憲法改正と自殺薬

会川 明

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恋愛の自由-3

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 強いリーダーシップのなかった織田先生が頭に浮かぶ。やる気があるんだかないんだかよくわからない先生だった。風のうわさでは、また他の学校で先生をしているらしい。



「そうは思わないな。だって、熊野先生が担任だったからって、今度は先生自体が生徒いじめてたじゃん」



 そういえばそうだった。一見物腰柔らかそうな見た目をしており、校長やPTAへの外面は良かったが、生徒たちには暴君のように振る舞う熊野先生が思い起こされた。勅語を取り出し、「俺はお前らの親みたいなもんなんだから、命令には絶対服従だぞ!いいな!お前らに権利なんかねえ!俺が勅語だ!」そう子供みたいに吠えていたことはなかなか鮮烈な記憶だった。その上、露骨におもねる生徒や人気のある生徒には異様に甘く、自分の気に入らない生徒は率先していじめの対象としていたことを思い出す。この人先生なのに恥ずかしくないのかなと子供心に訝しんだものだった。



「それに良い先生にたまたま当たったとしても、すぐに他の先生になっちゃうんだし、やっぱり見て、考えて、話して、知ってっていうことを地道にみんながやらないとだめなんじゃないかな。じゃないと、例えどんなに立派なお題目があったとしても意味がないと思うな」



「うーん、楽な道はないねえ」



「そうだね。ところでさ」



「ん?」



「みんなが決めたことだから正しいって今でも思う?偉い人たちが言ってたからって正しいと思う?」



「え?」



 寛は何でこんな話が始まったのかを思い出した。



 みんなが決めたことなら仕方ない、行き過ぎた個人主義はよくないって偉い人たちが言ってた、などと受け売りの応えをしたからだった。



「あー、なるほど、繋がってましたか」



「はい、繋がってました」



 ツキミは少し得意げだ。寛は大人しく両手を上げて降参した。



「確かに、みんなが決めれば必ず正しいなんて言えないよね。偉い人たちが言ってたからって言うのもそうだし、偉い人なんてそもそもいるのかな?って気もするよ」



 すごい人はいるだろうが、偉い人というのは階級社会という虚像の中で付与される称号なわけで、本質的に偉いなんてことがあるのだろうかと寛は思った。現実には親から受け継いだ『偉い』だけで生きている人間もいるが。



 見て、考えて、話して、知って、自覚的でなければその『偉い』に取り込まれてしまう。自分たちはそういう性質を持っている。



 高学年になるに連れ、学級会で吊し上げなんてことはさすがに行われなくなっていくが、それはみんなに恐怖が行き渡って萎縮し、誰もが空気を読むようになった証拠だった。小学生から中学生に上がる時、何か世界が変わるのではと期待したが、多少複雑にはなったものの、なんて地続きの世界なんだろうと驚いた。きっと高校に行こうが、社会に出ようが基本原理は変わらないだろう。自覚的でなければ新たな階級社会に取り込まれる。そこは多数派主義はあっても民主主義はない世界だ。そこには正義がなくて、たとえ少数派が正しくても認めることはない。いつまでたっても村社会。まるで生贄のように村八分を求める。小学校の頃、生贄になったあの女の子のように。



「梶本さん、どうしてるかな」



 寛はポツリとつぶやいた。それはツキミに話し掛けたのではなく、過去を想い、自然と漏れ出た言葉だった。



「今度会いに行こっか。実はこの前、駅前でばったり会って、連絡先交換したんだ」



「そうなの?」



「うん。元気そうだったよ。というか、ギャルになってて、可愛かった」



「はは、そっか。うん、そうしよっか。でも、ちょっと、偽善っぽいかな?」



「かもね。けど、そこは彼女に任せよう。とにかく話してみることが一番大事なことだと思うから。そうしないと、何も始まらないし」



「そうだね」



 テレビでは入国管理局に密着した番組が始まっていた。もう十年以上も前から定期的に放送されている。一際大きな「出ていってもらいます!」というナレーションが響く。ツキミはテレビを消した。



 そして流れるような動きで寛のコーラを開けて、グビグビと飲んでいく。幸い炭酸はもう大人しくなっていたから、開ける時に噴き出すことはなかった。



「俺のなんですけど」



「ぷはっ、はい、美味しいよ」



「知っとるわ」



 寛の頭を間接キスという言葉が埋め尽くしたが、平静を装った。寛は心の中で意を決して、一口飲んだ。一息ついてから、ツキミの目を見て言った。



「俺はお前だけは一人にしないから」



 言ってから、まぁ、梶本さんとかからみたら、不公平で卑怯者みたいに見えるかもだけど、それで精一杯だしなどとごにょごにょコーラをチビチビ飲んで、下を向いて言っていて大変不格好であったが、寛にとってはなけなしの勇気を振り絞ったのだろう、顔が真っ赤だった。



 ツキミは最初不意打ちをくらったかのように、何を言われているのか分からない様子だった。しかし、寛の様子を見て思いあたり、ニマニマと笑った。そうして、嬉しそうに言うのだった。



「やっぱりストーカーなんですか?」



「あー、もう!ストーカーでもういいよ!」



 寛は気恥ずかしさのあまり大の字に寝っ転がった。



「こわーい」



 明らかに面白がっている声音だった。



「ふん!」



 まったく!たまに意を決して言ってみれば、すぐこれだ。これはしばらくからかわれるぞ。なんで自分はいつもいつも自ら弱みを差し出すようなマネをしてしまうのか。寛は自分の愚かさを呪った。



 部屋はテレビを消しているから、もう陽の入が始まった外から聞こえてくる音がやたらと響く。電車、車、風の音。どれも味気なかった。ましてやツキミの楽しそうな声に比べたら。



 一分も経たずに、寛は不承不承起き上がった。



「よしっと」



 ツキミが呟く。テーブルの上で緑色に何かが点滅した。



「あれ?やったの?」



「うん」



 ツキミは自殺薬のアカウント登録を済ませたようだ。



「すぐ近くにこんな怖い人がいるんだもん。もう怖くなくなっちゃったよ」



「そいつは良かったね」



「うん」



 そうして、今度は満面の笑みで笑うのだった。ちくしょう!可愛すぎる!寛は爆発しそうなのを必死にこらえた。



「じゃ、開けてみようかな」



 ツキミが指紋認証をし、自殺薬のケースが赤く点滅して、ロックが解除された音がする。



 寛は同じ体験をさっき自分でもしているのに、目の前でツキミが自殺薬に近づいていく様を見ると自分の時より格段に緊張していることに気づいた。



「ふーん、ホントだ。現実感無いね」



 ツキミがその細やかな白い指で自殺薬をつまむ。自殺薬を目の高さにまで近づけた時、寛は一瞬アッと声をだしそうになった。出し抜けに梱包を破いて、口に放り込んでしまいそうな危うさを感じたのだった。



 だが、そうはならなかった。ツキミは不思議そうに自殺薬を目の前でためつすがめつ眺めている。



「ねえ、寛、寛も自殺薬出してみてよ」



「えっ、良いけど」



 寛はケースのロックを解除し、自殺薬を手にとった。二人して自殺薬を片手に持ち、対峙する格好になった。



 ツキミが寛を見て言った。



「今、一緒に自殺薬飲んだら、一緒に死んじゃうんだね。変なの」



「そうだね」



「寛の見せて。わたしのも見せるから」



 寛とツキミはお互いの自殺薬を交換した。



「ふーん、どこも違わないんだね」



「うん」



 自殺薬は同じ重さ、大きさ、形をしていた。なのに、これがツキミの自殺薬なのだと思うと、寛は意識が遠のきそうになってクラクラした。この小さな薬には暴力的なまでの不条理さが詰まっているのだと感じられた。



 死をこんなに軽くて、身近なものにしてしまうだなんて、どうかしているのではないかと今更ながら驚愕した。



 同時に確かにツキミが言っていた怖さや悔しさといった感情がむくむくと心の中をもたげてくるのを感じた。一体誰が、何の権利があってこんなものをツキミに、みんなに配っているというのか?



「ほんとに大切なものは目に見えないっていうけど」



 ツキミが呟くように言った。



「こうやって、ほんとに大切なものも目に見える形にして置いとかなきゃ、気が済まなくなってしまったのかもしれないね。何もかもを理解できるよう、管理できるよう、手元に置いとかなきゃって」



 自殺薬はまるで生命の写しだ。それは本来目に見えないものなのに、わざわざ目に見える形で示した。生命の見える化だ。



 目に見えない方が豊かなもののはずだったのに、こうやってちっぽけな物質に過ぎないのだと突きつけられる。生命から派生する様々な概念を切り離して。



 一律のケースに容れられて、一律の自殺薬を渡される。このツキミの自殺薬を飲んでも、寛は死んでしまう。



 絶対のものなどお前らには許さない、寛はそう言われている気がした。



「手」



「ん?」



「手、出して」



 寛は自殺薬を持っていない方の手を差し出した。ツキミは差し出された手を握った。



「えっ、ツキミさん?」



「いいから」



 温かかった。そして、同時にこの温かさがその手に持つ自殺薬で冷たくなる可能性があるのかと思うと素直に恐ろしいと思った。



「いやらしいこと考えてる?」



「んなわけないだろ!」



「いや、なんか手熱くなった気がしたから、もしかしてと思って」



「そんなわけないし!そんなこと言って、ツキミの方がいやらしいこと考えてるんじゃないの?」



 半ばやけくその反論だった。



「そうなのかも」



「えっ?」



「理解るんじゃなくて、感じたいのかも」



 ツキミは寛をじっと見つめた。



 寛は身体中が熱くなって、さっき自分の自殺薬を初めて目の当たりにした時とはまるで逆のベクトルで気が遠くなった。それは圧倒的な、生き生きとした現実感がツキミの視線、ツキミの手の平から伝わってくるからだった。



「俺も、そうかも」



 さっきコーラを飲んだにも関わらず、渇きを覚える喉で寛は言った。声が震えなかったのは幸いだった。



「その、キスとかしてみる?」



 寛が真っ赤になった顔で提案する。頭の中を電流が無数に迸った。



 ツキミは静かに頷いた。少しだけ繋いだ手に力が加えられた。



 ツキミの真っ黒な瞳に映る光から目が離せず、寛は自然と引き寄せられるように身を乗り出していった。それはツキミも同じだった。



 こたつから抜け出して、テーブルに片膝をついてお互いの息が触れる距離に歩み寄った。片方の手でお互いの自殺薬をつまんで、もう一方の手でお互いの手を握り、二人は静かにキスをした。



 窓から差し込む夕日が二人の重なり合った影を長く伸ばした。



 壊れ物を扱うようにして、そっとお互いの顔を離す。寛は盗み見るようにして、ツキミの顔を見てしまった。長いまつげが影を作っている。夕日に照らされているからだ。だからなのか、ツキミの頬が紅色に染まり、ついぞ見たことのない呆けた表情に見えた。それは端的に言って、とても色っぽかった。



 目が合う。



「えっち」



「ええっ!」



「ふふ、暑いね」



 寛の肩に頭をもたれかけさせて、ツキミは言った。甘い匂いが寛の鼻腔から脳天に直撃する。



 同時に寛の脳裏には赤ん坊のようなイメージが湧いた。ツキミのおでこから伝わる熱っぽさが、小学生の頃に抱いた親戚の赤ん坊を想起させたのかもしれない。それは頼りなくて、温かで、守らなければいけないものだった。



 その時になって、遅ればせながらようやくツキミが会いに来た理由が寛には感じられた。



 不安だったのだ。自分の将来が自分ひとりの力ではどうにも太刀打ちできないものによって、理不尽にも管理、統制され、握られていることに。自由も、生得的にあるはずの権利も略奪され、ただ義務を負わされているだけのコマに過ぎないのだとわざわざ、まざまざと通告してくる醜悪さが。そして、梶本さんにそうしたように、いつかまた、自分は醜悪なものの一部になってしまうのではないか。



 取り残された子供のようなのに、必死で大切なものを守ろうとするその姿に寛は心打たれた。そして愛しみを込めて、ツキミの頭にキスをした。



 ツキミの身体を強く抱きしめる。痛いんじゃないかというくらい強く。めまいがした。脳内麻薬が一気に吹き出していることが自覚された。寛は一度大きく深呼吸して、体を離した。



 ツキミの肩を両手で掴む。



 ツキミはあどけない表情で、少し髪が乱れていた。どこか幼く見えた。



 ツキミの乱れた髪を寛は直す。少しでも指先からこの気持ちが伝わればいいなと思いながら。



「ツキミ、大好きだよ」



 そして、言葉にした。目を見つめて、出来るだけ言葉に力を込めて。



「うん、ありがと。嬉しい」



 ツキミははにかんだ笑顔を向ける。



 寛はテーブルの上に正座になった。そして、苦渋の決断をするかのように、噛みしめて言った。



「ツキミ、俺はお前のことが大好きだ。だけど、だからこそ、今、お前を抱かない」



「う、うん?」



「今、お前を抱くのは火事場泥棒のようで卑怯だと思うからだ。俺はお前をいつかちゃんと抱きたい。でも、それは今じゃない」



「お、おう」



「薬を交換しよう。約束だ。これでもう只の自殺薬じゃない。特別な、絶対的なものだ。お互いの生命をお互いが大切に持っているんだ。これはツキミで、それは俺だ。これで不安なことのすべてが解決するわけじゃないだろうけど。そばにいるから」



「いいね、それ」



 二人は交換したまま持っていたお互いの自殺薬を各々のケースにしまった。ケースには薬の個体識別機能はついていないので、特にエラー等の心配はなかった。また薬効も同じなので、お互いの自殺薬を飲んでも死ぬことに変わりはない。それでも、二人にだけは意味のあることだった。



 濃密な五分だった。寛はこの日を一生忘れないだろうな、と思った。



 ツキミもいつの間にか正座でテーブルの上に座っていた。自殺薬の入ったケースを弄びながらにこやかに言う。



「これは良いアイデアだね。何だかロマンチックだし」



 ツキミのテンションの軽やかさが少し気にかかったが、褒められたので寛は満更でもなかった。



「だろー」



 寛はだらしなく相好を崩した。



 だが、次の瞬間ツキミは口元にニマニマ笑いを宿して言うのだった。



「で、いつから抱けると思ってたの?」



「えっ?」



 再度ツキミは重ねて尋ねた。前かがみになって尋ねた。



「いつからわたしのことを抱けると思ってたんですか?」



「えっ、違うんですかぁ?」



 寛は思わず仰け反った。そして瞬時に勘違い発言をしてしまったのだと気付き、頭を抱えた。



「別にそこまで考えてなかったけどなー」



「えー、嘘でしょ?だって、もたれかかってきたじゃん」



「特に他意はありませーん。十分満足してました」



「俺は満足してない!」



「うわっ、開き直った」



「くっそー、押し倒しときゃ良かった」



「あはは、よしよし。よく我慢できたね」



 ツキミは寛の頭をなでた。



「誠に遺憾だ」



 そう言いながらもこそばゆい満足感を寛は感じていた。なぜならツキミがいつものように笑っていたからだ。それで全部チャラになってしまう己の習性こそ遺憾ではあったが。



「あっ、見て、マジックアワー」



 ツキミが言う。本来青い空が黒に塗りつぶされる前に、赤い残照が混ざりあって、幾重もの綺麗な紫を空一面に織りなしていた。



 テーブルに二人して腰掛けて空の濃淡を楽しんだ。限られた時間にのみ現れて消えてしまうその瞬間を見て、寛はなぜか胸が締め付けられるような思いがした。
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