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量子が繋ぐ心
第66話 帰還 ―― 回想 ――
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それ以降の伊緒はなお一層学んだ。一心不乱に勉強をした。誰もが、きっとあの疲れを知らぬ彼女ですら舌を巻くほどの勉強をした。夢を叶えよう、その一心で。勉学以外の全てを忘れ勉強以外の何も考えずに寝る間も食べる間も惜しんで黙々と学び、天文学的な確率で奇跡的に医科大に合格できた。
鴎翼高校始まって以来の大逆転合格と学内が大騒ぎとなった伊緒の医大入学だが、伊緒にとってはまだ目標の端緒についたばかりであった。それでも学校側は大騒ぎとなり映画化の話まで持ち出そうとする始末だった。伊緒はそれをにべもなく蹴り大学での勉学に集中する。
手に入れてからずっと、伊緒はシリルの脳機能を家庭用コンセントに繋いだまま机の上に置いてあった。電力供給もしないまま放置するのは忍びなかったのである。
大学入学後しばらくしてからのある晩。ベッドで寝ていた伊緒は目を覚ます。室内が不思議と微かに明るい。ベッドからその光源、机の上を見てみる。そこには、金と深紅の弱弱しくて可憐な、オーロラの様な光の揺らめきが立ち上っているのが分かった。伊緒はしばらくの間、脳機能から立ち上るその優雅で微かなオーロラを不思議な気持ちでぼんやりと眺めていた。
きれいだ。まるでシリルのようにきれいだ。そう思った瞬間、ぎょっとした伊緒は慌てて机の上にあるそれに駆け寄った。脳機能ユニットがその表面に細くて複雑な線をゆらゆらと描きうごめいて、その線から金や深紅の光を放っている。微かな光を浴びながら伊緒は興奮して震えが止まらない。何かが、何かとてつもない事が起きている。
その脳機能ユニット ―― 今となってはシリルの全てである小さな部品から、微かな振動する音の様なものが聞こえる。はっとした伊緒は脳機能ユニットに耳を当てる。ブウン、ブウン、と呻る振動音のようなものは次第に聞き覚えのある旋律を紡ぎ出した。ああ、カノンだ。パッヘルベルのカノン。連弾の中級用であたしとよく弾いたやつ。
伊緒は目を潤ませながら確信した。生きている。シリルはここに生きているんだ、間違いない。と。
伊緒はその場で、手元の簡易な機器と見よう見まねの方法でシリルの脳機能ユニットを解析した。驚いたことにデータ量が増えている。脳機能が自己修復をしている。全く絶対にあり得ない事だった。そのような機能など本来脳機能にはないのだから。更に解析したり調べを進めてみると、どうやらこれはWraithの一部であると推察できた。Wraithはその恐るべき再生能力でかつてあったシリルの心を取り戻そうとしているのだ。
このことを希美代に連絡すると、希美代もジルも色めき立った。思ったよりはるかに早く、そして容易に、シリルの脳機能は蘇るかも知れない。三人はおそらくWraithでは再生できないであろう基礎的なプログラムなどの回復に注力する事にした。
そして遂にあの日から六年もの年月をかけて遂にシリルの感情プログラムとWraithの再生にほぼ完全に成功した。これには希美代とジルも含め三人で肩を組んで喜びを分かち合った。
急ぎ震える手で伊緒は自宅の統合端末に接続する。これでコミュニケーションだけは取れる。
しかし、喜ばしいことばかりではない。新しい躯体を用意できるまでの長い間、果たしてシリルはこの不自由を耐えてくれるかどうか。それを伊緒は一番に恐れていた。
それに対し、何年何十年かかってもいい、また夏の日の庁営プールに伊緒と二人で行きたい。そして、あの夏空と同じ色をしたアイスを一緒に食べたい。それが私の希望なのだと、シリルは端末に文字で答えてくれた。
そう、「伊緒と再会できたことで希望と言う新しい気持ちが生まれた」、とシリルは新しく手に入れた気持ちについて、機械音声で喋りモニターに文字で表示した。「伊緒と一緒になりたい、伊緒と一緒に生きたい、という希望が」、と。
伊緒はシリルに心から詫び、そして心から感謝した。そしてそれからはさらなる勉学と共に全力で新しい躯体の獲得に力を注ぐ毎日だった。
それからは辛い時も嬉しい時も伊緒はシリルと一緒だった。大学から、バイトから、病院から、帰ってくれば伊緒はシリルの脳機能を撫でる。シリルも脳機能の輝きでそれに応える。
その後は伊緒の勉強や仕事や睡眠の邪魔にならない程度に二人は話し、笑い、時には喧嘩もした。
伊緒はその医科大の院からアンドロイド医学を専門的に学び、いまやアンドロイド研究のホープとして将来を嘱望される若き医師となった。全てはアンドロイドの為に。そして何よりも愛する者の為に。
そして、二人の夢は現実のものとなった。
シリルの脳機能が修復されてから三年後。伊緒は大学に入って以降、医療機関や研修医時代でのアルバイト代をしっかり貯め込んでいた。そのお金でようやく伊緒の手に届く価格で質の悪い中古躯体を入手する。これによってシリルは、まがりなりにもアンドロイドとしての姿を再び手に入れた。とにかく安価なこの躯体は、フェイスマスクや人造皮膚もなく不格好な上動きもぎこちなくて、とてもではないがかつてのシリルとは似ても似つかないものだった。それでも二人は抱き合って喜んだ。そうして少しずつパーツを買い足し、シリルは次第にシリルを取り戻していった。
外形に関して、シリル本人は安価(で安っぽい子供向け玩具の様に不格好)なロボットフレームでも一向に構わないと言ったのだが、伊緒には到底容認できなかった。「ガニメデマンロボ(※)」そっくりな姿をしたシリルなんて天地がひっくり返っても許せない。出会った当時の美しく麗しいシリルの姿形こそが伊緒の愛したシリル本来の姿で、一時でもそれを失わさせてしまった事に伊緒は強い罪の意識を覚えていた。シリルの外観を取り戻すことは、伊緒にとってシリルへのせめてもの罪滅ぼしであり責任でもあると考えていた。
そして五ヶ月前、ようやくシリルは外観経年修正を加えたボディパーツとフェイスマスクを装着し、完全に復元された。躯体もAF-705の後継機AF-1050Eを使用している。先代よりも手指の繊細さや視聴覚センサーの機能が格段に向上しており、今のシリルにはうってつけの機体だった。
新しい躯体とパーツ購入に新築一戸建て分相当のローンを抱えこむ結果となってしまった伊緒。
しかしこうしてシリルは遂にシリルとしてこの世界に、そして伊緒の元へと帰還することが叶った。
そしてまた、伊緒はアンドロイドドクターとして以外でも今大きな話題の的となっている。
▼用語
※ガニメデマン:
子供たちに大人気のヒーロー番組。これまでに40作品余が放送されているが、なぜか初代番組のガニメデマンの名前で呼ばれることが多い。未就学児の将来なりたい職業ランキングに出た事もある。これに出てくるロボットは、皆いかつくて武骨でゴツゴツしている。
鴎翼高校始まって以来の大逆転合格と学内が大騒ぎとなった伊緒の医大入学だが、伊緒にとってはまだ目標の端緒についたばかりであった。それでも学校側は大騒ぎとなり映画化の話まで持ち出そうとする始末だった。伊緒はそれをにべもなく蹴り大学での勉学に集中する。
手に入れてからずっと、伊緒はシリルの脳機能を家庭用コンセントに繋いだまま机の上に置いてあった。電力供給もしないまま放置するのは忍びなかったのである。
大学入学後しばらくしてからのある晩。ベッドで寝ていた伊緒は目を覚ます。室内が不思議と微かに明るい。ベッドからその光源、机の上を見てみる。そこには、金と深紅の弱弱しくて可憐な、オーロラの様な光の揺らめきが立ち上っているのが分かった。伊緒はしばらくの間、脳機能から立ち上るその優雅で微かなオーロラを不思議な気持ちでぼんやりと眺めていた。
きれいだ。まるでシリルのようにきれいだ。そう思った瞬間、ぎょっとした伊緒は慌てて机の上にあるそれに駆け寄った。脳機能ユニットがその表面に細くて複雑な線をゆらゆらと描きうごめいて、その線から金や深紅の光を放っている。微かな光を浴びながら伊緒は興奮して震えが止まらない。何かが、何かとてつもない事が起きている。
その脳機能ユニット ―― 今となってはシリルの全てである小さな部品から、微かな振動する音の様なものが聞こえる。はっとした伊緒は脳機能ユニットに耳を当てる。ブウン、ブウン、と呻る振動音のようなものは次第に聞き覚えのある旋律を紡ぎ出した。ああ、カノンだ。パッヘルベルのカノン。連弾の中級用であたしとよく弾いたやつ。
伊緒は目を潤ませながら確信した。生きている。シリルはここに生きているんだ、間違いない。と。
伊緒はその場で、手元の簡易な機器と見よう見まねの方法でシリルの脳機能ユニットを解析した。驚いたことにデータ量が増えている。脳機能が自己修復をしている。全く絶対にあり得ない事だった。そのような機能など本来脳機能にはないのだから。更に解析したり調べを進めてみると、どうやらこれはWraithの一部であると推察できた。Wraithはその恐るべき再生能力でかつてあったシリルの心を取り戻そうとしているのだ。
このことを希美代に連絡すると、希美代もジルも色めき立った。思ったよりはるかに早く、そして容易に、シリルの脳機能は蘇るかも知れない。三人はおそらくWraithでは再生できないであろう基礎的なプログラムなどの回復に注力する事にした。
そして遂にあの日から六年もの年月をかけて遂にシリルの感情プログラムとWraithの再生にほぼ完全に成功した。これには希美代とジルも含め三人で肩を組んで喜びを分かち合った。
急ぎ震える手で伊緒は自宅の統合端末に接続する。これでコミュニケーションだけは取れる。
しかし、喜ばしいことばかりではない。新しい躯体を用意できるまでの長い間、果たしてシリルはこの不自由を耐えてくれるかどうか。それを伊緒は一番に恐れていた。
それに対し、何年何十年かかってもいい、また夏の日の庁営プールに伊緒と二人で行きたい。そして、あの夏空と同じ色をしたアイスを一緒に食べたい。それが私の希望なのだと、シリルは端末に文字で答えてくれた。
そう、「伊緒と再会できたことで希望と言う新しい気持ちが生まれた」、とシリルは新しく手に入れた気持ちについて、機械音声で喋りモニターに文字で表示した。「伊緒と一緒になりたい、伊緒と一緒に生きたい、という希望が」、と。
伊緒はシリルに心から詫び、そして心から感謝した。そしてそれからはさらなる勉学と共に全力で新しい躯体の獲得に力を注ぐ毎日だった。
それからは辛い時も嬉しい時も伊緒はシリルと一緒だった。大学から、バイトから、病院から、帰ってくれば伊緒はシリルの脳機能を撫でる。シリルも脳機能の輝きでそれに応える。
その後は伊緒の勉強や仕事や睡眠の邪魔にならない程度に二人は話し、笑い、時には喧嘩もした。
伊緒はその医科大の院からアンドロイド医学を専門的に学び、いまやアンドロイド研究のホープとして将来を嘱望される若き医師となった。全てはアンドロイドの為に。そして何よりも愛する者の為に。
そして、二人の夢は現実のものとなった。
シリルの脳機能が修復されてから三年後。伊緒は大学に入って以降、医療機関や研修医時代でのアルバイト代をしっかり貯め込んでいた。そのお金でようやく伊緒の手に届く価格で質の悪い中古躯体を入手する。これによってシリルは、まがりなりにもアンドロイドとしての姿を再び手に入れた。とにかく安価なこの躯体は、フェイスマスクや人造皮膚もなく不格好な上動きもぎこちなくて、とてもではないがかつてのシリルとは似ても似つかないものだった。それでも二人は抱き合って喜んだ。そうして少しずつパーツを買い足し、シリルは次第にシリルを取り戻していった。
外形に関して、シリル本人は安価(で安っぽい子供向け玩具の様に不格好)なロボットフレームでも一向に構わないと言ったのだが、伊緒には到底容認できなかった。「ガニメデマンロボ(※)」そっくりな姿をしたシリルなんて天地がひっくり返っても許せない。出会った当時の美しく麗しいシリルの姿形こそが伊緒の愛したシリル本来の姿で、一時でもそれを失わさせてしまった事に伊緒は強い罪の意識を覚えていた。シリルの外観を取り戻すことは、伊緒にとってシリルへのせめてもの罪滅ぼしであり責任でもあると考えていた。
そして五ヶ月前、ようやくシリルは外観経年修正を加えたボディパーツとフェイスマスクを装着し、完全に復元された。躯体もAF-705の後継機AF-1050Eを使用している。先代よりも手指の繊細さや視聴覚センサーの機能が格段に向上しており、今のシリルにはうってつけの機体だった。
新しい躯体とパーツ購入に新築一戸建て分相当のローンを抱えこむ結果となってしまった伊緒。
しかしこうしてシリルは遂にシリルとしてこの世界に、そして伊緒の元へと帰還することが叶った。
そしてまた、伊緒はアンドロイドドクターとして以外でも今大きな話題の的となっている。
▼用語
※ガニメデマン:
子供たちに大人気のヒーロー番組。これまでに40作品余が放送されているが、なぜか初代番組のガニメデマンの名前で呼ばれることが多い。未就学児の将来なりたい職業ランキングに出た事もある。これに出てくるロボットは、皆いかつくて武骨でゴツゴツしている。
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