野獣公爵の執愛

ゆき真白

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第一章

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「……泣くな」

 シーラが掴んでいないほうの手を伸ばし、ジルヴィウスは優しく涙を拭う。壊れものにでも触れるかのようなその手つきは、昔の彼を思い起こさせ、考えるより前に顔をすり寄せていた。

「……哀れだな」
「あわれ……?」

 何が、と小首を傾げれば、ジルヴィウスはシーラの目尻をひと撫でして視線を逸らした。

「……お前が好きなのは、昔の俺だろう。お前を可愛がり、お前を大事にしていた……ただ純粋に、お前を愛していた、昔の……」

 眉根を寄せ、苦しげにそう漏らしたジルヴィウスに、シーラは、ぱち、ぱち、と瞬きを繰り返す。

(今、なんて……?)

 ジルヴィウスの言葉を、脳内で何度も反芻する。何度も何度も繰り返して、やっとその言葉の意味を理解し、シーラは大きく目を見開いた。

「……ジルも、わたしのこと好きでいてくれたの……? そういう……わたしと同じ意味で……?」
「……。……昔の話だ」

 ジルヴィウスはさらに顔を俯かせ、そう小さく呟いた。
 固く口を引き結ぶジルヴィウスに、シーラはただ呆然と目を瞬かせる。

(……ジルが、わたしを……?)

 その可能性について考えたことは一度もなかった。
 ジルヴィウスが自分に好意的であったことは自覚しているが、それはあくまで“妹のような存在”というだけで、恋情的な意味があるとは思ってもみなかった。
 予想外のことにただただ驚いていたシーラだったが、徐々に喜びが募っていき、胸が高鳴っていく。
 ジルヴィウスの手を掴んでいる両手のひらにじわりと汗が滲むのを感じながら、シーラはそっと口を開いた。

「じゃあ、今は……?」

 問う声はか細く震え、わずかに上擦った。
 ジルヴィウスは「昔の話だ」と言ったが、もしかして、という期待を抱かずにはいられなかった。しかし、どんどん体温が上がっていくシーラに対し、シーラを見遣ったジルヴィウスの眼差しはとても冷たいものだった。

「もう、嫌いになっちゃった……?」

 考えるより先に、言葉が出ていた。
 再会してからの彼の言動を考えれば、嫌われているということはないだろう。けれど、そう思えてしまうほど、ジルヴィウスの瞳には何の熱もなかった。
 ジルヴィウスはもう一度視線を逸らし、深く息を吐き出すと、真っ直ぐシーラを見下ろした。上体を倒し、顔を近付け、シーラが掴んでいないほうの手を細い首に添える。
 まるで首でも絞めるかのように、わずかに指先に力を入れると、ジルヴィウスは短く息を吐いた。

「……憎い。ただ、お前が憎い。一度、他の男の手を取ることを選んだお前が憎くて、恨めしい」

 吐露するジルヴィウスの声は、とても淡々とした静かなものだった。しかし、シーラを見下ろす彼の顔は悲痛に歪められ、その眼差しは憎しみより悲しみを湛えているように見えた。

(――ああ)

 金の瞳が揺らめいていることに気付いた瞬間、シーラは悟った。
 ジルヴィウスは、とても傷付いている。そして、彼を傷付けたのは、他でもない自分自身なのだ、と。

(そう、ね……もしジルが別の人と婚約したら、わたしもきっと、すごく傷付いたと思う。どうして、って。困って婚約するしかなかったなら、どうしてわたしに言ってくれないの、って。……でも。でもね、ジル。仕方なったの。あのときは、あれが最善だと思ったの)

 ジルヴィウスと両想いだとわかっていれば、当然ながら北部公爵家からの縁談など受けなかった。
 もしくは、シーラがもう少し大人だったなら、返事は待ってほしいと兄や相手方に伝えた。自分が、兄や領地のために何か役に立つ存在だったのなら、あんなにすぐ縁談を受け入れはしなかった。

(けど、あのときのわたしはまだ子どもで、できることもあんまりなくて……わたしの身一つでお兄様が助かるならって思ったの)

 最後まで公子との結婚を受け入れがたくは思っていたが、あのときの選択が間違いだったとは思っていない。
 婚約という形になったせいで支援金を減らされはしたが、北部公爵家とシーラの婚約が成ったというだけで、他家からも多くの援助を受けることができた。そのおかげで、ノルティーン辺境伯領は徐々に持ち直していき、今では安定した領地運営を行うことができている。

(お兄様の顔色が日増しによくなっていったことを、今でも覚えてるわ。だから、後悔なんてしない、けど……)

 シーラはジルヴィウスの手を解放すると、今度は彼の顔を両手で包み込んだ。

「わたしが好きなのは、今も昔もジルだけだよ」

 心の中で「ごめんね」と呟きながら、偽らざる本心を伝える。
 しかし、ジルヴィウスの顔が晴れることはなく、彼は眉間の皺を深めた。

「……お前は、今の俺のことなど何も知らないだろう」
「今も昔も、ジルはジルでしょ? わたしのことが……昔みたいに好きじゃなくても、ジルに変わりは――」
「はっ」

 ジルヴィウスはまるで嘲笑するかのように鼻で笑うと、自身の頬に添えられたシーラの右手を取った。少し滑り落ちたガウンの袖を下げ、赤い手形が付いた手首を露わにする。

「お前にとっては、昔の俺もお前を傷付けるような人間だったか?」
「そんなこと思ったことないよ! それにこのくらい、傷付いたうちに入らないし……」
「……愚かだな、お前は」

 ジルヴィウスは深く息を吐き出すと、赤いままのシーラの手首に口付けた。

「お前は過去の幻想に囚われているだけだ。過去の思い出に目を曇らせ、現実を直視できていない」

 まるで懺悔でもするように手首に顔を寄せるジルヴィウスに、彼はただ自分を案じてくれているのだと察する。
 ジルヴィウスは、自身がシーラを傷付けてしまう可能性を懸念しているのだ。

(……やっぱり、ジルはジルだよ。前みたいに笑ってはくれないけど、いつだって、わたしを気にかけてくれる。変わらない優しさを持った、大好きな人)

 シーラは深く息を吸い込み、それらをすべて吐き出すと、覚悟を決めた眼差しでジルヴィウスを見た。

「……ジルは、わたしにどうしてほしいの? わたしに嫌いになってほしい?」
「……」

 彼は何も答えず、手首への口付けを繰り返す。
 シーラは一拍置くと、「それとも」と続けた。

「――離れていってほしいの?」

 言うや否や、右手を掴むジルヴィウスの手に力が込められる。全身の毛が逆立つような殺気を纏いながら、ジルヴィウスは鋭い眼光をシーラに向けた。

「ふざけるな。お前が泣こうが喚こうが、どれだけ懇願しようとも、お前を手放すつもりはない。逃げ出そうなどとはゆめゆめ思うな。お前の自由を奪ってでも――」
「うん」

 今にでも食い殺してきそうなジルヴィウスの言葉を遮って、シーラは穏やかな笑みを彼へと向ける。

「いいよ、ジル。ジルの思うようにして。わたしを手放さないで」

 空いている手で彼の柔らかな黒髪を梳けば、ジルヴィウスはわずかに目を見開いた。どこか驚いた様子の彼に、シーラは笑みを深めながら、言葉を続ける。

「ジルが納得して、受け入れてくれるまで、何回でも言うよ。わたしは、ジルが好き。本当に、大好き。今と昔が違うって言うなら、今のジルをわたしに教えて? きっともっと、好きになるだけだから」

 髪を梳いていた手を彼の首の裏へと回し、そっと頬へと口付ければ、ジルヴィウスは固く目を閉じ、シーラを抱き締めた。
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