迷った。爺さんは相変わらず風船相手に語らっている。
(こっちはしばらく大丈夫そうだ)
 それから後を追いかけた。


 イベント広場奥の林。立ち入り禁止区域だ。黄色と黒のテープが木々に直接渡されているものの、柵があるわけでない。その気になればいるでも入れる。いつもは顔を見せている木陰の浅瀬も、この日は水が渦巻いていた。ひと際大きな岩の陰で猿と男は向かい合った。橋からも遊歩道からも死角になる場所だ。
 男の名は八木原やぎはらとおる。小柄で黒ぶちの眼鏡をかけている。猿の面を見つけると軽く会釈した。猿の肩ほどの背だ。口元は笑っているが細い目からは感情があまり伝わってこない。黒い傘の縁がさらにその目を隠した。
「何で来た?」
「昨日も申し上げたでしょ? お金さえくれれば何も見つからなかったって報告書をあげますよ?」
 語尾を上げて相手にいちいち確認するように話す。視線をじっと猿の面から離さない。
「ずいぶんと差し上げたはずですよね? 無いと言うなら、まあ私は会社に正直になりますよ?」
「あれっぽっちでか。ふざけんな」
 八木原は大げさに肩をすくめてみせた。
「合意したはずですよ? とにかく金を下さいな。その為に来たんですよ、ね、分かるでしょ? 無いというなら」
「...なら?」
「言わせるんですか? 簡単ですよ、ね? 電話一本ですよ。警察とか来るかなあ、ね? あんたもそんなバカバカしいお面なんか付けて顔を隠している場合じゃなくなるねえ」
「爺さんに怪我をさせたのかてめえか? 二年前みたいに」
 きょとん、とした後にへらへらと笑った。
「あ~あの子ね。死んじゃったぁ。あんなになったら嫌でしょう? もう誤魔化すのに大変で」
 最後まで言えなかった。怒号と共に猿が飛び掛かる。八木原のスーツの襟首を掴んだ。傘が宙を舞う。
「やっぱりてめえか!」
 強く揺さぶられて眼鏡がずれる。懸命に直しながら八木原は抗議した。
「何でそんなに怒るんだ? あんた、あの子と全然関係ないでしょうが。あ、まさか」
 ニヤリ。いたずらを見つけた子供同士のような笑みだ。
「惚れてた? え? その気があった?」
 水滴だらけのレンズを猿の手が払った。うう、と八木原の口が歪む。
「やめなさいよ。暴力はいけませんよ? え?」
「やかましい!」
 足元は石だらけの河原だ。ただでさえ雨で滑りやすくなっている。八木原の足が滑った。そのまま背後に倒れる。猿も引っ張られるように一緒に倒れ、彼の体の上に落ちた。八木原の手足が痙攣した。ぐう、とかぶうと息を吐く。そして四肢から力が抜けた。猿は体を起こした。
「おい?」
 ぷっと息を吐くと同時に口の端に泡が付いた。背後の大きな岩にはなすった血筋。頭の下には丸い石。水と雨でにじんで広がる。倒れた勢いと猿の体重をもろに受けて岩に当たってしまったのだ。目を閉じて呻いている。息はあるようだ。
 そこへ遠くから声が近づいた。
「猿! いるのか?」
 玲市だ。猿は急いで起き上がった。八木原の体を折りたたむように岩の根本に押しやった。それから岩の前に出て玲市に近づいた。
「何だ。また首を突っ込みに来やがったのか」
「アイツが見えたんだ。こっちに一緒に来たよね?」
「ああ。それがどうした」
 二人はしばらく無言だった。雨が枝越しに落ちて来る。水や石に当たり不揃いなメロディーを奏でる。玲市は眉をひそめた。何か音がするような気がする。しかし雨音のせいではっきり聞き取れない。猿の後ろに傘の柄が見える。
「まだそっちにいるのかな?」
「来るな。今ウンコしてんだよ。それにまだ話の途中なんだ。邪魔するな」
 猿の背後をちらっと覗こうとした。すると肩をどん、と突かれた。
「帰れよ」
「アイツと少し話がしたいんだ」
 猿はいらいらと地団太を踏んだ。
「じゃあこうしようぜ。俺の話が済んだら、お前の所に行くように言ってやる。アイツの車は駐車場にあるんだ。置いていくわけねえし、どっちにしろ行くだろうよ。俺は奴と二人きりで腹を割って話したいのよ。やたらうるせえハエ無しでな」
「どれくらいかかる?」
「一時間はかかるぜ。駐車場で待ってろ」
「車種とナンバーは知ってる?」
 猿は岩の影を覗き込んだ。彼はまだ横たわっている。猿は玲市の方を見ずに答えた。
「白の国産車だ。確か練馬ナンバーだった」
 その後、地鳴りのように怒鳴った。
「行けよ、おらぁ!」
 足元の石を掴む。玲市の足元に投げつけた。かちりと雨中に火花が散った。はっと後ずさり、二人はまたにらみ合った。
「分かった」
 玲市は軽くため息を吐いた。全面的に信じたわけではない。アイツが玲市と話したくないのだろう。とにかく教えられた車があるのかだけでも確認しようと思ったのだ。
 一度振り返った。猿は岩の影に消えていた。
(二年前の現場の近くなんだな)
 胸に重い塊がのしかかった。
 一方の猿は、周囲を見渡しながら八木原のそばにしゃがみこんだ。雨と増水した川の音で助かった。彼は間断なく呻いていたのだ。玲市の耳までは届かなかったようだ。
「おい」
 返事はない。服は水に浸かってびしょ濡れだ。肌に色がない。白目の半眼でまだ声を出している。すぐに手当てをすれば助かるだろうか。だが、猿の立場はただでは済まないだろう。
 また周囲を見渡した。八木原の髪を掴んだ。重い。手が滑った。どん、と再び地面に顔から落ちた。半分は水中だ。ぷく、と泡が浮いた。やにわに頭を押さえる。びくびくと背中が震えた。だが抵抗はそこまでだった。すぐに動かなくなる。
 とても近い場所で人の呼吸を感じた...と思ったら自分の荒い息だった。心臓の音が聞こえるようだ。全身が震えている。肌を伝う雨の冷たさではなく、体の芯が冷え切っているようだ。
 濡れている服はなかなか体から離れない。それでも何とか引きはがした。靴まで脱がせて八木原を下着一枚にした。そして岩の影から彼の体を水の流れに押し出した。一瞬沈むかと見せて、頭と背中が浮かぶ。しかしあっという間に茶色の波にまかれて遠ざかる。
 猿はその場に座りこんで頭を抱えた。
(俺が売ってしまったのは何なんだ)
 爺さんの生まれ故郷に近いこの地に流れて来て、住む場所を見つけた。それなりに平和な日々だったのだろう。それが物問川に呑まれて流れ去った。
 のろのろと立ち上がる。玲市がいつ戻って来るか。駐車場に行けば、猿が嘘をついたとすぐ分かるだろう。その前にこれらを片付けなくては。落ちたままの眼鏡を踏みつけた。ツルがはずれ、レンズが割れた。それを水に蹴りこむ。服と傘や残した物は全て川に放り込んだ。汚い物、見たくない物は全て水に流して終わり。
(女王様を迎えに行かなくちゃ)
 川の流れはとどまらず、尚も猿の日々は続くのだ。

 やはり該当の車は見当たらなかった。猿の嘘か、バスかタクシーを使ったのか。体よく追い払われたのは面白くないが、待っていてもおそらくアイツは来ないだろう。今日もまたびしょ濡れだ。
 仕方なく家に戻った。風呂に入ったり食事の用意であっという間に時間が過ぎていく。結局ハジメは配食の時間までには戻らない。玲市が橋に食事を届ける羽目になった。
 爺さんの部屋は風船だらけだ。そこにハジメがいた。しかも数年前のイベント用シャツ姿だ。
「どうしたの? その服は」
「あ!」
 腕時計に目をやるなりハジメが飛び上がった。さすがにヘルメットは脱いでいる。ジーンズの裾が濡れて黒い。
「やばい! 午後の配食だよな! 協会に寄ったら遅くなっちゃって」
 羽舞に会った後、橋の排水溝の掃除を頼まれた。しばらく雨が続くのなら、そこが詰まっていたら溢れてしまう。これは青年団の仕事なのか? と疑問に思わなくもなかったが。
「うん。まあ僕も爺さんの様子を見たかったからいいんだ。どう?」
「見ての通り。薬も飲ませたよ」
 爺さんはコットの上で風船まみれだ。ベルトの前後のみならず、服にも風船が留まっている。それで彼の笑みは穏やかだ。
「喜ぶんだよ。だからいっぱい膨らませたんだ。でもアブナイだろ、転がったのを追いかけたら。それで服に括り付けてみた」
 見るとホチキスだ。ハジメは照れたように笑った。
「どうやったら上手く付くか分かんねえし。うーちゃんに借りて来た。俺の服も借り物だな。悪い、勝手に出した。似合う?」
「うん、僕より似合う。もう少しいるから先に帰る?」
 交通手段がバイクと車だ。一緒に帰りましょう...というわけにはいかない。
「へいへい」
 レインコートをばさっと振った。 
「俺に何か話があるんだったよな?」 
「うん。帰ったら話すよ」
 玲市は爺さんの薬の数や飲ませ方を確認した。痛み止めと抗生剤だ。それぞれ服用時点が違う。とても本人に管理はできそうにない。
(オバサンに見てもらうか)
 女王と同伴している猿より当てになりそうだ。
 そんなこんなで玲市が戻ったのはハジメよりもちょっと遅い時間になった。
 ハジメは一階で待っていた。もう自分の服だ。帰って来た玲市を片目だけ細めて見つめた。
「で? 話って?」
「ハジメもあるんだったよね?」
「お前が先に言え」
 どっちが年上か分からない口調だ。しかし年下の従弟が尖った感じになっているのがむしろ可愛らしい。口元が緩む。
「明日、帰ってくれるかな。予定より早いけど、いろいろと目途が立ったんだ。ありがとう」
 は、とハジメの眉が歪んだ。雨音が耳にうるさい。電気の消えた店の方から闇が侵入してくるようだ。
「どういう意味だ。立ってねえだろうが。俺が来た時よりもっと悪くなってんじゃないか」
 玲市は答えなかった。クーラーボックスを台所の床に置く。
「おい。何とか言えよ」
「ハジメの話は?」
 と言いながらも、配食用の容器を取り出して洗い始める。その背中にいらいらと声を掛けた。
「絵の事だよ。あれ捨てるのか? 爺ちゃんの絵もないし、絵の具も無いな。橋にもろくに置いてない。どういう事なんだ。あ、関係ないなんて無しだぞ。俺には伯母ちゃんだし、爺ちゃんなんだからな!」
 流しと向かい合わせの窓は真っ黒だ。俯いて手を動かす玲市の頭だけが映っている。
「母さんの絵は寄贈するんだ。隣の市に爺ちゃんの絵をたくさん所蔵している美術館があってね。引き取ってくれるって」
 通常、一般人の絵画を受け入れはしない。酒居公俊の娘であり、地域で活動実績があったから引き受けてくれる事になったそうだ。
「全部...?」
「油彩だけね。収蔵してもらえばしっかり管理してもらえるし、爺ちゃんのついでに展示の機会があるかもしれない。ありがたい話だよ」
「何で? ただの引っ越しだけなら置いておけるだろう? 伯母さん、伯母さんは...」
 もう戻って来ないのか。ハジメは拳で口を押えた。もう必要ない薬、病院まで行ったのに面会できない理由、夫を失っても守った看板を下ろした事。聞きたい。でも聞きたくない。
「爺ちゃんの絵の具もどうしたんだよ」
 答えを聞くのが怖い気がする。オバサンには玲市の気持ちを分かってやれと忠告されたが、言葉は止まらなかった。
 水の音が止まった。ふう、と玲市の肩から力が抜けた。くるっと振り返る。手をぬぐった布巾を掛け直してからハジメを見た。少し目を細めて口角がわずかに上がっている。いつもの表情だ。
「爺ちゃんの作品は、もう殆ど行き先は決まっていて手元にはないんだ。筆やパレットは美術館に寄贈したよ。去年、軽い脳梗塞を起こして。会ったから分かるよね。右手に麻痺が残ったんだ」
 それだけなら手に筆を括り付けてでも描いたかもしれない。しかし同時に進んでいたのは黄斑変性症おうへんへんせいしょうだった。網膜もうまくの病気で視界が黒くぼやけたり、物が歪んで見える。中途失明の上位に位置する加齢性の病気だ。
「もう描けないんだよ。絵の神様が求めるレベルに応えられないからって、処分を頼まれたんだ」
 足元の地面がぐにゃりと歪んだようだった。考えがまとまらないながらも、懸命に言葉を押し出す。
「でも、でも、じゃあどうして治療しないで橋に」
「あの部屋でだけ祖母ばあちゃんがはっきり見えるんだって。二年前に見送ってから、ずっと」
 水の要らないシャンプーを使った時、あらぬ方向へスプレーするように言われた。あれは薫りの確認なのだと思っていたが違ったようだ。公俊はまず妻を綺麗にしてくれと頼んでいたのだ。霞む視界に鮮やかに映る最愛の女性の髪を。
 膝の力が抜けている。ハジメは無意識に数歩下がった。
「お前のスケッチとかは...」
「やっぱり見たんだね。紐が解けてたもんなあ。もう古いから捨てるんだよ。ハジメだって学生の頃の作品なんて持ってないよね」
 口調はずっと平たいままだ。対してハジメの声が震える。
「捨てるなよ。捨てるな。あれ、ゴミじゃない。捨てるくらいなら俺がもらう」
 玲市が口を開きかけると同時に店の電話が鳴った。ハジメの肩がびくっと震えた。ほぼ反射的に店に降りて厨房の受話器を上げる。
「は? オレって誰? 水死体? 知らねえよ。妙な事に俺の従兄いとこを巻き込むな!」
「ちょっとハジメ!」
 珍しく玲市が大き目の声を出した。急いで駆けて来る。受話器をめぐって少しもみ合ったが、玲市が勝った。片腕でハジメを押しやりながら耳に当てる。
「はい...はい...すみません...」
 短い会話ですぐに切った。ふう、とため息をつく。そしてふふっと風のように笑った。
「注文だよ。ラーメン二つ。これから出前に行くね」
「嘘付け」
「そうそう。餃子も二人前だって」
 ほら、とハジメを居間へ押しやる。
「消防団からだよ。事故があったらしい」
「何でお前に知らせが来るんだよ」
「青年団イコール消防団だからね。改めて防災無線で告知があるけど、先に連絡。とりあえず出動するよ」
 腕時計をちらっと見る。
「晩御飯は適当に済ませてくれるかな。僕はコーヒーを淹れるけど、ハジメも飲む?」
 返事がしばらく無かった。ハジメは意識が頭上に抜けたような顔をさらしている。今まで知らなかった事からかなりの衝撃を受けたのだ。そのような内容を言ったばかりだ。それなのに玲市はいつもの通りだ。
「帰らないからな!」
 それから少し考えて付け足した。
御霊流みたまながしまでは」
 畳を踏み抜く勢いでハジメが出て行った。
(色々と分かりやすくて可愛いなあ)
 弟がいたらこんな感じだろうか。玲市は改めて受話器を取った。
「さっきは従弟いとこがすみません。...いや、アイツは関係ないです。巻き込みたくない。それでちょっとお願いがあります...安中さん」
 それからコーヒーメーカーに粉と水をセットした。スイッチを入れる前に押し入れの上段に手を伸ばす。説明書も薬袋もない数種類の薬がシートのままで入っている。でも玲市には効能がすっかり頭に入っていた。玲子が入院するまで管理をしていたのは彼だ。
(深煎りのコーヒーは苦みが強くて僕は好きだな)
 銀色のシートを弄ぶ。
 外でバイクの発信音がする。ハジメがどこかに出かけたようだ。夕飯を買ってくるのだろう。玲市が出かけるだろうから、敢えて車を残してくれたようだ。
「気が利くね」
 そう呟いてコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
 



 
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