野獣公爵の執愛

ゆき真白

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第一章

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「夕食を食べ損ねただろう。軽食と果物を持って来たから、まずはそれを食べろ」

 ジルヴィウスの視線を追うように、シーラもサイドテーブルを見る。

(わざわざ用意してくれたんだ。でも……)

 シーラはすぐに視線をジルヴィウスに戻すと、彼のナイトガウンを掴んだ。

「食べなくても大丈夫。だから――」
「これから何をするのかわかってるのか?」
「初夜でしょ? それくらいわかって――」
「わかってない。お前が思っているより女側の負担は大きく、体力を使うんだ。食べなきゃ最後まで持たないぞ」

 無知な子どもを窘めるような、呆れたようなジルヴィウスの態度に、シーラは、むっと唇を尖らせながら俯いた。

「……今、そういうの言わないでよ」
「何……?」

 余計なことは言うな、と理性が告げる。
 今は、結婚まで貞淑であれ、という時代ではない。避妊さえしっかりしていれば、経験があっても問題はない。むしろ、男性側はある程度慣れていたほうがいい、という共通認識があるくらいだ。
 だから、ジルヴィウスが過去何人の女性を抱こうが、避妊さえしていたなら何も咎めるようなことはないのだ。
 そう頭では理解しているのに、言葉は止まらなかった。

「ジルがそういう経験たくさんあるの知ってるよ。王都で噂になってたもん。ジルは素敵な人だから仕方ないけど……慣れてます、みたいな、他の女の人との経験を窺わせるようなこと、言ってほしくない」
「……はあ?」

 一瞬の沈黙のあと、地を這うような低い声が聞こえ、シーラはびくりと肩を揺らす。
 ジルヴィウスの気分を害してしまった、と瞬時に察したシーラは、謝罪しようと顔を上げる。しかし、半端に開いた口からは何の言葉も出て来なかった。
 ジルヴィウスが、青筋を浮かべ、怒りに燃えた目で、シーラを見ていたからだ。
 彼はゆっくり片手を挙げると、自らの顔を覆い、上下に擦った。
 怒りを抑え込んでいるのか、彼は何度も震える息を漏らしている。

「あ、の……」

 その様子が苦しんでいるようにも見えて、シーラは思わず手を伸ばす。しかし、ジルヴィウスに触れる前にその手首は掴まれ、シーラは思わず顔を歪めた。

(痛っ……!)

 思い切り腕を掴まれ、骨が軋む。血管が圧迫されているのか、指先も痺れてきた。

「ジル、――」
「……えが……のか」

 離して、という言葉は、ジルヴィウスの呟きを受け喉の奥へと引っ込んだ。

(今……なんて?)

「……ジル」

 手の痺れが強くなるなかもう一度名前を呼ぶと、ジルヴィウスは顔を覆っていた手を外し、射殺すような眼差しでシーラを睨み付けた。

「お前がっ……他の男と婚約までしたお前がそれを言うのかッ!」

 咆哮するような叫びに、びくりと体が揺れる。
 年上の男性にこうして怒鳴られたのは初めてで、体が勝手に震えた。
 驚きか恐怖か、心臓が低く脈打つのを感じながら、シーラはじっとジルヴィウスの双眸を見つめる。
 彼の眼差しからは確かに怒りを感じるのに、その表情にはどこか苦悶や悲しみが見て取れた。

「ジ――っ」

 ジルヴィウスは、声を掛けるシーラを無視するように、掴んでいた腕を引っ張りベッドに転がした。
 シーラを跨ぐように馬乗りになったジルヴィウスは、シーラが着ていたナイトガウンの前を乱暴に開く。
 ジルヴィウスに下着姿を晒すことになり、シーラはかっと頬を赤らめた。
 シーラが用意した初夜用の下着は、普段だったら絶対に着ないような、丈が足の付け根までしかない白いキャミソールだった。

 胸元は花の刺繍が施されたレースで覆われ、胸から下は肌の透ける素材になっている。腹部分には大きな切れ込みがあり、シーラの薄い腹を隠すことなく見せていた。
 下半身を覆う下着も、普段は丈の短いドロワーズを使用しているが、今日は紐を解けば簡単に脱がせることができるショーツを着けている。恥丘を覆う部分も胸元と同じレースになっており、薄っすらと下生えが透けていた。

「この下着も、本当は俺ではなく、あいつに見せるつもりで買ったんじゃないのか?」
「違っ――」

 反論しようとしたシーラを抑えつけるように口を掴むと、ジルヴィウスはそのまま顔を近付けた。

「あのくそ野郎がやらかさなければ、お前は今頃、俺ではなくあの男と結婚し初夜を迎えていたことだろう」

 口から手を放したジルヴィウスはなぞるように首を撫で下ろすと、肩紐を掴んだ。

「はっ、あの外面のいい偽善者野郎が好きそうな下着だ」

 ジルヴィウスは、肩紐を引っ張ると嘲るような冷笑を浮かべる。

(どうして……)

 どうして、彼のほうが辛そうな顔をしているのだろうか。

「……ジル」

 肩紐を掴むジルヴィウスの手を両手で掴む。
 ジルヴィウスはわずかに指先を震わせたものの、手を放す気配はない。
 変わらず複雑な表情を浮かべるジルヴィウスに、シーラは掴む手に力を入れると、じっと彼の双眸を見つめた。

「ジルと出会ってから……ジルのことが好きだって気付いてから、ずっとジルのこと好きだよ。他の人を好きになったことは、一度だってない。ジルのいろんな噂を聞いても、ずっとずっとジルのことが好きだった。この下着は……この下着を買ったのは、確かに婚約してたときだけど……」

 肩紐を掴むジルヴィウスの手に力が入る。そのまま引きちぎりそうな雰囲気のジルヴィウスに、シーラは慌てて「だけど!」と続けた。

「ジルの噂を聞いて……! こ、こういうの着たら、ジルもわたしのこと、そういう風に見てくれるかなって……ジルと噂になるような美女じゃないけど、少しは女性として見てもらえるのかなって。……もちろん、別の人と婚約してたから、買っても意味なんてなかったんだけど」

 小さく苦笑を漏らせば、ジルヴィウスの手の力が若干弱まった。
 彼の瞳にも、わずかな戸惑いが見て取れる。

「……買うだけで、誰の前でも着るつもりはなかったの。ただ……ただ、たまに眺めて、ジルと結婚したらって……ジルと結婚できてたらって……たまに、ジルへの想いを思い返すくらいなら……いいかなって……」

 言いながら、気が付けば涙が溢れていた。

(……わたし……)

 すべて、受け入れたつもりだった。
 ジルヴィウス以外との結婚も、ジルヴィウスではない人と人生を歩んでいくことも。
 自分なりに納得して、受け入れていたと思っていた。

(ごめんなさい……ごめんなさい、エルネスト様……)

 心の中で、かつての婚約者である北部公爵家の公子――エルネストへの意味のない謝罪を繰り返しながら、シーラは震える唇を開く。

「わたし、ジルのお嫁さんになりたかった……ジルとずっと一緒にいたかった……ジルのことが、大好きだから」

 長年抱え続けてきた想いが、涙となって流れていく。
 静かにすすり泣くシーラに、ジルヴィウスは完全に手の力を抜いた。
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