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幕間・一 イレーヌの話
五
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「私にも一応、汚いものには触れたくないと思う心があるのですが……」
「何故俺がお前の心情を慮らなければならない?」
「……ははは」
(……なに……うるさ、さむ……)
聞こえてきた声に、沈んでいた意識が徐々に浮上し始める。
「いっ……!」
薄っすらと目を開け身じろいだ瞬間、骨が軋むように全身が痛み、思わず声が漏れた。そして、しっかりと目を開け視界に入った光景に絶句する。
(わっ、私……なんで……)
場所は変わらず牢屋のような場所だったが、何故か何も着ていない状態で椅子に座らされていた。裸を隠そうと反射的に身を捩ったものの、手は背もたれの後ろで縛られているため、目の前で剥き出しの胸が震えるのを見るだけで終わる。
「移動するぞ、ギー。腕でも首でも好きなところを掴め」
「触らなくていいほうが嬉しいんですけどね……」
イレーヌの状況などお構いなしで続けられる会話に、顔をそちらへと向ければ、黒いローブに身を包んだジルヴィウスとギーが立っていた。
(――っ!)
男性の眼前に裸を晒しているという状況に、一気に顔が熱を持つ。肌を隠したくて暴れていると、突如手首の拘束が解かれ、暴れた反動で体が床に倒れる。
石床は硬く打ちつけた部分は痛んだが、そんなことなど気にせず両腕で体を隠し、彼らを睨み付けた。しかし、彼らの目は婦女子の裸を見ているとは思えないほど冷めており、一瞬怯んでしまう。
「大人しくしてろ。……やはり腕は拘束したままのほうがいいのでは?」
「もう歩き回ることもできないんだ。腕まで縛ったらすぐに死ぬことになるだろう」
(なに……この二人は何の話をしてるの?)
状況が読み込めないまま、呆然と彼らを見上げていると、ギーがきつく二の腕を掴んだ。
「っああ……! あぅあっ……ぁ?」
(今の……私の声……?)
“痛い、放して”と言ったはずなのに、口から出たのは意味をなさない声だけだった。
「あぅ、あ……?」
(どういうこと……?)
掴まれていないほうの手で喉に触れるものの、特に変わった様子はない。傷もないし、痛くもない。
「今後言葉は意味をなさないんだから、話せなくても問題はないだろう?」
語りかけるような穏やかな声に、ぞっと肌が粟立つ。いっそ怒鳴ってくれたほうがマシだと思うくらい、不気味な声色だった。
いったいこれから何をされるのだろう、と身震いするのと、体が浮遊感に包まれたのはほぼ同時だった。
「……!?」
先ほどまでは感じなかった冷たい夜風が体を包み、イレーヌは慌てたように辺りを見渡す。圧迫感を与えていた壁はなくなり、代わりに終わりの見えない景色が視界一杯に広がった。眼下には深い森が広がっており、どうやら物理的に宙に浮いているようだ。
思わず縋るようにギーの足に纏わりつけば、頭上から嫌そうな溜息が聞こえた。
「ご主人様、特別手当をいただきたく存じます」
「しばらく城を空ける予定だから好きに過ごせ」
「ありがとうございます、精一杯努めさせていただきます」
混乱し、戸惑うイレーヌとは違い、ジルヴィウスとはギーは世間話でもするかのように落ち着いている。
呆然とジルヴィウスを見ると、彼の金の瞳と視線が絡む。夜空を背景に煌めく彼の瞳は闇を照らす月のように輝いていた。
ジルヴィウスはわずかに目を細めると、フードを目深に被る。と、彼の後ろに見えた夜空が一瞬にして背の高い木々へと変化した。
剥き出しの下半身に土の湿った感触が伝わり、一拍遅れて、地面に降り立ったのだと気付く。地面に裸で座っているという事実に、慌てて立ち上がろうとしたイレーヌだったが、地面に手をつき、足に力を入れても、一向に立ち上がることができなかった。
(なんで!? どうして……!?)
立とうとしては転び、立とうとしては転び、を何回か繰り返したところで、はっと短く笑う声が聞こえた。
「豚の真似か?」
(……豚?)
最初、何を言われたのかわからなかった。しかし、自分の体が土で汚れていることに気付き、侮辱されたのだと一気に頭に血がのぼる。
「ああぅっ……ううう!」
「豚のほうが余程賢そうでは?」
「そうだな。だからこそ真似をしてるんじゃないか?」
「っ……!」
(なんなの……なんなのよ、さっきから!)
何の説明もせず、裸のまま外に連れ出し、困っているのを助けるどころか嘲笑するなど、彼らは本当に血の通った人間なのかと疑いたくなる。
(――あ、違う)
自分は今まで何故彼らを話の通じる相手だと思っていたのだろうか。
これまで何度死にそうになっても殺さなかったからか、彼らも結局常識の範囲内にいるのだと思っていた。
いくら脅しても自分を殺すことはできない。それほど酷い目には遭わないだろう、とどこかで高を括っていた。
冷たい風がふわりと髪を巻き上げ、毛先が頬を撫でる。イレーヌは、はっと何かに気付き、恐るおそる左目に触れた。でこぼことした肌触りの悪い感触が伝わるそこは、瞼を持ち上げようとしても下げようとしても、びくともしなかった。睫毛の感触もなければ、目の境界もない。
芽生えた恐怖心を表すように、心臓が低く強く鳴り始める。
まだどこか夢心地だったのか、それとも現実逃避をしたかったのか。
気を失う前に与えられた痛みが、恐怖が、まごうことなき現実なのだと訴えかけてくる。
寒さか恐怖か、ガタガタ震えるイレーヌの腕をギーが掴み、そのままずるずると引きずられていく。
「愉快な妄想話を聞かせてもらった礼に、お前の状況と処罰について説明してやろう」
淡々と告げられた声に、イレーヌは視線だけをジルヴィウスの後姿へと向ける。
「まず、お前は発語機能を失った。話せるのはせいぜい喃語のようなものだけだ。完全に声を奪ってやってもよかったが……群れの中で暮らすには鳴き声も必要だろうと残してやった。感謝するんだな」
小石や草で肌に傷が付いていくのも気にせず、イレーヌは彼の言葉だけに耳を傾ける。
彼の言葉の中に現状を打破する何かがあるかもしれないと思ってのことだが、結局それは無駄なことだった。
「それから踵骨腱――足首にある腱を切断した。訓練すればそれなりに歩けるようになるだろうが、切ったあと何の処置もせず傷だけを治したからこの山から出ることは不可能だろう。まぁそもそも、群れの縄張りの外に出たら獣の餌になって生きたまま食われるはめになるがな」
ジルヴィウスがあまりにも平然とそう告げるせいか、彼に語られることすべてがまるで他人事のように思えてしまう。しかし、どこからか聞こえる獣の唸り声に、この話の当事者は自分で、彼の話は本当なのだろうと嫌でも実感させられる。
「それからお前への処罰だが……」
言いかけて、ジルヴィウスは立ち止まる。ギーも同様に立ち上がったかと思うと、まるではりつけにでもされたかのように、彼らの前に体が浮いた。
「この森にはレグナという魔獣が生息している。レグナはそのほとんどが雄で、雌が産まれるのは非常に稀だ。そのせいか、あいつらは同種以外の雌を孕ませることができる。鹿でも熊でも――人間でもな」
「――っ」
まさか、と思い声を上げようとしたところで、前から吹き付けた強い風に体が押された。境界を示すように枝垂れた木の向こう側へと飛ばされ、土の上へ体が落ちる。
「レグナの群れの雄は適齢期になると互いを殺し合い、最も強い雄だけが生き残る。そして生き残った雄は雌を縄張りへと連れ帰りハーレムを築くんだ。……俺に抱かれて、あわよくば子でも孕めばいいと思ってたんだろう? よかったな。強く稀少な雄の子を孕む機会を得られて。これでお前の望みは九割叶ったことになる」
(違う! そんなこと望んでない!)
「ああぁあ……!」
慌てて彼らのほうへ這っていこうとしたイレーヌだが、後ろから強い力で押さえつけられ、立ち上がることができなかった。
グルル、という低い鳴き声に恐るおそる後ろを向けば、馬ほどの大きさの、毛の長い犬のような、狐のような生き物が涎を垂らしながら自分を見下ろしていた。
「レグナは子を産める雌を大切にすると聞く。愛されたいというお前の願いも叶えてくれることだろう。俺がシーラ以外にこれほどの慈悲を見せることはない。ありがたく思うんだな」
「ああぅっ! あうう……!」
(待って! 待って……! だったら死んだほうがいい! だったらいっそのこと――っ)
殺してくれ、という願いは、体を引き裂くような痛みとともに喉の奥へと引っ込んだ。
滲む視界のなか、イレーヌは必死に手を伸ばす。けれど、ジルヴィウスは興味なさそうにそれを一瞥しただけで、すぐに背を向け闇の中へと姿を消した。
獣の荒い息遣いだけが聞こえる静かな夜。月の灯りも届かないような深い森で、イレーヌはただ力なく虚空を見つめることしかできなかった。
「何故俺がお前の心情を慮らなければならない?」
「……ははは」
(……なに……うるさ、さむ……)
聞こえてきた声に、沈んでいた意識が徐々に浮上し始める。
「いっ……!」
薄っすらと目を開け身じろいだ瞬間、骨が軋むように全身が痛み、思わず声が漏れた。そして、しっかりと目を開け視界に入った光景に絶句する。
(わっ、私……なんで……)
場所は変わらず牢屋のような場所だったが、何故か何も着ていない状態で椅子に座らされていた。裸を隠そうと反射的に身を捩ったものの、手は背もたれの後ろで縛られているため、目の前で剥き出しの胸が震えるのを見るだけで終わる。
「移動するぞ、ギー。腕でも首でも好きなところを掴め」
「触らなくていいほうが嬉しいんですけどね……」
イレーヌの状況などお構いなしで続けられる会話に、顔をそちらへと向ければ、黒いローブに身を包んだジルヴィウスとギーが立っていた。
(――っ!)
男性の眼前に裸を晒しているという状況に、一気に顔が熱を持つ。肌を隠したくて暴れていると、突如手首の拘束が解かれ、暴れた反動で体が床に倒れる。
石床は硬く打ちつけた部分は痛んだが、そんなことなど気にせず両腕で体を隠し、彼らを睨み付けた。しかし、彼らの目は婦女子の裸を見ているとは思えないほど冷めており、一瞬怯んでしまう。
「大人しくしてろ。……やはり腕は拘束したままのほうがいいのでは?」
「もう歩き回ることもできないんだ。腕まで縛ったらすぐに死ぬことになるだろう」
(なに……この二人は何の話をしてるの?)
状況が読み込めないまま、呆然と彼らを見上げていると、ギーがきつく二の腕を掴んだ。
「っああ……! あぅあっ……ぁ?」
(今の……私の声……?)
“痛い、放して”と言ったはずなのに、口から出たのは意味をなさない声だけだった。
「あぅ、あ……?」
(どういうこと……?)
掴まれていないほうの手で喉に触れるものの、特に変わった様子はない。傷もないし、痛くもない。
「今後言葉は意味をなさないんだから、話せなくても問題はないだろう?」
語りかけるような穏やかな声に、ぞっと肌が粟立つ。いっそ怒鳴ってくれたほうがマシだと思うくらい、不気味な声色だった。
いったいこれから何をされるのだろう、と身震いするのと、体が浮遊感に包まれたのはほぼ同時だった。
「……!?」
先ほどまでは感じなかった冷たい夜風が体を包み、イレーヌは慌てたように辺りを見渡す。圧迫感を与えていた壁はなくなり、代わりに終わりの見えない景色が視界一杯に広がった。眼下には深い森が広がっており、どうやら物理的に宙に浮いているようだ。
思わず縋るようにギーの足に纏わりつけば、頭上から嫌そうな溜息が聞こえた。
「ご主人様、特別手当をいただきたく存じます」
「しばらく城を空ける予定だから好きに過ごせ」
「ありがとうございます、精一杯努めさせていただきます」
混乱し、戸惑うイレーヌとは違い、ジルヴィウスとはギーは世間話でもするかのように落ち着いている。
呆然とジルヴィウスを見ると、彼の金の瞳と視線が絡む。夜空を背景に煌めく彼の瞳は闇を照らす月のように輝いていた。
ジルヴィウスはわずかに目を細めると、フードを目深に被る。と、彼の後ろに見えた夜空が一瞬にして背の高い木々へと変化した。
剥き出しの下半身に土の湿った感触が伝わり、一拍遅れて、地面に降り立ったのだと気付く。地面に裸で座っているという事実に、慌てて立ち上がろうとしたイレーヌだったが、地面に手をつき、足に力を入れても、一向に立ち上がることができなかった。
(なんで!? どうして……!?)
立とうとしては転び、立とうとしては転び、を何回か繰り返したところで、はっと短く笑う声が聞こえた。
「豚の真似か?」
(……豚?)
最初、何を言われたのかわからなかった。しかし、自分の体が土で汚れていることに気付き、侮辱されたのだと一気に頭に血がのぼる。
「ああぅっ……ううう!」
「豚のほうが余程賢そうでは?」
「そうだな。だからこそ真似をしてるんじゃないか?」
「っ……!」
(なんなの……なんなのよ、さっきから!)
何の説明もせず、裸のまま外に連れ出し、困っているのを助けるどころか嘲笑するなど、彼らは本当に血の通った人間なのかと疑いたくなる。
(――あ、違う)
自分は今まで何故彼らを話の通じる相手だと思っていたのだろうか。
これまで何度死にそうになっても殺さなかったからか、彼らも結局常識の範囲内にいるのだと思っていた。
いくら脅しても自分を殺すことはできない。それほど酷い目には遭わないだろう、とどこかで高を括っていた。
冷たい風がふわりと髪を巻き上げ、毛先が頬を撫でる。イレーヌは、はっと何かに気付き、恐るおそる左目に触れた。でこぼことした肌触りの悪い感触が伝わるそこは、瞼を持ち上げようとしても下げようとしても、びくともしなかった。睫毛の感触もなければ、目の境界もない。
芽生えた恐怖心を表すように、心臓が低く強く鳴り始める。
まだどこか夢心地だったのか、それとも現実逃避をしたかったのか。
気を失う前に与えられた痛みが、恐怖が、まごうことなき現実なのだと訴えかけてくる。
寒さか恐怖か、ガタガタ震えるイレーヌの腕をギーが掴み、そのままずるずると引きずられていく。
「愉快な妄想話を聞かせてもらった礼に、お前の状況と処罰について説明してやろう」
淡々と告げられた声に、イレーヌは視線だけをジルヴィウスの後姿へと向ける。
「まず、お前は発語機能を失った。話せるのはせいぜい喃語のようなものだけだ。完全に声を奪ってやってもよかったが……群れの中で暮らすには鳴き声も必要だろうと残してやった。感謝するんだな」
小石や草で肌に傷が付いていくのも気にせず、イレーヌは彼の言葉だけに耳を傾ける。
彼の言葉の中に現状を打破する何かがあるかもしれないと思ってのことだが、結局それは無駄なことだった。
「それから踵骨腱――足首にある腱を切断した。訓練すればそれなりに歩けるようになるだろうが、切ったあと何の処置もせず傷だけを治したからこの山から出ることは不可能だろう。まぁそもそも、群れの縄張りの外に出たら獣の餌になって生きたまま食われるはめになるがな」
ジルヴィウスがあまりにも平然とそう告げるせいか、彼に語られることすべてがまるで他人事のように思えてしまう。しかし、どこからか聞こえる獣の唸り声に、この話の当事者は自分で、彼の話は本当なのだろうと嫌でも実感させられる。
「それからお前への処罰だが……」
言いかけて、ジルヴィウスは立ち止まる。ギーも同様に立ち上がったかと思うと、まるではりつけにでもされたかのように、彼らの前に体が浮いた。
「この森にはレグナという魔獣が生息している。レグナはそのほとんどが雄で、雌が産まれるのは非常に稀だ。そのせいか、あいつらは同種以外の雌を孕ませることができる。鹿でも熊でも――人間でもな」
「――っ」
まさか、と思い声を上げようとしたところで、前から吹き付けた強い風に体が押された。境界を示すように枝垂れた木の向こう側へと飛ばされ、土の上へ体が落ちる。
「レグナの群れの雄は適齢期になると互いを殺し合い、最も強い雄だけが生き残る。そして生き残った雄は雌を縄張りへと連れ帰りハーレムを築くんだ。……俺に抱かれて、あわよくば子でも孕めばいいと思ってたんだろう? よかったな。強く稀少な雄の子を孕む機会を得られて。これでお前の望みは九割叶ったことになる」
(違う! そんなこと望んでない!)
「ああぁあ……!」
慌てて彼らのほうへ這っていこうとしたイレーヌだが、後ろから強い力で押さえつけられ、立ち上がることができなかった。
グルル、という低い鳴き声に恐るおそる後ろを向けば、馬ほどの大きさの、毛の長い犬のような、狐のような生き物が涎を垂らしながら自分を見下ろしていた。
「レグナは子を産める雌を大切にすると聞く。愛されたいというお前の願いも叶えてくれることだろう。俺がシーラ以外にこれほどの慈悲を見せることはない。ありがたく思うんだな」
「ああぅっ! あうう……!」
(待って! 待って……! だったら死んだほうがいい! だったらいっそのこと――っ)
殺してくれ、という願いは、体を引き裂くような痛みとともに喉の奥へと引っ込んだ。
滲む視界のなか、イレーヌは必死に手を伸ばす。けれど、ジルヴィウスは興味なさそうにそれを一瞥しただけで、すぐに背を向け闇の中へと姿を消した。
獣の荒い息遣いだけが聞こえる静かな夜。月の灯りも届かないような深い森で、イレーヌはただ力なく虚空を見つめることしかできなかった。
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