オメガのホストはベータとして生きる

宮路 明

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2)オメガのホストはベータとして生きる

 中学の頃、初めて清武の家に遊びに行った日のことだ。
 その日は三人でテスト勉強をする予定になっていた。

 小学生の頃は外で遊ぶことが多く、訪れる家もいつも決まっていた。そのため、初めて足を踏み入れた清武の家は、廊下の広さも、生活の気配も、すべてが新鮮で―――梓はひどく緊張していたことを、今でもよく覚えている。

 丸馬は何度か来たことがあるらしく、勝手知ったる様子だった。
 一方で梓は、その頃すでに清武を意識し始めており、胸に込み上げる高揚を悟られまいと、平静を装うのに精一杯だった。

 三人で並んで広い廊下を進んでいたとき、ふと、視界の端に見慣れない人物が入る。

「兄貴」

 清武がそう呼びかけた相手は、無駄な贅肉の一片もない、象牙細工のように整った顔立ちの青年だった。

「友達か?」

 感情の起伏を感じさせない声音で、青年が問う。

「ああ、梓と丸馬」

 軽く紹介され、二人は揃って小さく頭を下げた。

「兄の和司かずしだ。ごゆっくり」

 和司は微かな笑みすら浮かべることなく、三人の横を通り過ぎていった。

 後から清武に聞いた話では、大学生の兄・和司とは七つ年が離れているという。
 和司がすれ違った瞬間、ふわりと甘い香りが梓の鼻先をかすめた。

 香水だろうか―――。
 無意識のうちにその背中を目で追っていると、和司がふと振り返り、視線がぶつかる。

「あっ……」

 梓は慌てて目を逸らし、清武たちの後を追った。

 あの甘い香りは、それ以来、ずっと記憶の底に残り続けている。

 後日、何度も清武に和司の使っていた香水について尋ねると、しばらくして清武自身が香水をつけてくるようになった。
 それは、あの香りとよく似てはいたが、どこか微妙に違っていた。

 それでも梓は気に入り、「この香りが好きだ」と伝えた。
 それ以来、清武はその香水を愛用するようになり、今でも同じ匂いを纏っている。

 まるで自分に向けて好意を示しているかのような行動だったが――そう思い込むのはやめようと、梓は何度も自分に言い聞かせた。
 そして時折、自嘲するような笑みを零すのだった。

 そんな懐かしい記憶を、梓は夢の中で辿っていた。

 ―――目が覚めると、ぼんやりとした視界が、ゆっくりと現在へと引き戻されていく。

 見慣れた壁紙に似てはいるが、壁に飾られた絵画も、カーテンも、梓の部屋のものではない。

「目が覚めたか……」

 少し呆れたようで、それでいてどこか優しさを含んだ低い声が耳に届く。

「……斎藤さん……」

 温かみのある、あの甘い香りが鼻を通る。
 視界の先にいたのは、清武の兄―――斎藤和司だった。

 梓がホストとして働き始め、生活が安定した頃に引っ越したセキュリティの整ったマンション。
 偶然にも、和司と同じ建物だったことを、今さら思い出す。

 どうやら、ここは和司の部屋らしい。

「今日は珍しく潰れていたようだったからな……」

 心配しているのか、呆れているのか、和司は表情を変えずに言った。

「そろそろ昼だ。食べられるなら、一緒に食事でもどうだ?」

 壁の時計に目をやると、時刻は一時近くを指している。

「斎藤さん、仕事は……?」

 昼まで眠っていたことも、迷惑をかけてしまったことも気になり、梓は慌ててベッドを降りた。

「今日は非番だ。ゴミを捨てに出たときに、酔っぱらいを拾っただけだよ」

 そう言って、和司はリビングへ向かう。

「料理は得意じゃない。近くで買ってきた弁当だが……良ければ食べてくれ」

 案内されたリビングのテーブルには、胃に優しそうな温野菜やリゾットが並んでいた。

「……これ……」

 思わず、梓は声を漏らす。

「酔った後は胃が弱るらしい。苦手なら無理に食べなくていい」

 そこまで気を遣ってもらえるとは思っておらず、迷惑をかけたという自覚が、胸に重くのしかかる。

 ふと、リビングのノートパソコンに目をやると、画面に検索ワードが表示されていた。

『二日酔い 飲食 おすすめ』

 それに気づいた瞬間、申し訳なさが込み上げる。
 和司も察したのか、何事もなかったかのようにパソコンを閉じた。

「すみません……ここまでしていただいて」

 謝罪の言葉が途切れると、和司が静かに言った。

「そんな顔をする必要はない。恥ずかしい話だが、俺は下戸でな。二日酔いについては詳しくない。だから調べただけだ」

 和司が酒を飲めないというのは、意外だった。
 ブランデーが似合いそうなのに―――と、梓は思う。

「お酒、飲めないんですか?」
「ああ。生憎、一滴もな」

 少し照れたように、和司は髪をかき上げる。
 白髪交じりの黒髪が、その横顔に色気と穏やかさを添えていた。

 その仕草に、張り詰めていた梓の緊張が、ふっと緩む。

「いただきます」

 そう告げて、料理を口に運んだ。

 食事を終えた頃、梓はズキンと頭に痛みを覚えた。
 痛みをこらえつつ、そろそろ自分の部屋に戻るべきかと考えていたが、和司が見守るように視線を向けていることに気づき、妙な居心地の良さを感じてしまう。

 差し出されたのは、ほんのりと温められたスポーツドリンクだった。

「二日酔いには、冷たいものよりいいらしい」

 そう短く補足され、梓は両手でそれを受け取る。

 気遣われていることがはっきり伝わり、その優しさに甘えるように、梓はゆっくりと喉を潤した。

 和司は向かいのソファに腰掛け、眼鏡をかけてパソコンに視線を落としている。その横顔もまた、どこか目が離せない魅力を帯びていた。

「昨日は、嫌なことでもあったのか?」

 不意の問いかけに、梓の胸が跳ねる。

「え……?」

 咄嗟にそう返すと、和司は淡々と続けた。

「いつもは涼しい顔で帰宅していた。だが、昨日はひどく酔っていたからな」

 言葉に詰まりながら、梓は昨日の出来事を思い出す。
 清武の結婚話―――それが、すべての原因だった。

「……そういうのじゃ、ないです」

 完全な嘘ではない。
 だが、打ち明ける気にはどうしてもなれなかった。

「清武……結婚するんですよね?」

「ああ、そう聞いた」

「お祝いムードで盛り上がって……それで……」

 苦しい言い訳だった。
 それを信じてしまいたい自分も、確かにいた。

 和司はそれ以上問いただすことなく、再びキーボードを叩き始める。

 ズキズキと痛む頭を抱えながら、梓は冷めたスポーツドリンクを、そっと喉に流し込んだ。
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