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第四章
結婚前夜(四)
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「王太子妃宮から帰られたあとのことですが」
(あら、話題が変わってしまったわ)
しかしそれは指摘せず、黙ってレオンハルトの言葉に耳を傾ける。
「あのときは、婚約以降一度も花の一つも贈っていないことに気付き、不甲斐なさと申し訳なさから、より距離を取るように……」
顔から手を退かしたレオンハルトは、深い溜息を漏らすと、ルシアナに向け頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「まあ、そんな……わたくしはそのようなこと気にしておりませんわ」
(……一度も二度も同じよね)
心のなかで大きく頷くと、ルシアナはソファから降りて床に膝をつく。その影響でずっと握られ続けていた手も解放された。なくなった温もりにかすかに寂しさを感じたが、空いた両手でレオンハルトの頬を包み持ち上げたことで、それはすぐに消える。
はっとしたように目を見開く、先ほどよりも距離の近いレオンハルトの相貌を眺めながら、ルシアナは目尻を下げる。
「ドレスや茶葉などをたくさん買ってくださったではありませんか」
薄く開いた唇が言葉なく動く。少しして、いつも通りの落ち着いた表情に戻ったレオンハルトは、短く息を吐き出した。
「……あれは贈り物とは違います。ドレスはテオたちとの会話がなければ、茶葉はルシアナ様との会話がなければ、きっと買うことはなかったでしょう」
(やっぱり退かしはしないのね)
されるがままのレオンハルトに、自然と笑みが深まる。
「わたくしだって、レオンハルト様に何もお渡しできていませんわ」
「ご自身のお立場を考慮し、必要以上に外出をしていないのですから当然でしょう」
(あら……気付かれていたのね)
パーティーや結婚準備などの決まった用事以外で外出することは一切なく、邸でも基本的にはずっと自室で過ごしていた。体を動かすために敷地内の訓練スペースへと行ったり、街を見て回りたいと思ってはいたが、他国の賓客である以上余計なことはすべきではないと、極力自室や書庫などの決まった場所以外には行かないようにしていたのだ。
(自室で過ごすのが好きなだけだと思われているかと思ったわ)
真っ直ぐ自分を見つめるレオンハルトに、ルシアナは小さく微笑む。
「……初めてお会いした日にハンカチをいただきましたわ」
レオンハルトは音もなく喉を上下させた。その眉間に、わずかに皺が寄る。
「……あれは、テオに言われてお迎えに上がる途中で調達したものです。テオからの言葉がなければ何かを渡すことはなかったでしょう」
「用意してくださったことが、わたくしは嬉しいのです。それに、この婚姻が決まったあと出してくださったお手紙に、可愛らしいお花を添えてくださったではありませんか。家族以外からお花をいただいたのは、あのときが初めてですわ」
柔和な笑みを向ければ、レオンハルトが小さく息を吞んだ。言葉を探すように唇を動かすレオンハルトを見ながら、ルシアナは片手を動かしさらりとしたシルバーグレイの髪に指を通す。
レオンハルトは大きく肩を震わせたが、それを止めることはなかった。
(こうしていると、なんだか弟ができたような気分だわ。従兄姉を含めてわたくしが一番下だったから少し新鮮。……年上の方にこのようなことを思ってはいけないのだろうけれど……可愛らしく感じてしまうわ)
気まずそうに視線を下げているレオンハルトの姿を見ながら、ルシアナは小さく笑う。
「あのお花がとても嬉しくて、押し花にして、しおりにしてもらいました。今でも大事に使っています」
髪を梳く手はそのままに、頬に添えた手をナイトガウンのポケットに移動させる。中から青紫色の小ぶりの花のしおりを取り出すと、それを追うように逸らされていたレオンハルトの視線がルシアナへと戻った。
再び交わった視線に、ルシアナはふわりと柔らかな微笑を浮かべる。
「このお花とお手紙をいただけただけで、わたくしは十分です。十分、嬉しいです」
手紙は何度も何度も読み返した。その内容と筆跡を覚えてしまうほどに。
この青紫色の花を見れば、いつでもあのときの気持ちが思い出される。
(……あの日から、わたくしはずっと楽しみにしていたわ。この方に会えることを。この方の、妻となることを)
この丁寧な文字を書く人はどのような人だろう。何が好きで何が嫌いなのだろう。どのような幼少期を過ごしたのだろう。普段は何をして過ごしているのだろう。どのような顔で笑い、どのような声で話しかけてくれるのだろう。
手紙が来てから発つまでの間、何度も何度も思いを馳せた。
(レオンハルト様はとてもお優しい方だったわ。お酒でもお茶でも香り高いものがお好きで、けれど葉巻は好まれない。それ以外のことは、まだ知れていないわね)
婚姻までの半年の間に、もう少しレオンハルトと打ち解けられればと思わないでもなかった。しかし、これから先ずっと共にいることを考えれば、正式にシュネーヴェ王国の民となり、レオンハルトの妻となってから距離を縮めても、決して遅くはない、という思いのほうが強くあった。
(……レオンハルト様はどうかしら。式の前日にこうしてお時間を作ってくださったということは、夫婦になるより前にもう少し親しくしたかったかしら。そうだとしたら申し訳ないわ。レオンハルト様と過ごす時間は、最小限になってしまっていたから)
「……レ――」
名前を呼ぼうとしたルシアナだったが、それはレオンハルトの手に阻まれる。
口元を大きな手に覆われ、触れるか触れないかギリギリのところにあるそれに、思わず唇をしまい込む。それに合わせ、髪を梳いていた手も止まった。
これ以上話しそうにないと判断したのか、少しして手を離したレオンハルトは、立ち上がるとルシアナの両手を取り、彼女も立ち上がらせる。しばらくそのまま静止していたかと思うと、しおりを持つルシアナの手を持ち上げ、そのしおりに口付けた。
(あ……)
指にわずかに熱い吐息がかかり、そこから徐々に熱が広がっていく。
「……ありがとうございます、ルシアナ様」
とくとくと脈打つ鼓動を聞きながら、ルシアナはただレオンハルトを見上げる。どこか潤んだ澄んだ瞳を見つめていると、彼が緩く口元に弧を描いた。
「お話も、聞かせてくださりありがとうございました。明日も早いですし、今日はもうゆっくり休まれてください。部屋までお送りします」
「はい……」
頬の熱を感じながら静かに頷けば、レオンハルトはわずかに目を細め、しおりを持っているほうの手だけを解放する。
もう片方の手は優しく握られたまま、ゆっくりとした足取りで進むレオンハルトの後をついて行く。
(やっぱり弟ではないわね……顔が熱い……)
指先から広がった熱は顔へと集まり、全身へと伝わっていった。
(あら、話題が変わってしまったわ)
しかしそれは指摘せず、黙ってレオンハルトの言葉に耳を傾ける。
「あのときは、婚約以降一度も花の一つも贈っていないことに気付き、不甲斐なさと申し訳なさから、より距離を取るように……」
顔から手を退かしたレオンハルトは、深い溜息を漏らすと、ルシアナに向け頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「まあ、そんな……わたくしはそのようなこと気にしておりませんわ」
(……一度も二度も同じよね)
心のなかで大きく頷くと、ルシアナはソファから降りて床に膝をつく。その影響でずっと握られ続けていた手も解放された。なくなった温もりにかすかに寂しさを感じたが、空いた両手でレオンハルトの頬を包み持ち上げたことで、それはすぐに消える。
はっとしたように目を見開く、先ほどよりも距離の近いレオンハルトの相貌を眺めながら、ルシアナは目尻を下げる。
「ドレスや茶葉などをたくさん買ってくださったではありませんか」
薄く開いた唇が言葉なく動く。少しして、いつも通りの落ち着いた表情に戻ったレオンハルトは、短く息を吐き出した。
「……あれは贈り物とは違います。ドレスはテオたちとの会話がなければ、茶葉はルシアナ様との会話がなければ、きっと買うことはなかったでしょう」
(やっぱり退かしはしないのね)
されるがままのレオンハルトに、自然と笑みが深まる。
「わたくしだって、レオンハルト様に何もお渡しできていませんわ」
「ご自身のお立場を考慮し、必要以上に外出をしていないのですから当然でしょう」
(あら……気付かれていたのね)
パーティーや結婚準備などの決まった用事以外で外出することは一切なく、邸でも基本的にはずっと自室で過ごしていた。体を動かすために敷地内の訓練スペースへと行ったり、街を見て回りたいと思ってはいたが、他国の賓客である以上余計なことはすべきではないと、極力自室や書庫などの決まった場所以外には行かないようにしていたのだ。
(自室で過ごすのが好きなだけだと思われているかと思ったわ)
真っ直ぐ自分を見つめるレオンハルトに、ルシアナは小さく微笑む。
「……初めてお会いした日にハンカチをいただきましたわ」
レオンハルトは音もなく喉を上下させた。その眉間に、わずかに皺が寄る。
「……あれは、テオに言われてお迎えに上がる途中で調達したものです。テオからの言葉がなければ何かを渡すことはなかったでしょう」
「用意してくださったことが、わたくしは嬉しいのです。それに、この婚姻が決まったあと出してくださったお手紙に、可愛らしいお花を添えてくださったではありませんか。家族以外からお花をいただいたのは、あのときが初めてですわ」
柔和な笑みを向ければ、レオンハルトが小さく息を吞んだ。言葉を探すように唇を動かすレオンハルトを見ながら、ルシアナは片手を動かしさらりとしたシルバーグレイの髪に指を通す。
レオンハルトは大きく肩を震わせたが、それを止めることはなかった。
(こうしていると、なんだか弟ができたような気分だわ。従兄姉を含めてわたくしが一番下だったから少し新鮮。……年上の方にこのようなことを思ってはいけないのだろうけれど……可愛らしく感じてしまうわ)
気まずそうに視線を下げているレオンハルトの姿を見ながら、ルシアナは小さく笑う。
「あのお花がとても嬉しくて、押し花にして、しおりにしてもらいました。今でも大事に使っています」
髪を梳く手はそのままに、頬に添えた手をナイトガウンのポケットに移動させる。中から青紫色の小ぶりの花のしおりを取り出すと、それを追うように逸らされていたレオンハルトの視線がルシアナへと戻った。
再び交わった視線に、ルシアナはふわりと柔らかな微笑を浮かべる。
「このお花とお手紙をいただけただけで、わたくしは十分です。十分、嬉しいです」
手紙は何度も何度も読み返した。その内容と筆跡を覚えてしまうほどに。
この青紫色の花を見れば、いつでもあのときの気持ちが思い出される。
(……あの日から、わたくしはずっと楽しみにしていたわ。この方に会えることを。この方の、妻となることを)
この丁寧な文字を書く人はどのような人だろう。何が好きで何が嫌いなのだろう。どのような幼少期を過ごしたのだろう。普段は何をして過ごしているのだろう。どのような顔で笑い、どのような声で話しかけてくれるのだろう。
手紙が来てから発つまでの間、何度も何度も思いを馳せた。
(レオンハルト様はとてもお優しい方だったわ。お酒でもお茶でも香り高いものがお好きで、けれど葉巻は好まれない。それ以外のことは、まだ知れていないわね)
婚姻までの半年の間に、もう少しレオンハルトと打ち解けられればと思わないでもなかった。しかし、これから先ずっと共にいることを考えれば、正式にシュネーヴェ王国の民となり、レオンハルトの妻となってから距離を縮めても、決して遅くはない、という思いのほうが強くあった。
(……レオンハルト様はどうかしら。式の前日にこうしてお時間を作ってくださったということは、夫婦になるより前にもう少し親しくしたかったかしら。そうだとしたら申し訳ないわ。レオンハルト様と過ごす時間は、最小限になってしまっていたから)
「……レ――」
名前を呼ぼうとしたルシアナだったが、それはレオンハルトの手に阻まれる。
口元を大きな手に覆われ、触れるか触れないかギリギリのところにあるそれに、思わず唇をしまい込む。それに合わせ、髪を梳いていた手も止まった。
これ以上話しそうにないと判断したのか、少しして手を離したレオンハルトは、立ち上がるとルシアナの両手を取り、彼女も立ち上がらせる。しばらくそのまま静止していたかと思うと、しおりを持つルシアナの手を持ち上げ、そのしおりに口付けた。
(あ……)
指にわずかに熱い吐息がかかり、そこから徐々に熱が広がっていく。
「……ありがとうございます、ルシアナ様」
とくとくと脈打つ鼓動を聞きながら、ルシアナはただレオンハルトを見上げる。どこか潤んだ澄んだ瞳を見つめていると、彼が緩く口元に弧を描いた。
「お話も、聞かせてくださりありがとうございました。明日も早いですし、今日はもうゆっくり休まれてください。部屋までお送りします」
「はい……」
頬の熱を感じながら静かに頷けば、レオンハルトはわずかに目を細め、しおりを持っているほうの手だけを解放する。
もう片方の手は優しく握られたまま、ゆっくりとした足取りで進むレオンハルトの後をついて行く。
(やっぱり弟ではないわね……顔が熱い……)
指先から広がった熱は顔へと集まり、全身へと伝わっていった。
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