オメガのホストはベータとして生きる

宮路 明

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21)婚約の決意

 事務所の中には、業務に関連する書類が溢れ、デスクの上はまるで小さな山のように積み上がっていた。
和司はその山を前に、次々と処理を進めていく。
忙しさのあまり、周囲の音や気配をほとんど感じ取ることなく、ただ手を動かしていた。
 その中に、ふと目を引くものがあった。
ウエディング情報誌。色鮮やかなドレスがページを飾り、ブライダル関連の書類が何枚も混ざっている。
 和司はそのページを無視して、次々と目の前の書類に集中し続けた。だが、耳に届く声がそれを遮った。

「これなんて、どうかしら?」

 岼屋が、あえて忙しさを気にすることなく、和司の隣に立ち、真っ白なウェディングドレスが載った雑誌を見せてきた。
 その手のひらに載せられた雑誌は、和司の目に無関心を装わせるようにただ光っていた。だがその光景が、何かしらの心の引っ掛かりを残すのも事実だ。

「岼屋、お前は非番かもしれないが、見ての通りこっちは忙しい。後にしてくれ」

 和司は手にしていた雑誌を、無造作に岼屋に渡した。
 それでも、岼屋は少しも気にした様子を見せず、ただ微笑みながら言葉を返す。

「少しは息抜きしたらどうなの?」
「溜め込んだままだと、この先の仕事にも影響が出る。四月の入籍も遅れかねないぞ」
「あら、私の為なら仕方ないわね」

 岼屋は和司に向けていた微笑みをさらに深め、その表情はどこか挑戦的でありながらも、どこか安心感を与えるようなものだった。

 和司は、岼屋との婚約を決めたのだった。
 それは、親からの強い圧力とともに押し寄せた結婚の話。次の日、和司は岼屋が勤務している部署まで足を運び、彼女に結婚を申し込んだ。

 その瞬間まで、和司は自分の心がどう思っているのか分からなかった。ただただ、冷静に答えを出そうと必死に悩み続けた一晩があっただけだ。
 職場で、あの告白をしたこと。誰もが羨ましいと思うようなロマンチックなプロポーズ。その瞬間が、和司にはどこか義務感のように感じられた。逃げ場を作らず、何かをしっかりと決めるためのケジメだった。

 一週間が経ち、岼屋は何度も和司の元に足を運んできた。
 彼女は、ブライダル雑誌や式場のパンフレットを持ってきて、次々に和司に見せては意見を求めてきた。
その度に和司は、少し面倒だと感じつつも、彼女の真剣な眼差しに心の奥で少しだけ動かされていた。

 入籍の日程は四月の下旬。新年度が始まる少し前を予定している。
年度末と年度初めにかけての多忙を予測し、和司がその提案をしたのだ。
岼屋もそれに同意してくれた。

 そして、この結婚は、和司にとっては家族の願いが込められたものだった。
和司は、自分が結婚することで周りが幸せになると思っている。それが自分にとっての最善だと思っていた。
自分の中にある恋愛感情など、いつか自然と解消されるだろうと、何もかもを時間が解決してくれると信じていた。

「かずさん、本当に結婚するんですね」

 持井が驚きと共に目を大きく見開き、信じられない表情で言った。
 和司の冷徹に仕事一筋な姿を知っている持井にとって、そのプロポーズの話はまるで夢のように感じられたのだろう。

「仕事一本のかずさんが、あんな告白するなんて夢かと」

 持井はプロポーズを目撃したわけではないが、誰かからその話を聞いていたのだろう。
その行動が、持井にはどうしても信じられないものだった。

「なんか、切羽詰まってったすか?」

 持井が自分のデスクの書類をペラペラと捲りながら、どこか軽い調子で言った。

「何よ、その言い方」

 岼屋が一瞬目を細め、持井の言葉に不快感を見せた。

「いや……なんつーか」

 ──コンコンッ。

 その時、事務所の扉が軽く叩かれる音が響いた。

「私が出るわ。今日一緒にお昼食べようと出前を頼んだの。私が出すから安心して」

 岼屋は自ら呼んだことを告げ、軽やかに扉へ向かっていった。



「……かずさん……かずさんって、岼屋さんのこと、そんなに好きだったんですか?」
 
持井の声は、いつになく真剣だった。和司に対する疑問を隠せない表情が、彼の言葉に重みを加えていた。

「……」

 和司は沈黙を貫き、持井の問いに答えることなく、ただ視線を外す。
その無言の返答に、持井の疑念はますます深まるばかりだった。

「かずさんがあんな告白をするほど、岼屋さんに興味があったとは、俺には到底思えないんですけど……」

 持井はそう言いながら、和司を見つめた。目の奥には、疑いとともに不安がうかがえた。

「親の助言がきっかけではあるが……いいパートナーになると思っての判断だ」

 和司の言葉は、冷静で淡々としていた。だが、その中に何も感じ取れないわけではなかった。和司自身も、どこか心の奥で迷いを抱えているのかもしれないという気配が感じられた。

「へぇ……」

 持井は、和司の言葉に納得したような顔を見せつつも、どこか不思議そうに反応した。

 持井と和司は、何度も同じ会話を繰り返していた。
それでも持井の表情は晴れない。どうしても和司の気持ちが見えてこないのだろう。疑問は次第に深くなり、持井の顔には納得の色は見当たらなかった。

「梓くん、どうなんすか?」

 持井は、和司に話を振った。だが、その質問の意図は、まったく違ったものだった。

「……そろそろ裁判が始まるな」

 和司はその質問には答えず、遠くを見るように言った。だが、持井が期待していた答えとは明らかに違った。

「そうじゃなくて」

 持井が急かしたその瞬間、岼屋が入ってきた。

「はーい!今日は海鮮丼を頼んじゃった!ここのが美味しいらしいから、食べましょ」

 岼屋の登場で、持井の物申したい態度は一瞬で遮られた。岼屋は、持井と和司の会話に気づいたのか、あえてその間に割り込んだのだ。

「そろそろ昼飯の時間か……久保田さん呼んでくる」

 和司は、少し手が止まり、目の前の書類のキリの良いところに付箋を貼ると、席を立ち久保田を呼びに行く。

「岼屋さん、ワザとっすね」

 持井は、岼屋の行動が計算されたものだと感じていた。

「だったら?」

 岼屋は、持井の目を正面から見て、無邪気な笑顔を浮かべた。
その表情には、わずかな挑戦的な色が含まれていた。

 和司が部屋を出て、二人きりになった事務所内。
持井は、岼屋に向けて眉間にしわを寄せ、鋭い視線を送った。
 彼は、岼屋がわざと会話を中断したことを理解していた。だが、それをどうにかして切り崩さなければならないと感じていた。

「かずさんと、本当に結婚するんですか?」

 持井は、冷たく、そして一層鋭く言葉を放った。
 その問いには、岼屋を試すかのような意図が込められていた。

「ええ」

 岼屋は一瞬の迷いも見せずに答えた。

「かずさんが岼屋さんに興味があると思います?」

 持井は、まるで岼屋の反応を楽しむかのように問いかけた。

「彼はなくても、私にはあるわ」

 岼屋は少しも動じることなく、むしろ一層強く答えた。その言葉には確かな意志が込められていた。

 持井の言葉を受けて、岼屋は何も恐れていないかのように返答する。まるで、持井が投げかけた言葉をも受け止め、逆にその背後にある意図を見透かすかのように。

 きっと、岼屋は和司の気持ちを理解している。
誰が見てもわかるほどに、和司が心のどこかで他の誰かに惹かれていることを。
その惹かれる相手に、既にパートナーがいることも。そして、そのパートナーが実の弟であるという事実も。
どれをとっても、どうしようもなくドロドロとした環境であることは、誰の目にも明らかだろう。

 そして、それを解消するために、岼屋が選んだのは、まさに自分を犠牲にすることだった。

「どうせ敵わない恋なら、現実と将来的な利益を見る方が懸命だわ」

 岼屋は、冷静にそう言った。
 その言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのように響いた。

「悪女かよ」

 持井は、その言葉に対して冷たく、皮肉な笑みを浮かべた。
二人の間に飛び交う冷徹な攻撃のような言葉。だが、どちらも決して弱気ではない。

「私もね、ずっと彼が好きなのよ」
 
 岼屋は、ふと立ち止まり、静かに告白した。
その言葉に、持井は少しだけ息を呑んだ。

 岼屋が和司に好意を寄せていることは、二人のことをよく知る者には明らかだった。
だが、和司にはその好意がまったく届いていない。
 むしろ、和司の心の中では、岼屋に対してはまったく興味がないことは、周囲が皆知っている事実だった。


 和司からのプロポーズに、どれほど周りが驚き、岼屋を祝福したことだろう。
その光景を思い浮かべるたび、持井の胸には複雑な思いが渦巻いていた。

 持井も、岼屋のことを嫌いなわけではない。むしろ、和司との関係を応援してきた立場だ。
だが、今、彼の心には素直に祝福できない何かがある。
 和司が岼屋の好意に気づき、互いに惹かれ合うことで、自然に結ばれることが望ましいと心の中で思っていたからだ。

しかし、現実は違う。
強制的で、どこか縛り付けられるような結婚が、果たして二人に幸せをもたらすだろうか。

持井はただ、和司が本当に幸せになれるのか、それだけを心配していた。

 最近、持井は和司の変化に気づいていた。
以前の堅苦しく、仕事一筋だった和司が、少しずつ柔らかな雰囲気をまとい始めた。
それは明らかに、誰かに恋をした証拠だった。

そして、今回の一件で、持井はその恋が誰に向けられているのかを知った。
和司が、村上梓という男に恋をしているという事実に。

 梓が行方不明になり、捜索が始まった頃、和司が見せた焦りや不安、そして何より見つけた時のその顔に浮かんだ安堵の表情が、今も持井の胸に深く刻まれている。
あんな和司を見たのは、初めてだったから。

そのため、持井はどうしても、この結婚が正しい選択だったのかという疑念を抱いてしまうのだ。
とはいえ、岼屋を悪者にする気は毛頭ない。
 彼女には何の非もないし、ただ和司が幸せでいることを心から願っているだけだ。

「応援したいとは思うんですけどね、岼屋さんのこと、俺嫌いじゃないんですよ」
「あら、ありがとう。好意は嬉しいわ。でも、残念ながら応えられないわよ」
「そっちの意味は全然持ってないんで、大丈夫ですよー。……でも、なんかこれでいいのかなーって」
「いいのよ、時間が解決してくれるわ」
「うーん」

 持井はもうこれ以上、疑念を口にするのを躊躇した。
 今の言葉も、どうしても心に溜まった思いを吐き出すような形になってしまったが、それ以上は何も言わず、黙り込んだ。

 その時、突然、ガチャッと扉が開く音が響き、室内の空気が一変した。

「久保田さん、あと少しで来るそうだ」

 和司がその言葉を口にしながら、現れたのだ。

「じゃあ、食べる準備しましょうか」

 待ちきれない様子で、何事もなかったかのように軽やかな態度で岼屋が振る舞う。

「あー、腹減ったなぁ。岼屋さん、ごちそうさまです!」

 持井も、岼屋の空気に合わせて、無理にでも気を使うように言った。
変えられない現実を前にしても、口を出しても意味がないのだと、持井は自分に言い聞かせた。

 胸に残るモヤモヤした気持ちは、ただ受け入れるしかないということを、持井は理解していた。

 昼食の準備をするため、持井はソファ前のテーブルに散らばった書類を片付け、空気を整えた。
その手が動きながらも、心はどこか遠くを見つめているようだった。
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