憲法改正と自殺薬

会川 明

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対等なる個人-4

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 その境地は一種の極限だ、と寛は思った。言葉にすることなどかなわぬ、想像を絶する境地だ。だから、今、一般論として語ることは、彼らに対して容易に理解できると言うことは、謙虚さを無くした傲慢だ。しかし、難しい問題だからと彼らの世界を隔絶したものだとしてしまうのも、また酷薄な態度だろう。



 彼らを孤立無援にしてしまうのは、間違いだ。人を尊重するということは、勝手にしろと突き放すことでも、拒絶されることを恐れて横目に何もしないということではない。正面からまっすぐに向き合って、相手を慮り、恐れを抱きながらでも、手を差し伸ばす行為のことだ。



 もし彼らが手を伸ばしてくれればいつでもサポートできる、そういった状態を言うのであろう。



 そして彼らが手を伸ばした時、自責や迷惑ではないかという負い目を感じて欲しくなかった。こちらも迷惑だなどと思いたくない。「困った時はお互い様だ」と当然のように言いたい。



 それは自己責任論による破壊から、公共の財産である平等や公平を守る態度であり、魔法の言葉だ。ひいては自由を守ることにも繋がるだろう。



 自由とは「他人に迷惑をかけないこと」と嘯くのは簡単だ。確かに「他人に迷惑をかけない」ことが自由というのは基本的なことだろう。しかし、自重や忖度、勝手な想像で他人の迷惑を判断しがちではないか。それは貧相な自由だ。聞いてみたら、案外そんなことは無かったということは少なくないだろうし、交渉の余地もあるだろう。



 まっすぐな目線での対話こそが自由や平等、公平といった公共の財産を守り、育むものだ。



 自己責任の檻に囚われてはならない。囚われれば『貧相な個人主義』となり、『貧相な公共意識』の担い手となってしまうだろう。



 そこには他者はおらず、ただひとりぼっちの膝を抱えた人が居るだけだ。自己責任の檻に囚われ、幸福を求めることも出来ず、『自分』もわからず、想像の中の『他者』を慮る。これでは自らの器を作っていくことは出来ず、貧相な個人はいずれ大きな容器に容れられる他ないだろう。



 しかし、寛は自己責任論に囚われて貧相な個人主義に陥ってしまった彼らを一方的に責める気にはなれなかった。



 彼らは他者を想うという優しさの種は持っている。しかし、人は皆、対等な個人であるという共通理解がない社会では、それは育まれない。つまり、階級社会故に自己責任論に囚われて貧相な個人主義になってしまったのだと思った。



 例えば公共的な精神や社会を真理だと思いながらも、実際に目の前にあるのは階級社会であり、そこで生きていかなければいけないのが、この社会だ。ここに不協和が生まれる。



 その社会に上手く適応できたものはコミュ力が高いなどと言われる場合もあるが、中には上手く適応できず人付き合いが嫌になってしまうものもいるだろう。階級的な社会が正しいとは思えず、馴染めないからだ。



 そこでは自分が見下されるだけならず、自分も誰かを見下すことを強要される。それは何よりもストレスだろう。なぜなら、それは彼らにとって罪だからだ。誰だって、汚れたくはあるまい。



 自己責任論に拠れば、そういった階級社会での不協和を一応は解決できる。自分よりも立場が弱い者はこれまでの努力が足りなかったのであり、自分に踏みつけられても仕方がない。そういう物語の上で生きるならば、他者は既に対等な個人ですらなく、見下してもいい存在になってしまう。良心の呵責に悩まされることも減るだろう。



 しかし、少し想像力を働かしてみるだけで、人には様々な事情や条件があり、只努力が足りなかったから弱い立場に居るわけではないことが理解るだろう。



 まっすぐな目線でじっくりと話した時、そのことに気づけるはずだ。



 それでも世界はそもそも不公平なものであり、それを嘆くのは甘えである、と既に取り込まれた人々は言いがちだ。



 そういった人々は、時には自分のほうが辛い立場にあったのだ、などと体験を交え正当化を図り、何故か相対的に言ってそれほど強くない立場の人間までもが自分より下の者には強く当たるのである。既に完全に取り込まれた彼らは、支配層にとって都合のいいスピーカーになってしまう。



 しかし、彼らが本来すべきことは自分の体験を元に社会を改善しようとすることだろう。



 なるほど、確かに世界は不公平なものだろう。しかし、みんなが住んでいるのは世界ではなく、社会だ。社会はより良い方向にデザイン出来るはずだ。ならば不公平を完全に無くすのは不可能かも知れないが、なるべく無くそうとするのが社会というものを作った意味の内の一つだろう、などと考えるのは嘆きや甘えだろうか。



 いや、違う。これは意見だ。嘆きや甘えだと感じてしまう人は、まるで子が親にそうするかのように感じられているわけで、お上意識が強いということだ。この社会の主体者であるという意識が希薄なのだ。それは自分のように足枷をつけられた人の発想だ、と寛は内心苦笑した。



 しかしまた、不協和から自己責任論に囚われて貧相な個人主義に陥ってしまった人々は、無意識のうちにでも人を見下す罪を感じているのだろうと思われた。彼らはその隠された罪を、自身も階級社会に組み込まれ、見下される存在だということを受け入れることで贖っているのである。



 自己責任論は彼らにとって、罪を隠すのに都合のいい物語だった。そして、階級社会に組み込まれることで、自動的にその罪は精算されもする。



 一見完璧なシステムだ。



 だが、やはりここに『幸福』はない。個人にとっても、社会にとってもだ。



 誰にとって完璧なシステムか。それはやはり支配層にとってだろう。個人は貧相になり、社会も改善されることはない。



 階級社会が保たれるということはつまり、支配層のための社会が今までどおり保たれるということだ。秩序は保たれ、支配層の幸福も保たれるのだ。



 結果として、自己責任論は秩序を強化し、階級を再生産する。それが自由を蝕み、公平や平等を壊す。「他人に迷惑をかけるな」という怒声となり、増々人は他者に手を伸ばすことが出来ず、自己責任の檻に囚われる。



 支配層以外の大衆社会全体が自己責任論に囚われてしまい、その果てに自殺薬の受容があったと考えられるのではないか。



 ツキミのおばさんは例外だろう。彼女はあくまでも自分の幸福のために飲んだ。



 しかし、日本人で自殺薬を飲む多くの人は、決して、自らの幸福のために飲むのではない。家族を含めた他者に迷惑をかけたくないから飲むのである。そんな不幸な終着点で良いのだろうか。



 そして、さらにその不幸を促進したのが現憲法二十四条『家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない』という項目だろう。



 現在では、『個人』が無くなり、『家族』が基礎的な単位となってしまった。そこでは自己責任ならぬ、家族責任が問われるのである。個人は認められないが、実質的には、自己責任の檻はまだ生きている。自己責任という言葉は、『個人』という本来豊かな世界へと人々を解放する魔法の言葉を、檻に変えてしまう呪いの言葉だった。人々は社会にある様々な檻に加え、強固な二重の檻に最初から囚われている。



 現憲法二十四条によれば家族の幸福が、家族の一員その人の幸福よりも優先されるというわけだ。だから、多くの年長者が自殺薬を服薬する結果になったのである。それは明らかに外圧がかかった状態だろう。個人の『幸福』に基づくものでは有り得なかった。



 だが、その家族を責める気にも寛にはなれなかった。



『家族』という小さな社会で人を支えることは困難だろう。場合によっては二人きりの社会で老老介護ということもよくある話だったはずだ。そこではやはり想像を絶する境地があったろう。



 だから、みんなで助け合えるよう、囲いの無い社会がデザインされるべきだったはずだ。

そのデザインのためには個人の幸福に基づいた上で、一人ひとりが主体性を持ち、社会の幸福、つまり『公共』を描かなければならなかった。



 そのためにはやはり、公共的な社会でなければいけなかった。対等に話し合える社会でなければいけなかった。



 しかし、階級社会である故にそれは阻害された。個人は貧相になり、主体性も無く、貧相な公共が支配層によって描かれてしまう。そして、また、それを自然なことなのだと受け入れてしまう。



 多くの人々は「他人に迷惑をかけるな」という恣意的な正義に支配されていたことだろう。そしてそれを律儀に守り、相互監視するわけだ。なぜなら、秩序こそが社会正義なのだから。



 行き着く先は自殺薬の受容しかあるまい。



 しかし、どうしてこうも階級社会が大衆にもこびりついているのか?



 階級は再生産されるからだというのが一つ考えられるだろう。階級化を正当化する論理、上下関係や、相手を見下しても良いという風潮は当然のようにはびこっている。



 特に、ある価値観から見た時に、相手を見下しても良いという風潮が対等にさせない社会を促進している。



 例えば、仕事の有無・貴賤、箸の持ち方に代表される中身のないマナー、容姿、学歴、金銭の多寡、ファッション、人々はランク付けが大好きだ。



 だが、それらはすべて社会的装飾品に過ぎず、すべて社会がなければ成り立たないフィクションだ。



 人間の本質はそんなところには無い。それらをして人を見下すのは、人間の尊厳を汚す行為だ。また、その時、自分も汚れているのである。



 階級の再生産の主たる正当化の論理は、自分が不当に扱われたのだから、自分もまた他者を不当に扱ってもいいのだということだろう。また、不当に扱われないと許せないのである。そしてこの負の連鎖が繰り返されることによって、階級は強化されていく。



 箸の持ち方一つで他者を見下すことのなんて愚かなことだろう。その人が料理を口に運ぶのに困っていないのなら、口を出すことではあるまい。一体そこからその人自身の何が理解るというのか。育ちが悪い?教えてくれる人が周りにいなかった?そんなことがその人の本質的なところだろうか。重要なことだろうか。その人自身をまっすぐに見られているだろうか。



 恐らく人が人を見下す時、それは自覚的には行われない。無自覚に見下すのである。それは既に醜悪なるものに完全に取り込まれたものの態度だ。階級構造を再生産し、強化する無自覚はもはや罪だ。



 箸の持ち方に自動的に難癖をつけたくなるものは、踏みとどまり、自己分析し、自覚しなければならないだろう。それは先輩に敬語を使わない後輩に違和感を覚える自分も同じだ、と寛は思った。



 もしも自動的に他者を見下してしまう自分が居るのなら、結果としてそれは自分の幸福も上位存在に捧げ続ける行為であり、第三者の幸福も毀損する行為だ。



 いつまで経っても階級構造は続く。いつまで経っても原始的な社会のままだ。



 そんなことを繰り返していく内に『個人』は中身スカスカの貧相な体になっていく。社会的装飾品をいざ脱いだ時、一体何が残るだろうか。



 同じ社会に住むものとして重要なのは、箸の持ち方を一様にすることでは断じて無い。箸の持ち方はバラバラでも構わないから、美味しい料理をいっぱい食べて、幸福を共有することだろう。



 中身のある、実り多い社会にするためには、対等に話し合って、共有できる幸福を探すことだ。対等に話し合うという事自体が大きな幸福でもあるだろう。なぜなら、そこには協和が生まれようとしているのだから。そして、その先に公共も産まれ得る。社会における『公共』とは、共有できる『幸福』のことだ。



 時には対立することもあるだろう。しかし、我欲のみに走らない、対等な話し合いが持たれれば、いずれ『公共』は作られる。我欲のみを追求すれば、いずれ破滅へと至る。階級の論理で自分だけが永久に『幸福』でいられると思うことは傲慢だろう。それは歴史が証明している。



 『個人の幸福』に基づいて話し合うことは我欲の応酬になってしまうだろうか?



 そんなことはないだろう。『個人』であるということは互いに尊重されるべき対等な存在同士であるということを含んでいるのである。ならば、自然と妥協や共有できる幸福を見つけ、時には『他者の幸福』を願い、『公共』へと至るだろう。



 もちろんその『幸福』は、自分の不幸や他者の不幸によってもたらされてはならない。基本的に『みんなの幸福』でなければならない。しかし、自分には直接関係はないが、自分も不幸にはならないし、『他者の幸福』にはなるだろうということが考えられる。



 例えば、寛にはLGBTの友人は居ないし、居ても隠しているが、彼らが堂々と暮らしやすい社会になればいいと思う。



 老人や障害者が爪弾きにされて、自殺へと道を狭められてしまう社会ではなくなって欲しいと思う。



 あたり前のこととして、外国人労働者と自分たちは同じ人間であるという意識でいたい。



 彼ら全員に幸せになってほしい。



 彼らと共に幸せになりたい。



 そう思うことが愚かだろうか?いや、立ち止まり、ただ冷笑的に振る舞うことが愚かなのだ。
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