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トライアゲイン
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澄み渡った青い空のず~っと上に、紙ヒコーキくらいの鳶が一羽、どこまでも高く飛んでいる。
時折、そいつが「ピヨロロー」と鳴いた。
乾いた空気の中、寝転がって見上げている石川賢の耳元まで気持ちよく届いた。
やわらかな浜風が鼻の頭を通り抜け、目をつむると少し潮の香りがした。
石川は、自分の頭の重みで痺れてしまった腕をもう片方の腕で引き抜きながら、面倒そうに上半身を起こし、堤防の上にあぐらをかいた。
目のすぐ先には、泳いで渡れてしまいそうな距離に宮島がある。
小さく鳥居が見える。
波間には、カキ筏が散らばり、大小の船がのんびりと行き交い、遠くには、やはり瀬戸の島々がくっきりと浮かんでいる。
波はいたって穏やかだ。
そんな、透き通るような秋晴れと、絵に描いた様な景色を前にしても、石川の心は一向に晴れる気配がなかった。
石川の実家がある、いかにもご利益のありそうな名前の地御前(じごぜん)という町は、宮島の対岸に位置するカキの養殖が盛んな港町だ。
その故郷に戻ってきて、すでに二週間が経っていた。
その間、石川は飽きもせず、この海辺に通い続け、昼過ぎからしばらくの間、ただぼんやりと、海と、そして空とを眺めつづけた。
生まれ育った場所の風景を眺めていれば、きっと元気が出てくるだろうと考えたのだが、いい加減な健康食品のように、いつまでも経っても効果は現れなかった。
それでも、天気だけは爽やかな秋晴れが続いていて、午後になるとサンダルをひっかけて、まるで水鳥が羽を休めるみたいに、この鄙びた海岸にやってくるのだった。
石川は、胸ポケットからタバコを取り出して火をつけた。
十年近くやめていたのだが、今は当然のように吸っている。
逆にタバコを止めていた十年が、まるでマボロシに感じられた。
それはつまり、石川のサラリーマン生活の時期とそっくり重なっていて、そこで行われた様々な出来事が、今となっては虚ろな記憶として、殆ど他人事のように感じられるのだった。
その会社に勤め始めたのは、およそ十年前、石川が丁度三十歳になった頃の、妻が妊娠をしていた時で、いよいよ正社員というものに切実になりたいと思っていた時だった。
それまでの石川は、名古屋でどうでもいいような大学を出て、定職には就かず、田舎にも帰らず、アルバイトで生活をしていた。
まだその時代は、世の中の景気そのものが良く、アルバイトでも好条件の仕事が選り好みできるくらいあり、又、自分探しとか、フリーターという言葉が結構心地よく耳に響いていた時代だった。
だから、石川もその気になれば、いつでも就職は出来ると考えていたし、もう少し気ままに都会の風に吹かれていたいとも思っていた。
けれども、世の中の景気が後退していくと、風向きが変わるのを石川も肌で感じた。
アルバイトを一度辞めてしまうと、次に見つけるのが少しずつ難しくなっていった。
経費削減という理由でいきなり契約を解除されたり、昇給はおろか減給も経験した。
何度か、正社員としての面接も受けたが、厳しかった。大学を卒業してからどうしてずっとフリーターなのか?といつも聞かれた。
アルバイトは仕事では無い様な、物の言い方だった。そんな事が繰り返されると、少しずつ自分の気持ちが荒んでいくのが判った。
初めは、ただ岸辺の近くの小船で遊んでいただけなのに、気がつくと小船は岸辺から遠く離れてしまっていて、どうやっても岸に戻ることが出来なくなってしまった、そんな焦燥感を味わった。
救いは妻との出会いで、バイト先の居酒屋で知り合った。鳥取県の出身で、海辺の民宿の娘だったが、海の話をすると気が合った。
気がつくと一緒に暮らし始めていて、妊娠したのを機に籍を入れた。
漂うに小船に、一人よりも二人の方がずっと安心感があった。
そして丁度その頃に、その会社から声をかけられた。石川が弁当屋のアルバイトをしていた時で、配達先の会社の社長から入社の誘いを受けたのだ。その会社はソースの製造会社で、社員が四十名ほどの、業界では中堅企業だった。
あとで知ったことだが、社長は石川の配達時の明るい振る舞い、それだけで採用を決めていたのだった。
石川にとっては、震えるようなチャンスだった。初めて条件を提示された時、夢ではないかと思った。給与は時給に計算すると経験したことの無い額だったし、福利厚生など全ての条件が魅力的だった。
何より、土日が休日だと世界が変わる気がした。
まさしくその会社は、遭難した小船を救助する大型タンカーだった。
けれど、石川は急に訪れた幸運に何故か怖いとも思った。仕事が務まるかどうかも判らないし、全てが上手くいく筈が無いと思った。
何か自分にリスクを課さなければならないと本能的に思った。
ーそれが禁煙だったー
石川は飲みかけの缶コーヒを飲み干して、丁寧に並べられた吸殻をひとつずつ空き缶へ入れていった。
全部で七本あった。
それから、堤防を降り、その空き缶を自販機の横の陽に焼けたゴミ箱へ放り込んでから、浜辺に通じるコンクリートの階段を降りていった。潮が満ちていて、残された浜辺は僅かだった。大潮の干潮時には、ずっと潮が引いて、干潟が現われる。
石川が子供の頃には、よくここで、アサリやマテ貝をバケツにあふれるほど、採った。
今でも、採れるのだろうか。
そうだ、今度はいづみを連れてきてやろう。
石川は一人娘を思い出し
「あいつは、潮干狩りなんてしたことないもんな」
と、一人で納得するように、そう呟いた。
浜辺を離れた石川は、タバコが切れたことに気づき、コンビニまで行こうと、いつもの帰り道とは違う道を歩いて行った。
途中、小学校があった。
石川の母校で、校舎は新築されていて、当時の面影は無かったが、グラウンドの雰囲気はそのままだった。
丁度、下校時刻のようで、沢山の子供達がランドセルを背負い、帰宅していく様子が見える。何気なく見ていると、二人の男の子が校舎から駆け出してきた。
鬼ごっこのような感じで、ランドセルを背負ったまま、一人が逃げて一人が追いかけている。距離が少しずつ縮まって、後ろの子が前の子のランドセルを叩いた。
すると、前の子がよろけて、つんのめるようにして転んだ。つづけて、後ろの子も前の子を避けきれずに、重なるようにして倒れこんだ。
それを見ていた石川は突然、頭の奥で何かが弾けるようにして、ある記憶が鮮明に蘇った。
何年も、何十年も封印していた記憶だった。
同時に、体がカッと熱くなり、息苦しさを覚えた。
二人の男の子は、転んだままケラケラを笑い始めた。服についたグラウンドの土を払おうともせずに、いつまでも楽しげに笑いつづけた。
石川はその場にしゃがみ込んだまま、しばらく動けなくなった。
ソースメーカーに勤務して、最初に配属された部署は調合だった。種々の原料を集めて大容量のタンクで混ぜ合わす場所なのだが、ソースの強烈な臭いと夏場のモーレツな暑さには目眩がしそうな程だった。
それでも次第に慣れ、同僚や上司とも上手く付き合え、全てが順調に進んでいった。
土日は、妻と娘と必ずどこかへ出かけた。
ー幸せはあっさりと手に入ったのだー
そして入社から6年が過ぎ、娘のいずみが小学生に入る前に、石川は新築のマンションを買った。
三十年あまりのローンだったが、会社に勤めていれば、返済は問題ないと考えた。
マンションは郊外の少し高台にあり、しかも最上階だったから、ベランダから名古屋の街並みが見渡せた。
昼間は、無味乾燥な街並みも夜になると、あでやかな光を放ち、それこそ何百万ドルと呼ばれるくらいの夜景になるのだった。
石川は、その夜景をベランダから眺めるのが好きだった。都会特有の美しさと寂しさが煌く光の波だった。
そしてその年に、石川に転機が訪れた。
製造部から営業部へと異動になったのだ。
わずか四十名ほどの会社でも、それなりに出世コースというものがあって、営業で優秀な成績を収めることが、幹部になるための必須条件だった。
工場長も経理部長も一度は営業部でかなりの実績を上げてから、現在の地位を得たのだと古社員からまことしやかに教わった。
営業部へ移った石川は、しゃかりきになって頑張った。本来、負けず嫌いの性格が露になって、トップの成績を収めて評価を得ようと野心を燃やした。
営業先は小売店、食材問屋、お好み焼き屋にたこ焼き屋と多岐に渡った。
名古屋はソースの使用量が全国でもトップクラスで、その為、他社メーカーとの競争は激しかった。
石川は、まず得意先と仲良くなることに専念した。
持ち前の明るさでコミュニケーションを取り、得意先との信頼関係を築いた。
ただ売り上げを増やしていくには、既存店のフォローだけでは弱く、新規店を獲得することが重要であり、その為には、他社メーカーよりメリットのある条件を提示していく必要があった。
自社の商品には自信があったし、味や品質においても、他社に負けているとは、思えなかった。
ただ、味に関しては、個々の好みというものが大きく左右していて、絶対的な正解というものがない。
私どもの商品は、最高に美味しいのです、といくら言っても手前味噌でしかない場合もある。結局のところ、他社よりも安く収める、それが一番手っ取り早いのだと石川は思った。
会社では、春と秋にキャンペーンが慣例的に行われていて、十ケースの注文を受けると一ケースを無償分としてサービスをする、いわゆる業界ではトイチと呼ばれる添付条件があった。本来は既存店へのご愛顧的な意味合いの大きいキャンペーンだったが、石川は、それを新規店向けにも積極的に利用した。
トイチの条件で新規取引が始まるケースもあったし、その時ばかりは、注文を出してくる店もあった。
そこで石川は、キャンペーン時以外にも、添付条件がつくように、会社に何度も申請を出した。
時には、既存店向けの添付分を新規獲得用に回して十プラス二や、十プラス三といった破格の添付条件をだして、得意先を増やしていった。結果として、安ければ買ってくれる。
まずは、売り上げを増やしていきたい石川にとって、それはとてもシンプルな答えだったのだ。
ただ、価格で獲得した店は、価格で失うのも又、事実だった。
競合メーカーが更なる価格や条件を出してくると、オセロの白と黒がひっくり返るように、あっさりと入れ替わってしまった。
会社自体は、価格競争には敢えて参戦しない方針であったから、次第に添付条件を引き出していくのが難しくなっていった。
そこで石川が次に取った行動は、サンプルを多めに持ち込むというやり方だった。
会社は、在庫管理にルーズな部分があり、一度サンプル向けに伝票を切ってしまうと、実際の持ち出し数のチェックやサンプル先の受領印などをもらう必要がなかった。
社員をある程度、信用していたのだ。
石川は、伝票上より実際には多くサンプルを持ち出したり、関係のない店へあちこち伝票を切っておいて、それをまとめて、重要店へ持って行ったりした。会社に対して悪い気はしたが、最終的に売り上げを増やせば問題ないだろうと、都合よく考えた。
そんな少々強引なやり方で、石川は自分の地位を築いていった。
しかし、そのやり方は、ネジ穴に合わないボルトを無理やりはめ込む様なものだった。
途中から、あからさまに添付条件やサンプルを要求する店が増えてきた。
断ると売り上げが無くなるのが目に見えていたので、その要求に出来るだけ応えた。
もうそうなると、商いの関係というよりは、何かの主従関係のようだった。
良好な関係だと思っていたのは、石川の勘違いだった。
何かつまらない迷路に進入している感覚が石川にもあったが、もう修正は利かなかった。
その頃にはもう、添付条件もサンプルも止めて、倉庫からこっそり商品を持ち出して得意先へ配った。得意先の方も、石川のやり方が正常ではないと判っていたようで、よく酒席に誘われた。そこでは、むしろ客側からごちそうになる場合が多く、石川を利用したいといったニュアンスがしっかりと含まれていて、石川自身もその辺りのことは重々承知の上で、グラスを交わした。
その辺りから会社側も在庫の数が合わないと気づき始め、どうやら石川の行動が怪しいと誰もが感じ始めた。
会社内で、石川は自分だけ浮いている感覚を味わった。
会社の人間である筈なのに、そうでは無い感覚、石川はよそ者だった。
そして、営業部へ移ってから3年目の、今から丁度3ヶ月程前に、担当交替が実施された。それは会社が下した当然とも言える、疑惑への対応策だった。
石川にとって、その担当交替は迷路から抜け出せる機会としてホッとする反面、不正が発覚するのではないかと恐れもした。
担当交替の挨拶をして回り、特に関係の深かった得意先へは、個人的に接待をして回った。すべて石川が自腹を切ったのは、紛れも無く口止め料が含まれていたからだ。
得意先の面々は、酒の席では石川のやり方を公にはしないと承諾はしたものの、すべてが信用出来ない顔だった。
二週間近く、そんな接待を繰り返した夜、真夜中に目を覚ました。
まだ酔いが残っているはずなのに、頭が冴えていた。2時を過ぎた辺りで、寝入ってから3時間しか経っていなかった。
隣で寝ている妻と娘を起こさないようにしてベッドから抜け出し、ベランダに出た。
風は無く、蒸し暑い夜で、静かだった。
眠らない街から無数の光が輝いていた。
いつもは、美しく感じる光が今は何故か、虫の動きのようで、不吉な予兆に感じられた。
そして、この光の一つ一つがすべて災いの光ではないかと思った。
人々が寝てしまっても、揉め事は今も未解決のまま、こうやって煌々と光を放ちつづけている。
そう思うと、急に悪寒が走り、鳥肌が全身を覆った。すぐに部屋にもどって、しっかりと窓のカギを閉めた。
石川は一瞬、自分が変な気を起こすのではないかと怖くなったのだ。
悪寒は中々去らず、息苦しさを覚えた。
石川はマンションを出て、夜の住宅街を歩いた。どこかゆっくりと深呼吸の出来る場所を探したが、適当な所はどこにも無かった。
ーどこかへ、行きたいー
その時、初めて石川は地御前の海を思い出した。
故郷の穏やかな海を前にして、浜風に吹かれながら、深呼吸が出来たらどんなに気持ちがいいだろうかと思った。
それからふた月後、石川は社長室に呼ばれた。大体の察しはついた。
そこで社長は、
「営業から外れてもらうで」
と言い、続けて
「客と仲が良すぎるのもいかんでよ」
と言った。
石川は、反論も言い訳もしなかった。
そして社長から、始末書というか反省文を書くように言われ、石川は黙ってうなずいた。
次の日、会社を休み、その次の日に、反省文の代わりに退職届けを持って行った。
社長は不在で、誰も引き止めてくれる者はいなかった。
本当にあっさりと、長い夢から醒めるようにして、十年間の会社勤めがそこで終わってしまった。
妻には伝えていたが、早く家に帰る気にはなれずに、街中まで出た。
ぶらぶらとうろつき、何気なく映画館へ入った。平日の映画館は空いていて、年寄りしかいなかった。
ポップコーンとコーラを買い、タバコが目に入ったので買った。
びっくりするほど、高くなっていた。
石川はついでにライターも買い、隅にある喫煙コーナーへ行ってタバコに火を点けた。
うまくとも何とも無かった。
頭がクラクラして、気分が悪くなった。
そして、この煙をまとって、外へ出てしまうと、また何時かのうらぶれた時代に戻ってしまうのだと思った。
映画はコメディーのようだったが、内容が全く頭に入らず、そこで石川は久しぶりに泣いた。
つづく
時折、そいつが「ピヨロロー」と鳴いた。
乾いた空気の中、寝転がって見上げている石川賢の耳元まで気持ちよく届いた。
やわらかな浜風が鼻の頭を通り抜け、目をつむると少し潮の香りがした。
石川は、自分の頭の重みで痺れてしまった腕をもう片方の腕で引き抜きながら、面倒そうに上半身を起こし、堤防の上にあぐらをかいた。
目のすぐ先には、泳いで渡れてしまいそうな距離に宮島がある。
小さく鳥居が見える。
波間には、カキ筏が散らばり、大小の船がのんびりと行き交い、遠くには、やはり瀬戸の島々がくっきりと浮かんでいる。
波はいたって穏やかだ。
そんな、透き通るような秋晴れと、絵に描いた様な景色を前にしても、石川の心は一向に晴れる気配がなかった。
石川の実家がある、いかにもご利益のありそうな名前の地御前(じごぜん)という町は、宮島の対岸に位置するカキの養殖が盛んな港町だ。
その故郷に戻ってきて、すでに二週間が経っていた。
その間、石川は飽きもせず、この海辺に通い続け、昼過ぎからしばらくの間、ただぼんやりと、海と、そして空とを眺めつづけた。
生まれ育った場所の風景を眺めていれば、きっと元気が出てくるだろうと考えたのだが、いい加減な健康食品のように、いつまでも経っても効果は現れなかった。
それでも、天気だけは爽やかな秋晴れが続いていて、午後になるとサンダルをひっかけて、まるで水鳥が羽を休めるみたいに、この鄙びた海岸にやってくるのだった。
石川は、胸ポケットからタバコを取り出して火をつけた。
十年近くやめていたのだが、今は当然のように吸っている。
逆にタバコを止めていた十年が、まるでマボロシに感じられた。
それはつまり、石川のサラリーマン生活の時期とそっくり重なっていて、そこで行われた様々な出来事が、今となっては虚ろな記憶として、殆ど他人事のように感じられるのだった。
その会社に勤め始めたのは、およそ十年前、石川が丁度三十歳になった頃の、妻が妊娠をしていた時で、いよいよ正社員というものに切実になりたいと思っていた時だった。
それまでの石川は、名古屋でどうでもいいような大学を出て、定職には就かず、田舎にも帰らず、アルバイトで生活をしていた。
まだその時代は、世の中の景気そのものが良く、アルバイトでも好条件の仕事が選り好みできるくらいあり、又、自分探しとか、フリーターという言葉が結構心地よく耳に響いていた時代だった。
だから、石川もその気になれば、いつでも就職は出来ると考えていたし、もう少し気ままに都会の風に吹かれていたいとも思っていた。
けれども、世の中の景気が後退していくと、風向きが変わるのを石川も肌で感じた。
アルバイトを一度辞めてしまうと、次に見つけるのが少しずつ難しくなっていった。
経費削減という理由でいきなり契約を解除されたり、昇給はおろか減給も経験した。
何度か、正社員としての面接も受けたが、厳しかった。大学を卒業してからどうしてずっとフリーターなのか?といつも聞かれた。
アルバイトは仕事では無い様な、物の言い方だった。そんな事が繰り返されると、少しずつ自分の気持ちが荒んでいくのが判った。
初めは、ただ岸辺の近くの小船で遊んでいただけなのに、気がつくと小船は岸辺から遠く離れてしまっていて、どうやっても岸に戻ることが出来なくなってしまった、そんな焦燥感を味わった。
救いは妻との出会いで、バイト先の居酒屋で知り合った。鳥取県の出身で、海辺の民宿の娘だったが、海の話をすると気が合った。
気がつくと一緒に暮らし始めていて、妊娠したのを機に籍を入れた。
漂うに小船に、一人よりも二人の方がずっと安心感があった。
そして丁度その頃に、その会社から声をかけられた。石川が弁当屋のアルバイトをしていた時で、配達先の会社の社長から入社の誘いを受けたのだ。その会社はソースの製造会社で、社員が四十名ほどの、業界では中堅企業だった。
あとで知ったことだが、社長は石川の配達時の明るい振る舞い、それだけで採用を決めていたのだった。
石川にとっては、震えるようなチャンスだった。初めて条件を提示された時、夢ではないかと思った。給与は時給に計算すると経験したことの無い額だったし、福利厚生など全ての条件が魅力的だった。
何より、土日が休日だと世界が変わる気がした。
まさしくその会社は、遭難した小船を救助する大型タンカーだった。
けれど、石川は急に訪れた幸運に何故か怖いとも思った。仕事が務まるかどうかも判らないし、全てが上手くいく筈が無いと思った。
何か自分にリスクを課さなければならないと本能的に思った。
ーそれが禁煙だったー
石川は飲みかけの缶コーヒを飲み干して、丁寧に並べられた吸殻をひとつずつ空き缶へ入れていった。
全部で七本あった。
それから、堤防を降り、その空き缶を自販機の横の陽に焼けたゴミ箱へ放り込んでから、浜辺に通じるコンクリートの階段を降りていった。潮が満ちていて、残された浜辺は僅かだった。大潮の干潮時には、ずっと潮が引いて、干潟が現われる。
石川が子供の頃には、よくここで、アサリやマテ貝をバケツにあふれるほど、採った。
今でも、採れるのだろうか。
そうだ、今度はいづみを連れてきてやろう。
石川は一人娘を思い出し
「あいつは、潮干狩りなんてしたことないもんな」
と、一人で納得するように、そう呟いた。
浜辺を離れた石川は、タバコが切れたことに気づき、コンビニまで行こうと、いつもの帰り道とは違う道を歩いて行った。
途中、小学校があった。
石川の母校で、校舎は新築されていて、当時の面影は無かったが、グラウンドの雰囲気はそのままだった。
丁度、下校時刻のようで、沢山の子供達がランドセルを背負い、帰宅していく様子が見える。何気なく見ていると、二人の男の子が校舎から駆け出してきた。
鬼ごっこのような感じで、ランドセルを背負ったまま、一人が逃げて一人が追いかけている。距離が少しずつ縮まって、後ろの子が前の子のランドセルを叩いた。
すると、前の子がよろけて、つんのめるようにして転んだ。つづけて、後ろの子も前の子を避けきれずに、重なるようにして倒れこんだ。
それを見ていた石川は突然、頭の奥で何かが弾けるようにして、ある記憶が鮮明に蘇った。
何年も、何十年も封印していた記憶だった。
同時に、体がカッと熱くなり、息苦しさを覚えた。
二人の男の子は、転んだままケラケラを笑い始めた。服についたグラウンドの土を払おうともせずに、いつまでも楽しげに笑いつづけた。
石川はその場にしゃがみ込んだまま、しばらく動けなくなった。
ソースメーカーに勤務して、最初に配属された部署は調合だった。種々の原料を集めて大容量のタンクで混ぜ合わす場所なのだが、ソースの強烈な臭いと夏場のモーレツな暑さには目眩がしそうな程だった。
それでも次第に慣れ、同僚や上司とも上手く付き合え、全てが順調に進んでいった。
土日は、妻と娘と必ずどこかへ出かけた。
ー幸せはあっさりと手に入ったのだー
そして入社から6年が過ぎ、娘のいずみが小学生に入る前に、石川は新築のマンションを買った。
三十年あまりのローンだったが、会社に勤めていれば、返済は問題ないと考えた。
マンションは郊外の少し高台にあり、しかも最上階だったから、ベランダから名古屋の街並みが見渡せた。
昼間は、無味乾燥な街並みも夜になると、あでやかな光を放ち、それこそ何百万ドルと呼ばれるくらいの夜景になるのだった。
石川は、その夜景をベランダから眺めるのが好きだった。都会特有の美しさと寂しさが煌く光の波だった。
そしてその年に、石川に転機が訪れた。
製造部から営業部へと異動になったのだ。
わずか四十名ほどの会社でも、それなりに出世コースというものがあって、営業で優秀な成績を収めることが、幹部になるための必須条件だった。
工場長も経理部長も一度は営業部でかなりの実績を上げてから、現在の地位を得たのだと古社員からまことしやかに教わった。
営業部へ移った石川は、しゃかりきになって頑張った。本来、負けず嫌いの性格が露になって、トップの成績を収めて評価を得ようと野心を燃やした。
営業先は小売店、食材問屋、お好み焼き屋にたこ焼き屋と多岐に渡った。
名古屋はソースの使用量が全国でもトップクラスで、その為、他社メーカーとの競争は激しかった。
石川は、まず得意先と仲良くなることに専念した。
持ち前の明るさでコミュニケーションを取り、得意先との信頼関係を築いた。
ただ売り上げを増やしていくには、既存店のフォローだけでは弱く、新規店を獲得することが重要であり、その為には、他社メーカーよりメリットのある条件を提示していく必要があった。
自社の商品には自信があったし、味や品質においても、他社に負けているとは、思えなかった。
ただ、味に関しては、個々の好みというものが大きく左右していて、絶対的な正解というものがない。
私どもの商品は、最高に美味しいのです、といくら言っても手前味噌でしかない場合もある。結局のところ、他社よりも安く収める、それが一番手っ取り早いのだと石川は思った。
会社では、春と秋にキャンペーンが慣例的に行われていて、十ケースの注文を受けると一ケースを無償分としてサービスをする、いわゆる業界ではトイチと呼ばれる添付条件があった。本来は既存店へのご愛顧的な意味合いの大きいキャンペーンだったが、石川は、それを新規店向けにも積極的に利用した。
トイチの条件で新規取引が始まるケースもあったし、その時ばかりは、注文を出してくる店もあった。
そこで石川は、キャンペーン時以外にも、添付条件がつくように、会社に何度も申請を出した。
時には、既存店向けの添付分を新規獲得用に回して十プラス二や、十プラス三といった破格の添付条件をだして、得意先を増やしていった。結果として、安ければ買ってくれる。
まずは、売り上げを増やしていきたい石川にとって、それはとてもシンプルな答えだったのだ。
ただ、価格で獲得した店は、価格で失うのも又、事実だった。
競合メーカーが更なる価格や条件を出してくると、オセロの白と黒がひっくり返るように、あっさりと入れ替わってしまった。
会社自体は、価格競争には敢えて参戦しない方針であったから、次第に添付条件を引き出していくのが難しくなっていった。
そこで石川が次に取った行動は、サンプルを多めに持ち込むというやり方だった。
会社は、在庫管理にルーズな部分があり、一度サンプル向けに伝票を切ってしまうと、実際の持ち出し数のチェックやサンプル先の受領印などをもらう必要がなかった。
社員をある程度、信用していたのだ。
石川は、伝票上より実際には多くサンプルを持ち出したり、関係のない店へあちこち伝票を切っておいて、それをまとめて、重要店へ持って行ったりした。会社に対して悪い気はしたが、最終的に売り上げを増やせば問題ないだろうと、都合よく考えた。
そんな少々強引なやり方で、石川は自分の地位を築いていった。
しかし、そのやり方は、ネジ穴に合わないボルトを無理やりはめ込む様なものだった。
途中から、あからさまに添付条件やサンプルを要求する店が増えてきた。
断ると売り上げが無くなるのが目に見えていたので、その要求に出来るだけ応えた。
もうそうなると、商いの関係というよりは、何かの主従関係のようだった。
良好な関係だと思っていたのは、石川の勘違いだった。
何かつまらない迷路に進入している感覚が石川にもあったが、もう修正は利かなかった。
その頃にはもう、添付条件もサンプルも止めて、倉庫からこっそり商品を持ち出して得意先へ配った。得意先の方も、石川のやり方が正常ではないと判っていたようで、よく酒席に誘われた。そこでは、むしろ客側からごちそうになる場合が多く、石川を利用したいといったニュアンスがしっかりと含まれていて、石川自身もその辺りのことは重々承知の上で、グラスを交わした。
その辺りから会社側も在庫の数が合わないと気づき始め、どうやら石川の行動が怪しいと誰もが感じ始めた。
会社内で、石川は自分だけ浮いている感覚を味わった。
会社の人間である筈なのに、そうでは無い感覚、石川はよそ者だった。
そして、営業部へ移ってから3年目の、今から丁度3ヶ月程前に、担当交替が実施された。それは会社が下した当然とも言える、疑惑への対応策だった。
石川にとって、その担当交替は迷路から抜け出せる機会としてホッとする反面、不正が発覚するのではないかと恐れもした。
担当交替の挨拶をして回り、特に関係の深かった得意先へは、個人的に接待をして回った。すべて石川が自腹を切ったのは、紛れも無く口止め料が含まれていたからだ。
得意先の面々は、酒の席では石川のやり方を公にはしないと承諾はしたものの、すべてが信用出来ない顔だった。
二週間近く、そんな接待を繰り返した夜、真夜中に目を覚ました。
まだ酔いが残っているはずなのに、頭が冴えていた。2時を過ぎた辺りで、寝入ってから3時間しか経っていなかった。
隣で寝ている妻と娘を起こさないようにしてベッドから抜け出し、ベランダに出た。
風は無く、蒸し暑い夜で、静かだった。
眠らない街から無数の光が輝いていた。
いつもは、美しく感じる光が今は何故か、虫の動きのようで、不吉な予兆に感じられた。
そして、この光の一つ一つがすべて災いの光ではないかと思った。
人々が寝てしまっても、揉め事は今も未解決のまま、こうやって煌々と光を放ちつづけている。
そう思うと、急に悪寒が走り、鳥肌が全身を覆った。すぐに部屋にもどって、しっかりと窓のカギを閉めた。
石川は一瞬、自分が変な気を起こすのではないかと怖くなったのだ。
悪寒は中々去らず、息苦しさを覚えた。
石川はマンションを出て、夜の住宅街を歩いた。どこかゆっくりと深呼吸の出来る場所を探したが、適当な所はどこにも無かった。
ーどこかへ、行きたいー
その時、初めて石川は地御前の海を思い出した。
故郷の穏やかな海を前にして、浜風に吹かれながら、深呼吸が出来たらどんなに気持ちがいいだろうかと思った。
それからふた月後、石川は社長室に呼ばれた。大体の察しはついた。
そこで社長は、
「営業から外れてもらうで」
と言い、続けて
「客と仲が良すぎるのもいかんでよ」
と言った。
石川は、反論も言い訳もしなかった。
そして社長から、始末書というか反省文を書くように言われ、石川は黙ってうなずいた。
次の日、会社を休み、その次の日に、反省文の代わりに退職届けを持って行った。
社長は不在で、誰も引き止めてくれる者はいなかった。
本当にあっさりと、長い夢から醒めるようにして、十年間の会社勤めがそこで終わってしまった。
妻には伝えていたが、早く家に帰る気にはなれずに、街中まで出た。
ぶらぶらとうろつき、何気なく映画館へ入った。平日の映画館は空いていて、年寄りしかいなかった。
ポップコーンとコーラを買い、タバコが目に入ったので買った。
びっくりするほど、高くなっていた。
石川はついでにライターも買い、隅にある喫煙コーナーへ行ってタバコに火を点けた。
うまくとも何とも無かった。
頭がクラクラして、気分が悪くなった。
そして、この煙をまとって、外へ出てしまうと、また何時かのうらぶれた時代に戻ってしまうのだと思った。
映画はコメディーのようだったが、内容が全く頭に入らず、そこで石川は久しぶりに泣いた。
つづく
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さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
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のぞみ
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