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対等なる個人-3
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なぜならば、この社会は公共型の社会ではなく、階級社会であるからだ。対等でない人間関係を正当化される論理がいくつもまかり通っている。その中で一人の人間が対等を貫こうと思えば排撃されてしまうだろう。
かくして『個人』はやせ細り、『公共の福祉』も衰えるばかりだった。
寛が言った。
「『行き過ぎた個人主義』なんて無かったのではないでしょうか。そこにあるのは『貧相な公共意識』と同様に『貧相な個人主義』だったのではないでしょうか」
老人は頷く。
「そう思います。もしも、対等な個人が共存しているのだという共通認識が得られていたら、『個人』も『公共意識』も豊かなものとなったでしょう。その時、多くの人がこの社会は自分たちの『公共』であると胸を張って言えたはずです」
寛は産まれてから一度として、この社会が自分達が共有するものであるという感覚を覚えたことはなかった。ただ足枷のようなもので紐付けられている感覚だけはあった。それは社会に、いや、国家に保有されているのは自分の方であるという感覚だった。
「人は幸福を求めます。そして『自分の幸福』を知るために、まずは『自分』を知ろうとします。しかし、鏡はありませんから『他者』と関わることで『自分』の輪郭を捉えようとします。そして、その中でお互いが尊重されるべき対等な『個人』であるという認識を得ます。
通常、人には共感能力がありますから、他者が悲しんでいたり、痛みを感じていればその上に自分の幸福が成り立たないことは理解ります。ひとたびその認識に至れば、お互いが対等な個人であるという大前提なしでは自分の幸福は築けません」
確かに自分がどんなにハッピーでも、他人をいじめてハッピーというのは許されないことだろう。もしも自分がいじめられる立場だったらどうかという想像力、つまり共感を働かせれば理解るはずだ。単純にかわいそうだと同情するわけだ。その胸のしこりがあるのに十全に幸福を享受出来るものだろうか。
もしも出来るというのなら、そいつは想像力が足りないか、痛みを知らないか、覚えていられないかのいずれかなのだろう。それとも自分の痛みにのみ過敏であり、他人への痛みには鈍感、むしろ喜びすら感じるという類の人間も居るのかもしれない。
そんな連中から降り掛かってくる火の粉を払い除けることは、実際上生きていく上でとても重要な技術だろう。強くなければ生きていけないともいう。しかし、それは狂気に囚われたり、酷薄になることではないはずだ。生きることの本分を忘れてはならない。
「その認識の上で他者との交流を重ね、自分を知り、また形作られてもいきます。自分を知るとは自分の幸福を知るということでもあります。また、何を幸福と感じるかも他者との交流の中で成長していきます。
この営為のことをちょうど器を作ることに似ることから陶冶と言いますね」
「陶冶ですか。初めて聞きますね」
「ええ。あまり使われなくなった言葉のように思います。人間形成の第一がどれだけ高く伸ばせるかという平面的なものに主眼が置かれてしまった、社会が要請したということを表しているのだと思います。
しかし、この陶冶こそが芽生えた個人を育て、独自の、絶対的な自分専用の精神の器を作るということに繋がるのだと思うのです。
それは幅や奥行き、深みのある豊かな幸福を享受出来る自分を作ることに繋がりますし、自然感じられる幸福も増えるということです。
また、平面的で相対的な人間観のように外部の指標に惑わされるということも減るでしょう」
これまで寛が考えていた根源的欲求、自分の居所を得たいという人間の性質を思う時のイメージは、階級社会の中で自分という点がどこに存在するのかというものだった。そしてそれはめまぐるしく変動する不安定なものだった。
階級社会は拠り所、価値観、指標といった言葉で表される目盛りのついた容器であり、例えば学校では容姿、学業成績、運動神経の良さなどが挙げられる。
だが、これらの容器は長じていくに連れて金、生産性というより大きな容器にまとめて容れられる。
そこでは高いか低いかだ。位置により人間の価値は決まり、息苦しい。少しでも息がしたいなら浮かび上がるしかない。
また、国家によって人は制限された小さな一律のケースにそれぞれ容れられ、ラベリングされている。
独自の、絶対の形など許されない。
横幅や奥行き、底深さといった豊かさは何の価値もないものと断じられる。
老人の言うように、自らの器を作ろうという試みは考えたこともなかったので寛は衝撃を受けた。
「自分で『自分』を作って良いんですね」
「はい。むしろ、自由に、主体性を持つことが大事だと思います。
他者との交流の中で、いずれ人は自分だけでなく、他者の幸せも願えるようになるでしょう。
それは自分が他者と接する時、つまり社会に接する時でもありますが、その際の独自の内部規範ともなります。外部の規律に左右されないそれは一つの理想形です。それを身につけた個人は『真の個人』とも言えるでしょう。
こういった人間形成論は多くの物語で繰り返されてきた主題です」
寛は言われてみれば、確かに多くの物語で主人公の成長が描かれているなと思った。
寛の頭の中で、ツキミの家で観た多くの物語が急に色づいて、連関を成していく気がした。それは表層的な部分ではなく、本質的な深いところでのことだった。
人はただ生きているだけでは利己的な人間のままだ。相対的な幸せを追い、他者を踏み台にしたり、されたり、蹴落としたりと忙しい。それはいつしか破滅へと至る道だ。
それよりも他者の幸せを願えるまで成熟した個人となることは、多くの幸福を失わずに済む道のように思えた。何よりも他者に優しく生きられるのは、それを思うだけで胸に温かな灯火が現れたような感慨を寛に与えたのだった。その事自体が幸せなことだと思えた。
また、真の個人にまで成熟した人こそが政治家になるべきなのではないかとも思った。
偉い経歴や高い能力などよりも、他者の幸福を心より願える人だ。それは『公共』を担う上で、最低限の資質のようにも思われた。
そういった人は胡散臭いだろうか。しかし、露悪的になっても仕方あるまい。別に露悪的になった先に真実があるわけでもないのだ。世の中に聖人は少ないだろう。多くの人が俗人であり、理想も欲も持っている。だが、欲だけの極悪人よりは全然ましだ。
果たしてその人物がどの部類の人物なのかは継続して見ていくことで暴かれるだろうし、いずれ腐っても立憲主義と民主主義が機能していれば、本来自浄作用が働くはずだった。
他者の幸福を本気で願えるような人々は、食い物にされるのが世の常なのだろうかとも思った。だとしたら、腐っているのは世の中だろう。
寛はそういった人がもしいたら、そばにいて助けたいと素直に思った。それは子供のように無垢な感情だったが、いつしか失くなってしまっても良いもののようには思われなかった。
同時に他者を幸せにするだけでは、やはりいけない気もした。その人も含めて幸福にならなければいけない。そうでなければ、醜悪な連中にいずれ献身のみを美徳とされて抜き取られ、一方的な搾取が正当化されてしまうだろう。だから、自分だけ、他者だけではないみんなの幸福を見つけなければならない。
もしその人が公人であるならば、そばにいるわけにはいかないだろう。対峙することが彼らへの誠実さだ。そのことを理解できないものは、資質がないことを自ら証明していると言えるだろう。
また、先程の老人の言葉を反芻していた。人は人の痛みや悲しみを完全に想像出来るのだろうか。もちろんそんなことは老人に聞くまでもなく、出来ないだろうことは理解った。
だから、人は対話するのだろう。それは謙虚で誠実な行為だと思った。
しかし、それでも他者と完全に理解し合うことは難しい。きっと不可能だろう。だが、限界を知りつつも、近づくことが出来るし、もしかしたらそばにいることだって出来るかもしれない。
人は少しずつしか良くなれないのだな、と思った。だが、その歩みを放棄することが、人の営みの中で最も愚かなことだろうとも思った。
弱い立場の人をかわいそうだと同情するのは、良くないことだろうかとも思った。この問いは何故か機械的に頭に浮かんだ。
同情するのは良くないということが、理由もよく検討されぬまま巷間に流布している気がする。
恐らく同情は人を見下す行為であるからというのがその主たる理由だろう。しかし、本当にそうだろうか?
本当に相手のことを見下していたら、悲しんでいようが、痛みを感じていようが何もこちらの胸が痛むことはないだろう。相手が本来自分と同じ対等な存在だと思うから、胸の痛みを感じるのだ。
同情は人を見下す行為だという言説は、弱い立場の人や困った状況に置かれている人を助けないで良いとする正当化に使われているのではないだろうか。
もちろん実際に弱い立場に置かれた人自身には助けを拒否する権利があるが、それは助けが必要かどうか聞いてみなければわからない。聞いてみることが何より重要だ。
同情は優しさの種だ。聞いてみなければうまく発芽することもないだろう。同情は人を見下す行為だという言説はそれを阻害している。
人は長い人生の中で苦境に立たされたり、悪い状態になることもあるだろう。それは相対的に弱い立場に置かれているということだ。もしかしたら、それは先天的なものであったり、一生続いてしまう類のものかもしれない。しかし、だからといって、その人が自分と対等な存在でないなどと断じるのは傲慢であり、それこそ見下しているのだと寛は思った。
見下すとは人の意識の中でのことだ。目には見えないものだ。だから、自身で自身をチェックし、気をつけなければならない。
もしも弱い立場の人を対等でない存在であるとしてしまえば、自身もまた誰かと対等でない存在であると是認することになる。自分だけが特別だと思うのは勘違い以外の何物でもないだろう。
つまり、対等であるという見方を守ることは自身が何者にも脅かされてはならない、尊重されるべき個人であるということを守る規範でもある。それは、ひいては得られる豊かな公共を守ることにも繋がっている。
また、助けが必要か聞いてもまともに答えられない状態ということもあるだろう。もしかしたら、自分を失くしてしまうという事態もあるだろう。ツキミのおばさんはその状態になることを想定して、先に自ら選択したのだ。
本当に何の外圧もなく、自ら選択した人が居たら、それを尊重するのは大切なことだろう。一抹の寂しさを感じてしまうこともあるかもしれないが、それを尊重することが他者を尊重するということだ。
だから、逆説的に言って、自ら選択することが出来ない状態である場合、他者を尊重する観点から、周りの人に出来ることはないということになる。『自分』があるかどうかの判断は、結局の所、『自分』でしか判断出来ないのだから。出来ることがあるとしたら、ただその状態の保全に努めるばかりである。
それは周りの人からしたら経済的にも、心情的にもとても辛い時間だろう。彼らは長い時間試されることになるのだから。
かくして『個人』はやせ細り、『公共の福祉』も衰えるばかりだった。
寛が言った。
「『行き過ぎた個人主義』なんて無かったのではないでしょうか。そこにあるのは『貧相な公共意識』と同様に『貧相な個人主義』だったのではないでしょうか」
老人は頷く。
「そう思います。もしも、対等な個人が共存しているのだという共通認識が得られていたら、『個人』も『公共意識』も豊かなものとなったでしょう。その時、多くの人がこの社会は自分たちの『公共』であると胸を張って言えたはずです」
寛は産まれてから一度として、この社会が自分達が共有するものであるという感覚を覚えたことはなかった。ただ足枷のようなもので紐付けられている感覚だけはあった。それは社会に、いや、国家に保有されているのは自分の方であるという感覚だった。
「人は幸福を求めます。そして『自分の幸福』を知るために、まずは『自分』を知ろうとします。しかし、鏡はありませんから『他者』と関わることで『自分』の輪郭を捉えようとします。そして、その中でお互いが尊重されるべき対等な『個人』であるという認識を得ます。
通常、人には共感能力がありますから、他者が悲しんでいたり、痛みを感じていればその上に自分の幸福が成り立たないことは理解ります。ひとたびその認識に至れば、お互いが対等な個人であるという大前提なしでは自分の幸福は築けません」
確かに自分がどんなにハッピーでも、他人をいじめてハッピーというのは許されないことだろう。もしも自分がいじめられる立場だったらどうかという想像力、つまり共感を働かせれば理解るはずだ。単純にかわいそうだと同情するわけだ。その胸のしこりがあるのに十全に幸福を享受出来るものだろうか。
もしも出来るというのなら、そいつは想像力が足りないか、痛みを知らないか、覚えていられないかのいずれかなのだろう。それとも自分の痛みにのみ過敏であり、他人への痛みには鈍感、むしろ喜びすら感じるという類の人間も居るのかもしれない。
そんな連中から降り掛かってくる火の粉を払い除けることは、実際上生きていく上でとても重要な技術だろう。強くなければ生きていけないともいう。しかし、それは狂気に囚われたり、酷薄になることではないはずだ。生きることの本分を忘れてはならない。
「その認識の上で他者との交流を重ね、自分を知り、また形作られてもいきます。自分を知るとは自分の幸福を知るということでもあります。また、何を幸福と感じるかも他者との交流の中で成長していきます。
この営為のことをちょうど器を作ることに似ることから陶冶と言いますね」
「陶冶ですか。初めて聞きますね」
「ええ。あまり使われなくなった言葉のように思います。人間形成の第一がどれだけ高く伸ばせるかという平面的なものに主眼が置かれてしまった、社会が要請したということを表しているのだと思います。
しかし、この陶冶こそが芽生えた個人を育て、独自の、絶対的な自分専用の精神の器を作るということに繋がるのだと思うのです。
それは幅や奥行き、深みのある豊かな幸福を享受出来る自分を作ることに繋がりますし、自然感じられる幸福も増えるということです。
また、平面的で相対的な人間観のように外部の指標に惑わされるということも減るでしょう」
これまで寛が考えていた根源的欲求、自分の居所を得たいという人間の性質を思う時のイメージは、階級社会の中で自分という点がどこに存在するのかというものだった。そしてそれはめまぐるしく変動する不安定なものだった。
階級社会は拠り所、価値観、指標といった言葉で表される目盛りのついた容器であり、例えば学校では容姿、学業成績、運動神経の良さなどが挙げられる。
だが、これらの容器は長じていくに連れて金、生産性というより大きな容器にまとめて容れられる。
そこでは高いか低いかだ。位置により人間の価値は決まり、息苦しい。少しでも息がしたいなら浮かび上がるしかない。
また、国家によって人は制限された小さな一律のケースにそれぞれ容れられ、ラベリングされている。
独自の、絶対の形など許されない。
横幅や奥行き、底深さといった豊かさは何の価値もないものと断じられる。
老人の言うように、自らの器を作ろうという試みは考えたこともなかったので寛は衝撃を受けた。
「自分で『自分』を作って良いんですね」
「はい。むしろ、自由に、主体性を持つことが大事だと思います。
他者との交流の中で、いずれ人は自分だけでなく、他者の幸せも願えるようになるでしょう。
それは自分が他者と接する時、つまり社会に接する時でもありますが、その際の独自の内部規範ともなります。外部の規律に左右されないそれは一つの理想形です。それを身につけた個人は『真の個人』とも言えるでしょう。
こういった人間形成論は多くの物語で繰り返されてきた主題です」
寛は言われてみれば、確かに多くの物語で主人公の成長が描かれているなと思った。
寛の頭の中で、ツキミの家で観た多くの物語が急に色づいて、連関を成していく気がした。それは表層的な部分ではなく、本質的な深いところでのことだった。
人はただ生きているだけでは利己的な人間のままだ。相対的な幸せを追い、他者を踏み台にしたり、されたり、蹴落としたりと忙しい。それはいつしか破滅へと至る道だ。
それよりも他者の幸せを願えるまで成熟した個人となることは、多くの幸福を失わずに済む道のように思えた。何よりも他者に優しく生きられるのは、それを思うだけで胸に温かな灯火が現れたような感慨を寛に与えたのだった。その事自体が幸せなことだと思えた。
また、真の個人にまで成熟した人こそが政治家になるべきなのではないかとも思った。
偉い経歴や高い能力などよりも、他者の幸福を心より願える人だ。それは『公共』を担う上で、最低限の資質のようにも思われた。
そういった人は胡散臭いだろうか。しかし、露悪的になっても仕方あるまい。別に露悪的になった先に真実があるわけでもないのだ。世の中に聖人は少ないだろう。多くの人が俗人であり、理想も欲も持っている。だが、欲だけの極悪人よりは全然ましだ。
果たしてその人物がどの部類の人物なのかは継続して見ていくことで暴かれるだろうし、いずれ腐っても立憲主義と民主主義が機能していれば、本来自浄作用が働くはずだった。
他者の幸福を本気で願えるような人々は、食い物にされるのが世の常なのだろうかとも思った。だとしたら、腐っているのは世の中だろう。
寛はそういった人がもしいたら、そばにいて助けたいと素直に思った。それは子供のように無垢な感情だったが、いつしか失くなってしまっても良いもののようには思われなかった。
同時に他者を幸せにするだけでは、やはりいけない気もした。その人も含めて幸福にならなければいけない。そうでなければ、醜悪な連中にいずれ献身のみを美徳とされて抜き取られ、一方的な搾取が正当化されてしまうだろう。だから、自分だけ、他者だけではないみんなの幸福を見つけなければならない。
もしその人が公人であるならば、そばにいるわけにはいかないだろう。対峙することが彼らへの誠実さだ。そのことを理解できないものは、資質がないことを自ら証明していると言えるだろう。
また、先程の老人の言葉を反芻していた。人は人の痛みや悲しみを完全に想像出来るのだろうか。もちろんそんなことは老人に聞くまでもなく、出来ないだろうことは理解った。
だから、人は対話するのだろう。それは謙虚で誠実な行為だと思った。
しかし、それでも他者と完全に理解し合うことは難しい。きっと不可能だろう。だが、限界を知りつつも、近づくことが出来るし、もしかしたらそばにいることだって出来るかもしれない。
人は少しずつしか良くなれないのだな、と思った。だが、その歩みを放棄することが、人の営みの中で最も愚かなことだろうとも思った。
弱い立場の人をかわいそうだと同情するのは、良くないことだろうかとも思った。この問いは何故か機械的に頭に浮かんだ。
同情するのは良くないということが、理由もよく検討されぬまま巷間に流布している気がする。
恐らく同情は人を見下す行為であるからというのがその主たる理由だろう。しかし、本当にそうだろうか?
本当に相手のことを見下していたら、悲しんでいようが、痛みを感じていようが何もこちらの胸が痛むことはないだろう。相手が本来自分と同じ対等な存在だと思うから、胸の痛みを感じるのだ。
同情は人を見下す行為だという言説は、弱い立場の人や困った状況に置かれている人を助けないで良いとする正当化に使われているのではないだろうか。
もちろん実際に弱い立場に置かれた人自身には助けを拒否する権利があるが、それは助けが必要かどうか聞いてみなければわからない。聞いてみることが何より重要だ。
同情は優しさの種だ。聞いてみなければうまく発芽することもないだろう。同情は人を見下す行為だという言説はそれを阻害している。
人は長い人生の中で苦境に立たされたり、悪い状態になることもあるだろう。それは相対的に弱い立場に置かれているということだ。もしかしたら、それは先天的なものであったり、一生続いてしまう類のものかもしれない。しかし、だからといって、その人が自分と対等な存在でないなどと断じるのは傲慢であり、それこそ見下しているのだと寛は思った。
見下すとは人の意識の中でのことだ。目には見えないものだ。だから、自身で自身をチェックし、気をつけなければならない。
もしも弱い立場の人を対等でない存在であるとしてしまえば、自身もまた誰かと対等でない存在であると是認することになる。自分だけが特別だと思うのは勘違い以外の何物でもないだろう。
つまり、対等であるという見方を守ることは自身が何者にも脅かされてはならない、尊重されるべき個人であるということを守る規範でもある。それは、ひいては得られる豊かな公共を守ることにも繋がっている。
また、助けが必要か聞いてもまともに答えられない状態ということもあるだろう。もしかしたら、自分を失くしてしまうという事態もあるだろう。ツキミのおばさんはその状態になることを想定して、先に自ら選択したのだ。
本当に何の外圧もなく、自ら選択した人が居たら、それを尊重するのは大切なことだろう。一抹の寂しさを感じてしまうこともあるかもしれないが、それを尊重することが他者を尊重するということだ。
だから、逆説的に言って、自ら選択することが出来ない状態である場合、他者を尊重する観点から、周りの人に出来ることはないということになる。『自分』があるかどうかの判断は、結局の所、『自分』でしか判断出来ないのだから。出来ることがあるとしたら、ただその状態の保全に努めるばかりである。
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