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月城悠真という男
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研究棟の廊下は、昼を過ぎると音を失う。
人の気配はあるはずなのに、足音も会話も遠く、時間だけが薄く引き延ばされているようだった。
月城悠真は、その静けさを気にも留めずに歩いていた。白衣は着ていない。着古した私服のシャツに、癖のついたパンツ。どれも清潔ではあるが、おしゃれとは程遠い。
明るい黒髪は耳にかかる長さまで伸びていて、ここしばらく研究以外に時間を割いていないことが一目で分かる。
背は高く、細身だ。
切れ長の目は前だけを見ていて、誰かを探すでも、避けるでもない。
ただ必要な情報だけを拾い上げる視線だった。
研究室のドアを開けると、空気がわずかに変わる。
機器の低い駆動音と、スクリーンに映る銀河の画像。
ここは、月城にとって最も思考が自由に動く場所だった。
「月城先輩」
声をかけてきたのは、同じ研究室の大学院生だ。
少し硬い表情で、パソコンを両手に抱えている。
「この解析結果なんですけど……」
月城は立ち止まり、画面を覗き込んだ。
表示されているのは、銀河の回転曲線。中心から外縁へと伸びる速度分布が、理論値からわずかに外れている。
「この仮説だと、どうしても合わなくて」
院生の声には、焦りが滲んでいた。
月城は無言でデータをスクロールする。
数秒。
眉一つ動かさず、画面の端を見た。
「観測、内側だけだろ。」
「え?」
「外縁、切ってる。」
短い指摘だった。
月城はタブレットを返し、ホワイトボードに歩み寄る。
迷いのない手つきで、簡単な式を書き足す。
「ここを修整すれば、仮説は正しいんじゃないか。」
問いかけの形をしているが、そこに迷いはない。
院生はホワイトボードを凝視し、息を呑んだ。
「……あ。」
可視物質だけでは説明できなかった回転速度。
外縁部を含めることで、初めて浮かび上がる前提。
「ダークマター……」
院生が呟く。
「仮定に入れてなかっただけだろ。」
月城はペンを置き、軽く肩を回した。
「見えないけど、ないと説明できない」
それだけ言って、自分のデスクへ向かおうとする。
「月城先輩」
背中越しに呼ばれて、足を止めた。
「俺も……研究の道に進みたいんですけど」
院生は一瞬言葉を探し、それから続ける。
「月城先輩みたいになれる自信、なくて…」
月城は振り返らないまま、少し考えるように天井を見上げた。
「先輩は最初から、就職じゃなくて、研究一本でいくつもりだったんですか?」
問いには、不安と期待が混ざっていた。
「最初からじゃない」
月城は淡々と答える。
「やってみて、面白かった。それだけだ。」
「……怖くなかったですか。」
「不安はあった。」
即答だった。
「でも、やらない理由もなかった。」
院生はその言葉を胸の中で反芻するように、ゆっくり頷いた。
「ありがとうございます」
月城は軽く手を振り、今度こそ席に戻る。
モニターには、銀河の淡い光が映し出されている。
目に見える物質よりも、はるかに多くの「見えないもの」が、この構造を支えている。
月城はそれを見つめながら、思考を走らせる。
仮定、前提、選択肢。
世界は、仮定に入れるかどうかで、まったく違う姿を見せる。
――ただ。
人の感情についてだけは、
彼はまだ、それを仮定にすら入れていなかった。
そのことに、月城悠真自身は、まだ気づいていない。
人の気配はあるはずなのに、足音も会話も遠く、時間だけが薄く引き延ばされているようだった。
月城悠真は、その静けさを気にも留めずに歩いていた。白衣は着ていない。着古した私服のシャツに、癖のついたパンツ。どれも清潔ではあるが、おしゃれとは程遠い。
明るい黒髪は耳にかかる長さまで伸びていて、ここしばらく研究以外に時間を割いていないことが一目で分かる。
背は高く、細身だ。
切れ長の目は前だけを見ていて、誰かを探すでも、避けるでもない。
ただ必要な情報だけを拾い上げる視線だった。
研究室のドアを開けると、空気がわずかに変わる。
機器の低い駆動音と、スクリーンに映る銀河の画像。
ここは、月城にとって最も思考が自由に動く場所だった。
「月城先輩」
声をかけてきたのは、同じ研究室の大学院生だ。
少し硬い表情で、パソコンを両手に抱えている。
「この解析結果なんですけど……」
月城は立ち止まり、画面を覗き込んだ。
表示されているのは、銀河の回転曲線。中心から外縁へと伸びる速度分布が、理論値からわずかに外れている。
「この仮説だと、どうしても合わなくて」
院生の声には、焦りが滲んでいた。
月城は無言でデータをスクロールする。
数秒。
眉一つ動かさず、画面の端を見た。
「観測、内側だけだろ。」
「え?」
「外縁、切ってる。」
短い指摘だった。
月城はタブレットを返し、ホワイトボードに歩み寄る。
迷いのない手つきで、簡単な式を書き足す。
「ここを修整すれば、仮説は正しいんじゃないか。」
問いかけの形をしているが、そこに迷いはない。
院生はホワイトボードを凝視し、息を呑んだ。
「……あ。」
可視物質だけでは説明できなかった回転速度。
外縁部を含めることで、初めて浮かび上がる前提。
「ダークマター……」
院生が呟く。
「仮定に入れてなかっただけだろ。」
月城はペンを置き、軽く肩を回した。
「見えないけど、ないと説明できない」
それだけ言って、自分のデスクへ向かおうとする。
「月城先輩」
背中越しに呼ばれて、足を止めた。
「俺も……研究の道に進みたいんですけど」
院生は一瞬言葉を探し、それから続ける。
「月城先輩みたいになれる自信、なくて…」
月城は振り返らないまま、少し考えるように天井を見上げた。
「先輩は最初から、就職じゃなくて、研究一本でいくつもりだったんですか?」
問いには、不安と期待が混ざっていた。
「最初からじゃない」
月城は淡々と答える。
「やってみて、面白かった。それだけだ。」
「……怖くなかったですか。」
「不安はあった。」
即答だった。
「でも、やらない理由もなかった。」
院生はその言葉を胸の中で反芻するように、ゆっくり頷いた。
「ありがとうございます」
月城は軽く手を振り、今度こそ席に戻る。
モニターには、銀河の淡い光が映し出されている。
目に見える物質よりも、はるかに多くの「見えないもの」が、この構造を支えている。
月城はそれを見つめながら、思考を走らせる。
仮定、前提、選択肢。
世界は、仮定に入れるかどうかで、まったく違う姿を見せる。
――ただ。
人の感情についてだけは、
彼はまだ、それを仮定にすら入れていなかった。
そのことに、月城悠真自身は、まだ気づいていない。
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