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プロローグ
二
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“結婚後のことを考えてシーラの教育はこちらで受け持ちたい”
“嫁ぐ前に一緒に暮らしてみるのはどうだろうか”
などという北部公爵家の申し出をのらりくらりと躱している間に、気が付けば三年の月日が経っていた。
この三年の間、彼から連絡が来ることは一度もなかった。
シーラは、社交界デビューとなるデビュタントボールで、彼と踊ることが夢だった。
兄にエスコートされ、彼と踊る。
そうできたらなんて素敵だろう、と夢見ていた。
しかし、実際にデビュタントボールでシーラをエスコートしたのは北部公爵家の公子で、初めてのダンスの相手も公子だった。
大勢の羨望の眼差しを受け、公子とダンスを踊る中、 “もしかして”はもうあり得ないのだ、とシーラはこのとき初めて、欠片ばかりの希望を捨てた。
公子のエスコートを受けるということは、公に公子の婚約者であることを示すということでもある。こうなってしまっては、余程の瑕疵がない限り、この婚約を不成立にすることは難しい。
欠片ばかりの希望は、結局ただの空想でしかなかったのだ。
だが、シーラが希望を捨てたのは、それだけが理由ではなかった。
社交界には、この三年、シーラが知り得なかった彼についての噂話が広く出回っていたのだ。
曰く、彼は夜ごと違う女性を呼び、熱い一夜を過ごしているだとか。
曰く、彼は非常に情熱的に女体を抱き、複数の女性を一度に相手することもあるだとか。
曰く、彼がここ数年王都のパーティーに参加しないのは、その女癖のせいで出入りを禁止されているからだとか。
とても聞きたくない、そして信じられない噂ばかりが耳に入ってきた。
彼が相手をするのは妖艶で豊満な美女だけだと耳にするたび、その旺盛な性欲から“野獣”と揶揄されているのを耳にするたび、自分がまだ夢見がちな子どもであったことをシーラは痛感した。
それでも、シーラの恋心は失われなかった。
公子に対して、自分が不実な心を持っていることはわかっていた。
もっと公子に心を開き、誠実な心で向き合わなければいけないことも理解していた。
ただ、それでも。
どうしても、彼の柔らかに揺れる黒髪が、力強くも優しい金の瞳が忘れられなかった。
きっと、この泡沫のような初恋は生涯忘れられない。
それならば。せめて、誠意でもって、己の義務を果たそう。
そう心に決めたシーラは、公子の婚約者として様々な集まりに顔を出した。
時に嫌味を言われたり、嫌がらせをされたりすることもあったが、心に別の想い人を抱くシーラは、それが自らに課せられた罰なのだと甘んじて受け入れた。
もう、彼を待つことはない。
だから、いつ結婚をしても構わない。
そう覚悟を決めたシーラだったが、兄はなかなか結婚の許しを与えなかった。
どうして、と問うシーラに兄は答えず、北部公爵家からの催促の手紙だけが溜まっていった。
兄が答えを出したのは、シーラが成人を迎えてから約半年後のことだった。
次の社交界が始まったら、自らの婚約者を選ぶ。婚約者が決まったら、シーラが代行していた女主人としての役割を引き継いでいく。それが終われば、シーラを嫁がせる。引き継ぎの期限は、最長でもシーラの十八歳の誕生日までとする。
そのことを、兄はシーラ、そして北部公爵家の人々に伝えた。
公子との結婚をさらに一年半待たせてしまうことに、北部公爵家側が反発のするのでは、とシーラは心配したが、それは杞憂で終わった。
むしろ、北部公爵家は一年半という期間をありがたがった。
何故だろうという疑問は、すぐに解消されることになる。
北部公爵家は、シーラと公子の結婚の日取りを大々的に公表し、対外的にシーラと公子の結婚を広く知らしめ始めたのだ。
シーラが公子の婚約者であったことは公然の事実だったが、明確な日取りが決まっていない以上いつか白紙となる可能性も否めない、というのが世の意見だった。そのため、シーラに嫌がらせをしてきた令嬢たちの中にも、いつまでも結婚の日取りが決まらないことを理由にシーラを貶める者がいたくらいだ。
しかし、日取りを決め、これほど大々的に知らせを出せば、婚約も結婚も覆すことはほぼ不可能になる。仮にそんなことにでもなれば、とんでもない醜聞として人々に嘲笑されることになるだろう。
まるで外堀を埋めるかのような北部公爵家の行動に、そうまでして北部公爵家は自分が欲しいのか、とシーラは疑問に思ったが、その疑問に答えてくれる者は誰もいなかった。
何故誰も答えてくれないのか判然としなかったが、自分の結婚式の準備や、兄の婚約者となった人物への引き継ぎなど、やるべきことが大量にあったため、そんな疑問はすぐに頭の片隅へと追いやられた。
結婚式のドレスが仕上がっていくにつれ、覚悟を決めたはずの心が不安に揺れていったのも、疑問を忘れた理由の一つかもしれない。
住み慣れた土地を離れる心細さや、彼への未練など、不安の原因はいろいろとあった。しかし、これまで何も言わずに時を待ってくれていた公子のことを考えると、不安を抱くのも申し訳なくて、シーラはただ己のやるべきことに邁進した。
忙しい日々ではあったが、式の準備も、兄の婚約者への引き継ぎも順調に進んで行った。
事件が起きたのは、結婚まであと半年と迫った、暑い夏の日だった。
シーラと公子の前に、一人の女性が姿を現した。その女性は、なんと公子の子どもを身籠っていたのだ。
質の高い大量の魔力を生まれ持つ公爵家の人間は、その魔力と血筋がいたずらに流出しないよう、国によって厳格なる一夫一妻制を強いられており、私生児の存在は頑として認められていなかった。
そのため、腹の子が間違いなく公子の子だと断定されると、シーラと公子の婚約は瞬く間に解消されてしまった。
突然の出来事にシーラは呆然とするしかなかったが、結婚せずに済んだことに、内心安堵している自分もいた。未来の公爵夫人の座をあと一歩のところで奪われてしまったことを嘲笑する者もいたが、そんなことは気にもならなかった。
ここしばらくあった憂鬱さや不安感は一切なくなり、周りの状況に反して、シーラの心は穏やかだった。
しかし、そんな穏やかな時間は一瞬で消え去ることになる。
なんと、今までずっと音信不通だった彼から手紙が届いたのだ。
宛先は兄だったが、そこにはシーラに求婚する旨が書かれていたのだった。
“嫁ぐ前に一緒に暮らしてみるのはどうだろうか”
などという北部公爵家の申し出をのらりくらりと躱している間に、気が付けば三年の月日が経っていた。
この三年の間、彼から連絡が来ることは一度もなかった。
シーラは、社交界デビューとなるデビュタントボールで、彼と踊ることが夢だった。
兄にエスコートされ、彼と踊る。
そうできたらなんて素敵だろう、と夢見ていた。
しかし、実際にデビュタントボールでシーラをエスコートしたのは北部公爵家の公子で、初めてのダンスの相手も公子だった。
大勢の羨望の眼差しを受け、公子とダンスを踊る中、 “もしかして”はもうあり得ないのだ、とシーラはこのとき初めて、欠片ばかりの希望を捨てた。
公子のエスコートを受けるということは、公に公子の婚約者であることを示すということでもある。こうなってしまっては、余程の瑕疵がない限り、この婚約を不成立にすることは難しい。
欠片ばかりの希望は、結局ただの空想でしかなかったのだ。
だが、シーラが希望を捨てたのは、それだけが理由ではなかった。
社交界には、この三年、シーラが知り得なかった彼についての噂話が広く出回っていたのだ。
曰く、彼は夜ごと違う女性を呼び、熱い一夜を過ごしているだとか。
曰く、彼は非常に情熱的に女体を抱き、複数の女性を一度に相手することもあるだとか。
曰く、彼がここ数年王都のパーティーに参加しないのは、その女癖のせいで出入りを禁止されているからだとか。
とても聞きたくない、そして信じられない噂ばかりが耳に入ってきた。
彼が相手をするのは妖艶で豊満な美女だけだと耳にするたび、その旺盛な性欲から“野獣”と揶揄されているのを耳にするたび、自分がまだ夢見がちな子どもであったことをシーラは痛感した。
それでも、シーラの恋心は失われなかった。
公子に対して、自分が不実な心を持っていることはわかっていた。
もっと公子に心を開き、誠実な心で向き合わなければいけないことも理解していた。
ただ、それでも。
どうしても、彼の柔らかに揺れる黒髪が、力強くも優しい金の瞳が忘れられなかった。
きっと、この泡沫のような初恋は生涯忘れられない。
それならば。せめて、誠意でもって、己の義務を果たそう。
そう心に決めたシーラは、公子の婚約者として様々な集まりに顔を出した。
時に嫌味を言われたり、嫌がらせをされたりすることもあったが、心に別の想い人を抱くシーラは、それが自らに課せられた罰なのだと甘んじて受け入れた。
もう、彼を待つことはない。
だから、いつ結婚をしても構わない。
そう覚悟を決めたシーラだったが、兄はなかなか結婚の許しを与えなかった。
どうして、と問うシーラに兄は答えず、北部公爵家からの催促の手紙だけが溜まっていった。
兄が答えを出したのは、シーラが成人を迎えてから約半年後のことだった。
次の社交界が始まったら、自らの婚約者を選ぶ。婚約者が決まったら、シーラが代行していた女主人としての役割を引き継いでいく。それが終われば、シーラを嫁がせる。引き継ぎの期限は、最長でもシーラの十八歳の誕生日までとする。
そのことを、兄はシーラ、そして北部公爵家の人々に伝えた。
公子との結婚をさらに一年半待たせてしまうことに、北部公爵家側が反発のするのでは、とシーラは心配したが、それは杞憂で終わった。
むしろ、北部公爵家は一年半という期間をありがたがった。
何故だろうという疑問は、すぐに解消されることになる。
北部公爵家は、シーラと公子の結婚の日取りを大々的に公表し、対外的にシーラと公子の結婚を広く知らしめ始めたのだ。
シーラが公子の婚約者であったことは公然の事実だったが、明確な日取りが決まっていない以上いつか白紙となる可能性も否めない、というのが世の意見だった。そのため、シーラに嫌がらせをしてきた令嬢たちの中にも、いつまでも結婚の日取りが決まらないことを理由にシーラを貶める者がいたくらいだ。
しかし、日取りを決め、これほど大々的に知らせを出せば、婚約も結婚も覆すことはほぼ不可能になる。仮にそんなことにでもなれば、とんでもない醜聞として人々に嘲笑されることになるだろう。
まるで外堀を埋めるかのような北部公爵家の行動に、そうまでして北部公爵家は自分が欲しいのか、とシーラは疑問に思ったが、その疑問に答えてくれる者は誰もいなかった。
何故誰も答えてくれないのか判然としなかったが、自分の結婚式の準備や、兄の婚約者となった人物への引き継ぎなど、やるべきことが大量にあったため、そんな疑問はすぐに頭の片隅へと追いやられた。
結婚式のドレスが仕上がっていくにつれ、覚悟を決めたはずの心が不安に揺れていったのも、疑問を忘れた理由の一つかもしれない。
住み慣れた土地を離れる心細さや、彼への未練など、不安の原因はいろいろとあった。しかし、これまで何も言わずに時を待ってくれていた公子のことを考えると、不安を抱くのも申し訳なくて、シーラはただ己のやるべきことに邁進した。
忙しい日々ではあったが、式の準備も、兄の婚約者への引き継ぎも順調に進んで行った。
事件が起きたのは、結婚まであと半年と迫った、暑い夏の日だった。
シーラと公子の前に、一人の女性が姿を現した。その女性は、なんと公子の子どもを身籠っていたのだ。
質の高い大量の魔力を生まれ持つ公爵家の人間は、その魔力と血筋がいたずらに流出しないよう、国によって厳格なる一夫一妻制を強いられており、私生児の存在は頑として認められていなかった。
そのため、腹の子が間違いなく公子の子だと断定されると、シーラと公子の婚約は瞬く間に解消されてしまった。
突然の出来事にシーラは呆然とするしかなかったが、結婚せずに済んだことに、内心安堵している自分もいた。未来の公爵夫人の座をあと一歩のところで奪われてしまったことを嘲笑する者もいたが、そんなことは気にもならなかった。
ここしばらくあった憂鬱さや不安感は一切なくなり、周りの状況に反して、シーラの心は穏やかだった。
しかし、そんな穏やかな時間は一瞬で消え去ることになる。
なんと、今までずっと音信不通だった彼から手紙が届いたのだ。
宛先は兄だったが、そこにはシーラに求婚する旨が書かれていたのだった。
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