55 / 64
アフターストーリー
アフターストーリー「瀬戸内丸馬」
清武との面会を終えてから、丸馬には長い闘いの日々が続いていた。精神科の隔離病棟で治療を受けながら、彼は否応なく、自分自身と向き合わされていた。
清武への執着、梓に向けてしまった歪んだ感情、そして取り返しのつかない過去――それらは逃げ場のない静寂の中で、何度も丸馬の心を揺さぶった。
医師やセラピストの根気強い関わりによって、丸馬の心は少しずつ安定を取り戻していく。
それでも、過去を切り捨てて前を向くことだけは、どうしてもできなかった。
清武への想いや、梓への憎悪は消えないまま。
そんな折、担当医から外部との交流を増やすプログラムへの参加を勧められる。
隔離病棟での生活は、想像以上に孤独だった。人と関わることを面倒だと思いながらも、丸馬は自分でも気づかないほど僅かに、どこかで「変わりたい」と願っていたのか、彼はその一歩を踏み出すことを選んだ。
交流会の場で、丸馬は一人の男性と出会う。
小柄で、物腰の柔らかなオメガだった。彼もまた、過去に深い傷を負った経験があるという。
最初のうち、丸馬は視線を伏せ、面倒だという気持ちが先に立ち、言葉を選ぶことさえできずにいた。
だが、男性の穏やかな語り口と、淡々と、それでいて誠実に自身の痛みを語る姿に、丸馬の胸の奥で、凍りついていた何かがゆっくりと溶け始める。
「君も、過去に……傷つけてしまった人がいるんだね」
責めるでもなく、同情するでもない、ただ静かな問いかけだった。
「過去は戻せない。だからこそ……今、どう生きるかを選べるんだと思う」
彼のその言葉は、丸馬の心に深く、静かに沈んでいった。
ある日、新しい担当医が決まった。初めて対面した医師は、秋本と名乗った。
少し若く見えるだけの、どこにでもいそうな冴えない中年の男――――第一印象は、それだけだった。
だが、面会室で顔を合わせる日々を重ねるうちに、丸馬の印象は静かに変わっていく。
数週間後、丸馬の前に現れる秋本は、いつも変わらぬ落ち着きを纏っていた。
清潔に整えられた黒髪、理知的な眼鏡の奥にある冷静な眼差し。
その視線は決して感情的にならず、しかし人を拒む冷たさもなかった。
――大人だ。
ふと、そんな言葉が浮かぶ。清武に向けていた憧れとは違う、もっと静かで、重心の低い感覚。そのことに気づいた瞬間、丸馬は胸の奥がわずかにざわめくのを感じた。
「今日も調子はどうだい?」
柔らかな声でそう尋ねられ、丸馬は一瞬言葉に詰まる。視線を逸らし、抑えた声で答えた。
「……まあまあ」
秋本はそれ以上踏み込まず、ただ小さく頷いた。
過去に傷を負った人間特有の沈黙を、彼はよく理解しているようだった。急かさず、決めつけず、距離を保ちながら寄り添う。その姿勢が、丸馬には不思議と心地よかった。
気づけば丸馬は、少しずつ自分の内側を言葉にしていた。清武への執着、梓への嫉妬、そして自分自身を壊してしまった後悔。秋本は遮らず、評価もせず、ただ静かに耳を傾けてくれる。
「丸馬くん、今は自分の気持ちを素直に認めてもいいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。否定されると思っていた場所に、そっと触れられた気がしたのだ。
「……僕って、複雑なんですか?」
不安が滲んだ問いに、秋本は穏やかに首を横に振る。
「君は、ただ本気で人を愛したかっただけだ。その気持ちは、決して悪いものじゃない」
その言葉は、丸馬の心に深く刻まれた。赦されたわけではない。
けれど、全否定されなかった――それだけで、息がしやすくなる。
いつの間にか、秋本の存在は丸馬にとって特別なものになっていく。
それは清武に向けていた憧れとは違い、もっと穏やかで、温度のある感情だった。
秋本に会える日は、心が少し軽くなり、表情も自分でも驚くほど柔らいでいく。
やがて丸馬は、彼の来訪を心待ちにするようになっていた。
秋本と話している時間だけ、過去の痛みや罪悪感から一歩距離を取れる気がした。
ある午後、面会室に現れた秋本を見て、丸馬は以前よりも少しだけ明るい声で言った。
「先生、今日は何か面白い話ある?」
秋本は微笑み、どこか冗談めかして答える。
「君には、まだ話していないことがたくさんあるよ。でも今日は……君の話を聞きたいな」
その一言が、胸の奥に静かに染み込んでいく。
丸馬は照れたように視線を逸らしながらも、過去の苦しさ、そして秋本と出会ってから感じ始めた小さな安らぎを、少しずつ言葉にしていった。
ふと顔を上げると、秋本は真剣な眼差しで丸馬を見つめていた。
そこには職務としての関心だけではない、確かな「人としての眼差し」があった。
「丸馬くん。君は、ちゃんと変わり始めている」
そう告げて、秋本は穏やかに微笑む。
「私が、それを保証するよ」
その言葉に、丸馬の胸は静かに満たされていった。
日々、秋本の温かさに触れるたび、彼への想いは少しずつ深まっていく。
――この時間が、自分にとってどれほど大切なものになりつつあるのか。
丸馬は、ようやくそれを認められるようになっていた。
――――――
秋本とのメンタルケア・カウンセリングは、いつしか丸馬の日課になっていた。
週に数度、決められた時間に彼と向き合い、言葉を交わす――それだけのはずの時間が、丸馬にとっては一日を支える拠り所になっていた。
カウンセリングの日は、朝から胸の奥がわずかに軽い。
秋本の穏やかな声、否定せずに受け止めてくれる眼差し、自分の話を遮らずに最後まで聴いてくれる姿勢。
そのすべてが、丸馬の心を静かに解していった。
気づけば、彼に会える時間を心待ちにしている自分がいた。
ある日、カウンセリングを終え、秋本が椅子から立ち上がろうとした、その瞬間だった。
丸馬はもっと秋本と一緒に居たい衝動に抗えず、思わずその手を掴んでしまった。
自分でも驚くほど、強く、必死な力だった。
秋 本は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を和らげると、手を振り払うことなく、そっと握り返してくる。
その温度が、かえって丸馬の胸を締めつけた。
「丸馬。何か言いたいことがあるなら、聞くよ」
変わらない声。変わらない距離。その瞬間、丸馬は悟ってしまった。
――この優しさは、医師として、カウンセラーとしてのものだ。
秋本が自分に向けてくれていたのは、心のケアを必要とする相手への配慮であり、専門職としての誠実さに過ぎない。そこに、個人的な感情が入り込む余地はない。
自分の気持ちに気づいたと同時に、秋本のことを理解した瞬間、心の奥に冷たい絶望が染み込んでいく。
自分の内側で膨らんでいた想いは、秋本にとっては“回復を支えるための関わり”の一部でしかないのかもしれない。
そう思うと、胸が強く締めつけられ、深い孤独が押し寄せた。
丸馬は、ゆっくりと秋本の手を離した。
俯いたまま、もう一度顔を上げることができない。
「……先生、やっぱり、なんでもないです」
声はかすれていた。
秋本はわずかに眉をひそめ、戸惑ったような表情を浮かべたが、それ以上踏み込むことはしなかった。
その夜、丸馬は一人、ベッドの中で涙を流した。
楽しみだったはずの時間が、痛みに変わってしまったことを噛みしめながら。
――――――――
面会を終え、カウンセリングルームを出た秋本は、デスクに手を置き、静かに息を吐いた。
理由の分からないざわめきが、胸の奥に残っている。
最近、丸馬の様子が以前と違う。
言葉の選び方、沈黙の重さ、そして今日の――あの手。
「……境界を越えてはいけない」
小さく呟き、自分に言い聞かせる。
丸馬はクライエントであり、自分は支援する立場だ。
その線を曖昧にすることは、決して許されない。
それでも、丸馬の瞳に滲んだ不安や、必死に感情を押し殺す仕草が、秋本の脳裏から離れなかった。
理性が先に立つからこそ、分かってしまう。この関係に、感情の名前を与えてはいけないことを。
秋本は眼鏡を外し、目を閉じた。仕事だと割り切るには、その余韻はあまりにも重かった。
――――――――
秋本とのカウンセリングは、いつしか間隔が空くようになっていた。予約表を見れば理由は明白だ。患者は他にもいる。それは当然のことだった。
――仕方ない。
丸馬はそう言い聞かせ、自分を納得させていた。自分だけが特別な存在ではない。秋本にとって、自分は数多いるクライエントの一人に過ぎない。
期待してはいけない。
求めてもいけない。
そうやって感情に蓋をしながら、日々をやり過ごしていた。
その日も、プログラムの一環で共有スペースを通りかかっただけだった。何気なく視線を向け、その光景を見るまでは。
秋本の傍にいたのは、最初のプログラムで出会った、あのオメガの男だった。
人懐こく、距離の取り方が巧みで、自分とは違う。
共有スペースの奥で、二人は並んで立っていた。
業務だ。
そう思おうとした瞬間、男がふらりと身体を預ける。
秋本の腕が伸び、迷いなく、背中へ回される。
――違う。
頭では理解している。
介助だ。医師として当然の行為だ。それでも、目に映る光景は否定できなかった。
抱き合っている。そうとしか見えなかった。
胸の奥で、暗い感情が泡立つ。 嫉妬だと認めるには生々しく、否定するには遅すぎた。
自分には向けられなかった腕。減っていったカウンセリングの時間。「他の患者もいるから仕方ない」と、聞き分けよく頷いてきた自分。
すべてを、奪われた気がした。
あの男は、何を語ったのだろう。 どこまで心を許したのだろう。 自分よりも、深い場所に触れられているのではないか。
想像が、止まらない。
秋本の低く穏やかな声。 安心させるような囁き。それらすべてが、あの男に向けられている光景が、脳裏に焼き付く。
吐き気がした。
独占したい。奪い返したい。あの腕の中にいるべきなのは、自分だ――そんな醜い欲が胸を満たす。
はっとして、丸馬は我に返った。自分の内に渦巻く、粘ついた感情に、今さら驚く。
自分は、ただの「手のかかる患者」だ。そう思うことで、無理やり割り切ろうとする。
だが、闇は静かに広がっていく。羨望は憎悪へ、憎悪は自己嫌悪へと溶け合い、出口を失う。
丸馬は、その場から逃げるように背を向けた。胸の奥で煮え滾るものを、誰にも見せぬまま。
――大丈夫だ。
そう言い聞かせる声は、もはや自分自身を欺く響きしか持たなかった。
――――――――
秋本とオメガの男が抱き合っていたのは、男のほうが、秋本に好意を寄せていたからだった。
彼はまもなく退院することが決まっていた。
別れ際、彼は勇気を振り絞るように想いを打ち明けてきた。
秋本は医師として、それをはっきりと断った。それでも男は、申し訳なさそうに、けれど切実に言った。
『一度だけでいいから、ハグをしてもらえたら嬉しい』と。
迷いはあった。だが、退院を控えた患者の心を落ち着かせるためだと、自分に言い聞かせ、秋本はその願いを受け入れてしまった。
腕を回した瞬間、これは間違いだったと直感した。しかし、その後悔が形になるより早く、視界の端に、丸馬の姿が映った。
見られたのではないか。
見られていたら、どう受け取っただろうか。
誤解していないだろうか。
不安が、一気に胸に押し寄せる。
そのとき初めて、秋本ははっきりと理解した。自分がこれほど動揺している理由を。
患者だからではない。
立場の問題でもない。
丸馬にどう思われるかが、怖かったのだ。
この不安、この焦り、この後悔――それらすべてが、自分の中にある感情の正体を、否応なく浮かび上がらせていた。
秋本は、その場に立ち尽くしたまま悟る。
自分はもう、丸馬に特別な好意を抱いている。否定できないほど、はっきりと。
数日後の診察時、秋本は意を決して丸馬に声をかけた。
「丸馬。最近、何か辛いことがあるんじゃないか? 私でよければ、話してほしい」
その声には、自分でも驚くほどの柔らかさが滲んでいた。
医師として一線を守るつもりでいるのに、丸馬を前にすると、どうしても冷静さを失ってしまう。
丸馬は一瞬戸惑ったように秋本を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「……僕、先生に会うのが楽しみなんです」
その言葉に、秋本の胸が小さく跳ねた。 患者以上の想いを抱いているのは、自分だけではないのかもしれない――そんな淡い希望が、胸の奥に灯る。
「でも……僕は、ただの患者でしかない」
感情を抑えきれずにこぼれた丸馬の言葉に、秋本は思わず目を見開いた。
「……先生って、モテるでしょ」
「ん?」
「この前、抱き合ってた」
見られていたのか。
秋本の胸に、あのときの後悔が一気に蘇る。
「ああ……退院が決まってね。お別れの挨拶のハグだよ」
嘘ではない。
だが、それを丸馬がどう受け取るかは分からなかった。秋本は、その反応が怖かった。
「……ふーん」
信じたのか、どうでもよかったのか。丸馬の表情からは読み取れない。
「丸馬?」
「なんでもない」
不満を隠しきれないその顔が、どうしようもなく愛おしい。
患者としての寂しい気持ちなのか、恋愛感情があるのかはさておき、確実に意識されていることに秋本は喜びを感じた。
これまで多くの患者と向き合ってきたが、患者以上の感情を抱いたのは初めてだった。
胸に込み上げる想いに、秋本はかすかな恐れを覚える。
もし、この気持ちを告げてしまったら。
医師と患者として築いてきた信頼関係は、簡単に壊れてしまうのではないか――その不安が、心を重く縛った。
丸馬が静かに顔を上げ、秋本を見つめる。
その瞳に揺れる不安を感じ取ったのか、丸馬はぎこちなく口を開いた。
「先生……どうしたんですか?」
その問いに、秋本は見透かされいるような気持になり、一瞬言葉を失った。
喉元まで込み上げた想いを飲み込み、深く息を吐く。
「……いや、何でもない。大丈夫だ」
秋本はそっと距離を取り、立ち上がった。
自分が何を言いかけたのか、なぜ胸が締めつけられるのか――すぐには答えが出ない。
ただ一つ、この関係をこれ以上複雑にしてはいけないという思いだけが、はっきりとしていた。
「丸馬。君が少しでも楽になれるよう、ここでできることは全力でサポートする。だから、次も……話したいことがあれば遠慮なく言ってほしい」
視線を逸らさずにそう告げる。整理しきれない感情を押し殺した言葉だったが、声がわずかに震えているのを、秋本自身が感じ取っていた。
丸馬はしばらく黙ってその言葉を受け止め、やがて小さく息を吐いた。
「……わかりました、先生」
その一言が、胸に重く落ちる。
自分がどれほど丸馬に惹かれているのか――そして、それを抑えなければならない苦しさを、改めて思い知らされた。
「次回も……よろしくお願いします」
秋本は小さく頷き、診察室を後にする。
歩きながら、何度も自分に言い聞かせた。
――この関係を守るために、医師としての立場を越えてはいけない。
それでも、胸の奥に残った想いは、どうしても消えてはくれなかった。
――――――
診察室で丸馬と向き合うたび、秋本は彼の表情が以前よりも穏やかになっていることに気づき、思わず胸の奥が温かくなるのを感じていた。
最初に会った頃と比べ、丸馬は確かに変わっている。
落ち着いた笑みを浮かべることが増えた一方で、ときおり不安を滲ませる表情や、遠くを見るような眼差しを向けることもあった。
そのたびに、秋本は無意識のうちに思いを巡らせてしまう。
「君には、今どんな景色が見えているんだろう」
そんな問いを胸に秘めながら、秋本は日々彼と向き合っていた。
医師としての立場を忘れてはいけない――何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに、丸馬に向ける感情を完全に無視することは、もはやできなくなっていた。
ある日、丸馬がふと零した言葉が、秋本の心に深く突き刺さる。
「秋本先生……僕は過去を変えられない。でも、今は少しずつ、前に進んでみようと思っています」
その声に込められた覚悟を感じ取り、秋本は胸を締めつけられるような思いに襲われた。
それは、治療の一環として発せられた言葉ではなく、丸馬自身の切実な本音だった。
その日を境に、秋本は以前にも増して丸馬のことを気にかけるようになった。彼が自分の内面と向き合い、変わろうとしていることを、確かに感じ取っていたからだ。
秋本は表向き、いつもと変わらず冷静で理知的だった。
患者として丸馬に向き合い、その心の奥底に触れながらも、あくまで一線は守っている――そう自分では思っていた。
だが、丸馬と接するたびに湧き上がる想いを、否定することはできずにいた。
医師として、抱いてはならない感情だと理解しているからこそ、その存在が、よりはっきりと意識されてしまうのだった。
丸馬は、秋本が最近わずかに距離を取っていることに気づいていた。
声の調子、視線の置き方、言葉を交わす時間――どれも決定的ではないが、確かに以前とは違う。
(……やっぱり、駄々洩れだったのかな)
自分の感情が抑えきれず、秋本に伝わってしまっていたのだろうか。
そう思うと、丸馬は胸の奥がひりついた。
感情のコントロールが、まだこんなにも未熟であることを突きつけられた気がした。
結局、自分は「患者」でしかない。
そう思うことで、気持ちに区切りをつけようとする。
――それなのに。
秋本が自分以外の誰かと話しているだけで、心がざわつく。患者だけではない。近くにいる看護師も、他の医師も、すべてが許せなかった。
胸の奥から、どろりと黒い感情が湧き上がる。
独占欲。嫉妬。焦り。理屈では抑え込もうとしても、感情は従わない。
自分だけを見てほしい。
その願いは切実で、同時にあまりにも醜かった。
この気持ちを放置すれば、ここでの生活が破綻することは分かっている。
治療の一環として併用している感情コントロールの薬も、確かに効果は出ていた。発作的な衝動は減り、生活態度も安定している。医師団から見れば、「院内生活は落ち着いている」と判断されても不思議ではない。
だが、それは表面上の話だ。胸の奥に沈殿するこの感情までは、誰にも見えていない。
そして下された、「退院」という二文字。
薬は手放せないが、症状は安定している。これ以上、閉じた環境に置くより、社会復帰を目指す段階だ――そう説明された理由は、理屈としては正しかった。
――ちょうど、良かったのかもしれない。
このまま秋本を見続けていたら、きっと耐えられなくなる。距離を置くためには、これ以上ない理由だった。
それでも、心の奥で小さな声が囁く。もう会わなくなるのなら、気持ちを伝えてもいいのではないか、と。
退院すれば、関係は終わる。
終わるのなら、せめて――。
丸馬は、揺れる感情を抱えたまま、それときちんと向き合う決意をしていた。
退院の日が近づいてきたある日、診察が終わった後、丸馬は決意した。
自分の気持ちに嘘をつかず、思い切って秋本に伝えよう、と。
「秋本先生、少しだけ話してもいいですか?」
丸馬は診察室に入り、そう声をかけた。
震えを含んだ声とは裏腹に、その目は真っ直ぐだった。
秋本はわずかに驚いた表情で丸馬を見る。
「どうした?」
丸馬はゆっくりと深く息を吸い、言葉を探すように口を開いた。
「……僕は、先生のことが好きです」
その告白に、秋本は一瞬息を詰め、言葉を失った。
医者としての立場。
彼の治療の過程で生まれる感情である可能性。
理屈はいくつも頭をよぎるりながらも、秋本は丸馬の気持ちが嬉しかった。
それと同時に――自分の胸に芽生えていた想いを、もう否定できなくなっていた。
「丸馬……そう思ってくれることは、とても嬉しい」
それは、聞き手にとっては、あくまで“医者として”受け取れるような言葉だった。
「先生、はっきり返事してください」
丸馬の声は、今までになく強かった。
逃げ道を許さないほどの真剣さが、その眼差しに宿っている。
強さも、優しさも、そして抱えてきた痛みも――そのすべてが、秋本の胸を強く打った。
丸馬は、ダメ元だと自分に言い聞かせながら、さらに想いを重ねる。
「僕は、先生と一緒に歩きたい。付き合ってください」
真っ直ぐな言葉に、秋本の理性が大きく揺らぐ。
抑え込んできた感情が、静かに、しかし確かに溢れ出していった。
短い沈黙ののち、秋本はその言葉を噛みしめるように目を伏せる。
整理しようとしても、どうしても手を引き寄せたい衝動が消えなかった。
何度も自分に言い聞かせた末、秋本は丸馬を見つめ、静かに答えた。
「……私も、君と共に歩みたい。できるなら、お付き合いさせてほしい」
その言葉は、無理に絞り出したものではなかった。
自然に、深く、心の底から湧き上がった想いだった。
「……うそ……」
「嘘じゃないよ。ただ、立場ってものもあってね」
丸馬は振られる覚悟だったのだろう。
驚く丸馬に、秋本は少し困ったような笑みを浮かべる。
「だから、これからのこと、ゆっくり話そうか」
丸馬は、驚きと、抑えきれない感情が一気に溢れ出したのか、目に涙を浮かべていた。
その様子を見つめながら、秋本はそっと手を伸ばし、丸馬の涙を拭う。
二人は視線を交わし、言葉にしなくとも、同じ想いを確かめ合っていた。
――これから先の未来を、共に歩んでいくのだと。
そう、心から感じながら。
清武への執着、梓に向けてしまった歪んだ感情、そして取り返しのつかない過去――それらは逃げ場のない静寂の中で、何度も丸馬の心を揺さぶった。
医師やセラピストの根気強い関わりによって、丸馬の心は少しずつ安定を取り戻していく。
それでも、過去を切り捨てて前を向くことだけは、どうしてもできなかった。
清武への想いや、梓への憎悪は消えないまま。
そんな折、担当医から外部との交流を増やすプログラムへの参加を勧められる。
隔離病棟での生活は、想像以上に孤独だった。人と関わることを面倒だと思いながらも、丸馬は自分でも気づかないほど僅かに、どこかで「変わりたい」と願っていたのか、彼はその一歩を踏み出すことを選んだ。
交流会の場で、丸馬は一人の男性と出会う。
小柄で、物腰の柔らかなオメガだった。彼もまた、過去に深い傷を負った経験があるという。
最初のうち、丸馬は視線を伏せ、面倒だという気持ちが先に立ち、言葉を選ぶことさえできずにいた。
だが、男性の穏やかな語り口と、淡々と、それでいて誠実に自身の痛みを語る姿に、丸馬の胸の奥で、凍りついていた何かがゆっくりと溶け始める。
「君も、過去に……傷つけてしまった人がいるんだね」
責めるでもなく、同情するでもない、ただ静かな問いかけだった。
「過去は戻せない。だからこそ……今、どう生きるかを選べるんだと思う」
彼のその言葉は、丸馬の心に深く、静かに沈んでいった。
ある日、新しい担当医が決まった。初めて対面した医師は、秋本と名乗った。
少し若く見えるだけの、どこにでもいそうな冴えない中年の男――――第一印象は、それだけだった。
だが、面会室で顔を合わせる日々を重ねるうちに、丸馬の印象は静かに変わっていく。
数週間後、丸馬の前に現れる秋本は、いつも変わらぬ落ち着きを纏っていた。
清潔に整えられた黒髪、理知的な眼鏡の奥にある冷静な眼差し。
その視線は決して感情的にならず、しかし人を拒む冷たさもなかった。
――大人だ。
ふと、そんな言葉が浮かぶ。清武に向けていた憧れとは違う、もっと静かで、重心の低い感覚。そのことに気づいた瞬間、丸馬は胸の奥がわずかにざわめくのを感じた。
「今日も調子はどうだい?」
柔らかな声でそう尋ねられ、丸馬は一瞬言葉に詰まる。視線を逸らし、抑えた声で答えた。
「……まあまあ」
秋本はそれ以上踏み込まず、ただ小さく頷いた。
過去に傷を負った人間特有の沈黙を、彼はよく理解しているようだった。急かさず、決めつけず、距離を保ちながら寄り添う。その姿勢が、丸馬には不思議と心地よかった。
気づけば丸馬は、少しずつ自分の内側を言葉にしていた。清武への執着、梓への嫉妬、そして自分自身を壊してしまった後悔。秋本は遮らず、評価もせず、ただ静かに耳を傾けてくれる。
「丸馬くん、今は自分の気持ちを素直に認めてもいいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。否定されると思っていた場所に、そっと触れられた気がしたのだ。
「……僕って、複雑なんですか?」
不安が滲んだ問いに、秋本は穏やかに首を横に振る。
「君は、ただ本気で人を愛したかっただけだ。その気持ちは、決して悪いものじゃない」
その言葉は、丸馬の心に深く刻まれた。赦されたわけではない。
けれど、全否定されなかった――それだけで、息がしやすくなる。
いつの間にか、秋本の存在は丸馬にとって特別なものになっていく。
それは清武に向けていた憧れとは違い、もっと穏やかで、温度のある感情だった。
秋本に会える日は、心が少し軽くなり、表情も自分でも驚くほど柔らいでいく。
やがて丸馬は、彼の来訪を心待ちにするようになっていた。
秋本と話している時間だけ、過去の痛みや罪悪感から一歩距離を取れる気がした。
ある午後、面会室に現れた秋本を見て、丸馬は以前よりも少しだけ明るい声で言った。
「先生、今日は何か面白い話ある?」
秋本は微笑み、どこか冗談めかして答える。
「君には、まだ話していないことがたくさんあるよ。でも今日は……君の話を聞きたいな」
その一言が、胸の奥に静かに染み込んでいく。
丸馬は照れたように視線を逸らしながらも、過去の苦しさ、そして秋本と出会ってから感じ始めた小さな安らぎを、少しずつ言葉にしていった。
ふと顔を上げると、秋本は真剣な眼差しで丸馬を見つめていた。
そこには職務としての関心だけではない、確かな「人としての眼差し」があった。
「丸馬くん。君は、ちゃんと変わり始めている」
そう告げて、秋本は穏やかに微笑む。
「私が、それを保証するよ」
その言葉に、丸馬の胸は静かに満たされていった。
日々、秋本の温かさに触れるたび、彼への想いは少しずつ深まっていく。
――この時間が、自分にとってどれほど大切なものになりつつあるのか。
丸馬は、ようやくそれを認められるようになっていた。
――――――
秋本とのメンタルケア・カウンセリングは、いつしか丸馬の日課になっていた。
週に数度、決められた時間に彼と向き合い、言葉を交わす――それだけのはずの時間が、丸馬にとっては一日を支える拠り所になっていた。
カウンセリングの日は、朝から胸の奥がわずかに軽い。
秋本の穏やかな声、否定せずに受け止めてくれる眼差し、自分の話を遮らずに最後まで聴いてくれる姿勢。
そのすべてが、丸馬の心を静かに解していった。
気づけば、彼に会える時間を心待ちにしている自分がいた。
ある日、カウンセリングを終え、秋本が椅子から立ち上がろうとした、その瞬間だった。
丸馬はもっと秋本と一緒に居たい衝動に抗えず、思わずその手を掴んでしまった。
自分でも驚くほど、強く、必死な力だった。
秋 本は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を和らげると、手を振り払うことなく、そっと握り返してくる。
その温度が、かえって丸馬の胸を締めつけた。
「丸馬。何か言いたいことがあるなら、聞くよ」
変わらない声。変わらない距離。その瞬間、丸馬は悟ってしまった。
――この優しさは、医師として、カウンセラーとしてのものだ。
秋本が自分に向けてくれていたのは、心のケアを必要とする相手への配慮であり、専門職としての誠実さに過ぎない。そこに、個人的な感情が入り込む余地はない。
自分の気持ちに気づいたと同時に、秋本のことを理解した瞬間、心の奥に冷たい絶望が染み込んでいく。
自分の内側で膨らんでいた想いは、秋本にとっては“回復を支えるための関わり”の一部でしかないのかもしれない。
そう思うと、胸が強く締めつけられ、深い孤独が押し寄せた。
丸馬は、ゆっくりと秋本の手を離した。
俯いたまま、もう一度顔を上げることができない。
「……先生、やっぱり、なんでもないです」
声はかすれていた。
秋本はわずかに眉をひそめ、戸惑ったような表情を浮かべたが、それ以上踏み込むことはしなかった。
その夜、丸馬は一人、ベッドの中で涙を流した。
楽しみだったはずの時間が、痛みに変わってしまったことを噛みしめながら。
――――――――
面会を終え、カウンセリングルームを出た秋本は、デスクに手を置き、静かに息を吐いた。
理由の分からないざわめきが、胸の奥に残っている。
最近、丸馬の様子が以前と違う。
言葉の選び方、沈黙の重さ、そして今日の――あの手。
「……境界を越えてはいけない」
小さく呟き、自分に言い聞かせる。
丸馬はクライエントであり、自分は支援する立場だ。
その線を曖昧にすることは、決して許されない。
それでも、丸馬の瞳に滲んだ不安や、必死に感情を押し殺す仕草が、秋本の脳裏から離れなかった。
理性が先に立つからこそ、分かってしまう。この関係に、感情の名前を与えてはいけないことを。
秋本は眼鏡を外し、目を閉じた。仕事だと割り切るには、その余韻はあまりにも重かった。
――――――――
秋本とのカウンセリングは、いつしか間隔が空くようになっていた。予約表を見れば理由は明白だ。患者は他にもいる。それは当然のことだった。
――仕方ない。
丸馬はそう言い聞かせ、自分を納得させていた。自分だけが特別な存在ではない。秋本にとって、自分は数多いるクライエントの一人に過ぎない。
期待してはいけない。
求めてもいけない。
そうやって感情に蓋をしながら、日々をやり過ごしていた。
その日も、プログラムの一環で共有スペースを通りかかっただけだった。何気なく視線を向け、その光景を見るまでは。
秋本の傍にいたのは、最初のプログラムで出会った、あのオメガの男だった。
人懐こく、距離の取り方が巧みで、自分とは違う。
共有スペースの奥で、二人は並んで立っていた。
業務だ。
そう思おうとした瞬間、男がふらりと身体を預ける。
秋本の腕が伸び、迷いなく、背中へ回される。
――違う。
頭では理解している。
介助だ。医師として当然の行為だ。それでも、目に映る光景は否定できなかった。
抱き合っている。そうとしか見えなかった。
胸の奥で、暗い感情が泡立つ。 嫉妬だと認めるには生々しく、否定するには遅すぎた。
自分には向けられなかった腕。減っていったカウンセリングの時間。「他の患者もいるから仕方ない」と、聞き分けよく頷いてきた自分。
すべてを、奪われた気がした。
あの男は、何を語ったのだろう。 どこまで心を許したのだろう。 自分よりも、深い場所に触れられているのではないか。
想像が、止まらない。
秋本の低く穏やかな声。 安心させるような囁き。それらすべてが、あの男に向けられている光景が、脳裏に焼き付く。
吐き気がした。
独占したい。奪い返したい。あの腕の中にいるべきなのは、自分だ――そんな醜い欲が胸を満たす。
はっとして、丸馬は我に返った。自分の内に渦巻く、粘ついた感情に、今さら驚く。
自分は、ただの「手のかかる患者」だ。そう思うことで、無理やり割り切ろうとする。
だが、闇は静かに広がっていく。羨望は憎悪へ、憎悪は自己嫌悪へと溶け合い、出口を失う。
丸馬は、その場から逃げるように背を向けた。胸の奥で煮え滾るものを、誰にも見せぬまま。
――大丈夫だ。
そう言い聞かせる声は、もはや自分自身を欺く響きしか持たなかった。
――――――――
秋本とオメガの男が抱き合っていたのは、男のほうが、秋本に好意を寄せていたからだった。
彼はまもなく退院することが決まっていた。
別れ際、彼は勇気を振り絞るように想いを打ち明けてきた。
秋本は医師として、それをはっきりと断った。それでも男は、申し訳なさそうに、けれど切実に言った。
『一度だけでいいから、ハグをしてもらえたら嬉しい』と。
迷いはあった。だが、退院を控えた患者の心を落ち着かせるためだと、自分に言い聞かせ、秋本はその願いを受け入れてしまった。
腕を回した瞬間、これは間違いだったと直感した。しかし、その後悔が形になるより早く、視界の端に、丸馬の姿が映った。
見られたのではないか。
見られていたら、どう受け取っただろうか。
誤解していないだろうか。
不安が、一気に胸に押し寄せる。
そのとき初めて、秋本ははっきりと理解した。自分がこれほど動揺している理由を。
患者だからではない。
立場の問題でもない。
丸馬にどう思われるかが、怖かったのだ。
この不安、この焦り、この後悔――それらすべてが、自分の中にある感情の正体を、否応なく浮かび上がらせていた。
秋本は、その場に立ち尽くしたまま悟る。
自分はもう、丸馬に特別な好意を抱いている。否定できないほど、はっきりと。
数日後の診察時、秋本は意を決して丸馬に声をかけた。
「丸馬。最近、何か辛いことがあるんじゃないか? 私でよければ、話してほしい」
その声には、自分でも驚くほどの柔らかさが滲んでいた。
医師として一線を守るつもりでいるのに、丸馬を前にすると、どうしても冷静さを失ってしまう。
丸馬は一瞬戸惑ったように秋本を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「……僕、先生に会うのが楽しみなんです」
その言葉に、秋本の胸が小さく跳ねた。 患者以上の想いを抱いているのは、自分だけではないのかもしれない――そんな淡い希望が、胸の奥に灯る。
「でも……僕は、ただの患者でしかない」
感情を抑えきれずにこぼれた丸馬の言葉に、秋本は思わず目を見開いた。
「……先生って、モテるでしょ」
「ん?」
「この前、抱き合ってた」
見られていたのか。
秋本の胸に、あのときの後悔が一気に蘇る。
「ああ……退院が決まってね。お別れの挨拶のハグだよ」
嘘ではない。
だが、それを丸馬がどう受け取るかは分からなかった。秋本は、その反応が怖かった。
「……ふーん」
信じたのか、どうでもよかったのか。丸馬の表情からは読み取れない。
「丸馬?」
「なんでもない」
不満を隠しきれないその顔が、どうしようもなく愛おしい。
患者としての寂しい気持ちなのか、恋愛感情があるのかはさておき、確実に意識されていることに秋本は喜びを感じた。
これまで多くの患者と向き合ってきたが、患者以上の感情を抱いたのは初めてだった。
胸に込み上げる想いに、秋本はかすかな恐れを覚える。
もし、この気持ちを告げてしまったら。
医師と患者として築いてきた信頼関係は、簡単に壊れてしまうのではないか――その不安が、心を重く縛った。
丸馬が静かに顔を上げ、秋本を見つめる。
その瞳に揺れる不安を感じ取ったのか、丸馬はぎこちなく口を開いた。
「先生……どうしたんですか?」
その問いに、秋本は見透かされいるような気持になり、一瞬言葉を失った。
喉元まで込み上げた想いを飲み込み、深く息を吐く。
「……いや、何でもない。大丈夫だ」
秋本はそっと距離を取り、立ち上がった。
自分が何を言いかけたのか、なぜ胸が締めつけられるのか――すぐには答えが出ない。
ただ一つ、この関係をこれ以上複雑にしてはいけないという思いだけが、はっきりとしていた。
「丸馬。君が少しでも楽になれるよう、ここでできることは全力でサポートする。だから、次も……話したいことがあれば遠慮なく言ってほしい」
視線を逸らさずにそう告げる。整理しきれない感情を押し殺した言葉だったが、声がわずかに震えているのを、秋本自身が感じ取っていた。
丸馬はしばらく黙ってその言葉を受け止め、やがて小さく息を吐いた。
「……わかりました、先生」
その一言が、胸に重く落ちる。
自分がどれほど丸馬に惹かれているのか――そして、それを抑えなければならない苦しさを、改めて思い知らされた。
「次回も……よろしくお願いします」
秋本は小さく頷き、診察室を後にする。
歩きながら、何度も自分に言い聞かせた。
――この関係を守るために、医師としての立場を越えてはいけない。
それでも、胸の奥に残った想いは、どうしても消えてはくれなかった。
――――――
診察室で丸馬と向き合うたび、秋本は彼の表情が以前よりも穏やかになっていることに気づき、思わず胸の奥が温かくなるのを感じていた。
最初に会った頃と比べ、丸馬は確かに変わっている。
落ち着いた笑みを浮かべることが増えた一方で、ときおり不安を滲ませる表情や、遠くを見るような眼差しを向けることもあった。
そのたびに、秋本は無意識のうちに思いを巡らせてしまう。
「君には、今どんな景色が見えているんだろう」
そんな問いを胸に秘めながら、秋本は日々彼と向き合っていた。
医師としての立場を忘れてはいけない――何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに、丸馬に向ける感情を完全に無視することは、もはやできなくなっていた。
ある日、丸馬がふと零した言葉が、秋本の心に深く突き刺さる。
「秋本先生……僕は過去を変えられない。でも、今は少しずつ、前に進んでみようと思っています」
その声に込められた覚悟を感じ取り、秋本は胸を締めつけられるような思いに襲われた。
それは、治療の一環として発せられた言葉ではなく、丸馬自身の切実な本音だった。
その日を境に、秋本は以前にも増して丸馬のことを気にかけるようになった。彼が自分の内面と向き合い、変わろうとしていることを、確かに感じ取っていたからだ。
秋本は表向き、いつもと変わらず冷静で理知的だった。
患者として丸馬に向き合い、その心の奥底に触れながらも、あくまで一線は守っている――そう自分では思っていた。
だが、丸馬と接するたびに湧き上がる想いを、否定することはできずにいた。
医師として、抱いてはならない感情だと理解しているからこそ、その存在が、よりはっきりと意識されてしまうのだった。
丸馬は、秋本が最近わずかに距離を取っていることに気づいていた。
声の調子、視線の置き方、言葉を交わす時間――どれも決定的ではないが、確かに以前とは違う。
(……やっぱり、駄々洩れだったのかな)
自分の感情が抑えきれず、秋本に伝わってしまっていたのだろうか。
そう思うと、丸馬は胸の奥がひりついた。
感情のコントロールが、まだこんなにも未熟であることを突きつけられた気がした。
結局、自分は「患者」でしかない。
そう思うことで、気持ちに区切りをつけようとする。
――それなのに。
秋本が自分以外の誰かと話しているだけで、心がざわつく。患者だけではない。近くにいる看護師も、他の医師も、すべてが許せなかった。
胸の奥から、どろりと黒い感情が湧き上がる。
独占欲。嫉妬。焦り。理屈では抑え込もうとしても、感情は従わない。
自分だけを見てほしい。
その願いは切実で、同時にあまりにも醜かった。
この気持ちを放置すれば、ここでの生活が破綻することは分かっている。
治療の一環として併用している感情コントロールの薬も、確かに効果は出ていた。発作的な衝動は減り、生活態度も安定している。医師団から見れば、「院内生活は落ち着いている」と判断されても不思議ではない。
だが、それは表面上の話だ。胸の奥に沈殿するこの感情までは、誰にも見えていない。
そして下された、「退院」という二文字。
薬は手放せないが、症状は安定している。これ以上、閉じた環境に置くより、社会復帰を目指す段階だ――そう説明された理由は、理屈としては正しかった。
――ちょうど、良かったのかもしれない。
このまま秋本を見続けていたら、きっと耐えられなくなる。距離を置くためには、これ以上ない理由だった。
それでも、心の奥で小さな声が囁く。もう会わなくなるのなら、気持ちを伝えてもいいのではないか、と。
退院すれば、関係は終わる。
終わるのなら、せめて――。
丸馬は、揺れる感情を抱えたまま、それときちんと向き合う決意をしていた。
退院の日が近づいてきたある日、診察が終わった後、丸馬は決意した。
自分の気持ちに嘘をつかず、思い切って秋本に伝えよう、と。
「秋本先生、少しだけ話してもいいですか?」
丸馬は診察室に入り、そう声をかけた。
震えを含んだ声とは裏腹に、その目は真っ直ぐだった。
秋本はわずかに驚いた表情で丸馬を見る。
「どうした?」
丸馬はゆっくりと深く息を吸い、言葉を探すように口を開いた。
「……僕は、先生のことが好きです」
その告白に、秋本は一瞬息を詰め、言葉を失った。
医者としての立場。
彼の治療の過程で生まれる感情である可能性。
理屈はいくつも頭をよぎるりながらも、秋本は丸馬の気持ちが嬉しかった。
それと同時に――自分の胸に芽生えていた想いを、もう否定できなくなっていた。
「丸馬……そう思ってくれることは、とても嬉しい」
それは、聞き手にとっては、あくまで“医者として”受け取れるような言葉だった。
「先生、はっきり返事してください」
丸馬の声は、今までになく強かった。
逃げ道を許さないほどの真剣さが、その眼差しに宿っている。
強さも、優しさも、そして抱えてきた痛みも――そのすべてが、秋本の胸を強く打った。
丸馬は、ダメ元だと自分に言い聞かせながら、さらに想いを重ねる。
「僕は、先生と一緒に歩きたい。付き合ってください」
真っ直ぐな言葉に、秋本の理性が大きく揺らぐ。
抑え込んできた感情が、静かに、しかし確かに溢れ出していった。
短い沈黙ののち、秋本はその言葉を噛みしめるように目を伏せる。
整理しようとしても、どうしても手を引き寄せたい衝動が消えなかった。
何度も自分に言い聞かせた末、秋本は丸馬を見つめ、静かに答えた。
「……私も、君と共に歩みたい。できるなら、お付き合いさせてほしい」
その言葉は、無理に絞り出したものではなかった。
自然に、深く、心の底から湧き上がった想いだった。
「……うそ……」
「嘘じゃないよ。ただ、立場ってものもあってね」
丸馬は振られる覚悟だったのだろう。
驚く丸馬に、秋本は少し困ったような笑みを浮かべる。
「だから、これからのこと、ゆっくり話そうか」
丸馬は、驚きと、抑えきれない感情が一気に溢れ出したのか、目に涙を浮かべていた。
その様子を見つめながら、秋本はそっと手を伸ばし、丸馬の涙を拭う。
二人は視線を交わし、言葉にしなくとも、同じ想いを確かめ合っていた。
――これから先の未来を、共に歩んでいくのだと。
そう、心から感じながら。
あなたにおすすめの小説
売れ残りオメガの従僕なる日々
灰鷹
BL
王弟騎士α(23才)× 地方貴族庶子Ω(18才)
※ 第12回BL大賞では、たくさんの応援をありがとうございました!
ユリウスが暮らすシャマラーン帝国では、平民のオメガは18才になると、宮廷で開かれる選定の儀に参加することが義務付けられている。王族の妾となるオメガを選ぶためのその儀式に参加し、誰にも選ばれずに売れ残ったユリウスは、国王陛下から「第3王弟に謀反の疑いがあるため、身辺を探るように」という密命を受け、オメガ嫌いと噂される第3王弟ラインハルトの従僕になった。
無口で無愛想な彼の優しい一面を知り、任務とは裏腹にラインハルトに惹かれていくユリウスであったが、働き始めて3カ月が過ぎたところで第3王弟殿下が辺境伯令嬢の婿養子になるという噂を聞き、従僕も解雇される。
当たり前の幸せ
ヒイロ
BL
結婚4年目で別れを決意する。長い間愛があると思っていた結婚だったが嫌われてるとは気付かずいたから。すれ違いからのハッピーエンド。オメガバース。よくある話。
初投稿なので色々矛盾などご容赦を。
ゆっくり更新します。
すみません名前変えました。
【本編完結】あれで付き合ってないの? ~ 幼馴染以上恋人未満 ~
一ノ瀬麻紀
BL
産まれた時から一緒の二人は、距離感バグった幼馴染。
そんな『幼馴染以上恋人未満』の二人が、周りから「え? あれでまだ付き合ってないの?」と言われつつ、見守られているお話。
オメガバースですが、Rなし全年齢BLとなっています。
(ほんのりRの番外編は『麻紀の色々置き場』に載せてあります)
番外編やスピンオフも公開していますので、楽しんでいただけると嬉しいです。
11/15 より、「太陽の話」(スピンオフ2)を公開しました。完結済。
表紙と挿絵は、トリュフさん(@trufflechocolat)
Ωの不幸は蜜の味
grotta
BL
俺はΩだけどαとつがいになることが出来ない。うなじに火傷を負ってフェロモン受容機能が損なわれたから噛まれてもつがいになれないのだ――。
Ωの川西望はこれまで不幸な恋ばかりしてきた。
そんな自分でも良いと言ってくれた相手と結婚することになるも、直前で婚約は破棄される。
何もかも諦めかけた時、望に同居を持ちかけてきたのはマンションのオーナーである北条雪哉だった。
6千文字程度のショートショート。
思いついてダダっと書いたので設定ゆるいです。
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
保護対象のはずなのに ~過保護なソーシャルワーカーと距離を間違えた関係~
田中 乃那加
BL
それは【保護】であるはずだった。
けれどその距離はいつの間にか踏み越えられていた――。
オメガは保護されるべき存在であり、危険から遠ざけることは社会の義務とされている世界。
そこでのほほんと大学生活を送るオメガ、大西 叶芽は友人や家族に囲まれ幸せだった。
成人を超えた彼につけられた新しい担当ソーシャルワーカー。
それが御影という男だった。
物腰柔らかく親切な彼と同じく、このオメガ守り保護する【制度】も少しずつ叶芽を追い詰めていく。
オメガが希少化して保護されるようになった世界で、自立して生きるのを目指す青年の話。
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。