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第18話 盛夏の柿の木

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 ちょっと中途半端な時間になってしまった。時間配分を間違えたな。

「姉さん、あ、いや愛未、ちょっと時間余ったからどっかカフェ寄らない?」

 姉は意外そうな顔をした。

「えっ?」

「えっと、なに? ね愛未」

「行かないの?」

「どこに?」

「柿の木」

「あっ」

 それは盲点だった。柿の木。茜川の柿の木。それは僕たちにとってとても特別な場所なのに。うかつだった。

「ごめん、すっかり忘れてた。今から行ってもいい?」

「もちろん! あたしすごい行きたい!」

 姉の顔にぱあっと笑顔が広がる。その笑顔に胸を痛くしながら僕は柿の木へ向かった。

「ねえねえ、夏に柿の木を見に行くのって初めてなんじゃない」

「だね。大抵は秋か冬だった」

「夏はどんな姿なんだろうねえ」

「うん、楽しみだな」

 広い農業用水路に沿って舗装された緩やかな道を進むと、こんもりとした緑が目に入る。

「あった!」

「あれだ!」

 近づいていくと次第に大きくなっていく濃い緑。それは小さな緑の積乱雲のようでもあった。

「へえ、見た感じ全然違うねえ」

 感心する姉。
 車を寄せられるだけ寄せて停め、まず僕が降りる。足元を確かめてから姉の乗る助手席を開けて、姉の手を取り降ろす。姉は寛解しているとはいえ健常者と比べて脚の筋力や体幹が弱かった。

「よっと。ありがとゆーくん」

「いやいや、足元気を付けてね」

 僕たち姉弟は柿の木の下まで歩み寄る。ここまで近づいたことはあまりない。木陰に入るとすうっと涼しくなった。柿の木は最後に見た僕が高二の頃と比べてまた一回りも二回りも太く逞しくなったように見える。柿の木は四方八方に枝葉を茂らせ燦々と輝く太陽光を浴び光合成をする。木漏れ日が眩しい。固い広葉が太陽光をキラキラと反射していた。

「あっ、ほら柿の実」

 姉が手にした枝にまだ小さな、ピンポン玉にもならない緑色をした固い柿の実がなっていた。

「これが大きくなってあの柿の実になるんだねえ」

 感無量の姉の声に、僕も心の中で同意した。ただひたすらに生を全うしようとする柿の古木は、僕には生命力の象徴に見えた。秋の柿の木はカラスに占領されひたすら柿の実を食べられるだけの存在なのに、夏はこんなにも生き生きと力強く生を謳歌していたのだ。
 姉がターコイズブルーの勾玉を揺らして柿の木に耳をつける。

「何してんだ?」

「こうすると木の音が聞こえるんだって」

 僕も耳をつけた。

「聞こえる?」

 僕の問い掛けに姉は難しい顔をして答えた。

「うーん、聞こえるような、聞こえないような…… 聞こえるような?」

「素直に言えよ、聞こえないって」

「もお、夢がないなあ優斗は」

「うんうん、夢って大事だよね」

「ばかにしてるな」

「いてててて」

 僕は脇腹をつねられた。
 今度は少し離れて柿の木の全景が見える位置に立つ。青い空を背景にして、もくもくとした白い入道雲のもと濃緑色の柿の木がこんもりと茂って見える。

「やっぱりすごいなあ」

 姉は嘆息した。

「すごいね」

 僕も胸が熱くなった。
 僕は今日初めて僕の方から姉の手を取る。しっかりと握り締める。姉の手が小さく震え、強く握り返してくる。そして僕は痩せ細った小さな姉を後ろから抱きとめた。

 燦燦と夏日が差す柿の古木は、まるで深緑に燃えているかのようだった。僕たちは嘆息してそれを見つめ続けた。
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