憲法改正と自殺薬

会川 明

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対等なる個人-1

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ⅶ 対等なる個人



○日本国憲法

〔個人の尊重と公共の福祉〕

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。



●自民党日本国憲法改正草案

(人としての尊重等)

第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。







 自分の利益を得るために公共の福祉を売るような連中が称賛され、公共の福祉に資するために自分の利益を犠牲にする人が非難される。



 完全に狂っていると寛は思った。



 そして自分は狂った果てに立っている。自分もそれに合わせて狂っているのかもしれない。ジャミロクワイも真っ青だ。狂いを感じられるということはまともである証拠だとせめて思いたかった。



 前に国際関係におけるリアリズムという言葉を少し調べてみたことを寛は思い出した。テレビでやたらとコメンテーターが現政権は徹底したリアリズムでー、などと言っていた。その言葉に違和感を覚えたからだ。徹底した現実主義だというのなら、もう少し世の中の人々の貧しい暮らしを見て、良い方向に導こうとするのではないかと思ったのだ。



 しかし、政治上のリアリズムを調べたら、想定していた現実主義とは全然違った。彼らの言うリアリズムとは、国家を主体に置き、自国の利益を第一に考えて覇権を競い、弱い国を武力でもって食い物にしようと各国がしているという強迫観念に憑かれたような世界観のことだった。



 国家が主体だというのなら、まるでそれを人のように見ているのだろう。だとしたら、常に誰かが自分のことを襲ってくるかも知れないから、ナイフで武装しとこうという人がいると想定出来るわけだ。そうすると、隣のやつもそいつのことが恐いからバットでも持っとこうとなるわけだ。そこに緊張関係が膨張し、次々と際限のない武装が行われるわけで、その間を均衡状態などと呼ぶけれども、膨らみきった風船はちょっとのショックで破裂してしまうかもしれない。いやいや、そこまで行く前に話し合ってみろよ、もしかしたら良いやつかもしれないじゃん、と理性の残った第三者は思うことだろう。こんな愚かしい世界観を未だに持っているとしたら、本当の目的は別にあって、それは軍産複合体や腐敗したナショナリズムのためにあるのではと訝しんでしまう。



 リアリズムなどという紛らわしい言葉を使っているが、何のことはない彼らの中の現実でしかなく、結局の所フィクションである。新自由主義も国際関係におけるリアリズムもさもこれが現実ですよという顔で闊歩し、人々を騙し、取り込もうとしているのである。



 そこでは確かにジャミロクワイの言うように、取り込まれた社会の中で生きる他ない自分もまた狂っているのではないかと疑念が生じてしまう。



 隣で『ヴァーチャル・インサニティ』を鼻歌で歌うツキミが思い出された。もしも自分がまともなら、それはやはりツキミのおかげだろう。ツキミの世界に触れて、自分は均衡を保てていたのだと思った。



 しかし、自分とは何だろうか?十八にもなって自分探しかと頭の中で冷笑的な声が響くが、これもまた不真面目で怠惰な反知性主義的な態度なのではないだろうか。



 果たしてどれだけの人が自分というものに答えを出せているのだろうか。自分など無いと嘯いてみても、悟りが開けるわけでもなかろう。人は相変わらず幸福を求め、不幸に嘆いている。



 今の社会には圧倒的に『自分』がないのだな、と寛は思った。ツキミのおばさんは例外だった。なぜなら彼女は『自分』を知っていた。だから幸福だったと言えたのだ。



 だが、それを知るためにはどうしたら良いだろうか?



「大衆の貧相な公共意識は支配層に上手く利用されますが、同時に階級社会であるが故に大衆の公共意識は貧相でもあるのです。



 しかし、それでも大切なものを守るために一縷の望みをかけるなら、草の根的な、ボトムアップ式の公共を求めて議論するしかありませんでした。



 そのためには『個人の幸福』を改めて問い直し、ひいては本当の『公共の福祉』とするために大衆が議論するしかなかったのです。現在自分たちは自分たちの真の意味での社会正義を支配されているのだと、階級構造を自覚しなければならなかったのです。



 そこを政権はわかっているから現憲法では万一の希望も潰すため第十三条において『個人』という言葉を抹殺しました」



「『個人』ですか」



「はい。大衆ではなく、対等な『個人』として他者と向き合い、ひいては社会や国家と対峙しなければならなかったのです。



 よくある議論で、自分さえ良ければいいという人が増えた、それは『行き過ぎた個人主義』だから個人を国家が取りまとめ、個人は国家のために何が出来るかを考えなければいけないのだというものがあります」



「ああ、よく聞きます」



 寛は学校でも、テレビでもそんな話をよく耳にするなと思った。



「そうでしょう。しかし、これは間違いです。明らかな支配者側の恣意的な正義です。



 繰り返すようですが、私達に本当に必要なのは、横と横の、大衆の中での話し合いです。



 彼らお得意の家族国家観で言えば、親である国家が常に口を出して、子供である国民を自分の思い通りの状態にすることが彼らの理想なのです。



 また、幼い頃に自分で考えて行動しようとすると、途中で遮られて最適解とされることを教えられてつまらない思いをするという経験をしたことは誰もが有るでしょう。これもまた上位の存在に、自主的で自由な考えを制限される一つの類例でしょう」



「それは少しうがった見方ではないでしょうか?」



「確かにそうかもしれません。親が小さい子供にものを教えるのは当然のことでしょう。例えば文字そのものを教えるだとか電車の乗り方を教えるだとか、そもそも知らなければ始まらないものを教えるのは当然のことです。しかし、どういう作文が正しいだとか、最適ルートはこうだとか無闇矢鱈と口出しするのは子供の自由で自主的な考えを奪うことになるでしょう。ある程度のところまで教えたら、後は自由にさせるべきなのです。それが学校でも社会でも上位存在が一から十まで口出しして、彼らの中の最適解を押し付けるのです。それは明らかな恣意的な正義だということは、その行為が誰のための幸福に資するのかということを考えれば瞭然でしょう。



 といっても、この例えはやはり危険なのです。そもそも家族国家観は階級化の論理です。少し間違えばすぐに階級社会となるでしょう。



 そうはならないように国民は国家を監視しなければならなかったのです。国家と国民は親と子ではありません。国家と国民は恩義の関係で結ばれているわけではありません」



 熊野あたりが聞いたら発狂しそうだな、と寛は思った。



「少し具体的に考えれば、公務員は国民のためにあります。国民は税金を払い、そのお金で公務員は暮らしています。では、公務員と国民はお金だけで結ばれるものでしょうか?だとしたら、より多く払ってくれる大企業や金持ちの人により多く奉仕するのが当然の論理になってしまいます。国家が一部の支配層のためにあるのではなく、国民のためにある一種の共同体であるのならば、原理的に言って共同体全員の幸福のためやそれに根ざした社会理念のために公務員はあるべきでしょう。



 実際に国家が提供するサービスを国民が受けた時、国民は国家に感謝しなければならないだろうという論理が出てくるということもあるでしょう。しかし、これは錯誤です。



 国民と公務員は、二分されたものではありません。公務員は国家の元にいるのではありません。公務員も共同体の一員です。我々は社会理念で繋がった存在です。そこにおいて受けるサービスは国家から下賜されるものではないのです。公共の理念のために行われることなのです。つまり、それは公共の具象化です。



 感謝は共同体の一員であり、直接話し合い、関わりをもった公務員にすればいいのです。そうすることで、社会理念は強化され得るでしょう。



 公務員と国民は生活のためのお金だけでなく、お互いのための社会理念で繋がっているのです」



「国家と国民は対峙するものではないのですか?」



 寛は矛盾ではないのかと思い、質問した。



「はい。確かに一見矛盾したものに感じると思います。国民は国家を対等な目線で対峙し、監視しなければいけません。お友達ではありません。実際上は、そういった緊張関係でなければいけません。なぜならば、国民全員が所属する団体が国家ではあるものの、一部の人間に支配権を握られているのが実情だからです。



 ここでは公務員のあるべき態度、またそういう理念を持っている公務員を前提としてお話しました。直接一人の人間としてお互いが関わり合って、彼や彼女が社会理念のために働いているのだと確認された時は、同じ共同体の一員である個人として感謝をするのは良いことだろうと思います。



 しかし、悲しいかな、そういう人間ばかりではないのです。人間は不完全なものです。一人の人間の中でさえ理念を想う心と利益を欲する心が共存しているものでしょう。だから、実際は国家及びそれに属するものはお友達でもお上でもないのだという意識を常に持って、接しなければなりません」



 すべてを信じ、すべてを委ねるというのならそれは親子のような関係になってしまうだろう。また、友人のような単純な信頼関係の上に成り立っているのでもない。



 国家と国民はあくまでも社会理念、つまり大本を辿れば『みんなの幸福を願う心』で繋がっており、本当にその通りに運営されているのか国民は監視しなければならない。



 それが老人が最初に言っていた、国民に課された不断の努力だったのだろうと寛は思った。



「また、国家という巨大な階級社会に取り込まれ、国家権力を我がものとしてふるおうとする人々、支配層の一員なのだと自認する人々も確かに存在します。



 それは国家の階級社会の上の方に行けば行くほど顕著となるでしょう。彼らは恐らく国家に尽くすことこそが真の社会正義なのだとすら思っているのではないでしょうか。確かに国家の階級社会の中で『個人の幸福』を追求し、周りの人間と対話し、周りの人間も自分と同じように国家権力を我がものとしてふるうのが幸せなのだと感じる人々ばかりだとしたら、何の疑問も感じないでしょう。人は自分の周りの世界が、世界のすべてなのだと思いがちです。何の疑問も感じずに、彼らにとっての幸福を、彼らにとっての真の社会正義を信じ続けるでしょう。しかし、それもまた恣意的な正義です。



 果たしてそれは本当に皆の幸せを願う社会理念だと呼べるものでしょうか?階級社会故にふるうことが出来る力を、気ままに下層のものに行使し、利益を搾取する。そんなものが『真の社会正義』でしょうか。



 階級社会故に生み出される強大な力を、下層のものにふるうことが出来てしまう。これが階級社会という構造そのものが持つ力の源泉でしょう」



 寛はフィクションの力は強力だと思った。特にそれがフィクションであるということに無自覚である時、人は何の疑問を抱かずその上で生きる他ない。



 しかし、手品師が手品だと言い皆を騙すのはエンターテイメントであり皆を幸福にする行為だが、手品師がこれは超能力です、真実ですと騙り詐欺を働いていたらそれは犯罪行為だろう。



「搾取される側の痛みに気付き、疑問を持ったものは上にはいけません。そんな人間が上に立ち、構造を破壊してしまったら、利益を享受できなくなると既得権益者は考えるからです。だから、何の疑問も感じず、搾取される者の痛みにも気付かないどころか同じ人間としてすら見ていないような人しかほとんど上にはいけません。そして、彼らはその世界で凝り固まり、支配層として恣意的な正義を自分の利益のためにふるいます。彼らもまた、階級社会に取り込まれた人々なのかもしれません」



 悪を生む構造であることは明らかだと、寛には思えた。
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