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第一章
二十一
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執務室の前を行ったり来たりしながら、シーラは頭を抱えた。
(まさか五日も喋れないなんて……!)
ジルヴィウスに「しばらく口をきかない」「お触り禁止」と宣言してから早五日。ジルヴィウスとは一言も話せていなかった。
(こっちから言い出したことだし、一日……せめて半日くらいはわたしからは話しかけない! って思ってたけど……まさかジルのほうからも全然話しかけてくれないなんて思わなかったから……!)
別に謝罪をしてほしかったわけではない。
ただ一言、「もうしない」と言ってくれればそれだけでよかった。
たとえその一言がなかったとしても、ジルヴィウスに話しかけられればどうせ我慢などできないのだ。だから、彼から声をかけられれば、「口をきかない」も「お触り禁止」もすぐに撤回するつもりだった。
(昔のジルもそうだったけど、ここに来てからのジルを見ても、絶対すぐに話しかけてくると思ってたのに……!)
食事は一緒に取るし、寝るときも同じベッドを使っている。
先に食べ終わってもシーラが終わるまでは待ってくれているし、朝起きるときもシーラが目覚めるまで待ってくれている。けれど、彼は決してシーラとは視線を合わせず、“お触り禁止”を守っているのか、常に一定の距離を保っていた。
(なんだかこっちからも話しかけにくくなっちゃって、そのままずるずると……! わたしのばかっ! せめてお触り禁止だけにしておけばよかった! こんなに近くにいるのにジルと話せないなんて、ただの拷問だもん!)
「奥様? 中に入られないのですか?」
「わっ、あっ、ギー……!」
漏れそうになった悲鳴を呑み込むと、シーラは慌てて振り返り、背筋を伸ばした。
視線の先で、執務室から顔を覗かせたギーが不思議そうに小首を傾げている。
「あ、あの、わたし……」
「よろしければお茶をお淹れしますよ。お茶を淹れる腕には少々自信がありますので」
にこやかに扉を開けるギーに、シーラは少しの躊躇のすえ、小さく頷いた。
「じゃあ……お邪魔しよう、かな」
「ええ。どうぞお入りください」
(……ギーがこの部屋の主みたい)
そんなことを思いながら、執務室の中に足を踏み入れる。
執務机に向かうジルヴィウスは、視線を上げることなく羽根ペンを走らせていた。
ジルヴィウスを窺いながら、ギーに促されるまま執務机の前のソファに腰掛ける。
「では、私は準備して参りますね」
「あっ、うん! ありがとう」
出て行くギーを見送ってから、シーラは、はっと顔を伏せる。
(どうしよう……! ジルと二人っきりだ……!)
口をきかくなってから、食事や睡眠などすることがないときに二人きりになるのは初めてで、苦しいくらいに心臓が激しく脈打った。
(あ、謝る? でも正直わたしが悪いとは思えない……悪いと思えないのに形だけで謝るなんてだめ! じゃあ、世間話……? 元気? 曇りが多いね? ここ最近何してた? ……だから何!?)
静かな室内で、自分の心臓の音だけがうるさく鳴っている。紙の擦れる音や時計の針の音よりも遥かに大きなそれは、ジルヴィウスにまで聞こえてしまっているのではないかと思うほどだ。
(な、何か言わなくちゃ……なんでもいいから……)
「――……」
「お待たせいたしました」
「っ!」
シーラはびくりと肩を跳ねさせると、勢いよく顔上げた。ずきずきと痛む心臓を落ち着かせるように息をつきながら、ぎこちなく振り返る。
「ありがとう、ギー」
「いいえ。奥様のお眼鏡にかなえばよいのですが」
(あ、この香り……)
ふわりと鼻腔をくすぐる甘い香りに、緊張で強張っていた体の力が抜ける。
シンプルな白いティーカップとソーサーをテーブルに置いたギーは、同じような真っ白なポットを傾け、中身を注いでいく。
「旦那様からジャスミンティーがお好きだとお伺いしておりましたので、本日はジャスミンティーをご用意させていただきました」
「……そうなんだ。ありがとう」
黄金色がティーカップを満たしていくのを見つめながら、シーラは顔を綻ばせた。
ジルヴィウスが自分の好みを把握してくれていたことが嬉しかった。
カップを手に取り、そっと口を付ければ、華やかなジャスミンの香りが鼻を抜けていった。
「……甘くておいしい。ギー、本当にお茶を淹れるのが上手ね」
「ありがとうございます。私が唯一誇れることです」
「唯一なの?」
ふふっ、と思わず笑みを漏らせば、ゴッと重い何かが絨毯に落ちる音が聞こえた。音のほうへ顔を向ければ、ジルヴィウスが片手で顔を押さえながら、下を向いていた。
「ジル……? 大丈夫……!?」
カップを置き、ジルヴィウスの元へ駆け寄れば、執務机の傍に鍵付きの文箱が落ちていた。黒漆の容器に金象嵌が華やかなそれを手に取ると、見た目に反してずしりとした重量が伝わってくる。
しかし、それはすぐに手中からなくなり、文箱の行方を視線で追えば、ジルヴィウスがそれを引き出しへとしまい込んだ。
「……ジル、顔色悪いよ」
「……問題ない」
相変わらず視線を合わせないまま、ジルヴィウスは短く息を吐く。その息遣いはどこか苦しそうで、いつもは澄んでいる金の瞳が陰っているように見える。
「問題ないって……そんな風に見えないよ……!」
ここ数日、気まずくてまともにジルヴィウスを見ていなかったため、気付かなかったのだろうか。
(さっさと自分から「もういいよ」って言えばよかった!)
熱はないのだろうか、と手を伸ばしたシーラだったが、彼に触れる前に、その手を払われる。
「大丈夫だから、お前は茶でも飲んでろ」
「本当に大丈夫なら、もっと大丈夫そうな顔してよ……! どこか痛い? 苦しい? いつからこんな風に――」
「シーラ。お前には関係ないことだ」
「――っ」
彼の金の瞳が、久しぶりにシーラを映す。そこに、ここ数日のシーラの子どもっぽい行動に対する怒りや呆れはない。だからこそ、“関係ない”という言葉は彼の本心なのだと、シーラの心を突き刺した。
「ど、して、そんなこと……」
じわりと視界が滲み、言葉が震える。ここで泣いては本当に子どものようではないか、と唇を噛むものの、湧き上がってくるものは止められなかった。
せめてもの抵抗として顔を俯かせたところで、後ろから「旦那様」という真剣なギーの声が聞こえてきた。
「いろいろ思うところはあれど、私は旦那様に忠誠を誓っておりますのであえて言わせていただきます」
「やめろ、ギー。何を――」
「奥様を利用するのが一番効果的だということは、旦那様が一番理解しておいでではないですか」
そうギーが言い終わるのと、ジルヴィウスが机に拳を叩きつけるのは、ほぼ同時だった。
(まさか五日も喋れないなんて……!)
ジルヴィウスに「しばらく口をきかない」「お触り禁止」と宣言してから早五日。ジルヴィウスとは一言も話せていなかった。
(こっちから言い出したことだし、一日……せめて半日くらいはわたしからは話しかけない! って思ってたけど……まさかジルのほうからも全然話しかけてくれないなんて思わなかったから……!)
別に謝罪をしてほしかったわけではない。
ただ一言、「もうしない」と言ってくれればそれだけでよかった。
たとえその一言がなかったとしても、ジルヴィウスに話しかけられればどうせ我慢などできないのだ。だから、彼から声をかけられれば、「口をきかない」も「お触り禁止」もすぐに撤回するつもりだった。
(昔のジルもそうだったけど、ここに来てからのジルを見ても、絶対すぐに話しかけてくると思ってたのに……!)
食事は一緒に取るし、寝るときも同じベッドを使っている。
先に食べ終わってもシーラが終わるまでは待ってくれているし、朝起きるときもシーラが目覚めるまで待ってくれている。けれど、彼は決してシーラとは視線を合わせず、“お触り禁止”を守っているのか、常に一定の距離を保っていた。
(なんだかこっちからも話しかけにくくなっちゃって、そのままずるずると……! わたしのばかっ! せめてお触り禁止だけにしておけばよかった! こんなに近くにいるのにジルと話せないなんて、ただの拷問だもん!)
「奥様? 中に入られないのですか?」
「わっ、あっ、ギー……!」
漏れそうになった悲鳴を呑み込むと、シーラは慌てて振り返り、背筋を伸ばした。
視線の先で、執務室から顔を覗かせたギーが不思議そうに小首を傾げている。
「あ、あの、わたし……」
「よろしければお茶をお淹れしますよ。お茶を淹れる腕には少々自信がありますので」
にこやかに扉を開けるギーに、シーラは少しの躊躇のすえ、小さく頷いた。
「じゃあ……お邪魔しよう、かな」
「ええ。どうぞお入りください」
(……ギーがこの部屋の主みたい)
そんなことを思いながら、執務室の中に足を踏み入れる。
執務机に向かうジルヴィウスは、視線を上げることなく羽根ペンを走らせていた。
ジルヴィウスを窺いながら、ギーに促されるまま執務机の前のソファに腰掛ける。
「では、私は準備して参りますね」
「あっ、うん! ありがとう」
出て行くギーを見送ってから、シーラは、はっと顔を伏せる。
(どうしよう……! ジルと二人っきりだ……!)
口をきかくなってから、食事や睡眠などすることがないときに二人きりになるのは初めてで、苦しいくらいに心臓が激しく脈打った。
(あ、謝る? でも正直わたしが悪いとは思えない……悪いと思えないのに形だけで謝るなんてだめ! じゃあ、世間話……? 元気? 曇りが多いね? ここ最近何してた? ……だから何!?)
静かな室内で、自分の心臓の音だけがうるさく鳴っている。紙の擦れる音や時計の針の音よりも遥かに大きなそれは、ジルヴィウスにまで聞こえてしまっているのではないかと思うほどだ。
(な、何か言わなくちゃ……なんでもいいから……)
「――……」
「お待たせいたしました」
「っ!」
シーラはびくりと肩を跳ねさせると、勢いよく顔上げた。ずきずきと痛む心臓を落ち着かせるように息をつきながら、ぎこちなく振り返る。
「ありがとう、ギー」
「いいえ。奥様のお眼鏡にかなえばよいのですが」
(あ、この香り……)
ふわりと鼻腔をくすぐる甘い香りに、緊張で強張っていた体の力が抜ける。
シンプルな白いティーカップとソーサーをテーブルに置いたギーは、同じような真っ白なポットを傾け、中身を注いでいく。
「旦那様からジャスミンティーがお好きだとお伺いしておりましたので、本日はジャスミンティーをご用意させていただきました」
「……そうなんだ。ありがとう」
黄金色がティーカップを満たしていくのを見つめながら、シーラは顔を綻ばせた。
ジルヴィウスが自分の好みを把握してくれていたことが嬉しかった。
カップを手に取り、そっと口を付ければ、華やかなジャスミンの香りが鼻を抜けていった。
「……甘くておいしい。ギー、本当にお茶を淹れるのが上手ね」
「ありがとうございます。私が唯一誇れることです」
「唯一なの?」
ふふっ、と思わず笑みを漏らせば、ゴッと重い何かが絨毯に落ちる音が聞こえた。音のほうへ顔を向ければ、ジルヴィウスが片手で顔を押さえながら、下を向いていた。
「ジル……? 大丈夫……!?」
カップを置き、ジルヴィウスの元へ駆け寄れば、執務机の傍に鍵付きの文箱が落ちていた。黒漆の容器に金象嵌が華やかなそれを手に取ると、見た目に反してずしりとした重量が伝わってくる。
しかし、それはすぐに手中からなくなり、文箱の行方を視線で追えば、ジルヴィウスがそれを引き出しへとしまい込んだ。
「……ジル、顔色悪いよ」
「……問題ない」
相変わらず視線を合わせないまま、ジルヴィウスは短く息を吐く。その息遣いはどこか苦しそうで、いつもは澄んでいる金の瞳が陰っているように見える。
「問題ないって……そんな風に見えないよ……!」
ここ数日、気まずくてまともにジルヴィウスを見ていなかったため、気付かなかったのだろうか。
(さっさと自分から「もういいよ」って言えばよかった!)
熱はないのだろうか、と手を伸ばしたシーラだったが、彼に触れる前に、その手を払われる。
「大丈夫だから、お前は茶でも飲んでろ」
「本当に大丈夫なら、もっと大丈夫そうな顔してよ……! どこか痛い? 苦しい? いつからこんな風に――」
「シーラ。お前には関係ないことだ」
「――っ」
彼の金の瞳が、久しぶりにシーラを映す。そこに、ここ数日のシーラの子どもっぽい行動に対する怒りや呆れはない。だからこそ、“関係ない”という言葉は彼の本心なのだと、シーラの心を突き刺した。
「ど、して、そんなこと……」
じわりと視界が滲み、言葉が震える。ここで泣いては本当に子どものようではないか、と唇を噛むものの、湧き上がってくるものは止められなかった。
せめてもの抵抗として顔を俯かせたところで、後ろから「旦那様」という真剣なギーの声が聞こえてきた。
「いろいろ思うところはあれど、私は旦那様に忠誠を誓っておりますのであえて言わせていただきます」
「やめろ、ギー。何を――」
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そうギーが言い終わるのと、ジルヴィウスが机に拳を叩きつけるのは、ほぼ同時だった。
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