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冥界の太陽たち 第二話 谷間の集落 上
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冥界の太陽たち 第二話 上 谷間の集落 北州 ソフィア
霧のような雨が続く。季節はなかなか先へ進まなくても、いつものように一日が始まる。
ソフィアのエフェレット家では朝食の後片付けが終わったところだった。みんな事務室へ移動する。その日のスケジュールを確認だ。そのうちに周囲から工場へ人が集まり始める。工業地区に駐留している師団兵が立ち寄る事もあった。
父のジャックは仕事の割り振りなどで忙しくて席を温める暇もない。夕方までどこにいるのか分からない時もあるほどだ。その日はすぐに外出した。隣接する工場へ向かったようだ。
イーブとピドーの動きはその日次第だ。
おざなりなノックが響く。事務所へ来訪者だ。
「お疲れさん」
返事を待たずに白髪頭がのぞく。クリスト・ディンケルだ。でっぷりした腹を揺らしながら事務所に入った。銀縁の眼鏡をずり上げる。外の寒さで頬と鼻の頭が赤い。手にした封筒をひらひらさせた。ピドーに渡す。
「ピドー、良い子にしてたかい? お仕事だよ」
「はいよ」
赤ん坊の頃からの知り合いだ。おかげで今でも子供扱いを受ける。中の紙片を開いて顔をしかめた。
「え~。また歯磨き粉用?」
「新商品だよ。駄々をこねないで頼むな。後で見に行くからね」
そう言うと、事務所の椅子にどっかりと腰を下ろした。ネクタイを緩める。イーブにコーヒーを注いでもらうと、もう動く気配はない。
彼も西州から避難した一人だ。かつてのエフェレット工房で働く調香師だった。今はピドーの師匠だ。彼はカップを手に取るとイーブに話しかけた。
「数日前に東側の山ですごい雷が落ちたぞ。よく見えなかったが、空は何度も真っ白に光るわ何か崩れる音が轟くわ」
「僕がいなかった日かな? 被害は?」
「あっち側だからな。分からん」
他には天気やダムの水位についてなど、会話はなかなか途切れない。
ピドーはさっさと事務所の階段を上がった。そこは狭い部屋になっていて向い合せにドアが二枚。片方が居住側に通じる。もう片方を開けた。渡り廊下だ。屋根はあるが壁がない。吹き付ける霧雨に顔をしかめて急いだ。
渡りきると工場の棟だ。階段の下から既に機械の動く音が響く。飾り気のない灰色の廊下の先に調香室があった。
ひんやりした空気の中、ロッカーを開ける。膝まで届く白衣を着用だ。窓からは切通しの崖しか見えない。谷の斜面を切り拓いた場所だ。建物の反対側なら道路に面して川や畑が見える。一階に大型機材を搬入・搬出しやすいように、そちらに出入り口がある。
調香室には潤いを感じさせるインテリアは一切ない。壁には作り付けの棚が並ぶ。仕切りは低い。ラベルの付いたガラス瓶がずらりと並ぶ。部屋の中央には飾り気のない白いテーブル。フラスコや目盛のついた容器が無造作に置かれていた。蒸留は一階で行う。こちらでは調合のみだ。
窓は基本的に開けない。階下で機械油を使っているからだ。臭いが上がってきてしまう。
「え~と」
紙片と棚を見比べた。さっき渡された紙だ。香料のレシピエントである。精油の割合や分量を示した書類だ。それに書かれている通りの壜を棚から選んでテーブルに置いていく。
「...歯磨き粉か...」
ふう、とため息をつく。ピドーが作ろうとしているのは香水ではない。香料だ。歯磨き粉の矯味材として使う。新製品の試作だ。クリストが確認してOKが出れば、ジャックかイーブが取引先に持参する。
調香師としてのピドーの仕事はもっぱらレシピ通りに作り上げる事だ。自分の望む薫りを調合して売り出す...などは夢のまた夢だ。経験不足に加えて充分な原料が揃わない。北端の町では、洗剤や歯磨き粉に入れる香料の需要ばかりだった。たまには州都クロイツベルクから注文があっても、まずはレシピありだ。
ピドーはミントの壜を手にしてため息をつく。歯磨き粉には殆ど入っているのではないだろうか。そのまま棚に戻した。
紙を置く。
仕事は後回し。オリジナルの調合にチャレンジだ。勝手に幾つか壜を取り出す。無水エタノール、ビーカー、遮光壜だ。裏の白い紙を探す。
「...え~と...ベースノートはサンダルウッドとバニラ...甘すぎるな~。シダーウッド入れるか...」
ぶつぶつ言いながら最初に香るトップノート、続くミドルノートも決めて行く。時間が経つにつれて香が華やかに変化するのも香水の魅力の一つだ。
だが精油の種類が少ない。なかなか思い通りにはなりそうにないが、賦効率の計算をする。出来上がり量に対して使う精油の分量を決めるのだ。
香水にはフレグランスの種類がある。オードパフューム、オードトワレ、オーデコロンなどだが、基本の製造は同じだ。無水エタノールに精油を混ぜて二、三週間ほど熟成させれば出来上がり。配分する量によって香りの持続時間に違いが出る。
そして配合を少しでも間違えると予想した香りにはならない。
「う~ん...」
自分で作ったレシピを見て首をかしげる。女性向けのオーデコロンだが、入っているのはレモン、ラベンダーなど植物系の物ばかり。実際に混ぜたらどうなのか、今一つ見当がつかない。個別の嗅ぎ分けはできても実務には結びつかないのだ。やはり誰かから助言が欲しい。
(爺ちゃんならムスクとか使うかな...。あーでもここには無い!)
甘くて香水の香りを持続させる効能がある。前面に押し出すと男くさい印象が強くなるが、ラストにほんのり香るなら女性にも好感度が高い。
ピドーは頬を膨らませた。
「ムスクないってどうよ?」
誰にともなく呟いた。せっかく書きあがったレシピにバツをつける。
(ラベンダーやめてジャスミンの方が爽やか...? でも軽くなる。じゃあローズも足すか? ああっありふれてるアレンジ!)
一度迷い始めると、なかなか決まらない。迷路にはまりこんだようだ。正解はたった一つ、自分の感性のみが教えてくれる。
唸りながら書いては消す。何度も繰り返した。
どすどす、と足音が近づいた。ピドーはさっとドアに近づく。急いで鍵をかけた。軽いノックとほぼ同時にノブが回ってがちゃがちゃ鳴った。
「あれ? おい、ピドー。いないのか?」
父の声だ。ドアに口をつけるように怒鳴り返す。
「いるよ。調合中! 開けるな、入るな! 油臭くなる! いきなり開けるなって何度言えばいいんだよ! 専門家のくせに」
「あ~そうか」
「もう! ちょっと下がってくれよ」
白衣を脱いだ。近くの椅子の背にかける。ドアを細めに開けて急いで廊下に出た。案の定、父のつなぎは油汚れで黒くなっている。
「本当に調香師なのかよ、親父は...」
「ああ? 今、ちょっと機械を動かしてたら停まっちまったんだ。修理中」
父は殆ど上階に来ない。火薬の合成は一階だし、機械類を動かすのも彼の役目だ。
「それを言いに来たの?」
「いや。夕べレクトンから荷物が届いたとさ。これからイーブと取りに行ってくれるか?」
「おっ、了解」
行き詰っていた所だ。すぐに行こうとする。ジャックが襟首を掴んだ。
「こら待て」
閉まったドアを片手で示す。
「やりっぱなしじゃないのか? 片づけてから行け」
室内を見なくても、中の状況はお見通しのようだ。
「火は使ってないよ。出してあるのもそんなに無いし。帰ってから」
「いま片づけろ」
表情も口調も変わらない。だが問答無用の響きがある。全身から威圧感が漂ってくる感じだ。父は師匠で上司でもある。ピドーはちょっと尖っていた唇を引き締めた。
「はいはい」
「ハイは一度」
「...はい」
やっとジャックは襟首から手を放した。
「イーブは下だ。トラックを回して来るとさ」
「分かった」
ピドーは襟を直した。油臭い。顔をしかめる。ノブに手をかけた。ジャックの背中に声をかける。
「あのさ」
「うん?」
振り返る顔はいつもの通り穏やかだ。ピドーはしっかりと見返す。
「いつも通り火薬を作ってる?」
「そうだ」
ジャックは手をこすり合わせた。
「珪藻土を増産する準備もすすんでいる。ニトログリセリンも手に入るといいんだが」
「それダイナマイトになるんだよな? 何でやるんだよ? 親父は調香師なんだろう?」
「いや。何でもありの技術屋だ」
「そんな言い方ずるくね?」
それでは何でも作れる事になる。調香師か...という質問の答えにはなっていない。
「事実だよ。昔からそうだ。...どうした? 何かあったのか?」
ピドーの脳裏に鮮やかな景色が蘇る。すっきりと晴れた青い空の下にきちんと刈り込まれた芝生。王宮クロイツベルク城は広大な敷地を持つ。宮殿だけでも三百を超える部屋があった。そこへ居住を許されるのが貴族のステイタスでもあった。王と貴族の生活を支えるために多数の使用人も住みこんでおり、様々な施設もあった。宮殿とは別の建物が敷地のあちらこちらにあった。小さな宮殿だけでも三つ。それぞれに趣向の異なる造りだ。
なだらかな丘陵地帯に森があり、小動物が走る。ピドーの祖父ゴドーの香水工房兼住居もそんな位置だった。古い造りを踏襲した家で調香室の内装は温かい木造だった。
対して今は、新しいが無機質な灰色の壁に囲まれている。
「いや、別に。ただ...」
ピドーの視線が床に落ちた。
「ちょっと馬鹿な事を考えた。爺ちゃんに会いたいなって...」
「どうした?」
「うん。色々と調合について教えて欲しいな、なんてさ」
父に笑顔を向ける。
「父ちゃんを頼りにして大丈夫だとは思うけどね」
「本気じゃないだろう。クリストさんの方が適任だな」
ジャックも笑った。
クラクションが鳴った。階下からだ。イーブの準備は整ったようだ。
「早くしろよ。ああそうだ、ユーリも来ているんだった。珍しい」
最後は独り言のようだった。父の顔を見たが、表情に動きはない。
「あ~そうだ。ムスクが品切れ」
「お前が使うのか? タルカムパウダーでもはたいておけ」
「俺は赤ん坊か!」
ジャックは手を振った。足早に階段を下りていく。重い足音が遠ざかる。
後ろ姿を見送って部屋に入った。白衣はそのままだ。急いで精油とエタノールの壜だけは棚に戻した。
(親父って何者だよ)
父はめったにここで作業はしない。だが腑効率の計算や調合の手つきは早くて的確だ。器具の扱いにも慣れている。自分で言うように『なんでもあり』の器用さだ。無線や銃器の使い方を教えてくれたのも父だ。
(姉ちゃんには言ってるのかな...。それにしてもあのエラそうな感じは何だよ? もう殆ど圧迫感)
声を荒げる事はあまりない。だが体の大きさだけではなく威圧感を感じるのだ。
また警笛が響く。
「おっと」
ピドーは部屋を飛び出した。すぐに階段があるが、まずは廊下を進む。突き当たりのドアを開けるとまた廊下だ。壁紙にはピンクの小花模様が咲く。マリアの趣味で張り替えたばかりだった。廊下をはさんで向かいあう四つのドアがそれぞれの家族の部屋で突き当たりが浴室とトイレだ。
マリアはずっと留守だ。既に師団は帰ったが寮にいる。彼女のドアをちらりと見る。ノブには『立ち入り禁止』と手書きの札がかかっている。
「だ~れが入るか」
小さく呟く。それから隣のドアを開けた。ピドーの部屋だ。壁に貼られているのはソフィアに来てからの写真ばかりだ。
作り付けのクローゼットとベッドと箪笥が一つあるだけだ。だがよいしょっと積み上げた色々な物を乗り越えてからでないと中へ入れない。床が見えないほど物が溢れている。脱ぎ捨てた服や靴、読みかけの雑誌や調香の本などだ。
(片づけないとな~)
マリアがいる時はきっちりとしていた。油断していると強引に乗り込んで猛烈な勢いで掃除をされる。床にある物はゴミとみなされて没収だ。部屋の惨状を見る度に姉がいないのだと思う。
洋服ダンスをあけた。半分ほどハンガーからはずれて落ちている。
「うっ...」
布の山をかき分けた。急いで上着を探す。クラクションがまた鳴った。
「はいはい」
ドアを閉めるのもそこそこに階段を駆け下りた。事務室から外へ出る時、ちらりと奥に目をやる。リビングへ続くドアだ。マントルピースの上には母の写真と遺髪の入った小箱がある。声には出さなくても、これが毎日の挨拶だった。
馬車が発着する中央広場を起点として町が広がっている。川が上流から砂を運んできて広がった地域だ。断崖に囲まれているとはいえ、町が作られるには十分な面積があった。中央地域と呼ばれる場所だ。政治や経済の中枢組織が集中している。人口の殆どもここに住む。町の歴史の浅さゆえに、道路の舗装や街並みはきれいだ。
またガスも石炭も潤沢にある。下流地帯に送るのにも充分だ。それで収入を得られる。ソフィアは北端に位置しているが豊かでもあった。
ピドーとイーブは中央地域に着いた。レクトンからの荷物は、広場に近い倉庫に置かれていた。二人がかりで荷物を積み込む。
そろそろ昼だが空は暗いままだ。霧となった雨が吹き付ける。地面から冷気が迫る。しかし二人の体からは今にも湯気が上がりそうだ。
イーブが時計を見た。ひときわ鮮やかな青いシャツの袖をめくる。
「ピドーはどうする?」
「これから? 別に。どこか行くの?」
やりかけの歯磨き粉は急ぎではない、と自分に言い訳だ。
「ああ」
額に汗が浮いている。手の平で拭った。
「師団に顔を出そうかな。今日は全体の演習があるそうなんだ。ちょっと体を動かしてくる」
「俺も行く!」
ピドーの顔も赤く上気している。上着を脱いで腰に巻き、上半身は半そでのTシャツだ。
「そう言うと思ったよ」
トラックをそのままにして師団へ向かった。道路沿いには小さいながらも商店が並ぶ。それらを横目に急ぎ足だ。
「イーブ、ユリウスさんが来てるって? 偉いんだよな?」
「ん? ユリウス・フォン・フェリックスさん? 団長の甥御さん。今は北州軍の少将閣下だ。俺は顔を知っているくらい」
「偉いんだな。俺もその程度だ。そいつを親父が愛称で呼び捨てだよ? 将校殿とどんな知り合いだ?」
「さあね。親父さんの立場なら顔くらい会わせるだろう」
「あ、そっか」
役職はないがジャックは工業地域のまとめ役だ。
ソフィア師団の本部も中央地域にある。町のはずれだ。ひと際大きな五階建ては、この谷ではここだけだ。師団の機能はここに集約され、火器・武器もここに倉庫がある。併設するのは練兵場だ。射撃訓練所もあり、百メートルの直線が引ける面積を占めている。グラウンドとしては小さい。だがソフィアではぜいたくすぎる広さだ。
師団の構成員は徴兵による。男女とも一八歳から二年間は専属となる。その後は残るも市民に戻るも自由だ。退役した後も師団と一緒に行われる軍事行動への参加を求められる。町を守る為だ。
だからイーブはもちろん、まだ徴兵前のピドーも訓練に参加できる。
二人が到着した時には朝の教練が終了していた。練兵場で全体的な隊列の動きの訓練が主だったらしい。こげ茶の制服を着用しているのが師団兵だ。訓練はまだ終わらない。
グラウンドはなだらかな丘陵に面している。高い監視塔がある。他の三方は建物だ。事務的作業を行う棟が二つと病院施設がある。それぞれは屋根付きの渡り廊下でつながる。
列が綺麗に幾つかに別れた。一対一の組み手が始まる。イーブとピドーも端についた。
だがイーブはすっと列を外れた。渡り廊下に佇む人影を横目に睨む。小柄な体躯を制服に包んだ男は団長のカルバートだ。頭頂部は赤い。そこを縁どるような白髪だ。雨を避けているのだろう。イーブが気になったのは彼の横の二人だった。どちらも若い男だ。金髪の青年は穏やかな表情を浮かべている。整った容貌だ。着ているジャケットは地味な色合いだが仕立てが良さそうだ。背の高い方は黒づくめの服だった。軽く腕を組んで顎に指を当てている。あまり存在感がない。周囲に自然に溶け込んでいる。だが視線がからまった瞬間、目つきが変わった。鋭い冷たさがイーブを刺す。クモかカマキリのような肉食の昆虫を思わせる威圧感だった。
イーブはつかつかと歩み寄った。するとカルバートが黒ぶちの眼鏡をずり上げた。顔じゅう皺だらけにしてほほ笑む。
「やあ。精が出るね、イーブ」
師団の長であるカルバート・フォン・フェリックスだ。陣頭指揮に立つ事はあまりない。イーブは白髪頭を見下ろした。下品にならない程度の手つきで二人を示す。
「見慣れない方々ですが」
「うん。ラドクリフからお客さん。学者さんだよ」
不審そうな視線など気にする様子もない。シュペトレーゼは春の青空を思わせるほほ笑みをイーブに向ける。軽く会釈した。それが固まった。けたたましい叫びのせいだ。彼らの背後から不意に上がった。
「あー! てめえら、どうしてここに居やがる!」
ピドーだ。まるで子犬のように駆けて来た。髪から細かいしぶきが散る。
「知り合いか?」
イーブに聞かれると口をもごもごさせた。ルプレヒト・ヴィプリンガーのせいで一晩を留置所で過ごす羽目になったのだ。どういう知り合いなのか、ピドー本人にもはっきりとは言えない。
グラウンドでは組み手が始まった。体と体がぶつかり合う音がする。ピドーはくるりと方向転換だ。
「イーブ、相手してくれ」
半ば逃げるように組み手の輪に入る。
まだ客人二人をじろじろ見ながら、イーブもピドーを追いかけた。
「ラドクリフでエフェレットきょうだいがお世話になったらしいね?」
と、しらっとカルバートが二人を見上げる。
ルプレヒトが答える。
「ご存じで?」
「そりゃそうだよ」
師団の責任者としては、もめごとがあったのなら知っている方が当たり前だろう。
「あのきょうだいは血の気が多くて」
「お姉さんもですか?」
「ああ。お母さんに似たのかね」
ルプレヒトは目を巡らせた。見覚えのある茶色の髪はすぐ見つかった。
マリアも訓練に参加している。組んでいる相手は男だ。同じく新人なのだろう。まだ筋肉はさほどついていないほっそりした体型だ。女性の蹴りや拳に対して防戦一方である。異性だから遠慮しているのではなさそうだ。表情が必死だ。技の訓練だから決定的な一打は出さない。その分、余計に打ちこまれて辛そうだった。肩はもう大丈夫そうだ。
イーブとピドーの組み合わせも似たようなものだった。最初こそ同等だったのに、次第にイーブが押されている。ただでさえピドーの動きは素早い。さらに身長が低いので小回りが利く。
「ふうん」
ルプレヒトの視線が気になるのか。イーブの注意が一瞬それた。その隙を逃さない。ピドーがイーブの足を払った。バランスが崩れる。体勢を立て直す前に足をからめ、強引に腰払いをかけた。体重が一気にピドーにかかる。だが勢いが付いている。イーブは泥だらけの地面に転がった。
「勝った!」
胸を張るピドー。
「油断しただけだよ」
ため息交じりだ。服が泥にまみれた。洗うのが大変そうだ。
カルバートが苦笑した。
「やれやれ。子供相手でも手を抜かなくてもいいのにね」
「それとも、あれが彼の本気ですか?」
ルプレヒトは遠慮なしにイーブを指した。
「頭一つは違う子供にひっくり返されるような者がソフィアの警護を任されているというわけですか」
泥をはたいていたイーブは、ちらりとルプレヒトを見る。だが何も言わなかった。肩をいからせてその場を去る。空気が変わったのは彼らの周辺だけだった。訓練中の兵士には客人の呟きはよく聞こえなかったのだろう。
しかし。
「ふざけた事を言うな!」
ピドーがわめいた...と同時に、ルプレヒトの元に飛び蹴りだ。だが、すっと動いただけでかわされた。目標を失ってその場にスライディングだ。シュペトレーゼは棒立ちだった。自分のすぐ横に着地したピドーの顔を覗き込む。
「大丈夫?」
黒服がやれやれと首を振る。
「鼻だけかと思ったら耳も良いのか」
「やんのかコラァ!」
ばね仕掛けのように起き上った。呆れたような男を指さして怒鳴る。
ルプレヒトは眉間を抑えた。助けを求めるように師団長を見やる。だがカルバートは笑っているだけだ。
「子供は元気でいいねえ」
眼鏡の奥の瞳は細くなっている。面白がっているのを隠さない。まるでルプレヒトを値踏みしているようだ。彼にとっては、客分でありながら嫌味を吐く彼も『子供』なのだろう。この場の仲裁をするつもりは全くなさそうだ。
やむなくルプレヒトはピドーに向かいあった。
「君と手合わせする必要はない。怪我をさせては申し訳ない...カルバート殿にだ」
「ふざけんな。すかした面しやがって」
今にもピドーはつかみかかっていきそうな勢いだ。
シュペトレーゼがゆっくりと口を挟んだ。
「じゃあ僕が相手をするよ」
「へ?」
ピドーの口がぽかんと開く。彼だけでない。ルプレヒトとカルバートもだ。どこから見ても細身の彼はデスクワーク専門だ。とても格闘をするような体格ではない。さらに戦闘的な雰囲気を感じさせないのだ。
まわりの戸惑いなど無視しているのか気が付かないのか。返事を待たず、さっさとジャケットを脱ぐ。シャツをまくった腕は決して太くはなかった。彼の発言に最も表情を変えたのは、上着を渡されたルプレヒトだった。
「やめて下さい。そんな必要はありません」
「しばらく室内ばかりだったし、ちょっと体を動かしたいんだ。ピドー、相手をしてくれるかな」
「あんたと?」
ピドーはうろたえた。もろに学者という雰囲気の相手だ。
「待ってください!」
なおも止めるルプレヒトをしり目に、先にグラウンドへ出てしまう。続こうとするのをカルバートが止めた。
「まさか二対一でやるつもりじゃないよね、少尉」
「それで呼ぶのはやめて下さい」
小さな声で抗議する。
「今は歴史研究所に出向中なんです」
「お守りだってね? それは大変だ。何人出向してるんだっけ?」
ルプレヒトは黙った。カルバートの声音は、明らかに楽しんでいる。
小さな騒ぎはいつの間にか広がってしまった。何が始まるのかと、全員が注視している。ピドーとシュペトレーゼは向かい合った。
「怪我をさせたら悪い...」
言い終わらないうちだった。シュペトレーゼが視界から消える。姿勢を低くし、ピドーの膝を軽く蹴った。重心がぶれてよろめく。腕を取られた。ぐるりと光景が回り、地面が近付く。仰向けになった体全身に衝撃。ようやく投げられたと気が付いた。ポカンと開いた口に霧雨が降りかかる。
「え? あれ?」
瞬く間の出来事だった。すぐには負けたと理解できない。
シュペトレーゼが屈んで見ている。
「大丈夫? 本気を出していいからね」
「当たり前だっ! 見下ろすな!」
跳ね起きる。
またシュペトレーゼが低く構える。
「同じ手にひっかかるか!」
と下がった。だが今度は横に回り込んできた。腕が顔めがけて伸びる。払ったとたんに後ろから腰を突かれた。ここも体のバランスを崩される場所だ。前のめりになった。肩と足を同時に押され、またも倒される。今度はうつ伏せだ。びしゃ、と泥が跳ねた。
「この野郎!」
起き上った顔はまっ黒け。
遠くでマリアがため息をついている。勝負にならない。シュペトレーゼは殆ど動いていない。ピドーの勢いだけを利用している。
「ごめん。あの...」
「謝るな!」
「ああ、ごめん。あの...でも、まだやる?」
彼はまじめだった。青い瞳には素直な色しかない。完敗だ。
「こん畜生!」
ピドーの雄たけびが響き渡った。
着替えを用意してくれたのはイーブだった。本来なら師団兵だけが利用する施設だが、シャワー室を使わせてもらった。ついでに汚れ物をランドリーに放りこむ。
「あの野郎...」
まだ二回目だが、あの二人に関わると服が汚れて着替える羽目になる。まだ午後に入ったばかりで洗濯室を利用する者はいない。コンクリートの部屋に洗濯器がずらりと並んでいる。動いているのは一台だけだ。
部屋の中央に長机と丸椅子が幾つか置いてある。座面の緑の合成皮革は何となく湿っぽい。そこに腰を下ろして頬杖をついた。
「ただの学者かよ?」
穏やかでおっとりした雰囲気。しかし、しっかりした訓練を受けた者の身のこなしだ。ルプレヒトに至っては全く学者らしくない。
軽いノックの後にドアが開いた。シュペトレーゼがのぞく。
「あ、やっぱりここだね。ごめん、手間をかけさせて」
「何をしに来た!」
腰を浮かせて少し戦闘モードのピドーにも、穏やかな調子は変わらない。
「僕も洗濯だよ。取りに来たんだ」
「腰ぎんちゃくはどうした?」
「腰ぎんちゃくって何?」
ちょっとした嫌味も通じない。
「えっ。まあ、いつも一緒って事だよ」
大の大人に、しかも年上なのにそんな言葉を詳しく説明する気になれない。でもシュペトレーゼには十分な説明だったらしい。
「ふうん。あっ、腰にぶら下げている袋...巾着に例えているのか。上手いね。ルプレヒトなら、カルバート団長と話しているよ」
きょろきょろしている。やがてどこだか思い出したようだ。停まっている一台に手をかける。扉を開けて洗濯ものをテーブルに置いた。持参の袋をあらかじめ広げておく。たたむスピードは丁寧を通り越して優雅といってもいいほどゆっくりだ。しかし、その分きちんと中へおさめられていく。それなりに慣れた手つきだ。
「あら意外」
「何が?」
「家事なんか全然できないかと思ってた」
正直な感想だ。何しろバスの乗り方さえろくに知らなかったのだ。深窓の令嬢ならぬ箱入り息子の印象だった。
「寮住まいだったからね。料理はできないけど掃除もするよ」
「大学の寮? 格闘術はどこで習った?」
一年や二年で体得できる動きではなかった。
「ああ...まあね。ずっと教わっているよ」
上着が揺れた。テーブルに当たり、硬い音がする。ポケットから灰色の丸い縁が見えた。
「何だ?」
「ああ」
話が逸れた。シュペトレーゼは見るからにほっとした様子を見せる。あまり自分の生活について話したくなかったようだ。ポケットから石板を取りだした。掌ほどのサイズだ。座ったままのピドーに手渡す。周辺には点と棒の組み合わせが彫りこまれている。中央には大きな口。レクトンにあるのでは、と尋ねられた際に説明された図柄によく似ている。
「えーっ、やっぱりレクトンにあったのか?」
「ううん。ここへ来る前に寄ったけど、やっぱり無かったよ。これは東州の神殿跡にあったんだ。ルプレヒトに採取してもらった遺物の一つ。『東の赤』の絵図だよ。まさか完全品があるとは思わなかった。ほら、前にも説明したかな。ここの...」
と示す。口に呑まれる人の首、血を流す七面鳥など。しかし、またも出土品の解説をされてはたまらない。とっと話をぶち切った。
「はいはい。前にも聞いたな」
「ごめん、そうだったかな。ソフィアにもティーガ族が住んでいたという記録はあるんだけど。遺跡は残っていないようだね」
シュペトレーゼは再び洗濯ものに取りかかった。
「じゃあ、何で来たんだ? 馬車に乗ってみたかったのか?」
「うん、それはあるよ」
にっこり、元気な返答だ。色々な乗り物に乗れるのが楽しくて仕方がないようだ。
「あっ......そう...」
(やっぱり学者というのは浮世離れしているのか)
と、がっくり力の抜けたピドーだった。
だん、と扉が開いた。ルプレヒトだった。じろりと二人を眺める。
「ノックぐらいしろよ!」
「ここは、そんな必要のある部屋だと思えない」
ここに居ると分かっていたのだろう。シュペトレーゼが衣類をまとめ終わるのを無言で待っている。
「終わりましたか」
いささか声音が低いようだ。相変わらず無表情に近いものの、怒っているのが二人には伝わる。声の調子だけではない。背中にブリザードを背負っているような雰囲気があった。それでもシュペトレーゼはのんびりしたペースを崩さない。
「終わったよ」
「では一緒に来て下さい。宿泊の責任者がお話したいそうです」
「うん。あの...ルプレヒト、怒っている?」
時期外れのサンタのようだ。洗濯物の袋を担いでいる。まともに聞かれてルプレヒトの片方の眉が跳ねあがった。表情を少し緩める。
「怒ってはいません。一つだけ申し上げますが余計な真似はなさらないように」
言葉は堅苦しい。かえって不機嫌なのが伝わる。
「ごめんなさい。でも...あの...」
「あなたが移動を許された理由は御存じでしょう。あなたのご希望を最大限に取り入れたうえで所在の確認をされない為です。くれぐれもお忘れなきように」
シュペトレーゼはちらっとピドーを見た。あまり聞かれたくないようだ。声がくぐもる。
「うん...調査の為っていう理由で...感謝しています。だけど」
そっとため息をつく。
「神話を信じてはいないんだね、ルプレヒト」
「はい」
答えは簡潔だ。
「行きましょう。こちらです」
彼はドアを開けた。シュペトレーゼが廊下に出るのを待っている。
もう一度息を吐き、袋を抱え直す。受け取ろうとする手を制して、シュペトレーゼはピドーに軽く会釈した。腕を組んだままの助手の前を通り、部屋を出る。黒い男がドアを閉めた。廊下の窓から見える空は、小さくて四角い。灰色の色紙を貼ったようだった。
さて残されたピドー。まだ洗濯機は動いている。石板はテーブルに置かれたままだった。
「大事なもんだろうに、忘れていきやがったな」
手の中で転がす。裏に模様はない。平らですべすべしている。
(それにしても...)
二人の正体がやはり気になる。どちらも学者らしくない。そしてルプレヒトの態度だ。町の中では常に周囲に気を配っていた。助手というより、警護のようだった。先ほども懸命に組み手を止めていた。ランドリーに来た際も妙だ。ピドーだけではなく、シュペトレーゼにも睨みをきかせていた。彼らの話の通りなら、シュペトレーゼの方が上司だ。それに対する眼つきではなかった。それに彼の助手のはずなのに、神話はどうでも良さそうだ。
「うーん。まっ、いいか」
椅子にどすんと腰を落とす。何者なのか、何が目的なのかと聞いたところで素直に答えてはくれないだろう。だったら考えるだけ時間の無駄というものだ。 肘を付いたままピドーはぼんやりとしていた。今朝から色々と忙しく動き回ったせいだろうか。なんだか眠くなってきた。瞼が勝手に下がってくる。だんだんと意識が白くなっていった。
...取るがよい...
ふと誰かに命じられたような気がした。ぱっと目を開ける。ドアは閉まっている。見渡しても誰もいない。
(夢か)
最近よく見る悪夢と同じ感覚だった。
握っていた指がゆるんだが、まだ石版は手の平の中だった。体温ですっかり温かい。
(後で受付にでも返そう)
機械のブザーが鳴った。洗濯が終わったのだ。石板を置いて立ち上がった。
続く!
霧のような雨が続く。季節はなかなか先へ進まなくても、いつものように一日が始まる。
ソフィアのエフェレット家では朝食の後片付けが終わったところだった。みんな事務室へ移動する。その日のスケジュールを確認だ。そのうちに周囲から工場へ人が集まり始める。工業地区に駐留している師団兵が立ち寄る事もあった。
父のジャックは仕事の割り振りなどで忙しくて席を温める暇もない。夕方までどこにいるのか分からない時もあるほどだ。その日はすぐに外出した。隣接する工場へ向かったようだ。
イーブとピドーの動きはその日次第だ。
おざなりなノックが響く。事務所へ来訪者だ。
「お疲れさん」
返事を待たずに白髪頭がのぞく。クリスト・ディンケルだ。でっぷりした腹を揺らしながら事務所に入った。銀縁の眼鏡をずり上げる。外の寒さで頬と鼻の頭が赤い。手にした封筒をひらひらさせた。ピドーに渡す。
「ピドー、良い子にしてたかい? お仕事だよ」
「はいよ」
赤ん坊の頃からの知り合いだ。おかげで今でも子供扱いを受ける。中の紙片を開いて顔をしかめた。
「え~。また歯磨き粉用?」
「新商品だよ。駄々をこねないで頼むな。後で見に行くからね」
そう言うと、事務所の椅子にどっかりと腰を下ろした。ネクタイを緩める。イーブにコーヒーを注いでもらうと、もう動く気配はない。
彼も西州から避難した一人だ。かつてのエフェレット工房で働く調香師だった。今はピドーの師匠だ。彼はカップを手に取るとイーブに話しかけた。
「数日前に東側の山ですごい雷が落ちたぞ。よく見えなかったが、空は何度も真っ白に光るわ何か崩れる音が轟くわ」
「僕がいなかった日かな? 被害は?」
「あっち側だからな。分からん」
他には天気やダムの水位についてなど、会話はなかなか途切れない。
ピドーはさっさと事務所の階段を上がった。そこは狭い部屋になっていて向い合せにドアが二枚。片方が居住側に通じる。もう片方を開けた。渡り廊下だ。屋根はあるが壁がない。吹き付ける霧雨に顔をしかめて急いだ。
渡りきると工場の棟だ。階段の下から既に機械の動く音が響く。飾り気のない灰色の廊下の先に調香室があった。
ひんやりした空気の中、ロッカーを開ける。膝まで届く白衣を着用だ。窓からは切通しの崖しか見えない。谷の斜面を切り拓いた場所だ。建物の反対側なら道路に面して川や畑が見える。一階に大型機材を搬入・搬出しやすいように、そちらに出入り口がある。
調香室には潤いを感じさせるインテリアは一切ない。壁には作り付けの棚が並ぶ。仕切りは低い。ラベルの付いたガラス瓶がずらりと並ぶ。部屋の中央には飾り気のない白いテーブル。フラスコや目盛のついた容器が無造作に置かれていた。蒸留は一階で行う。こちらでは調合のみだ。
窓は基本的に開けない。階下で機械油を使っているからだ。臭いが上がってきてしまう。
「え~と」
紙片と棚を見比べた。さっき渡された紙だ。香料のレシピエントである。精油の割合や分量を示した書類だ。それに書かれている通りの壜を棚から選んでテーブルに置いていく。
「...歯磨き粉か...」
ふう、とため息をつく。ピドーが作ろうとしているのは香水ではない。香料だ。歯磨き粉の矯味材として使う。新製品の試作だ。クリストが確認してOKが出れば、ジャックかイーブが取引先に持参する。
調香師としてのピドーの仕事はもっぱらレシピ通りに作り上げる事だ。自分の望む薫りを調合して売り出す...などは夢のまた夢だ。経験不足に加えて充分な原料が揃わない。北端の町では、洗剤や歯磨き粉に入れる香料の需要ばかりだった。たまには州都クロイツベルクから注文があっても、まずはレシピありだ。
ピドーはミントの壜を手にしてため息をつく。歯磨き粉には殆ど入っているのではないだろうか。そのまま棚に戻した。
紙を置く。
仕事は後回し。オリジナルの調合にチャレンジだ。勝手に幾つか壜を取り出す。無水エタノール、ビーカー、遮光壜だ。裏の白い紙を探す。
「...え~と...ベースノートはサンダルウッドとバニラ...甘すぎるな~。シダーウッド入れるか...」
ぶつぶつ言いながら最初に香るトップノート、続くミドルノートも決めて行く。時間が経つにつれて香が華やかに変化するのも香水の魅力の一つだ。
だが精油の種類が少ない。なかなか思い通りにはなりそうにないが、賦効率の計算をする。出来上がり量に対して使う精油の分量を決めるのだ。
香水にはフレグランスの種類がある。オードパフューム、オードトワレ、オーデコロンなどだが、基本の製造は同じだ。無水エタノールに精油を混ぜて二、三週間ほど熟成させれば出来上がり。配分する量によって香りの持続時間に違いが出る。
そして配合を少しでも間違えると予想した香りにはならない。
「う~ん...」
自分で作ったレシピを見て首をかしげる。女性向けのオーデコロンだが、入っているのはレモン、ラベンダーなど植物系の物ばかり。実際に混ぜたらどうなのか、今一つ見当がつかない。個別の嗅ぎ分けはできても実務には結びつかないのだ。やはり誰かから助言が欲しい。
(爺ちゃんならムスクとか使うかな...。あーでもここには無い!)
甘くて香水の香りを持続させる効能がある。前面に押し出すと男くさい印象が強くなるが、ラストにほんのり香るなら女性にも好感度が高い。
ピドーは頬を膨らませた。
「ムスクないってどうよ?」
誰にともなく呟いた。せっかく書きあがったレシピにバツをつける。
(ラベンダーやめてジャスミンの方が爽やか...? でも軽くなる。じゃあローズも足すか? ああっありふれてるアレンジ!)
一度迷い始めると、なかなか決まらない。迷路にはまりこんだようだ。正解はたった一つ、自分の感性のみが教えてくれる。
唸りながら書いては消す。何度も繰り返した。
どすどす、と足音が近づいた。ピドーはさっとドアに近づく。急いで鍵をかけた。軽いノックとほぼ同時にノブが回ってがちゃがちゃ鳴った。
「あれ? おい、ピドー。いないのか?」
父の声だ。ドアに口をつけるように怒鳴り返す。
「いるよ。調合中! 開けるな、入るな! 油臭くなる! いきなり開けるなって何度言えばいいんだよ! 専門家のくせに」
「あ~そうか」
「もう! ちょっと下がってくれよ」
白衣を脱いだ。近くの椅子の背にかける。ドアを細めに開けて急いで廊下に出た。案の定、父のつなぎは油汚れで黒くなっている。
「本当に調香師なのかよ、親父は...」
「ああ? 今、ちょっと機械を動かしてたら停まっちまったんだ。修理中」
父は殆ど上階に来ない。火薬の合成は一階だし、機械類を動かすのも彼の役目だ。
「それを言いに来たの?」
「いや。夕べレクトンから荷物が届いたとさ。これからイーブと取りに行ってくれるか?」
「おっ、了解」
行き詰っていた所だ。すぐに行こうとする。ジャックが襟首を掴んだ。
「こら待て」
閉まったドアを片手で示す。
「やりっぱなしじゃないのか? 片づけてから行け」
室内を見なくても、中の状況はお見通しのようだ。
「火は使ってないよ。出してあるのもそんなに無いし。帰ってから」
「いま片づけろ」
表情も口調も変わらない。だが問答無用の響きがある。全身から威圧感が漂ってくる感じだ。父は師匠で上司でもある。ピドーはちょっと尖っていた唇を引き締めた。
「はいはい」
「ハイは一度」
「...はい」
やっとジャックは襟首から手を放した。
「イーブは下だ。トラックを回して来るとさ」
「分かった」
ピドーは襟を直した。油臭い。顔をしかめる。ノブに手をかけた。ジャックの背中に声をかける。
「あのさ」
「うん?」
振り返る顔はいつもの通り穏やかだ。ピドーはしっかりと見返す。
「いつも通り火薬を作ってる?」
「そうだ」
ジャックは手をこすり合わせた。
「珪藻土を増産する準備もすすんでいる。ニトログリセリンも手に入るといいんだが」
「それダイナマイトになるんだよな? 何でやるんだよ? 親父は調香師なんだろう?」
「いや。何でもありの技術屋だ」
「そんな言い方ずるくね?」
それでは何でも作れる事になる。調香師か...という質問の答えにはなっていない。
「事実だよ。昔からそうだ。...どうした? 何かあったのか?」
ピドーの脳裏に鮮やかな景色が蘇る。すっきりと晴れた青い空の下にきちんと刈り込まれた芝生。王宮クロイツベルク城は広大な敷地を持つ。宮殿だけでも三百を超える部屋があった。そこへ居住を許されるのが貴族のステイタスでもあった。王と貴族の生活を支えるために多数の使用人も住みこんでおり、様々な施設もあった。宮殿とは別の建物が敷地のあちらこちらにあった。小さな宮殿だけでも三つ。それぞれに趣向の異なる造りだ。
なだらかな丘陵地帯に森があり、小動物が走る。ピドーの祖父ゴドーの香水工房兼住居もそんな位置だった。古い造りを踏襲した家で調香室の内装は温かい木造だった。
対して今は、新しいが無機質な灰色の壁に囲まれている。
「いや、別に。ただ...」
ピドーの視線が床に落ちた。
「ちょっと馬鹿な事を考えた。爺ちゃんに会いたいなって...」
「どうした?」
「うん。色々と調合について教えて欲しいな、なんてさ」
父に笑顔を向ける。
「父ちゃんを頼りにして大丈夫だとは思うけどね」
「本気じゃないだろう。クリストさんの方が適任だな」
ジャックも笑った。
クラクションが鳴った。階下からだ。イーブの準備は整ったようだ。
「早くしろよ。ああそうだ、ユーリも来ているんだった。珍しい」
最後は独り言のようだった。父の顔を見たが、表情に動きはない。
「あ~そうだ。ムスクが品切れ」
「お前が使うのか? タルカムパウダーでもはたいておけ」
「俺は赤ん坊か!」
ジャックは手を振った。足早に階段を下りていく。重い足音が遠ざかる。
後ろ姿を見送って部屋に入った。白衣はそのままだ。急いで精油とエタノールの壜だけは棚に戻した。
(親父って何者だよ)
父はめったにここで作業はしない。だが腑効率の計算や調合の手つきは早くて的確だ。器具の扱いにも慣れている。自分で言うように『なんでもあり』の器用さだ。無線や銃器の使い方を教えてくれたのも父だ。
(姉ちゃんには言ってるのかな...。それにしてもあのエラそうな感じは何だよ? もう殆ど圧迫感)
声を荒げる事はあまりない。だが体の大きさだけではなく威圧感を感じるのだ。
また警笛が響く。
「おっと」
ピドーは部屋を飛び出した。すぐに階段があるが、まずは廊下を進む。突き当たりのドアを開けるとまた廊下だ。壁紙にはピンクの小花模様が咲く。マリアの趣味で張り替えたばかりだった。廊下をはさんで向かいあう四つのドアがそれぞれの家族の部屋で突き当たりが浴室とトイレだ。
マリアはずっと留守だ。既に師団は帰ったが寮にいる。彼女のドアをちらりと見る。ノブには『立ち入り禁止』と手書きの札がかかっている。
「だ~れが入るか」
小さく呟く。それから隣のドアを開けた。ピドーの部屋だ。壁に貼られているのはソフィアに来てからの写真ばかりだ。
作り付けのクローゼットとベッドと箪笥が一つあるだけだ。だがよいしょっと積み上げた色々な物を乗り越えてからでないと中へ入れない。床が見えないほど物が溢れている。脱ぎ捨てた服や靴、読みかけの雑誌や調香の本などだ。
(片づけないとな~)
マリアがいる時はきっちりとしていた。油断していると強引に乗り込んで猛烈な勢いで掃除をされる。床にある物はゴミとみなされて没収だ。部屋の惨状を見る度に姉がいないのだと思う。
洋服ダンスをあけた。半分ほどハンガーからはずれて落ちている。
「うっ...」
布の山をかき分けた。急いで上着を探す。クラクションがまた鳴った。
「はいはい」
ドアを閉めるのもそこそこに階段を駆け下りた。事務室から外へ出る時、ちらりと奥に目をやる。リビングへ続くドアだ。マントルピースの上には母の写真と遺髪の入った小箱がある。声には出さなくても、これが毎日の挨拶だった。
馬車が発着する中央広場を起点として町が広がっている。川が上流から砂を運んできて広がった地域だ。断崖に囲まれているとはいえ、町が作られるには十分な面積があった。中央地域と呼ばれる場所だ。政治や経済の中枢組織が集中している。人口の殆どもここに住む。町の歴史の浅さゆえに、道路の舗装や街並みはきれいだ。
またガスも石炭も潤沢にある。下流地帯に送るのにも充分だ。それで収入を得られる。ソフィアは北端に位置しているが豊かでもあった。
ピドーとイーブは中央地域に着いた。レクトンからの荷物は、広場に近い倉庫に置かれていた。二人がかりで荷物を積み込む。
そろそろ昼だが空は暗いままだ。霧となった雨が吹き付ける。地面から冷気が迫る。しかし二人の体からは今にも湯気が上がりそうだ。
イーブが時計を見た。ひときわ鮮やかな青いシャツの袖をめくる。
「ピドーはどうする?」
「これから? 別に。どこか行くの?」
やりかけの歯磨き粉は急ぎではない、と自分に言い訳だ。
「ああ」
額に汗が浮いている。手の平で拭った。
「師団に顔を出そうかな。今日は全体の演習があるそうなんだ。ちょっと体を動かしてくる」
「俺も行く!」
ピドーの顔も赤く上気している。上着を脱いで腰に巻き、上半身は半そでのTシャツだ。
「そう言うと思ったよ」
トラックをそのままにして師団へ向かった。道路沿いには小さいながらも商店が並ぶ。それらを横目に急ぎ足だ。
「イーブ、ユリウスさんが来てるって? 偉いんだよな?」
「ん? ユリウス・フォン・フェリックスさん? 団長の甥御さん。今は北州軍の少将閣下だ。俺は顔を知っているくらい」
「偉いんだな。俺もその程度だ。そいつを親父が愛称で呼び捨てだよ? 将校殿とどんな知り合いだ?」
「さあね。親父さんの立場なら顔くらい会わせるだろう」
「あ、そっか」
役職はないがジャックは工業地域のまとめ役だ。
ソフィア師団の本部も中央地域にある。町のはずれだ。ひと際大きな五階建ては、この谷ではここだけだ。師団の機能はここに集約され、火器・武器もここに倉庫がある。併設するのは練兵場だ。射撃訓練所もあり、百メートルの直線が引ける面積を占めている。グラウンドとしては小さい。だがソフィアではぜいたくすぎる広さだ。
師団の構成員は徴兵による。男女とも一八歳から二年間は専属となる。その後は残るも市民に戻るも自由だ。退役した後も師団と一緒に行われる軍事行動への参加を求められる。町を守る為だ。
だからイーブはもちろん、まだ徴兵前のピドーも訓練に参加できる。
二人が到着した時には朝の教練が終了していた。練兵場で全体的な隊列の動きの訓練が主だったらしい。こげ茶の制服を着用しているのが師団兵だ。訓練はまだ終わらない。
グラウンドはなだらかな丘陵に面している。高い監視塔がある。他の三方は建物だ。事務的作業を行う棟が二つと病院施設がある。それぞれは屋根付きの渡り廊下でつながる。
列が綺麗に幾つかに別れた。一対一の組み手が始まる。イーブとピドーも端についた。
だがイーブはすっと列を外れた。渡り廊下に佇む人影を横目に睨む。小柄な体躯を制服に包んだ男は団長のカルバートだ。頭頂部は赤い。そこを縁どるような白髪だ。雨を避けているのだろう。イーブが気になったのは彼の横の二人だった。どちらも若い男だ。金髪の青年は穏やかな表情を浮かべている。整った容貌だ。着ているジャケットは地味な色合いだが仕立てが良さそうだ。背の高い方は黒づくめの服だった。軽く腕を組んで顎に指を当てている。あまり存在感がない。周囲に自然に溶け込んでいる。だが視線がからまった瞬間、目つきが変わった。鋭い冷たさがイーブを刺す。クモかカマキリのような肉食の昆虫を思わせる威圧感だった。
イーブはつかつかと歩み寄った。するとカルバートが黒ぶちの眼鏡をずり上げた。顔じゅう皺だらけにしてほほ笑む。
「やあ。精が出るね、イーブ」
師団の長であるカルバート・フォン・フェリックスだ。陣頭指揮に立つ事はあまりない。イーブは白髪頭を見下ろした。下品にならない程度の手つきで二人を示す。
「見慣れない方々ですが」
「うん。ラドクリフからお客さん。学者さんだよ」
不審そうな視線など気にする様子もない。シュペトレーゼは春の青空を思わせるほほ笑みをイーブに向ける。軽く会釈した。それが固まった。けたたましい叫びのせいだ。彼らの背後から不意に上がった。
「あー! てめえら、どうしてここに居やがる!」
ピドーだ。まるで子犬のように駆けて来た。髪から細かいしぶきが散る。
「知り合いか?」
イーブに聞かれると口をもごもごさせた。ルプレヒト・ヴィプリンガーのせいで一晩を留置所で過ごす羽目になったのだ。どういう知り合いなのか、ピドー本人にもはっきりとは言えない。
グラウンドでは組み手が始まった。体と体がぶつかり合う音がする。ピドーはくるりと方向転換だ。
「イーブ、相手してくれ」
半ば逃げるように組み手の輪に入る。
まだ客人二人をじろじろ見ながら、イーブもピドーを追いかけた。
「ラドクリフでエフェレットきょうだいがお世話になったらしいね?」
と、しらっとカルバートが二人を見上げる。
ルプレヒトが答える。
「ご存じで?」
「そりゃそうだよ」
師団の責任者としては、もめごとがあったのなら知っている方が当たり前だろう。
「あのきょうだいは血の気が多くて」
「お姉さんもですか?」
「ああ。お母さんに似たのかね」
ルプレヒトは目を巡らせた。見覚えのある茶色の髪はすぐ見つかった。
マリアも訓練に参加している。組んでいる相手は男だ。同じく新人なのだろう。まだ筋肉はさほどついていないほっそりした体型だ。女性の蹴りや拳に対して防戦一方である。異性だから遠慮しているのではなさそうだ。表情が必死だ。技の訓練だから決定的な一打は出さない。その分、余計に打ちこまれて辛そうだった。肩はもう大丈夫そうだ。
イーブとピドーの組み合わせも似たようなものだった。最初こそ同等だったのに、次第にイーブが押されている。ただでさえピドーの動きは素早い。さらに身長が低いので小回りが利く。
「ふうん」
ルプレヒトの視線が気になるのか。イーブの注意が一瞬それた。その隙を逃さない。ピドーがイーブの足を払った。バランスが崩れる。体勢を立て直す前に足をからめ、強引に腰払いをかけた。体重が一気にピドーにかかる。だが勢いが付いている。イーブは泥だらけの地面に転がった。
「勝った!」
胸を張るピドー。
「油断しただけだよ」
ため息交じりだ。服が泥にまみれた。洗うのが大変そうだ。
カルバートが苦笑した。
「やれやれ。子供相手でも手を抜かなくてもいいのにね」
「それとも、あれが彼の本気ですか?」
ルプレヒトは遠慮なしにイーブを指した。
「頭一つは違う子供にひっくり返されるような者がソフィアの警護を任されているというわけですか」
泥をはたいていたイーブは、ちらりとルプレヒトを見る。だが何も言わなかった。肩をいからせてその場を去る。空気が変わったのは彼らの周辺だけだった。訓練中の兵士には客人の呟きはよく聞こえなかったのだろう。
しかし。
「ふざけた事を言うな!」
ピドーがわめいた...と同時に、ルプレヒトの元に飛び蹴りだ。だが、すっと動いただけでかわされた。目標を失ってその場にスライディングだ。シュペトレーゼは棒立ちだった。自分のすぐ横に着地したピドーの顔を覗き込む。
「大丈夫?」
黒服がやれやれと首を振る。
「鼻だけかと思ったら耳も良いのか」
「やんのかコラァ!」
ばね仕掛けのように起き上った。呆れたような男を指さして怒鳴る。
ルプレヒトは眉間を抑えた。助けを求めるように師団長を見やる。だがカルバートは笑っているだけだ。
「子供は元気でいいねえ」
眼鏡の奥の瞳は細くなっている。面白がっているのを隠さない。まるでルプレヒトを値踏みしているようだ。彼にとっては、客分でありながら嫌味を吐く彼も『子供』なのだろう。この場の仲裁をするつもりは全くなさそうだ。
やむなくルプレヒトはピドーに向かいあった。
「君と手合わせする必要はない。怪我をさせては申し訳ない...カルバート殿にだ」
「ふざけんな。すかした面しやがって」
今にもピドーはつかみかかっていきそうな勢いだ。
シュペトレーゼがゆっくりと口を挟んだ。
「じゃあ僕が相手をするよ」
「へ?」
ピドーの口がぽかんと開く。彼だけでない。ルプレヒトとカルバートもだ。どこから見ても細身の彼はデスクワーク専門だ。とても格闘をするような体格ではない。さらに戦闘的な雰囲気を感じさせないのだ。
まわりの戸惑いなど無視しているのか気が付かないのか。返事を待たず、さっさとジャケットを脱ぐ。シャツをまくった腕は決して太くはなかった。彼の発言に最も表情を変えたのは、上着を渡されたルプレヒトだった。
「やめて下さい。そんな必要はありません」
「しばらく室内ばかりだったし、ちょっと体を動かしたいんだ。ピドー、相手をしてくれるかな」
「あんたと?」
ピドーはうろたえた。もろに学者という雰囲気の相手だ。
「待ってください!」
なおも止めるルプレヒトをしり目に、先にグラウンドへ出てしまう。続こうとするのをカルバートが止めた。
「まさか二対一でやるつもりじゃないよね、少尉」
「それで呼ぶのはやめて下さい」
小さな声で抗議する。
「今は歴史研究所に出向中なんです」
「お守りだってね? それは大変だ。何人出向してるんだっけ?」
ルプレヒトは黙った。カルバートの声音は、明らかに楽しんでいる。
小さな騒ぎはいつの間にか広がってしまった。何が始まるのかと、全員が注視している。ピドーとシュペトレーゼは向かい合った。
「怪我をさせたら悪い...」
言い終わらないうちだった。シュペトレーゼが視界から消える。姿勢を低くし、ピドーの膝を軽く蹴った。重心がぶれてよろめく。腕を取られた。ぐるりと光景が回り、地面が近付く。仰向けになった体全身に衝撃。ようやく投げられたと気が付いた。ポカンと開いた口に霧雨が降りかかる。
「え? あれ?」
瞬く間の出来事だった。すぐには負けたと理解できない。
シュペトレーゼが屈んで見ている。
「大丈夫? 本気を出していいからね」
「当たり前だっ! 見下ろすな!」
跳ね起きる。
またシュペトレーゼが低く構える。
「同じ手にひっかかるか!」
と下がった。だが今度は横に回り込んできた。腕が顔めがけて伸びる。払ったとたんに後ろから腰を突かれた。ここも体のバランスを崩される場所だ。前のめりになった。肩と足を同時に押され、またも倒される。今度はうつ伏せだ。びしゃ、と泥が跳ねた。
「この野郎!」
起き上った顔はまっ黒け。
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「ごめん。あの...」
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「ああ、ごめん。あの...でも、まだやる?」
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「こん畜生!」
ピドーの雄たけびが響き渡った。
着替えを用意してくれたのはイーブだった。本来なら師団兵だけが利用する施設だが、シャワー室を使わせてもらった。ついでに汚れ物をランドリーに放りこむ。
「あの野郎...」
まだ二回目だが、あの二人に関わると服が汚れて着替える羽目になる。まだ午後に入ったばかりで洗濯室を利用する者はいない。コンクリートの部屋に洗濯器がずらりと並んでいる。動いているのは一台だけだ。
部屋の中央に長机と丸椅子が幾つか置いてある。座面の緑の合成皮革は何となく湿っぽい。そこに腰を下ろして頬杖をついた。
「ただの学者かよ?」
穏やかでおっとりした雰囲気。しかし、しっかりした訓練を受けた者の身のこなしだ。ルプレヒトに至っては全く学者らしくない。
軽いノックの後にドアが開いた。シュペトレーゼがのぞく。
「あ、やっぱりここだね。ごめん、手間をかけさせて」
「何をしに来た!」
腰を浮かせて少し戦闘モードのピドーにも、穏やかな調子は変わらない。
「僕も洗濯だよ。取りに来たんだ」
「腰ぎんちゃくはどうした?」
「腰ぎんちゃくって何?」
ちょっとした嫌味も通じない。
「えっ。まあ、いつも一緒って事だよ」
大の大人に、しかも年上なのにそんな言葉を詳しく説明する気になれない。でもシュペトレーゼには十分な説明だったらしい。
「ふうん。あっ、腰にぶら下げている袋...巾着に例えているのか。上手いね。ルプレヒトなら、カルバート団長と話しているよ」
きょろきょろしている。やがてどこだか思い出したようだ。停まっている一台に手をかける。扉を開けて洗濯ものをテーブルに置いた。持参の袋をあらかじめ広げておく。たたむスピードは丁寧を通り越して優雅といってもいいほどゆっくりだ。しかし、その分きちんと中へおさめられていく。それなりに慣れた手つきだ。
「あら意外」
「何が?」
「家事なんか全然できないかと思ってた」
正直な感想だ。何しろバスの乗り方さえろくに知らなかったのだ。深窓の令嬢ならぬ箱入り息子の印象だった。
「寮住まいだったからね。料理はできないけど掃除もするよ」
「大学の寮? 格闘術はどこで習った?」
一年や二年で体得できる動きではなかった。
「ああ...まあね。ずっと教わっているよ」
上着が揺れた。テーブルに当たり、硬い音がする。ポケットから灰色の丸い縁が見えた。
「何だ?」
「ああ」
話が逸れた。シュペトレーゼは見るからにほっとした様子を見せる。あまり自分の生活について話したくなかったようだ。ポケットから石板を取りだした。掌ほどのサイズだ。座ったままのピドーに手渡す。周辺には点と棒の組み合わせが彫りこまれている。中央には大きな口。レクトンにあるのでは、と尋ねられた際に説明された図柄によく似ている。
「えーっ、やっぱりレクトンにあったのか?」
「ううん。ここへ来る前に寄ったけど、やっぱり無かったよ。これは東州の神殿跡にあったんだ。ルプレヒトに採取してもらった遺物の一つ。『東の赤』の絵図だよ。まさか完全品があるとは思わなかった。ほら、前にも説明したかな。ここの...」
と示す。口に呑まれる人の首、血を流す七面鳥など。しかし、またも出土品の解説をされてはたまらない。とっと話をぶち切った。
「はいはい。前にも聞いたな」
「ごめん、そうだったかな。ソフィアにもティーガ族が住んでいたという記録はあるんだけど。遺跡は残っていないようだね」
シュペトレーゼは再び洗濯ものに取りかかった。
「じゃあ、何で来たんだ? 馬車に乗ってみたかったのか?」
「うん、それはあるよ」
にっこり、元気な返答だ。色々な乗り物に乗れるのが楽しくて仕方がないようだ。
「あっ......そう...」
(やっぱり学者というのは浮世離れしているのか)
と、がっくり力の抜けたピドーだった。
だん、と扉が開いた。ルプレヒトだった。じろりと二人を眺める。
「ノックぐらいしろよ!」
「ここは、そんな必要のある部屋だと思えない」
ここに居ると分かっていたのだろう。シュペトレーゼが衣類をまとめ終わるのを無言で待っている。
「終わりましたか」
いささか声音が低いようだ。相変わらず無表情に近いものの、怒っているのが二人には伝わる。声の調子だけではない。背中にブリザードを背負っているような雰囲気があった。それでもシュペトレーゼはのんびりしたペースを崩さない。
「終わったよ」
「では一緒に来て下さい。宿泊の責任者がお話したいそうです」
「うん。あの...ルプレヒト、怒っている?」
時期外れのサンタのようだ。洗濯物の袋を担いでいる。まともに聞かれてルプレヒトの片方の眉が跳ねあがった。表情を少し緩める。
「怒ってはいません。一つだけ申し上げますが余計な真似はなさらないように」
言葉は堅苦しい。かえって不機嫌なのが伝わる。
「ごめんなさい。でも...あの...」
「あなたが移動を許された理由は御存じでしょう。あなたのご希望を最大限に取り入れたうえで所在の確認をされない為です。くれぐれもお忘れなきように」
シュペトレーゼはちらっとピドーを見た。あまり聞かれたくないようだ。声がくぐもる。
「うん...調査の為っていう理由で...感謝しています。だけど」
そっとため息をつく。
「神話を信じてはいないんだね、ルプレヒト」
「はい」
答えは簡潔だ。
「行きましょう。こちらです」
彼はドアを開けた。シュペトレーゼが廊下に出るのを待っている。
もう一度息を吐き、袋を抱え直す。受け取ろうとする手を制して、シュペトレーゼはピドーに軽く会釈した。腕を組んだままの助手の前を通り、部屋を出る。黒い男がドアを閉めた。廊下の窓から見える空は、小さくて四角い。灰色の色紙を貼ったようだった。
さて残されたピドー。まだ洗濯機は動いている。石板はテーブルに置かれたままだった。
「大事なもんだろうに、忘れていきやがったな」
手の中で転がす。裏に模様はない。平らですべすべしている。
(それにしても...)
二人の正体がやはり気になる。どちらも学者らしくない。そしてルプレヒトの態度だ。町の中では常に周囲に気を配っていた。助手というより、警護のようだった。先ほども懸命に組み手を止めていた。ランドリーに来た際も妙だ。ピドーだけではなく、シュペトレーゼにも睨みをきかせていた。彼らの話の通りなら、シュペトレーゼの方が上司だ。それに対する眼つきではなかった。それに彼の助手のはずなのに、神話はどうでも良さそうだ。
「うーん。まっ、いいか」
椅子にどすんと腰を落とす。何者なのか、何が目的なのかと聞いたところで素直に答えてはくれないだろう。だったら考えるだけ時間の無駄というものだ。 肘を付いたままピドーはぼんやりとしていた。今朝から色々と忙しく動き回ったせいだろうか。なんだか眠くなってきた。瞼が勝手に下がってくる。だんだんと意識が白くなっていった。
...取るがよい...
ふと誰かに命じられたような気がした。ぱっと目を開ける。ドアは閉まっている。見渡しても誰もいない。
(夢か)
最近よく見る悪夢と同じ感覚だった。
握っていた指がゆるんだが、まだ石版は手の平の中だった。体温ですっかり温かい。
(後で受付にでも返そう)
機械のブザーが鳴った。洗濯が終わったのだ。石板を置いて立ち上がった。
続く!
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