野獣公爵の執愛

ゆき真白

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第三章

十七

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「……変なこと訊いてごめんね」

 小さく呟かれた声に、シーラとの出会いを回顧していたジルヴィウスは、ふと我に返る。
 もぞり、と胸をくすぐる感覚にシーラへと目を向ければ、シーラは顔を隠すように俯いていた。
 長く過去を思い出していたせいで、シーラを不安にさせてしまったようだ。
 普段は遠慮など知らないかのように何でも言うくせに、本当に訊きたいことや望んでいることを口にするときは途端に遠慮がちになるのが昔からいじらしかった。
 ジルヴィウスは「シーラ」と優しく声を掛けると、真っ直ぐ伸びるシーラの髪に指を通す。

「別に変ではないだろう。それに、答えられないことでもない」

 シーラはぴくりと頭を揺らすと、おずおずと顔を上げた。不安と期待が入り混じった表情で自分を見つめるシーラの頭を撫でる。
 幼いころは綿毛のように柔らかかったシーラの髪は、今は絹のように滑らかだ。

「初めて会ったとき、お前は『人間なのか』と俺に尋ねただろ」
「うん……」
「だからだ」
「うん……?」

 シーラは不可解そうに首を傾げる。本当によくわかってない様子のシーラに、ジルヴィウスは深く息を吐き出した。

「自分でした質問を忘れたのか?」
「それは忘れてないけど……『どうして初めて会ったときから優しかったの』って質問の答えが『人間なのか訊かれたからだ』って……受け答えとして合ってる? こう……整合性的に……」
「俺の中では合ってる」

 シーラは、むう、と唇を尖らせると、再び胸板に頭を乗せた。
 ジルヴィウスはシーラの髪に沿うように頭から背中までゆっくり撫でると、腰の辺りをぽん、ぽんと優しく叩く。
 シーラはそれにほっと息を吐き出すと、静かに目を閉じた。

「その質問が嬉しかったってこと?」
「……まぁ、そうだな」

 シーラは「ふぅん」と小さく呟くと、ふ、と口元を綻ばせた。

「……ジルがかっこよくて綺麗で、人間じゃないのかもって思ったの」
「知ってる。巨人と狼男と……あと鳥だったか?」
「鳥じゃなくて……ただ背中に翼があるのかもって思ったの。あと思ったのは人魚よ。とっても綺麗な顔をしてたから……もちろん、今もだけど」
「……昔からよく言ってたな」

 シーラはことあるごとに「きれいね」「きれいよ」とジルヴィウスに言っていた。
 知り合って間もないころ、秋薔薇を見られる薔薇園に行った際に、内緒話でもするかのように「ジルがいちばんきれいよ」と囁かれたときは、思わず笑ってしまった。
 彼女の「人間なのか」という質問が、“化け物”という意味ではないと知ったとき、ジルヴィウスはさらにシーラを気に入った。
 いったいどんな風に育ち、どんな思考回路を持てばそんなことを考えるようになるのか。ジルヴィウスにとって、シーラは未知そのものだった。

「……そういえば」
「うん……?」

 ふと、もう一つ懐かしいことを思い出したジルヴィウスは、当時のことを回顧するように目を閉じた。

「お前が俺のことを“ジル”と呼ぶようになったきっかけを覚えているか?」
「ええ? うーん……」

 悩ましげなシーラの声を聞きながら、ジルヴィウスの脳内には顔を真っ赤にしてぷるぷると震えるシーラの姿が浮かんでいた。ぱんぱんに膨れた頬がりんごのようで、とても愛らしかったのを覚えている。

「ジルがいいよって言ってくれたから、そう呼ぶようになったんじゃなかったっけ……?」

 子どものころのことだから、そう何でも覚えているわけではないか、と思いつつジルヴィウスは「いや」と返す。

「お前が俺の名前をきちんと呼べなかったんだ」
「……そうだっけ?」
「ああ。間違っているという意識すらなかったのか、ずっと“ジルビス”と呼んでな。それをヨエルに揶揄われて怒ったシーラが“ジル”と呼んだんだ」
「んん……言われてみれば、そんなこともあったような……?」
「ヨエルはその呼び方をやめさせようとしたが、俺が構わないと言ったから、それ以降お前は俺を“ジル”と呼ぶようになったんだ」
「お兄様が? どうして?」
「歳の差はあったが、一応婚約者のいない貴族の子女同士だったからな。愛称呼びはまずいと思ったんだろう」
「あ……そっか。そうだよね」

 その呼び方はだめだとヨエルに窘められたシーラが、「やだ! ジル!」と地団駄を踏んだ姿は今でも鮮明に思い出すことができる。「呼び方は“ジル”でいい」「もう一度呼んでみろ」と伝えたあと、すぐに嬉しそうに笑い「ジル、ジル」と繰り返しジルヴィウスを呼んだときのこともしっかり記憶に残っている。
 その日以降、シーラは必要以上にジルヴィウスの名を呼ぶようになった。
 それが不思議と嫌ではなく、むしろたくさん呼ばれることを期待していたのだから、今も昔も自分は変わらないなと内心自嘲を漏らす。

(シーラを特別だと思っていたくせに……いや、特別だと思っていたからこそ、シーラの天真爛漫さを損なわないような者と幸せになってほしいと思っていた。シーラが真っ先に呼ぶのが自分の名であってほしいと、誰よりも多く呼ぶのが自分の名であってほしいと願っていたくせに……)

 シーラがエルネストと婚約したと聞いた瞬間、最初に抱いたのはエルネストへの殺意だった。そのときになって初めて、ジルヴィウスは自分の偽善に気付いた。
 シーラから向けられる眼差しに親愛以上の情が混じり始めたことに気付いたとき、真っ先に思ったのは、シーラに公爵夫人の座は重荷だろう、ということだった。
 ジルヴィウスは、シーラの無邪気さや純真さを気に入っていた。
 公爵家などに嫁げば、シーラはシーラらしく生きられないかもしれない。
 彼女が明るい笑顔を失わないよう、自分のような訳ありで面倒な家柄ではない者と一緒になるべきだと思った。
 けれど、そんなものはただの欺瞞だ。

 もし本当にそう思っていたなら、シーラから向けられる感情に気付いたときに距離を置くべきだった。“兄の友人”という距離感に正しく収まるようにするべきだった。
 それなのに、ジルヴィウスはシーラを手放さなかった。
 ことあるごとにプレゼントや花を贈り、シーラにだけは特別優しく接した。
 まるで、もっと自分を好きになれとでも言うように。
 結局、ジルヴィウスは胡坐をかいていたのだ。シーラは自分が好きなのだから、自分以外を選ぶわけがないと。未来などわからないのに、傲慢にも自分が彼女の一番であることを信じて疑わなかった。
 だから、理解ある大人のふりをしてしていたのだ。シーラにとって“いい人”でありたかったから。

(……愚かだったな、本当に――ん?)

 胸に何か生ぬるいものが当たり、ジルヴィウスは瞼を持ち上げる。

(静かだと思ったら寝たのか)

 顔にかかる髪を払うように軽く撫でれば、くすぐったかったのかシーラがわずかに顔を動かした。それに伴い生ぬるいものが広がっていき、“生ぬるい”ものの正体が“よだれ”であることに気付く。
 それをまったく不快に思わないのだから、自分も大概だな、と小さく息を漏らす。
 魔法でゆっくりシーラの体を持ち上げ、慎重にベッドに下ろすとジルヴィウスは体を起こす。
 幸いシーラは起きなかったようで、気持ちよさそうに寝入っている。
 濡れた口元をそっと拭えば、シーラはんふふと笑んだ。

「じる……すき……」

 へへへと幸せそうに笑うシーラを見下ろしながら、ジルヴィウスは固く口を閉じる。

(……愚かだな。お前も。俺も)

 込み上げてくるものを抑え込むように深呼吸をすると、シーラの前髪を払い、額に軽く口付ける。

「……いい夢を。シーラ」

 シーラ自身と部屋に何重もの防護魔法をかけ、もう一度口付けを贈ると、ジルヴィウスは素早く身支度を整え部屋を後にした。
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