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第五章
スタートライン(二)
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「……レオンハルト様」
「はい」
静かな声に一つ呼吸をすると、サッシュを軽く掴む。
「……敬称と敬語をやめてくださいませんか?」
顔は前を向いたまま、彼はちらりと目線を下げた。その瞳には、少しの動揺が見て取れる。
(こういったことでは動揺されるのね)
彼の謹厳さに、自然と笑みが漏れた。
「わたくしはもう、王女でも、他国の人間でもありませんわ。レオンハルト様が敬称や敬語を使われる必要は、もうありません」
「……それは……そうかもしれませんが」
抱える腕に力が込められる。視線を彷徨わせるレオンハルトに、ルシアナは小首を傾げた。
「お嫌でなければお願いいたします。実を言うと、ずっと王太子殿下やテレーゼ様が羨ましかったのです」
ぐっ、とレオンハルトの口元に力が入ったのが窺える。
敬称と敬語に関しては、当初から必要ないとは思っていた。しかし、婚約者とはいえ賓客扱いである以上、彼の一線を画す態度は受け入れるべきものだと思い、そこに言及することはなかった。
その代わり、式を挙げたらまずは敬称と敬語を取ってくれるようお願いしてみよう、と心に決めていた。
(お願いをしても、レオンハルト様は態度を変えられないかも、と思っていたけれど、意外とそうではないのかしら)
一言目が否定の言葉ではなかったことに、心がほぐれていくのを感じる。
(けれど、そうよね。レオンハルト様はいつだって真摯に、わたくしの言葉に耳を傾けてくださっていたわ)
深く考え込む様子のレオンハルトを見つめながら、ルシアナはサッシュを掴んでいた手を伸ばしてその頬に触れた。その瞬間、彼の肩がわずかに跳ねる。目を見開いたレオンハルトは、彷徨わせていた視線をルシアナへと戻した。
「お願いします、レオンハルト様」
ふわりと柔らかな笑みを向ければ、少しして、レオンハルトが重々しく口を開いた。
「……努力する」
絞り出すような様子ではあったが、前向きな返答をもらい顔を輝かせる。
喜びに胸がときめくのを感じながら、頬から手を退かしたルシアナは、再び軽くサッシュを掴んだ。
「……あの、よければ名前を呼んでいただけませんか? 敬称なしで」
「……」
レオンハルトの眉間に、わずかに皺が寄る。それを視界に収めつつも、ルシアナは期待の籠った視線を向け続けた。レオンハルトの視線はすでに正面に戻っているものの、彼の表情は自分がどんな視線を向けられているのかわかっているようだった。
「……。…………。…………ルシアナ」
喉の奥からやっとの思いで出したような声に、ふふっと思わず笑みが漏れた。
「ふっ、申し訳ありません……ふふっ」
「…………いえ」
皺を深めたレオンハルトに、ルシアナはくすくすと小さく笑う。
「申し訳ありません、わがままを申しました。無理をさせたいわけではありませんので、どうかお忘れください」
(真面目な方)
話し方などは徐々に変えて慣れていけばいいな、と思いつつ、ルシアナは顔をレオンハルトとは反対のほうへ向ける。
(馬車まではもうすぐね)
少し先に、白やピンクの薔薇、純白のリボンで飾られた、屋根のない真っ白な馬車が見えた。
(このあとはパレードを行って、ドレスを着替えてから披露宴よね。式は親族のみだったけれど、披露宴はシュネーヴェの主要貴族を全員招待しているから、気を引き締めなくてはいけないわ)
思わず小さな溜息が漏れる。瞬間、足を止めたレオンハルトが体を寄せ、強くルシアナを抱きしめた。
「! レ――」
「ルシアナ」
驚き名前を呼ぼうとしたものの、彼はそれを遮った。近い距離で名前を呼ばれ、熱い息が首筋にかかる。その感覚にかすかに体が震え、反射的に縋るようにレオンハルトの服を掴んだ。
頭を上げたレオンハルトに至近距離で見つめられ、大きく心臓が跳ねる。
「貴女の名を呼ぶのが嫌なわけじゃない。わがままだとも思ってないし、無理はしてない。すまない、嫌で躊躇したわけじゃ……」
わずかに眉尻を下げ、訴えかけるような目で見つめられ、小さく息が漏れる。
これほど感情を込められた目で見つめられたことが、今まであっただろうか。
(レオンハルト様も、このような表情をされるのね。……いえ、今はそれどころではないわ)
きっと溜息をついたことで何か勘違いをしたのだろう。
自分で思っている以上に彼は自分のことを気にかけてくれている。あの一瞬の小さな溜息も見逃さないくらいに。
(やっぱり、嬉しい……)
ルシアナは小さく微笑むと服を掴んでいた手を伸ばし、両手でレオンハルトの顔を包んだ。
「レオンハルト様、大丈夫ですわ。そのようなこと思っておりません。申し訳ありません、わたくしが……その、意地悪をしてしまいました」
思い返した自分の行動があまりにも子どもっぽくて頬が熱くなる。
(冷静になると……少し……)
恥ずかしくなり、自然と視線が下がった。
「その、話し方や呼び方を突然変えるのは難しいことですわ。時間はたくさんありますから、徐々に慣れていただければと……あの、理解してはいるのですが、どうしても、ただ“ルシアナ”と呼んでいただきたくて……」
名前を呼ぶのが嫌で躊躇したわけではないことはわかっている。そのことをただ伝えたいだけなのに、言葉を選んでいるはずなのに、口から出たのはあまりにも幼稚な本心で、全身に熱が広がっていくようだった。
「ええと……もうわたくしはレオンハルト様の妻ですし、こういったことを言っても許されるかな、と……その、こうして距離を縮めていただけたことで、気が大きくなっていたかもしれません」
じわり、と手のひらに汗が滲むのを感じ、両手を引っ込める。
(恥ずかしい……本当に子どものようだわ)
少々浮かれ気味だった自分を思い出し、羞恥心でいっぱいになる。
ただでさえレオンハルトとは八つも違うのだ。彼の妻に相応しい人物として、身の振り方には気を付けなければいけない。
(……兄妹のように見られたくはないもの)
胸の前で重ねた手に、無意識の内に力が入った。
「……ルシアナ」
静かな声に、名前を呼ばれる。
少しの躊躇のすえ、そっと視線を上げれば、彼は真っ直ぐこちらを見つめていた。
「貴女に許されないことなどない。思ったことや願いは躊躇わず言ってくれていい。……意地悪でも、わがままでも構わない」
真剣なその表情に、彼が決して冗談を言っているわけではないことがわかる。
「……あまり甘やかさないでくださいませ。図々しい人間になってしまいますわ」
「……構わない」
ふっと目を細めて笑ったレオンハルトに、思わず息を吞む。その瞳はどこか熱っぽくて、痛いほどに心臓が早鐘を打った。
(……変だわ)
自分を優しく見下ろす、澄んだ空のような瞳に何とも言えない気持ちになり、ルシアナはただ黙って、レオンハルトの温かな胸元に顔を寄せた。
「はい」
静かな声に一つ呼吸をすると、サッシュを軽く掴む。
「……敬称と敬語をやめてくださいませんか?」
顔は前を向いたまま、彼はちらりと目線を下げた。その瞳には、少しの動揺が見て取れる。
(こういったことでは動揺されるのね)
彼の謹厳さに、自然と笑みが漏れた。
「わたくしはもう、王女でも、他国の人間でもありませんわ。レオンハルト様が敬称や敬語を使われる必要は、もうありません」
「……それは……そうかもしれませんが」
抱える腕に力が込められる。視線を彷徨わせるレオンハルトに、ルシアナは小首を傾げた。
「お嫌でなければお願いいたします。実を言うと、ずっと王太子殿下やテレーゼ様が羨ましかったのです」
ぐっ、とレオンハルトの口元に力が入ったのが窺える。
敬称と敬語に関しては、当初から必要ないとは思っていた。しかし、婚約者とはいえ賓客扱いである以上、彼の一線を画す態度は受け入れるべきものだと思い、そこに言及することはなかった。
その代わり、式を挙げたらまずは敬称と敬語を取ってくれるようお願いしてみよう、と心に決めていた。
(お願いをしても、レオンハルト様は態度を変えられないかも、と思っていたけれど、意外とそうではないのかしら)
一言目が否定の言葉ではなかったことに、心がほぐれていくのを感じる。
(けれど、そうよね。レオンハルト様はいつだって真摯に、わたくしの言葉に耳を傾けてくださっていたわ)
深く考え込む様子のレオンハルトを見つめながら、ルシアナはサッシュを掴んでいた手を伸ばしてその頬に触れた。その瞬間、彼の肩がわずかに跳ねる。目を見開いたレオンハルトは、彷徨わせていた視線をルシアナへと戻した。
「お願いします、レオンハルト様」
ふわりと柔らかな笑みを向ければ、少しして、レオンハルトが重々しく口を開いた。
「……努力する」
絞り出すような様子ではあったが、前向きな返答をもらい顔を輝かせる。
喜びに胸がときめくのを感じながら、頬から手を退かしたルシアナは、再び軽くサッシュを掴んだ。
「……あの、よければ名前を呼んでいただけませんか? 敬称なしで」
「……」
レオンハルトの眉間に、わずかに皺が寄る。それを視界に収めつつも、ルシアナは期待の籠った視線を向け続けた。レオンハルトの視線はすでに正面に戻っているものの、彼の表情は自分がどんな視線を向けられているのかわかっているようだった。
「……。…………。…………ルシアナ」
喉の奥からやっとの思いで出したような声に、ふふっと思わず笑みが漏れた。
「ふっ、申し訳ありません……ふふっ」
「…………いえ」
皺を深めたレオンハルトに、ルシアナはくすくすと小さく笑う。
「申し訳ありません、わがままを申しました。無理をさせたいわけではありませんので、どうかお忘れください」
(真面目な方)
話し方などは徐々に変えて慣れていけばいいな、と思いつつ、ルシアナは顔をレオンハルトとは反対のほうへ向ける。
(馬車まではもうすぐね)
少し先に、白やピンクの薔薇、純白のリボンで飾られた、屋根のない真っ白な馬車が見えた。
(このあとはパレードを行って、ドレスを着替えてから披露宴よね。式は親族のみだったけれど、披露宴はシュネーヴェの主要貴族を全員招待しているから、気を引き締めなくてはいけないわ)
思わず小さな溜息が漏れる。瞬間、足を止めたレオンハルトが体を寄せ、強くルシアナを抱きしめた。
「! レ――」
「ルシアナ」
驚き名前を呼ぼうとしたものの、彼はそれを遮った。近い距離で名前を呼ばれ、熱い息が首筋にかかる。その感覚にかすかに体が震え、反射的に縋るようにレオンハルトの服を掴んだ。
頭を上げたレオンハルトに至近距離で見つめられ、大きく心臓が跳ねる。
「貴女の名を呼ぶのが嫌なわけじゃない。わがままだとも思ってないし、無理はしてない。すまない、嫌で躊躇したわけじゃ……」
わずかに眉尻を下げ、訴えかけるような目で見つめられ、小さく息が漏れる。
これほど感情を込められた目で見つめられたことが、今まであっただろうか。
(レオンハルト様も、このような表情をされるのね。……いえ、今はそれどころではないわ)
きっと溜息をついたことで何か勘違いをしたのだろう。
自分で思っている以上に彼は自分のことを気にかけてくれている。あの一瞬の小さな溜息も見逃さないくらいに。
(やっぱり、嬉しい……)
ルシアナは小さく微笑むと服を掴んでいた手を伸ばし、両手でレオンハルトの顔を包んだ。
「レオンハルト様、大丈夫ですわ。そのようなこと思っておりません。申し訳ありません、わたくしが……その、意地悪をしてしまいました」
思い返した自分の行動があまりにも子どもっぽくて頬が熱くなる。
(冷静になると……少し……)
恥ずかしくなり、自然と視線が下がった。
「その、話し方や呼び方を突然変えるのは難しいことですわ。時間はたくさんありますから、徐々に慣れていただければと……あの、理解してはいるのですが、どうしても、ただ“ルシアナ”と呼んでいただきたくて……」
名前を呼ぶのが嫌で躊躇したわけではないことはわかっている。そのことをただ伝えたいだけなのに、言葉を選んでいるはずなのに、口から出たのはあまりにも幼稚な本心で、全身に熱が広がっていくようだった。
「ええと……もうわたくしはレオンハルト様の妻ですし、こういったことを言っても許されるかな、と……その、こうして距離を縮めていただけたことで、気が大きくなっていたかもしれません」
じわり、と手のひらに汗が滲むのを感じ、両手を引っ込める。
(恥ずかしい……本当に子どものようだわ)
少々浮かれ気味だった自分を思い出し、羞恥心でいっぱいになる。
ただでさえレオンハルトとは八つも違うのだ。彼の妻に相応しい人物として、身の振り方には気を付けなければいけない。
(……兄妹のように見られたくはないもの)
胸の前で重ねた手に、無意識の内に力が入った。
「……ルシアナ」
静かな声に、名前を呼ばれる。
少しの躊躇のすえ、そっと視線を上げれば、彼は真っ直ぐこちらを見つめていた。
「貴女に許されないことなどない。思ったことや願いは躊躇わず言ってくれていい。……意地悪でも、わがままでも構わない」
真剣なその表情に、彼が決して冗談を言っているわけではないことがわかる。
「……あまり甘やかさないでくださいませ。図々しい人間になってしまいますわ」
「……構わない」
ふっと目を細めて笑ったレオンハルトに、思わず息を吞む。その瞳はどこか熱っぽくて、痛いほどに心臓が早鐘を打った。
(……変だわ)
自分を優しく見下ろす、澄んだ空のような瞳に何とも言えない気持ちになり、ルシアナはただ黙って、レオンハルトの温かな胸元に顔を寄せた。
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